特別攻撃隊

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1945年4月11日、戦艦ミズーリ」に突入直前の神風特別攻撃隊「第5建武隊」の零式艦上戦闘機(石井兼吉二飛曹あるいは石野節雄二飛曹搭乗)
1945年4月12日、知覧陸軍飛行場より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊の一式戦闘機三型甲「隼」穴沢利夫少尉搭乗)と、それを見送る知覧町立高等女学校(現鹿児島県立薩南工業高等学校)の女学生達
1944年11月25日、空母エセックス」に突入直前の第4神風特別攻撃隊「香取隊」の艦上爆撃機彗星」(山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗)。突入後アメリカ軍が回収した遺品により搭乗員が特定された例の一つ。
1945年5月4日、空母フォーミダブル零式艦上戦闘機が1機突入、56名が死傷し11機の艦載機が炎上
コーパスクリスティレキシントン博物館。本艦が1944年11月5日に受けた特攻の説明(旭日旗の箇所に特攻機が命中)

特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)は、生還の見込みが通常よりも低い決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする必死の攻撃を行う戦術部隊である。略称は特攻隊(とっこうたい)。特別攻撃(とくべつこうげき)とその略称の特攻(とっこう)も合わせて紹介する。

語源は、日露戦争で実施された閉塞作戦(前者)から見られるが、軍内部で一般化したのは太平洋戦争大東亜戦争)の緒戦に日本海軍によって編成された特殊潜航艇「甲標的」の部隊に命名された「特別攻撃隊」(前者)の造語からである[1]。同戦争の末期には、爆弾爆薬等を搭載した軍用機高速艇潜水艇等の各種兵器、もしくは専用の特攻兵器を使用して体当たりし自爆するといった戦死を前提(後者)とするものが中心となった。海外の例では、第二次世界大戦末期の独空軍におけるゾンダーコマンド・エルベがある。

転じて、軍事戦術以外でも「特攻」が戦略や事後の影響を度外視した捨て身による体当たり・自爆攻撃という意味で使われることもある。日本国外においても「Tokko」(トッコウ)、「Kamikaze」(カミカゼ)として通じている。パイロットは必ず「死ぬ・亡くなる」という必死条件の作戦だった。

目次

歴史[編集]

日本陸軍[編集]

戦死前提以前[編集]

日本陸軍日露戦争において、白襷隊といった決死隊を臨時に編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすというものであった。

第二次大戦末期に組織的な特攻が始まる以前より、自発的な自爆攻撃が現場で行われることはあった。1944年(昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の飛行第26戦隊一式戦闘機「隼」操縦石川清雄曹長)が、米海軍潜水艦が発射した魚雷3本を発見。機銃掃射しつつ魚雷目掛け海面に突入し、戦死するも爆破に成功した[2]。1944年8月20日、米陸軍航空軍B-29爆撃機による八幡空襲において、迎撃に出た飛行第4戦隊二式複座戦闘機「屠龍」(操縦野辺重夫軍曹、後方射手高木伝蔵伍長)が第794爆撃飛行隊の「ガートルードC号」に対し体当たり攻撃を敢行し、「ガートルードC号」は空中爆発し墜落、また破片の直撃を受けた僚機カラミティ・スー」号も墜落している。「屠龍」は墜落し野辺・高木共に戦死するも、1機で2機のB-29を撃墜した。

1943年(昭和18年)には現場において特攻の必要を訴える者が現われており、1943年3月初旬、ラバウル飛行第11戦隊の上登能弘准尉は、防弾装備が整った大型のB-17爆撃機は弾丸を全弾命中させても撃墜できないため体当たり攻撃が必要、体当たり攻撃機を整備すべきと現地の上級部隊司令部に上申したが、陸軍中央へは届かなかった。5月上旬、同じ第11戦隊の小田忠夫軍曹はマダン沖でB-17に体当たりして戦死している。同年11月9日、ビルマで重爆撃機部隊の中隊長である西尾常三郎は、機体に500kg爆弾を装備しての組織的な体当たり攻撃を計画すべしと日記に記している例もある[3]

1944年(昭和19年)5月下旬、飛行第5戦隊長高田勝重はビアク島への敵来攻に独断で4機率いて敵艦船に自爆攻撃をしかけている。これは爆装戦闘機の体当たりで駆逐艦級を沈める例となった。また現地で艦船攻撃に際し爆弾投下前に被弾し生還が望めない場合、機上で信管を外し体当たりできるように改修するものもあった[4]。同年中後半、ビルマ方面の防空戦闘で陸軍戦闘機隊は、新鋭爆撃機として投入されていたB-29に一式戦「隼」で数次の体当たりを行っていた。これらの訴えは飛行機への体当たりであり、一部破壊(撃破)でも墜落する可能性があり生還する余地もあった[5]

戦死前提への過程[編集]

陸軍中央では1944年初頭に組織的な航空特攻の検討が始まった。主に艦船に対する体当たりについてで、春には機材、研究にも着手した[6]。1944年3月28日、陸軍航空本部には特攻反対意見が多かったことから、内閣総理大臣陸軍大臣参謀総長東條英機大将航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭、後宮淳大将を後任に据えた[7]。1944年春、中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致した。当初は精鋭と器材で編成し一挙に敵戦意をそぐことを重視した。そこでまず九九式双軽爆撃機と、四式重爆撃機「飛龍」を改修することになり、中央で2隊の編成準備を進めた。軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し正規部隊として天皇大元帥)、中央の名でやるのはふさわしくないとして現場指揮官の臨機に定めた部隊として要員、機材の増加配属だけを陸軍大臣の部署で行うことにした[8]。また同年5月、体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される[9]

マリアナ沖海戦の敗北で1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。東條、嶋田はすでに考案中であると答えた[10]。サイパンの玉砕を受け1944年7月7日の会議で参謀本部航空参謀からもう特攻を行う以外にないと提案した[11]。1944年7月11日第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究した[12]

1944年7月、鉾田教導飛行師団に九九双軽装備、浜松教導飛行師団に四式重爆「飛龍」装備の特攻隊を編成する内示が出た。8月中旬からは九九双軽と四式重爆「飛龍」の体当たり機への改修が秘かに進められた[13]。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる[14]

フィリピンでの特攻[編集]

1945年1月8日(ルソン島の戦い)、重巡洋艦ルイビル 」に陸軍特別攻撃隊「石腸隊」あるいは「進襲隊」の九九式襲撃機が命中した瞬間
1945年1月6日(ルソン島の戦い)、軽巡洋艦「コロンビア」に急降下突入し命中直前の九九式襲撃機(所属不明)
上掲写真直後17時29分、「コロンビア」に命中した瞬間の九九襲

陸軍の特攻は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊によって最初に行われた。通常の編成は航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇を介するため、任命電報が送れず、菅原道大中将が編成担当者に任務を与え派遣した[15]富嶽隊万朶隊は、梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名した[16]

万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団に九九双軽装備の特攻隊編成の連絡があった[17]。10月13日、師団今西六郎中将は航空総監と連絡し特攻部隊を編成の打ち合わせをした。中旬に九九双軽の特攻改修機が到着した[18]。10月20日、参謀本部から編成命令が下され、21日岩本益臣大尉以下16名が決定した[19]。22日航空総監代理により総監訓示が行われ、今西師団長も訓示を行う[20]。26日九九双軽の特攻隊はフィリピンのリパに到着。29日万朶隊と命名された[21]

富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上淸志少将は特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席し出陣式が行われ、富嶽隊と命名された[22]

万朶隊は初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長岩本大尉以下5名が米軍戦闘機と遭遇し戦死。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死(戦果未確認)。残った富嶽隊、万朶隊はその後順次出撃し、戦後の復員者は万朶隊の佐々木友治伍長のみであった。遠距離目標を指示されて未帰還となるなど、4航軍は焦りから無理な特攻隊運用を行っていた。

1944年11月6日陸軍中央は新たに編成した6隊の特攻隊に「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(准南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。この6隊は第4航空軍司令官冨永恭次中将によって現地で行われた命名式で、八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と改名された。その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた[23]。陸軍は比島での捷一号作戦だけで約210機を特攻に投入した[24]

全軍特攻化[編集]

1944年末、陸軍航空総監部は『航空高級指揮官「と」号部隊運用の参考』の作成に着手、これは1945年4月ごろ関係部隊に配布された[25]。1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う[26]。1945年1月29日陸軍中央は『「と」号部隊仮編成要領』を発令。2月6日参謀本部は特攻要員の教育を『「と」号要員学術科教育課程』の通り示達[27]。2月23日、中央はと号部隊の第二次編成準備を指示。3月20日実行発令[28]

沖縄戦では、第6航空軍所属の各振武隊第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、6航軍司令官は菅原道大中将が務め、知覧都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から四式肉薄攻撃艇(マルレ)を装備した陸軍海上挺進戦隊による水上特攻も行われた。6航軍航空参謀倉澤清忠少佐によると、当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願によって戦闘する「特攻部隊」に区別し、決号作戦のために航空機を温存するため、また操縦が容易な機体である九七式戦闘機などの旧式機が主に配備された[29]

終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍の指揮下で各神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、大戦最末期の1945年(昭和20年)8月9日には第255神鷲隊(岩手より釜石沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)、第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より下田沖に出撃)と3隊が出撃している。

日本海軍[編集]

戦死前提以前[編集]

日露戦争の旅順閉塞隊真珠湾攻撃甲標的など特攻的決死戦法思想は古くからあったが、最高指揮官は攻撃後の生還収容方策手段を講じられる時のみ計画、命令したものであり、1944年10月以降に行われた特攻作戦とは本質的に異なる[30]

1941年12月太平洋戦争の劈頭で実施された甲標的の部隊が「特別攻撃隊」と命名された。甲標的は攻撃後に帰還する計画だが、一度出撃すれば、自力での帰還はほぼ不可能に近いため、決死の作戦だった。その後も甲標的による特別攻撃隊は、1942年4月シドニーの「第一特別攻撃隊」、マダガスカルの「第二特別攻撃隊」、ガダルカナルの「第三特別攻撃隊」が実施されたが、全て帰還者はいなかった。甲標的の部隊は、その後も数が増えていったため、「特別攻撃隊」の名前は使われなくなったが、後の特攻隊に名前は受け継がれた[31]

また、自発的な体当たり、自爆攻撃が行われることもあった。真珠湾攻撃で制空隊中隊長飯田房太大尉の搭乗機は被弾し母艦への帰還が困難と判断し、カネオヘの米海軍飛行場格納庫に向け突入した(命中できず妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突)。珊瑚海海戦で機動部隊の上空直衛を行っていた宮沢武男兵曹は、空母「翔鶴」へ雷撃態勢に入ったTBD デバステーターに対して撃墜の暇なしと見て体当たりを敢行し戦死した。ミッドウェー海戦で南雲機動部隊の空母3隻が致命打を受けたあと、空母「飛龍」から米機動部隊に向け発進した攻撃隊隊長友永丈市大尉は米空母「ヨークタウン」を攻撃した際に被弾し同乗の赤松少尉・村井一等飛行兵曹と共に同艦に体当たりした。南太平洋海戦南雲機動部隊の上空直衛の大森茂高一飛曹の零戦が、空母「翔鶴」へ攻撃態勢に入ったSBDドーントレス投弾体勢に対し体当たりを敢行し戦死。また「翔鶴」ならびに「瑞鶴」から出撃した米空母機動部隊への攻撃隊のうち、第5航空戦隊艦攻隊隊長・第1次攻撃隊総指揮官村田重治少佐の九七式艦上攻撃機、第5航空戦隊艦爆隊隊長坂本明大尉の九九式艦上爆撃機が空母「ホーネット」を攻撃中に同艦の対空砲火により被弾し、2機とも同艦へ突入し戦死した。台湾沖航空戦で第26航空戦隊司令官有馬正文少将は一式陸上攻撃機に搭乗し攻撃部隊の空中指揮を執り、敵艦に突入した。

戦死前提への過程[編集]

連合艦隊主席参謀としてモーターボートによる特攻の構想(後の震洋)を軍令部に語っていた黒島亀人が軍令部第二部長に就任すると、1943年8月6日戦備考査部会議において突飛意表外の方策、必死必殺の戦を提案し、一例として戦闘機による衝突撃の戦法を挙げた。1943年8月11日には第三段作戦に応ずる戦備方針をめぐる会議で必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張した[32]。1943年6月末、侍従武官城英一郎が航空の特攻隊構想である「特殊航空隊ノ編成ニ就テ」を立案する。内容は爆弾を携行した攻撃機による艦船に対する体当たり特攻で、専用機の構想もあり、艦船ごとの予期効果までまとめられていた。城は航空本部総務部長大西瀧治郎中将に相談して「意見は了とするが未だその時にあらず」と言われるが、城の決意は変わらず、上の黙認と機材・人材があれば足りると日記に残している[33]

水中特攻[編集]

1943年末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉が人間魚雷の構想を血書で省部に上申したが、12月28日軍令部総長永野修身は「それはいかんな」と却下する。マーシャル陥落、トラック島空襲を受けて中央は1944年2月26日初の特攻兵器となる「人間魚雷」の試作を決定した。最初は搭乗員の水中放出を条件としていたが、海軍はここから組織的特攻に動き出した[34]。1944年4月4日、軍令部第二部長黒島亀人により「作戦上急速実現を要望する兵力」として、「体当たり戦闘機」「装甲爆破艇(震洋)」「大威力魚雷(回天)」の特攻兵器の開発が提案された。軍令部はこれを検討後、他の兵器とともに「装甲爆破艇(震洋)」「大威力魚雷(回天)」の緊急実験を海軍省に要望した。海軍省海軍艦政本部は仮名称を付して担当主務部定め特殊緊急実験を開始した[35]

マリアナ沖海戦の敗北を受け、1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。 陸軍の参謀本部総長東條英機、海軍の軍令部総長嶋田繁太郎はすでに考案中であると答えた。会議後、軍令部総長兼海軍省大臣の嶋田繁太郎は、海軍省に奇襲兵器促進班を設け、実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長に発令される(正式就任は9月13日)[36]。大森の人選は、水中特攻を重視しての人選であり、大森は全権を自分に委ねてどの部署も自分の指示に従うようにするという条件を出して引き受けた[37]。1944年9月13日海軍省特攻部が発足。特攻兵器の研究・調査・企画を掌握し実行促進を行う[38]

1944年7月10日特攻兵器回天の部隊として第一特別基地隊の編成が行われる[39]。1944年7月21日、総長兼大臣の嶋田繁太郎連合艦隊司令長官豊田副武に対して特殊奇襲兵器(「回天」)の作戦採用が含まれた「大海指四三一号」を発令した(水中特攻のみで航空では夜間の奇襲作戦が採用されている)[40]

航空特攻[編集]

航空特攻は、前述の1943年7月ごろの城英一郎大佐による「特殊航空隊の編成に就て」が最初の具体的な提言と思われる。目的はソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅すること、部隊構成、攻撃要領、特殊攻撃機と各艦船への攻撃法、予期効果がまとめられている。[41]その後、軍令部第二部長黒島亀人の提案や1944年春に海軍省兵備局第3課長大石保から戦闘機による大型機に対する体当たり特攻が中央に要望されていたが、1944年6月マリアナ沖海戦敗北まで中央に考慮する動きはなかった。[42]マリアナ沖海戦敗戦後は、通常航空戦力ではもはや対抗困難という判断が各部署でなされ、特攻検討の動きが活発化しており、城英一郎大佐から機動部隊長官小沢治三郎連合艦隊司令部軍令部に対して航空特攻採用の上申が行われてる。1944年6月19日、341空司令岡村基春大佐は第二航空艦隊長官福留繁中将に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長伊藤整一中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。1944年7月11日第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究し6つの方法を提案している。[43]また、また7月サイパンの失陥で国民からも海軍省、軍令部に対して必死必殺の兵器で皇国を護持せよという意見が増加した[44]

マリアナ沖海戦前後に海軍省の航空本部、航空技術廠で研究が進められていた偵察員大田正一少尉発案の航空特攻兵器「桜花」を軍令部も承認して1944年8月16日正式に桜花の試作研究が決定する[45]。1944年10月1日桜花の実験、錬成を行う第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編制。この編制ではまだ特攻部隊ではなく、普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている[46]

大西瀧治郎中将

1944年10月5日、大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に内定し、10月20日神風特別攻撃隊を創設。神風特攻隊は大西独自の動きであり、事前に報告はあったが、同攻撃隊の編成に海軍部が関与することはなかった[47]。大西はフィリピンに出発する前に海軍省大臣米内光政に現地で特攻を行う決意を語り承認を得て[48]、軍令部総長及川古志郎に対しても決意を語り、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」[49]「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と及川の承認も得た。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した[50]。また大西は発表に関する打ち合わせも行い、事前に中央は発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文も用意し、事後に発信している[51][注 1]

大西はフィリピンに到着するまでに、豊田副武連合艦隊長官に「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語った。フィリピンに到着すると前任者である寺岡謹平に特攻隊の構想を打ち明けて同意を求めたが、寺岡は後任の大西に一任した[55]。1944年10月19日夕刻マバラカットに到着後、第201海軍航空隊副長玉井浅一中佐、1航艦首席参謀猪口力平中佐などを招集し体当たり攻撃法を披瀝する。玉井が人選を行い、指揮官は猪口の意向で海軍兵学校出身の現役士官から関行男大尉が選ばれた。10月20日に大西による訓示と部隊名発表があり、神風特別攻撃隊が編成される[56]

フィリピンでの特攻[編集]

1944年10月25日、護衛空母「ホワイト・プレーンズ」に肉迫する第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の零戦。この直後、対空砲火によって右翼に被弾、撃墜された。

神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。大和隊敷島隊朝日隊山桜隊の計24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長久納好孚中尉が未帰還となった。各隊は出撃を連日繰り返すも空振りに終わり、23日に大和隊佐藤馨上飛曹が未帰還。そして25日、敷島隊の関行男大尉以下6機が、4度目の出撃で1機(2機)が米海軍護衛空母「セント・ロー」を撃沈したのをはじめ、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営海軍部は大々的に発表し、敷島隊指揮官であった関は軍神として祀り上げられることとなった[57]

特攻成功後大西は福留繁第2航空艦隊長官を説得し第1航空艦隊と第2航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成し、特攻隊の規模を拡張した[58]。10月27日、大西によって特攻隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、海軍航空本部など中央に通達された[59]。大西の強引な特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」と指導している[60]

1944年11月5日、豊田副武連合艦隊司令長官は玄作戦によって回天による特攻を下令し、11月20日に戦果を上げ、以後繰り返された[61]

全軍特攻化[編集]

ここまで航空特攻は現地部隊の自発による編成の形式をとっていたが、1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行い、1945年2月10日には第5航空艦隊の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われた。5航艦司令長官となった宇垣纏中将は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた[62]

1945年2月4日、軍令部の寺内義守航空部員は、今の訓練様式では駄目で特攻なら使用可能と言い、松浦五郎とともに命中の良さから特攻をすべきと主張した。田口太郎作戦課長は練習生が練習機で特攻を行う方法の研究を求め、寺崎隆治も練習機「白菊」が多数あることから戦力化が必要と発言[63]。1945年2月、硫黄島の戦いが開始されたことを受けて、全航空隊特攻化計画が決定する。同年3月1日、海軍練習連合航空総隊を第10航空艦隊に改編し、特攻隊員訓練のため一般搭乗員の養成教育を5月中旬まで中止した[64]。1945年5月15日、中止されていた新規搭乗員教育が再開したが、戦闘機搭乗員の他は特攻教育が主になった[65]

1945年2月17日、豊田副武連合艦隊司令長官は米艦隊をウルシー帰着の好機をとらえて奇襲を断行する丹作戦を命令した。宇垣纏5航艦司令長官は陸上爆撃機「銀河」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。3月11日からウルシーに帰投した米機動部隊の正規空母を目標に特攻が繰り返された[66]

1945年4月頃から沖縄周辺に侵攻した米英豪海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。これと連動して戦艦「大和」以下の艦艇による水上特攻や「回天」、「震洋」などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。機材、燃料の不足、本土決戦のためなどから温存され始め、十次に渡る菊水作戦が終了すると出撃のペースは鈍化、沖縄方面への特攻は1945年8月11日、喜界島に最後まで残っていた第2神雷爆戦隊岡島四郎中尉以下2機の爆戦が米機動部隊突入を行い途絶えた。本土からの特攻は1945年8月15日、百里原基地からの第4御楯隊の「彗星」8機、木更津から第7御楯隊の流星1機によって行われたが全機未帰還。これが玉音放送前の最後の出撃であった[67]。当初より問題視されていた威力不足の改善を図る等の対策を採り、想定される決号作戦に向けて大量の特攻戦備を整えている段階で終戦を迎えた。

なお、1945年8月10日に次期第五航空艦隊司令長官の内命を受けていた(宇垣纏の後任となる。終戦後の8月17日に着任。)草鹿龍之介によれば、本土決戦では九州に上陸してくる米軍に対し、「六分の一が命中すれば上々」として、約1,000機を一波とし、これを10派、10,000機の特攻機で攻撃をかける目算であった。内命された時点ですでに九州南部に、訓練中のものを含めて5,000機が用意されていたという[68]

1945年8月15日、敗戦を迎え菊水作戦の最高指揮官であった5航艦司令長官宇垣纏中将は、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分から「彗星四三型」の後席に搭乗し、列機10機(長官搭乗機を含めて計11機)を率いて沖縄近海の米海軍艦隊に突入、戦死した(うち3機は、途中で不時着)。8月16日、特攻隊を創設した大西瀧治郎中将は自決した[69]

終戦後の自発的な体当たり攻撃として、8月18日北千島の陸海軍航空部隊によって占守島に侵攻してきたソ連赤軍艦艇や輸送船団に対する反撃が行なわれ、九七艦攻1機が対空砲火により被弾、別の艦艇に体当たりし自爆した。同18日、ウラジオストクに停泊していたソ連タンカーに鎮海海軍航空隊塩塚良二中尉の操縦する二式水上戦闘機が特攻をしかけるが、対空砲火で撃墜されている[70]

海外[編集]

世界初の航空機による体当たり攻撃を描いたイラスト

自発的な特攻[編集]

第一次世界大戦中の1914年9月8日、にロシア帝国ピョートル・ネステロフ大尉がオーストリア機に対して行った行動が、世界初の航空機による体当たり攻撃とされる[71]。これにより墜落した2機の乗員3名は死亡している。第二次大戦初期(独ソ戦)のソ連軍には、旧式化していたI-16が多数存在していたが性能が劣っていたため、「タラーン(タラン)」と称される航空機による体当たり攻撃が行われた[71]。これは一種の流行となり、大戦中期になって高性能の新鋭機が登場するようになっても、ベテランパイロットが体当たり攻撃を行うことが多々あり、赤色空軍はタラーン禁止令を発している。

太平洋戦争の米軍側においても自発的な体当たり、自爆攻撃が行われている。ミッドウェー海戦で、空母「飛龍」を攻撃した米海兵隊SBD ドーントレス指揮官ロフトン・R・ヘンダーソンは、被弾炎上後に「飛龍」へ体当たりを試みたが失敗した。SB2U ビンジゲーターに搭乗した米海兵隊フレミング大尉は、対空砲火により被弾後、重巡洋艦三隈」に自爆攻撃を敢行した。第三次ソロモン海戦で重巡洋艦「摩耶」に空母「エンタープライズ」所属のSBD1機が体当たりを敢行し「摩耶」は中破した。重巡洋艦「足柄」乗員、黒木新二郎によれば、1944年12月26日、フィリピン防衛戦において対空戦闘中、被弾した米軍機1機が左舷中央に特攻を仕掛け、激しい火災が生じたという。「足柄」乗員は連合国側の特攻と認識し、翌日、数十人の戦死者を水葬したが、その最後に艦に特攻を仕掛けた敵機パイロット(氏名不詳)を忠勇の軍人として丁重に弔ったという[72]

1943年末、独空軍においてフォン・コルナツキー少佐によってシュトゥルム・フリーガーと命名されたB-17、B-24に体当たりを行う決死特攻が行われていた。落下傘で直前に脱出することとなっていたが、困難なため中止された。これに代わり1944年5月ヴァルター・ダールの案で、誓約書を書いた隊員で体当たりの肉薄攻撃を行っていたが、戦闘機隊総監アドルフ・ガーランドはこれを知り禁止命令を出した[73]

組織的な特攻[編集]

英海軍が、独海軍の戦艦「ティルピッツ」を撃沈するため、1942年にチャリオット人間魚雷による攻撃を実行しようとしていたが、事故で失われたために実行されなかった。また、1943年9月末に有人の小型潜行艇2隻がティルピッツに肉迫攻撃をかけるために、火薬を積んで突入してきた。これも生還を期さない特攻に近いものがあったとされるが、この場合は日本海軍の「回天」と違い、隊員の命を確実に奪うというものではなかった。しかし、ハイリスクの攻撃であったことは確かであり、船底に2,000kg爆弾を据え付けて、ティルピッツに深手を負わせることには成功したものの、英海軍は二度とこの作戦を採ることはなかった。

1944年春頃、ドイツにおいてハンナ・ライチュによって提唱されたHe 111の下部にV1 有人飛行爆弾を搭載、空中発射されたV1に搭乗した操縦者が誘導し対艦攻撃する計画があり、志願者が集められ試験飛行も行われたが実施されなかった[74]

独空軍大佐ハヨ・ヘルマンは、レイテ沖海戦より日本軍が投入した特別攻撃隊に触発され、その戦法が周囲でも話題になっていたこともあり、最終手段として劇的な戦法を試案するため、当時の駐独大使である大島浩デーベリッツの司令部に招き特攻について質問して情報を得た[75]。その効果については疑問を持ちつつも、第二次大戦末期はドイツでも通常の防空戦は困難になりつつあったことや「カミカゼ」戦術が衝撃的だったこと、過去にもその場の判断で敵機に体当たりを行い撃墜した事例、最新鋭のMe 262が圧倒的な速力で戦果を上げており機体生産を確保するための被害回避等の理由から「爆撃機への体当たり攻撃」を立案した[75]。この作戦にアドルフ・ヒトラーは難色を示し、空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングも当初は反対したが、燃料も戦闘機も不足する中ではやむを得ない戦法だと説得し許可を得て、ハヨ・ヘルマンが指揮官となって「自己犠牲攻撃」として志願者を募り、作戦が独北部のエルベ川周辺に展開したため「エルベ特別攻撃隊」(Sonderkommando Elbe)と称された[75]

この作戦は1945年4月7日に実行され、内容はMe 109Fw 190を使用し、機関砲を撃ちながら敵機目掛けて一直線に突進するものであり、衝突と同時に落下傘で脱出することで生還の可能性は残しており[75]、必ず体当たりすることを要求されたのではなかったが、死を覚悟しなければ志願できない作戦であり、周囲もパイロットが戦死することを前提にすべての用意を整えていた。「敵重爆の直前で射撃し、各自1機は撃墜すること。必要とあれば激突せよ」と命じられ彼らは無線で流されるドイツ国歌を聞きながら突撃したと言う。しかし、P-51を始めとする多数の護衛戦闘機群に阻まれ、推定189機が出撃したが出撃機の大半とパイロットの約半数(約80人との資料もある[75])を失い、8機(B-17 5機撃墜」との資料[74]や、20数機との資料もある[75])の爆撃機を撃墜したに留まり、効果への疑問から作戦はこの一度のみで終了となった[75]。この部隊は解散したが独空軍は別の特攻作戦「オーデル川作戦」を発動した。

また独空軍ではミステルと称す親子飛行機を開発し、これは子機(Ju 88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付けた無人機)の上部に連結器を装備して親機のMe 109を乗せたものであり、目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。ミステルは若干ながら戦果を挙げ、さらなる組み合わせとして親機にFw 190を使用した型も生産された。しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。

戦後[編集]

特攻に反対した美濃部正は「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。」と語っている[76]

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが、戦後は復興が重要と約束を破り、守ったのは大西と宇垣などわずかであったことを批判する声もある[77]。また、中央から特攻の命令があったかについても論争がある[78]。生還した陸軍特攻隊員の一部を振武寮に隔離し、再教育と称して激しく罵倒した第6航空軍参謀倉澤清忠少佐は死の直前まで拳銃と軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら2003年死の床についた[79]

旧軍人、元特攻隊員は戦後復興・経済発展のために日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。特攻指導者の寺岡謹平や菅原道大は特攻平和観音奉賛会を設立し、菅原の三男・道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長を務めている。

フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した ― 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。またマルローは内閣閣僚として日本を訪れた際、昭和天皇との会談で、特攻隊について触れ、その精神への感動を伝えている。

ビルマ(現:ミャンマー)独立の英雄のバー・モウも神風特攻隊に激しく感動した一人である。タイの王室主催の晩餐会でスピーチを求められたバー・モウは、流暢な英語で特攻隊について語っているうちに涙で声が詰まり、それを聞く晩餐会出席者もまた感涙に堪えなかったという(深田祐介『大東亜会議の真実』[要ページ番号])。

フランスのジャーナリストのベルナール・ミローは、著書『神風』の中で、「散華した若者達の命は…無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」とも述べている。

一方で、フランス文学者、歴史学者で東京大学客員教授・モーリス・パンゲは主著『自死の日本史』第12章において特にアメリカ人や西洋人一般にみられた嘲笑や中傷を否定し、『きけ わだつみのこえ』を基に特攻隊員が軍閥の言いなりではなく「正しいものにはたとえ敵であっても、誤りにはたとえ味方であっても反対する」という崇高な念に殉じたと彼らに称賛の意を示している[80]

戦後生き残った特攻隊員は、戦中に嫌だと言える空気でなかったが戦死した隊員や遺族を思い生きていても地獄と思いながら生き、特攻を命令した陸軍参謀は、自分の命は惜しいから現に生きて恩給を貰い、特攻は本人志願と語っていた。[81]

2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件において、欧米のマスコミの中には世界貿易センタービルに突入するハイジャックされた航空機を「カミカゼ」、「パールハーバーと同じだまし討ち」と表現するものもあった[82]。これは「生還を考えない体当たり戦法」から、「カミカゼ(=旧日本軍の特攻隊)のようだ」と報道されたものである。実際、「(強者に一矢報いるための)自殺行為同然の突撃」を代名する表現として「KAMIKAZE」の語が用いられることは多い。

これに対し日本国内ではかつての米国との戦争、そして特攻は肯定的に評価しながら、現代の米国へのテロや抵抗は批判していた保守層から、「特攻はあくまでも敵兵と軍事標的のみが目的。民間人を標的とする「卑劣なテロ」とは違う」という反論が生じた。しかし、日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」という意識がなお根強く、またミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃等、武装組織が正規軍へなんらかの武力抵抗を行った場合の評価、そして武装組織とテロ組織の「線引き」自体が曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない(戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されているが、「テロとの戦い」が「戦時」に該当するか、戦時国際法が適用されるかどうか自体が曖昧である)。また正規軍の民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところでは米軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。さらには当の武装勢力(含むテロ組織)のタミル・イーラム解放のトラハマスでも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来るという[83]

戦法[編集]

思想[編集]

日本軍では、東条内閣発足以来「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)という、捕虜に対する強い否定的意識が兵隊に訓育されていたことや、真珠湾攻撃時に日本軍捕虜第一号となった酒巻和男少尉の存在を隠匿した海軍上層部(海軍省)に見られるように、陸海軍共に捕虜となることは恥であるとされ、負傷や乗機の損傷によって帰還が絶望的な場合は、自爆や敵への突入を選択をする者が多かった[75]

神風特攻隊を創設した大西瀧治郎海軍中将は、機材、人数から餌食にされるだけの戦局で部下に死所を与えるのは主将としての役目で大愛と考えていた[84]一方でこんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道とも考えていた[85]。軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っておりもう戦争を終わらせるべきだと考え講和を結ぶ必要を考えたが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。またこの犠牲の歴史が日本を再興すると考えていた[86]。これは米内海軍大臣が当時進めていた一撃和平と通じる。搭乗員淺村淳は当時の戦局は乾坤一擲の作戦に爆弾を落として当たらなかったと言える次元の話ではなかった、ぶつかるのが確実だったという[87]。搭乗員岩本徹三中尉は特攻を勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後の悪あがきで士気は低下したと語っている[88]

陸軍初の特攻隊の編成にあたった鉾田教導飛行師団長今西六郎陸軍中将は特攻隊の編成化は士気の保持が困難、低下するだろう。現地の決意であるべきで常時編成しておくようなものではない。慣熟や団結を考えてのことだろうが、慣熟が必要な機種(九九式双発軽爆撃機)でもないし、団結もなくなる。機材を用意しておくだけでよく、人の心の逡巡や天候不良など想定し生還可能性は残すべきだという[89]

スプルーアンス提督は、負傷もしくは機体の損傷によって死が避けられないならば、敵に損害を与える可能性が高い体当たりの方が合理的で効果がきわめて高いと分析していた[90]

空中特攻[編集]

対艦船特攻[編集]

最初の航空特攻隊となった神風特攻隊の目標は、連合艦隊による捷号作戦成功の為、創始者の大西瀧治郎中将の「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」との提案通り[91]、空母を一時的に使用不能とすることであったが、最初の特攻で大きな戦果があり、特攻の効果が期待より大きかった為に、その後日本軍の主戦術として取り入れられ、目標に敵主要艦船も加えられた。そして1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった[92]。しかし、日本軍は過大な戦果報道とは裏腹に、特攻の命中率は現実的な評価をしており、沖縄戦の戦訓として当時の日本軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた[93]

本来であれば、航空機で艦艇に攻撃するためには、まず米軍の迎撃(護衛戦闘機)隊を、次いで目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を掻い潜らなければならない。こうした敵艦隊の防空網を突破するためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、さらに無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であったが、それまでに熟練搭乗員を大量に喪失していた日本軍は、補充の搭乗員の育成が間に合わず、搭乗員の質が低下が止まらなかった。1943年1月に海軍航空隊搭乗員の平均飛行訓練時間は600時間であったが、1944年1月には500時間と100時間減少すると、1945年1月には250時間に1年で半減し、終戦時には100時間を切っていた。[94]

しかも戦争後半には、レーダーによる対空管制、優秀な新型戦闘機による迎撃、また戦闘機の迎撃を突破しても、近接信管の対空砲や多数の搭載対空機関砲よる対空弾幕が待ち構えており、マリアナ沖海戦台湾沖航空戦の様に通常の攻撃では、米軍の艦隊に接近する事も困難になっていた。

そのような状況下で、特攻は、熟練搭乗員でなくとも実施することができる為に、積極的に推進された。また訓練についても通常の搭乗員と比較すると簡単な課程で足り、陸軍航空隊は飛行時間70時間、海軍航空隊は30時間で出撃可能と考えられ、搭乗員の大量育成が可能なのも推進された理由であった。[95]

戦法としては、海軍航空隊は高度500m~2000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして、角度35°~55°で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ1/3くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心[注 2]を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた。[96]

陸軍航空隊は、奇襲と強襲の場合に分けていた。 [97]

  • 強襲の場合

高高度より敵艦に接近し、逐次降下しながら、突撃開始点までに1,200~1,500mまでに下降する。その後角度を35°~40°、初速を300km/hで急降下し、敵艦の致命部(海軍と同じ)を目指す。

  • 奇襲の場合

奇襲、夜間攻撃、雲底が低い場合は、超低空水平攻撃を実施する。高度は800m~1,200mで初速は270~300km/hで加速しながら艦船の中央部を目指す。水平で体当たりするか、降下するかは、敵艦に至った時点の高度で決まる。
陸軍航空隊の、特攻機搭乗員訓練カリキュラムは、重装備による薄暮の離着陸、空中集合、中隊の運動に10時間、前述の攻撃法の訓練に10時間、海上航法に6時間とされており、他に地上での訓練や講習を含めても約1ヶ月という短期間で育成されていた。 [98]

以上の特攻戦術で、フィリピン戦ではそれまで通常航空攻撃で殆ど戦果を挙げられなかった日本軍が、特攻により多大な戦果を挙げた。その為、米海軍を中心とした連合国軍は次第に特攻に対する防衛策を講じるようになった。(詳細は後述 特攻対策の項を参照)
その米軍の対策により、フィリピン戦で26.8%あった特攻の有効率は沖縄戦では14.7%に減少している。しかし日本軍も、特攻対策の中心的存在であった米軍のレーダーを欺瞞する為に、錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)をばら撒いたり、レーダー欺瞞隊と制空部隊ら支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入する「時間差攻撃」を行ったり[99]敵艦隊に接近するまではレーダーを避ける為に低空飛行し、敵艦隊に接近したら上昇し、その後急降下で攻撃するという戦法などで対抗している。 [100]

特攻機の攻撃隊は、偵察機と特攻機と護衛の直掩機から編成されていた。 まずは偵察機が敵艦隊まで誘導し、直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。 偵察機は、海軍彩雲、陸軍一〇〇式司令部偵察機の高性能機が充てられたが、数が少ない上に、偵察機を操縦できる搭乗員も不足しており、十分な運用ができなかった。 また、直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった。[101]

大戦末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の九九高練二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」、複葉練習機(九五式一型練習機九三式中間練習機)などの練習機も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していたため、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は敵機の好餌であり、戦果を挙げるのが困難であった。

大戦末期に特攻機として投入された練習機白菊、低速であったが操縦性・安定性は優秀で特攻以外の実戦任務にも投入されていた

早期警戒を行うレーダーピケット艦に、「現在特攻機を追跡中」[注 3]という打電をされたという逸話もある。しかし、古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いがつけやすいこと等から、戦果を挙げている部隊もある。九三式中間練習機による特攻は、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦「キャラハン」を撃沈し、30日には「キャシン・ヤング」と「プリチェット」に突入して損害を与えた。 また白菊も1945年6月21日に輸送駆逐艦バリー と中型揚陸艦 LSM-59の2隻を撃沈する戦果を挙げている。[102]

しかし、アメリカ側は別の評価をしており、アメリカの著名な歴史家で、アメリカの海軍史研究の第一人者のサミュエル・モリソンは「しかし、こうした戦術(特攻)は、複葉機やヴァル(九九式艦上爆撃機)の様な固定脚の時代遅れの航空機でも使用できるという付随的な利点があった」と、特攻では、旧式機でも戦力になると前向きな評価をしている。[103]

「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際はレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である堀越二郎技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている。特に被害の大きかった米軍からは、「航空燃料が突入時の火災を大きくする効果があった」という評価もある。

しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。また、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していていたという証言もあり、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。一方で、陸軍第六航空軍の青木喬参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されている[104]

特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった[注 4]ことや、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。

対空特攻[編集]

アメリカが入手した文書によれば日本軍は1939年12月から1942年7月にかけて戦闘機と志願パイロットによって空中衝突実験を行っている。その結果、敵に衝突することが最も効果的な方法という結論を得ている[105]

アドルフ・ガーランド独空軍中将は「肉薄攻撃はいいが、体当たりすることはない。体当たりしなければならないのは、技術不足、相討ちの時だけである。戦闘機パイロットは一朝一夕で養成できるものではないため体当たりは避けるべき」と語っている[106]

大型攻撃機の編隊の中に突入して爆弾で自爆する特攻戦法も考案された。天雷特別攻撃隊においては零戦52型に3号爆弾を装備しB29の編隊に前から50 - 60度の角度で侵入し敵一番機をかわした時に自爆ボタンを押し爆弾を爆発させる。直径250 - 300メートルの範囲でダメージを与えられると想定していた。戦闘機にやられず、味方にも被害がないように誘導機1機と特攻機1機の単機攻撃が原則であった[107]。312空でも秋水によって同様の自爆特攻が予定されていた[108]

空中特攻として震天制空隊飛行第244戦隊のように敵爆撃機への体当たり攻撃を行なった事例もある。陸軍は本土上空を護るための十分な能力を持つ高高度迎撃機が日本に当時存在しなかったため、体当たりをしてでも防ごうと、武装、防弾装備や通信アンテナすらも一切取り払った「無抵抗機」と称した機体を仕立て、これによってB-29に体当たりする迎撃部隊を発案した。最初に組織化されたのは昭和19年11月7日、首都防空部隊であった第10飛行師団の隷下部隊に対し師団長心得吉田喜八郎少将から、1部隊につき各4機ずつ体当たり機の編成命令(震天制空隊)が発令された時である。この後、大都市圏の防空任務部隊を中心に空対空特攻部隊が組織されていくこととなる。

初出撃は同年11月24日、サイパン島より東京に初来襲したB-29に対するものであった。この戦闘で飛行第47戦隊所属の見田義雄伍長が二式複戦「屠龍」で体当たりを敢行し1機を撃墜して戦死。同じく飛行第53戦隊入山稔伍長は突入間際に機体が空中分解、戦死した。

こう言った戦死が相次ぐ一方で、2回体当たりして2回とも生き残り、遂には沖縄艦船特攻で戦死した飛行第244戦隊の四之宮徹中尉や、同じくB-29に2回体当たりを敢行して生還した中野松美伍長[注 5]のような例もあり、搭乗員は落下傘降下やもしくは損傷した機体で生還出来る可能性があったため、対艦船特攻のように100%死を覚悟しなければならないものではなかったが、死亡率は極めて高く、やはり特攻であることに変わりは無かった。

なお、これらの特攻は衆人環視の中で行なわれたものであったため、戦果の翌日は写真付で新聞紙面を飾ることが少なくなかった。

海軍では、組織的な空対空特攻は、第二二一海軍航空隊が1944年12月にルソン島B-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった「天雷特別攻撃隊」にとどまった。金鵄隊は250kg爆弾で爆装した零戦6機で編成されたが、3度の出撃で体当りに成功しないまま3機未帰還となり、残機は対艦特攻任務へと切り替えられた[109]。海軍でも自発的な空対空特攻は相次いだ。陸軍空対空特攻隊の初出撃に先駆けること3日前の昭和19年11月21日、第三五二海軍空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、北九州上空でB-29に体当たりして撃墜、戦死している。

だが、一部では1機で2機を体当たり撃墜したような戦果もあったものの、全体的に見ると重防御を誇るB-29は2機の体当たりを受けても生還出来た機体があったように、総合的な戦果はあまり芳しくなかった。B-29の日本本土爆撃において1回の攻撃あたりの最大の損失率は15.9%、平均1.38%であったと言われる。機数での数字としては延べ約33,000機の出撃に対し戦闘での喪失機数は450機であった。勿論この数字は特攻だけでなく、昼間戦闘機、夜間戦闘機、高射砲の戦果も含んだ数であり、対敵飛行機特攻のみの戦果はかなり低くなる。そして昭和19年6月15日の北九州初空襲以来、終戦までにB-29によって本土に落とされた爆弾は14万7,000トン[注 6]にのぼると言われている。)

結局こうした苦心の策も、硫黄島を占領され、B-29がP-51を初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、組織的な空対空特攻隊の編成は下火となっていった。また空母艦載機群が本土空襲を始め、日本本土の各航空基地に来襲するようになると、地上撃破されていった。しかし、そのような状況の中でもわずかながら戦果を挙げている[110]

空挺特攻[編集]

生還が極めて困難なエアボーン方式のコマンド作戦が行われた例があり、特別攻撃隊として評価されることがある。いずれも敵飛行場に航空機を用いて強行着陸し、地上部隊を突入させるものであった。最初の実行例は、レイテ島の戦い高砂義勇兵によって編成された「薫空挺隊」を輸送機で強行着陸させようとした「義号作戦」である。同じレイテ戦では、正規空挺部隊である挺進部隊の大規模空挺作戦の「テ号作戦」でも、一部が海岸地帯の生還困難な飛行場へ強行着陸を試みている。沖縄戦でも一時的に飛行場を制圧して対艦特攻を間接支援する目的で、挺進連隊の一部が「義烈空挺隊」として強行着陸を行っており、これも「義号作戦」と呼称している。沖縄戦中の1945年5月24日に12機の九七式重爆撃機に分乗した136名の義烈空挺隊が沖縄の読谷と嘉手納の飛行場に攻撃を謀ったが、激しい対空射撃で強行着陸できたのは読谷飛行場の1機のみであった。しかし搭乗していたわずか12名の空挺隊員は戦闘機3機・爆撃機2機・輸送機3機を完全撃破、他22機にも損害を与え、約70,000ガロンの航空燃料を焼き払い、海兵隊に22名の死傷者を出させた後に全滅した。同飛行場は丸一日使用不能に陥っている[111]このほか、マリアナ諸島の飛行場および原爆貯蔵施設を標的とした剣号作戦が計画されたが、終戦で実行に至らなかった。

水中特攻/水上特攻[編集]

水中特攻、水上特攻は、回天震洋などの特攻兵器を使用した敵艦船を目標とする体当たり、自爆攻撃である。戦艦の巨砲で敵地へ突入し玉砕する戦法は海上特攻と呼ばれた。

海上特攻隊はマリアナ沖海戦の敗北後から神重徳大佐によって主張されていた。坊ノ岬沖海戦で行われた戦艦大和以下によって行われたものについて、豊田副武連合艦隊長官は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。草鹿龍之介少将は「大和」の第二艦隊司令長官伊藤整一中将に「一億総特攻のさきがけになってもらいたい」と説得した[112]

海上特攻は、片道燃料での出撃を命じられていた。具体的には軍令部より2,000トンの重油が割り当てられ、連合艦隊もこれを了承、軍令部第一部長の富岡少将は連合艦隊参謀副長の高田少将にこれを厳守するよう命じていた。しかし連合艦隊の現場側は「はらぺこ特攻」を容認せず(参加駆逐艦長は「死にに行くのに腹いっぱい食わさないという法があるか!」と叫んだという)、呉鎮守府補給担当、徳山燃料廠まで巻き込み、責任追及を受けた場合には「命令伝達の不徹底であり過積載分は後日回収予定であったが果たせなかった」との口裏合わせまで行って燃料を補給し当初予定の5倍の燃料が搭載された[113]

陸上特攻[編集]

末期に陸軍では戦車に対戦車地雷を取り付けて敵戦車に体当たりする戦法や、歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に体当たりする戦法が行われることが多数あった。

対戦車特攻で有名なのはフィリピン、バギオ近郊イリサンでの丹羽戦車部隊によるM4中戦車に対する戦車特攻である。1945年4月12日、軍司令部の置かれていたバギオに対して侵攻してきたアメリカ陸軍に対して、第14方面軍司令官山下奉文大将は司令部直轄戦車隊であった戦車第10連隊第5中隊に対して決死特攻隊の編成を命じ、アメリカ陸軍戦車部隊の侵攻阻止を厳命した。

この命を受け、丹羽治一准尉以下11名が九五式軽戦車九七式中戦車各1両の戦車前方に先端に20kgの爆薬を取り付けた長さ1mの突出し棒を取付け、体当り特攻を仕掛けることとなった。17日午前9時、イリサン橋西北200mの曲がり角に差し掛かったアメリカ陸軍のM4中戦車に対して丹羽戦車隊が奇襲。不意の出現に慌てたアメリカ陸軍の先頭戦車は操縦を誤り50mの崖下に転落。さらに丹羽戦車隊の2両が後続車に体当りを仕掛け、双方の戦車4両が大破、炎上した。狭隘な道であったためにこれらの残骸の除去は難航。アメリカ陸軍は約1週間の足止めを受け、その間にバギオの司令部は整然と撤退したのである。日本の公刊戦史ではこれを「戦車の頭突き」と称している。

沖縄戦の激戦地嘉数の戦いで、日本軍の速射砲と肉弾攻撃で撃破されたM4中戦車。沖縄戦全体で225両の米軍戦車が撃破された

このような戦法を採らざるを得なかったのは、陸軍に対戦車火器が不足していたからである。歩兵携帯の対戦車装備(他国ではアメリカのバズーカやドイツのパンツァーファウスト、イギリスのPIATとして大戦中に使用)の開発の遅れや、戦車開発技術の劣後により、日本軍の対戦車戦闘は速射砲野砲が中心であり、相応の効果を挙げたものの数が絶対的に不足していた。(一式機動四十七粍砲九〇式野砲を多数装備していた沖縄の第32軍は、多数のM4中戦車を撃破している[114]

対戦車火器の不足を補う為に、様々な形式の対戦車挺身肉弾攻撃が行われている。一番多く行われた肉弾攻撃は、九九式破甲爆雷を戦車の装甲板に吸着し爆発させる攻撃で、当初は効果があったが、米軍が戦車同士の連携を強化したり、随伴歩兵が接近してくる肉弾兵を警戒したり、装甲板にコンクリートなどを塗布して磁石を無効にする対策を取った結果、効果が大きく減じられ損害が増大する事となった。それでも沖縄戦の激戦地となった嘉数高地やシュガーローフの戦いでは同爆雷などの肉弾攻撃に撃破されるM4中戦車も多かった。[115]但し吸着地雷自体は日本軍のみが運用したものでなく、ドイツ軍も同様の攻撃を大戦末期パンツァーファウストの運用が軌道にのるまで広く行っていた。また同様の攻撃の防止の為ツィンメリット・コーティングを自軍の戦車の装甲板に施している。

また刺突爆雷といって円錐状の成形炸薬弾頭を棒の先に取り付け、敵の戦車を文字通り刺突し爆発させるという兵器も開発して、実際に運用している。 他にも、日本軍は大量の爆薬を背負って戦車に突撃をしたり、砲弾や地雷を背負って戦車の下部に潜り込む様な肉弾攻撃も行ったが、効果はそう上がらなかった。沖縄戦ではこのような対戦車肉弾攻撃を、学生を現地徴用した鉄血勤皇隊にまで行わせている。

満州国に展開していた関東軍では、ソ連軍の侵攻に備えて肉攻(特攻)班が編制された。これは国境線上に掘った蛸壺に隠れた2人1組の兵士が2人がかりで野砲の15センチ榴弾を抱え、先端の信管をソ連軍戦車にぶつけて破壊しようという戦法であった。実際に戦果がどの程度あったかは不明である。

特攻兵器[編集]

※沖縄戦出撃機数及び未帰還機数(海軍のみ)は戦史叢書『沖縄方面海軍作戦』付表「沖縄方面特別攻撃隊一覧表」より

海軍

戦闘機
爆撃機・攻撃機
練習機
  • 白菊 沖縄戦特攻出撃延機数 115機 内未帰還 56機
  • 九三式中間練習機 沖縄戦特攻出撃延機数 11機 内未帰還 7機
偵察機
特殊潜航艇
特攻専用兵器

など。


陸軍

戦闘機
爆撃機・襲撃機
練習機
偵察機
特攻専用機
攻撃艇

など。


陸海軍問わず太平洋戦争末期は、数を揃えるために様々な機体が爆弾装備可能に改修され、特攻に投入された。

効果[編集]

有効率[編集]

1946年に提出された米国戦略爆撃調査団の報告書は特攻への総括として「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」と指摘している[116]

報告書によれば、特攻による有効率は下表のとおりである。

特攻作戦有効率(米国戦略爆撃調査団統計 USSBS Report 62, Japanese Air Power)[117]

フィリピン戦 沖縄戦 合計
特攻機損失数 650機 1,900機 2,550機
命中もしくは有効至近命中[注 7] 174機 279機 475機[注 8]
有効率 26.8% 14.7% 18.6%

この特攻有効率は、真珠湾攻撃58.5%、インド洋作戦時率88~89%、珊瑚海海戦53%の急降下爆撃命中率[118] と単純に比較し、著しく低いと恣意的な誘導をされる場合も多いが[119]、これは攻撃目標に達し、実際に爆撃した急降下爆撃機による爆撃の命中率であって(例、インド洋海戦時の空母ハーミーズへの命中弾37発/ハーミーズを攻撃した九九式艦上爆撃機45機=82%)、特攻機損失機数と有効攻撃数の比率から算出された上記の特攻の有効率(命中及び有効至近命中475機/特攻機総損失数2,550機=18.6%)とは分母が違う、全く異なる確率であり、単純に比較はできない事を注意すべきである。[注 9]
また、上記に挙げた命中率は、日本軍側の資料によるもので、米軍側の被害資料と異なっている。[注 10]

日米主要海戦での、艦爆・艦攻による攻撃命中率・有効率 [注 11][注 12][注 13]

※参考書籍[120] [121]

艦爆出撃機 艦爆損失数 艦攻出撃機 艦攻損失数 命中弾 命中率 有効率
珊瑚海海戦 33機 14機 18機 9機 爆弾5発 魚雷2本 13.7% 30.4%
ミッドウェー海戦 18機 13機 10機 5機 爆弾3発 魚雷2本 17.9%  27.8%
第二次ソロモン海戦 54機[注 14] 23機 爆弾3発  5.6%  13.0%
南太平洋海戦 62機 39機 49機 12機 爆弾9発[注 15]魚雷3発  10.8%  23.5%
マリアナ沖海戦 167機[注 16] 102機 50機 30機 爆弾1発[注 17]  0.6%  0.9%
通常攻撃合計 334機 191機 127機 56機 爆弾21発 魚雷7本  6.1%  11.3%
第一回神風特攻隊(フィリピン1944年10月25日) 18機[注 18] 13機 -  7機 38.9 %  53.8%
神風特攻第二御盾隊(硫黄島1945年2月21日) 32機 32機 -  11機 34.4%  34.4%
菊水作戦一号作戦(沖縄1945年4月6~日7日) 464機[注 19] 356機 46機 9.9%  12.9%

日米機動部隊が激突した海戦では、真珠湾攻撃やインド洋作戦時点の英海軍相手のように、一方的に爆撃できる状況では無かったため、敵艦を攻撃前に失われる艦爆も多く、日米の戦力が拮抗していた時期ですら、出撃機数から計算した命中率や有効率は、特攻の平均有効率と大きな差はない。
大戦期間中、米艦隊の対空能力は驚異的な進化を遂げており、大量の迎撃戦闘機や護衛艦の激しい対空射撃で、日本軍機は攻撃はおろか艦隊に近づくのすら次第に困難になっていき、特攻が開始された時期となる太平洋戦争後半の日本軍航空機による通常攻撃の有効率は、マリアナ沖海戦台湾沖航空戦の例を見ても判る通り著しく下がっていた。

米軍は大戦末期となるフィリピン戦から沖縄戦の日本軍による、航空特攻攻撃と航空通常攻撃の比較をしている。[122]

1944年10月~1945年4月(沖縄戦初期)米艦の対空装備の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効攻撃数(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table I)

フィリピン戦(1944年10月~45年1月) 硫黄島戦・沖縄戦初期(1945年2月~4月) 1945年4月までの合計
日本軍機合計 1,616機 1,320機 2,936機
特攻機 376機 408機 784機
通常攻撃機 1,240機 912機 2,152機
特攻機命中 120機(命中率31.9%) 96機(命中率23.5%) 216機(命中率27.6%)
通常攻撃命中 41機(命中率3.3%) 17機(命中率1.9%) 58機(命中率2.7%)

攻撃機数は特攻が約1/3の機数であるが、攻撃命中数は約4倍であり、命中率は10倍であった。

1944年10月~1945年6月(沖縄戦末期)特攻機と通常攻撃機の有効性の比較(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table VI)

特攻機 通常攻撃機
命中までの平均攻撃回数 3.6回 37回
命中率 27% 2.7%
命中までの平均損失数 3.6機 6.1機

特攻の方が、命中までに要する攻撃回数1/10、命中率10倍、命中を与えるまでの損失機数は約半分と、攻撃の有効性は圧倒的に上回っていた。

1945年2月14日から菊水10号作戦(6月22日)までの、日本海軍航空隊の出撃機数[123]

※機数は延べ機数

出撃基地 攻撃機 哨戒偵察機 制空直援機 合計
九州基地より出撃 3,167機 919機 3,004機 7,095機
台湾基地から出撃 580機 94機 109機 783機
通常作戦機合計 3,747機 1,013機 3,113機 7,878機
特攻機合計 1,868機
1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母バンカー・ヒル、特攻単独では最多となる戦死者402名、負傷者264名の甚大な損害を受けた

意外ではあるが、日本側の資料でも、前表の米軍統計通り、日本軍が全軍特攻を打ち出した硫黄島戦以降も、特攻機よりは通常攻撃機の出撃機数が多かったが、攻撃の有効性は、通常攻撃機の約半数であった特攻機の方が遥かに高かった。

特攻攻撃が通常攻撃より有効であった理由として、米軍は特攻を「自爆攻撃(特攻)は、米艦隊が直面したもっとも困難な対空問題」指摘した上で下記の様に分析していた。[124]

  • 従来の対空戦術は特攻機に対しては効力がない
  • 特攻機は撃墜されるか、操縦不能に陥るほどの損傷を受けない限りは、目標を確実に攻撃する
  • 目標となった艦船の回避行動の有無に関わらず、損傷を受けていない特攻機はどんな大きさの艦船にでも100%命中できるチャンスがある

台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母タイコンデロガのディクシー・キーファー艦長は、療養中にアマリロ・デイリー・ニュースの取材に対して「日本のカミカゼは、通常の急降下爆撃や水平爆撃より4~5倍高い確率で命中している。」と答えている。[125]また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている。[126]また英国の著名な戦史作家バリー・ピッドも「日本軍の特攻攻撃がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう。」との評価をしている[127]

アメリカ国立公文書館に保管されているアメリカ軍の機密文書の中には、アメリカ軍が視認できる距離まで接近できた特攻機のうち、至近自爆を含む命中効果率を半年間で56%と算定している資料もある(日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26 - 28%と推定)[128][129]。また、アメリカ軍損害分分析班が1945年4月に行った集計では、特攻作戦が始まった1944年10月から1945年3月までにアメリカ海軍艦隊の視界に入った特攻機は計356機で、うちアメリカ海軍艦船への命中が140機(39%)、至近距離での爆発による被害が59機(17%)だった。半年間の航空特攻作戦でアメリカ海軍艦船20隻が沈没した(データには視界に入る前に米軍機によって撃墜された特攻機は含まれていない)[130]。他にも特攻機が敵に損害を与えた最終的な確率は諸説あるが、2割弱[131][132]との見方が比較的多くなっている。

特攻についての米軍高官の評価[編集]

米軍公式の特攻作戦の有効性への評価は「日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された。」[133]。とその有効性を高く評価している。

アメリカ海軍上層部の特攻に対する評価としては、太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥が,フィリピン戦での特攻での損害を見て「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」[134]と特攻が非常な脅威であったことを認めている。
また、ニミッツの太平洋艦隊広報はこの後沖縄戦後に至るまで、特攻に関するニュースを全て検閲していた。特攻の成功を絶対に日本軍に知らせまいとするニミッツからの指示であった。逆に大和を撃沈した際は大々的に広報し、陸軍記念日の演説で全部隊に放送している。 [135]

沖縄戦でも、特攻により激増する損害を懸念したニミッツは、日本軍の固い防衛線に苦戦し、中々進軍できない沖縄方面連合軍最高指揮官の第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将に苛立ちを覚え、指揮を混乱させかねないため現場の指揮には一切口を出さないと言う自らの不文律を犯して、4月23日に沖縄にてバックナーと会談している。 [136]
そこでニミッツはバックナーに「海軍は、毎日1.5隻ずつ艦船を失っている。その為、五日以内に第一線が動かなければ、このいまいましいカミカゼから逃れる為に、他の誰かを司令官に変えて前進させる。」と、異例とも言える更迭も含んだ督戦をしている。[137][138]
それで沖縄戦が終わると「我が海軍が(沖縄戦で)被った損害は、大戦中のどの海戦よりも、はるかに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9000人以上が死亡、行方不明または負傷した。この損害は主に日本の航空攻撃とくに特攻攻撃によるものであった。」と沖縄戦での特攻を総括している[139]

第五艦隊司令レイモンド・スプルーアンス大将は「特攻は非常に効果的な兵器で、我々はこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域内にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解する事はできないと信じる」と第五艦隊参謀長でもある親友のカール・ムーア大佐に送った手紙に書き綴っている[140]また、当時潜水艦の艦長だった息子のエドワードと、グアムで面会した際に「神風特別攻撃隊が沖縄の沖合で、アメリカ艦隊にあたえた恐るべき人命と艦艇の損害について非常に憂慮している。日本本土に向かって進攻することになったならば、さらに大きな打撃をうける事になるであろう」と語り、エドワードは「父は今まで会った中でもっとも憂慮している様子だった」と感想を述べている。[141]

またスプル-アンスは、増え続ける特攻からの損失に音を上げて「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 という、海軍上層部への切実な戦況報告と意見具申をしている。

沖縄戦にあたって、第20空軍B-29は海軍の強い要請により日本本土の都市や工場等への戦略爆撃任務から、九州の特攻機基地への戦術爆撃任務に振り向けられていたが[142]、第20空軍は戦略爆撃任務に戻りたがっていた。しかしスプールアンスの切実な意見具申を受けて海軍作戦部長アーネスト・キングが陸軍航空隊に対し「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し、引き続き、第20空軍による特攻基地爆撃継続を応諾させている。[143]その為、一か月半に渡って日本本土への戦略爆撃が特攻により軽減される事となった。[144][145]

スプルーアンス自身も沖縄戦で二度に渡って座乗していた旗艦に特攻攻撃を受けている。一度目は重巡洋艦インディアナポリス座乗中に艦尾に特攻攻撃を受け損傷、同艦は応急修理の失敗もあり航行不能となり[注 20]その後本土で修理され、旗艦として復帰する帰路にテニアン島へ原爆を輸送したが、原爆を揚陸後伊号第五十八潜水艦に撃沈された。[注 21]その後、臨時旗艦戦艦ニューメキシコに座乗するが、同艦も特攻攻撃を受け戦死54名、負傷者119名の大損害を被る。スプルーアンスは艦内を移動中に、物陰に隠れて難を逃れたが、一時は行方不明になり、幕僚らが混乱状態に陥ってる。スプルーアンスは沖縄戦途中で異例のウィリアム・ハルゼーへの指揮権交代をしているが、その際にハルゼーの幕僚らはスプルーアンスの幕僚らのやつれ具合にショックを受けている。[146]

フィリピンで特攻により炎上する正規空母フランクリンと軽空母ベローウッド

艦隊指揮官として、一番最初に特攻の洗礼を受けたのはウィリアム・ハルゼー・ジュニア大将であった。ハルゼーは、1944年11月29日に配下の 第三艦隊の高速空母群に次々と特攻機が損害を与えるのを見て「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている。[147]

その後も特攻機による空母の損害が増えて、11月26日にハルゼーが計画していた、日本船舶に対する艦載機による大規模な攻撃は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 偉大な部隊での戦局を決定的にする攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している。[148]

沖縄戦では、特攻により心身疲労したスプルーアンスに代わり、5月26日より艦隊の総指揮をとることになったが、あまりの艦隊の惨状にショックを受け、特に甚大な損害を受けていたレーダーピケット艦を問題視して、なぜこのような大殺戮に合う必要があったのか?早くにレーダーサイトを建設していれば、こんなに損害を受けることはなかったと怒りを露わにしている。 [149]

海軍以外でもダグラス・マッカーサー元帥が「沖縄では、大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、米側は、艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。‌‌ これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出した米側の損害の総計を超えている」 [150]と沖縄戦で特攻による大損害を回顧しているが、そのマッカーサー自身もフィリピンのリンガエン湾で、 軽巡洋艦ボイシ座乗中に 特殊潜航艇の雷撃と特攻機の攻撃を受けている。
雷撃はボイシの巧みな操艦で回避し、特攻機は接近中に対空砲火で撃墜され難を逃れたが、当のマッカーサーは、雷撃回避の際は甲板上に仁王立ちし戦闘を眺め、特攻機撃墜時は艦内の喧噪を他所に、居室で眠っていた。マッカーサー配下の第七艦隊の兵士らは、それまでの特攻の猛攻で恐怖が頂点に達していたのに、その指揮官のマッカーサーの剛胆ぶりに担当軍医のエグバーグ医師は驚かされている。 [151]

1945年7月2日ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出ると話し、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒ提督は、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見した[152]

総合戦果[編集]

特攻の戦果は、航空特攻で撃沈57隻 戦力として完全に失われたもの108隻 船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻 軽微な損傷206隻(元英軍従軍記者オーストラリアの戦史研究家デニス・ウォーナー著『ドキュメント神風下巻』)[153]。 航空特攻で撃沈49隻 損傷362隻 回天特攻で撃沈3隻 損傷6隻 特攻艇で撃沈7隻 損傷19隻 合計撃沈59隻 損傷387隻(イギリスの戦史研究家ROBIN L. RIELLY著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR Ⅱ 』)[154]など諸説ある。 米軍の特攻損害の公式統計は、「44ヵ月続いた戦争のわずか10ヵ月の間に、米軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった」[155]「アメリカが(特攻により)被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった」[156]と米軍の損害が極めて大きかったと総括している。

連合軍の人的損失[編集]

特攻の効果で、連合軍を苦しめたものの一つが、大きな人的損失であった。

連合軍の人的損失については、特攻のみによる死傷者の公式統計は無い為、推計の域は出ないが、米軍の公式記録等を調査したROBIN L. RIELLY著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR Ⅱ 』では米軍の戦死者6,805名負傷者9,923名合計16,728名、[157] Steven J Zaloga著『Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45』では戦死者7,000名超[158]と集計している。他にイギリス軍オーストラリア軍オランダ軍でも数百名の死傷者が出ている。
連合軍全体では、戦死者12,260名 負傷者33,769名に達したという推計もある。[159][160]
米海軍の太平洋戦域での戦闘における(除事故・病気等の自然要因)死傷者の米軍公式統計は、特攻が開始された1944年以降に激増し、1944年から1945年8月の終戦までで45,808名に上り、太平洋戦争での米海軍の死傷者合計71,685名の63.9%にも達したが(1945年の8か月だけでも26,803名で37.4%)、[161]1944年以降の米艦船の戦闘による撃沈・損傷等は約80%以上が特攻による損失であり[162][163][164]特攻が米海軍の死傷者を激増させた大きな要因となった事が覗える。
また海軍以外でも、輸送艦などに乗艦していた、陸軍・海兵隊の兵士や輸送艦の船員なども多数死傷している。

1945年1月6日チャーチルの名代としてフィリピン戦観戦中に、戦艦ニューメキシコの艦上で特攻により戦死した英陸軍ハーバード・ラムズデン中将。バーナード・モントゴメリー大将の配下でエル・アラメインの戦いの勝利にも貢献した。

特攻による死傷者の中には高級将官も多く含まれていた。第二次世界大戦での英陸軍且つ特攻で戦死した最高位の軍人となるハーバード・ラムズデン中将や、米海軍最高位の戦死者セオドア・チャンドラー少将らである。(同じ米海軍少将の戦死者としては真珠湾攻撃でのアイザック・C・キッド少将、第三次ソロモン海戦でのダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将の3名がいる)ラムズデン中将が戦死した戦艦ニューメキシコ艦橋には、英軍太平洋艦隊(東洋艦隊 (イギリス)から改編)司令ブルース・フレーザー大将も同乗していたが、少し席をはずした際に、特攻機が命中した為難を逃れている。東洋艦隊 (イギリス)マレー沖海戦で前任者である司令のトーマス・フィリップス提督が戦死しており、2代に渡って大英帝国海軍の艦隊司令が太平洋戦域で戦死するところであった。

また第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将は、沖縄戦で旗艦空母バンカー・ヒルで特攻機が至近に命中した。奇跡的にミッチャー自身は無傷であったが幕僚13名が戦死、また司令官個室も破壊され機密文書もすべて焼失してしまった。その後旗艦を空母エンタープライズとしたが、同艦も特攻攻撃を受け大破し、空母ランドルフに再び旗艦を変更せざるを得なくなった。[165]ミッチャーはこの後も特攻対策で心労が重なり、体重は45㎏と女性並みまで落ち込み、舷側の梯子を単独では登れない程まで心身ともに追い込まれ、上官のスプルーアンスと同じように、沖縄戦途中に異例の艦隊指揮交代となっている。[166]

アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。神風特攻隊を受けたアメリカ軍はパニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。健康検査では戦闘を行える健常者が30%まで落ちた艦もあった[167]

主力艦に対する戦果[編集]

特攻機が撃沈したとされるアメリカ海軍の護衛空母は3隻であるが、セント・ローはフィリピン上陸作戦、オマニー・ベイはフィリピン攻防戦、ビスマーク・シーは硫黄島上陸作戦において撃沈されている。空母は特攻作戦の全期間を通じて最重要目標とされたが、その理由は日本軍守備隊への最大の脅威が航空攻撃であったためであり、護衛空母は攻略目標近傍においてCAP(戦闘空中哨戒)を形成し、アメリカ軍の地上部隊の援護を行うため特攻機の目標とされた。碇泊中の米軍機動部隊への奇襲も計画され、3月11日、第五航空艦隊の「銀河」24機(7機故障脱落)・二式飛行艇3機(誘導)の梓隊がウルシー泊地の空母ランドルフを中破させた。

しかし、特攻機が撃沈できた正規空母や戦艦などの主力艦は1隻もないとの指摘もあり、その事が特攻の成果に対する低評価に繋がっている。[168]

特攻により、巡洋艦以上の主力艦が沈まなかった事には、以下の要因が挙げられる。

  • 特攻は攻撃の性質上、艦艇の上部構造物は破壊できるが、喫水線以下に大きなダメージを与えることが困難であり、中型以上の艦艇を沈没まで至らせるほどの効果があるのか当初から懸念されていた。桜花や桜弾四式重爆撃機飛龍の様な特攻専用機が開発されたのもその懸念による。

  • 特攻機は零戦などの小型機が主力であり、搭載爆弾は250㎏~500㎏爆弾となるが、水上艦は250㎏~500㎏爆弾1~2発程度の命中では、積載弾薬や燃料の連鎖的な誘爆でもない限りは簡単に沈むものではなかった。例えば南太平洋海戦ホーネットは日本軍航空機により、800キロを含む爆弾5発・魚雷3本及び体当たり攻撃2機を受けるも沈まず、更に自沈させようとした米軍の魚雷6本、5インチ砲無数を撃ちこまれるも沈まず、放棄された後に日本軍駆逐艦による酸素魚雷3本12.7cm砲24発によりようやく沈没してる。日本の空母でもエンガノ岬沖海戦の空母瑞鶴は魚雷7本爆弾8発命中で沈没、インド洋海戦時の空母ハーミーズに至っては命中弾37発で沈没である。南太平洋海戦までのように、損傷艦への反復攻撃を行えていたのであれば、損傷した主要艦艇に追い打ちをかけ撃沈することも可能であったが、アメリカ軍が制空権を握っていた大戦後半期の日本軍には反復攻撃は困難だった。

  • アメリカ海軍の正規空母の飛行甲板の装甲防御や、艦内のレイアウト等ダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて飛躍的に向上していた。特に艦に致命的な打撃を与える火災への対応については、現役の消防士を教官とした消防学校が各海軍基地に設立され、ダメージコントロール要員は繰り返し訓練された。水を霧状に細分化できる消防ホースや、泡沫による消火システムや、艦内が停電しても使用できるガソリン駆動の移動式ポンプや、ダメージコントロール要員が着用する耐火服などの防火装備一式など、現代並みの消火設備を各艦に装備させた。 [169]

  • アメリカ海軍が制空権・制海権を握っていたため、曳航退避が可能だった。例えばミッドウェー海戦で沈んだ日本空母4隻のうち、「赤城」と「飛龍」は曳航可能だったが、米軍制空権下では処分するしかなかった。

しかし、これらのは特攻に限った問題ではなく、大戦後半期の米海軍艦艇は小型艦に至るまで撃沈が困難になっていた。

米軍が太平洋戦域で1944年以降に特攻以外の戦闘(除天候要因・事故)で失った水上艦は軽空母1、重巡1、護衛空母1、駆逐艦8、戦車揚陸艦1、輸送艦4、その他小型艦艇2 合計18隻、中でも大戦末期の沖縄戦では 艦隊掃海艦スカイラーク(機雷) 駆逐艦ロングショウ(陸上砲撃) 艦隊用曵船アリカラ(陸上砲撃) 200tタンカー(陸上砲撃)の4隻に過ぎないが、特攻の沖縄戦での戦果は、駆逐艦(各用途の駆逐艦の合計)17隻、戦車揚陸艦1、中型揚陸艦5隻、輸送艦3隻、その他艦艇6隻、合計32隻(含水中・水上特攻)と特攻の戦果が圧倒的に上回っている。[170][171]従って、むしろ日本軍にとって、大戦後半期は特攻が米艦艇を撃沈できる最有力の手段であったと言える。

撃沈に至らなくても、正規空母等の主力艦が特攻により甚大な損傷を受け、修理の為に長期間に渡って戦線離脱する事が米軍にとって作戦上の大きな痛手となっていた。 海軍反省会においても、元海軍将校の視点より同様な指摘があっている。 [172]

例えば、米海軍の主戦力であった主力機動部隊第58任務部隊の所属正規空母・軽空母は殆どの艦が、特攻攻撃を受けて損傷し戦線離脱に追い込まれた事がある。

※所属は沖縄戦開始時、但し離脱艦は損傷を受けた時点での所属。

  • 【第58任務部隊第1群】[TG58.1]
  • 【第58任務部隊第2群】[TG58.2]
    • レキシントン 1944年11月5日フィリピン戦で大破 戦死者50名 負傷132名(沖縄戦開始時は本土で修理中)
    • エンタープライズ 1945年4月11日及び5月14日、沖縄戦で損傷と大破、合計戦死者18名 負傷者86名
    • ランドルフ 1945年3月11日ウルシー環礁で特攻機により中破 戦死25名 負傷者106名
    • フランクリン 1944年10月30日フィリピン戦で大破 戦死者56名 負傷者14名(沖縄開始時では1945年3月19日、陸上爆撃機「銀河」の緩降下爆撃で大破 戦死者739名 負傷者264名を出し本土曳航中)
  • 【第58任務部隊第3群】[TG58.3]
    • タイコンデロガ 1945年1月21日台湾沖で大破 戦死者144名 負傷203名(沖縄戦開始時では本土で修理中)
    • エセックス 1944年11月25日フィリピン戦で中破 戦死者15名 負傷者44名
    • ハンコック 1945年4月7日沖縄戦で特攻機により大破、戦死者62名 負傷者71名
    • バンカーヒル 1945年5月11日沖縄戦で特攻機により大破、戦死者402名 負傷者264名
    • カボット 1944年11月25日フィリピン戦で損傷、戦死者36名 負傷者16名
    • バターン 1945年4月18日沖縄戦で損傷、戦死者9名 負傷者50名
  • 【第58任務部隊第4群】[TG58.4]
  • 【第58任務部隊第5群】[TG58.5]※硫黄島戦時に編成
    • サラトガ 1945年2月21日硫黄島戦で大破、戦死者123名、負傷者192名(沖縄戦開始時は本土で修理中)

以上の通り第58任務部隊の20隻の正規空母・軽空母の内、特攻で損害を受けた事のない艦はたった4隻である。

特に以下の艦は甚大な損傷を負っている。

2月21日に香取基地を飛び立った海軍第二御楯特別攻撃隊より硫黄島沖にて集中攻撃を受けた。2機の特攻機の体当たりと、撃墜された2機の特攻機の爆弾が喫水線と舷側に跳弾して命中、最後に特攻機が投下した800kg爆弾が命中。搭載されていた艦載機が次々と誘爆すると共に、艦内の航空燃料にも引火して大破炎上したが辛うじて沈没は逃れた。本艦は本土にて大修理の後に、1945年6月3日に真珠湾へ戻り練習空母として復帰したが、戦後に日本軍の戦艦長門などと原爆実験艦として処分された。

富安中尉搭乗の零戦の特攻でエンタープライズの前部リフトは120mもの上空に吹き上げられた

5月14日の特攻機による損傷大破で炎上し、ピュージェット・サウンド海軍工廠に帰還、修理後に海軍工廠の埠頭に停泊中に終戦を迎えた。太平洋戦争をほぼ全期間戦い抜いた不死身のビッグEをようやく長期間離脱に追いやり、米海軍関係者から、本艦に特攻した富安俊助中尉に対して「これまで日本海軍が3年かかってもできなかったことを、たった一人で一瞬の間にやってのけた。」と称賛の言葉が送られている。空母エンタープライズはその後、復員船として運用された後に除籍された。


は5月11日に特攻機2機の突入を受けて大損害を受け長期の戦線離脱を余儀なくされた、空母バンカー・ヒルは、ピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルであり[177]。修理後に復員船として運用された後は、空母としての運用をされることはなかった。他のエセックス級空母が近代化改装を受け後年まで活躍する中、通常爆撃で大破した同型艦フランクリンと共に近代化改装されることもなく、埠頭に係留されたまま電子実験のプラットフォームなどに利用された後に解体された。[178]

また、イギリス海軍の インディファティガブル が1945年4月1日、フォーミダブルが5月4日、ヴィクトリアスが5月9日に攻撃を受け、沈没こそ免れたものの大きな被害を出している

特攻の威力についての評価[編集]

特攻の威力関し、一部で特攻が米軍主力艦を撃沈できなかったのは特攻という攻撃方法に威力がなく、それは特攻機の突入速度が通常爆撃と比較して遅いのが原因と分析されることがある。[179]

日本軍は通常爆撃の爆弾や特攻機の終速(目標に命中時の速度)や貫通力について様々な実験や推計をしているが、一番大掛かりに行ったのは1935年4月頃から半年間に渡って鹿島爆撃場で行った実験で、レキシントン級航空母艦の一部の50㎜の鋼板を張った実物大標的を作り、急降下爆撃で250㎏爆弾を投下しその貫通力を調査すると共に、高速度写真撮影機を持ち込み、撃角(貫通する爆弾の命中角度)と均衡撃速(鋼板を貫通できて、貫通後は速度が0になる速度、つまり鋼板を貫通可能な最低速度)を測定した。
ま た25㎡の爆撃目標に50㎜~70㎜の鋼板を張り戦艦に見立てて、500㎏爆弾と800㎏爆弾で同様な実験をしているが、その結果が下記の表となる。[180]

250㎏爆弾~800㎏爆弾の貫通力、撃速、撃角、投下高度実験(昭和10年 日本海軍鹿島爆撃場)

弾種 艦種(想定) 鋼板厚 均衡撃速 撃角 投下高度
250㎏爆弾 空母 50㎜ 496.8㎞/h 69.3度 900m
500㎏爆弾 戦艦 50㎜ 378㎞/h 67.11度 600m
500㎏爆弾 戦艦 70㎜ 468㎞/h 67.6度 750m
800㎏爆弾 戦艦 70㎜ 450㎞/h 66.52度 700m

また、特攻が開始された後、日本海軍第五航空艦隊参謀野村中佐が、爆戦零式艦上戦闘機による、投下爆弾の終速(目標命中時の速度)と零戦本体の終速を推計している。[181]

爆戦による投下爆弾と爆戦本体の終速の推計(突撃角度を35度~55度、攻撃開始速度を360km/hと設定)

空母エンタープライズに急降下で突撃する富安俊助中尉の爆戦零戦六二型
投下高度 終速
2,000m 1,027㎞/h
1,000m 860㎞/h
500m 713㎞/h
零戦本体 720km/h

特攻に主に使われた零戦の降下制限速度

零戦型式 零戦52型 零戦52型甲乙丙型 零戦62型
降下制限速度 666.7㎞/h 740.8㎞/h 740.8㎞/h


日本海軍の急降下爆撃の理想的な攻撃法は、真珠湾攻撃以降は「緩降下しつつ接敵し、高度2000mから角度45°以上の急降下で突入、高度400mで投弾(真珠湾以前は700m)、ただちに引き起こし、海面より200m程を高速で退避する」というもので[182]、従って急降下爆撃は400m~700mで投弾される為、以上の日本海軍の実験・推計の通り、攻撃時の状況が爆撃と特攻が同じであれば、急降下爆擊により400m~700mの高度で投弾された爆弾単体より、特攻機の突入速度の方が遅いという事はない。

一方で、投弾高度が高くなればなるほど、爆弾単体は特攻機より空気抵抗が少なく加速がつく為、爆弾の速度が速くなるが、逆に爆撃の命中率は著しく下がっていった。
日本海軍において、航空隊要員の教育・練成や戦技研究を担当した横須賀海軍航空隊が、急降下爆撃の投弾高度に対し「しかるに800m以上にては命中率著しく低下するをもって」と所見を述べている。[183]
その為、1939年の横須賀航空隊並びに航空本部の所見では「基準投下高度を700mとし、本高度をもって訓練するを適当と認む。」とされた。 [184]

更に、高高度からの水平爆撃により、航行中の艦船に命中させるのは非常に困難であった。
日本軍は、艦船への水平爆撃を他国と比較しても熱心に取り組んでおり、停泊中の目標については、真珠湾攻撃で停泊中の戦艦アリゾナを轟沈するなどの戦果を挙げている。一方で航行中の艦船に対しては、マレー沖海戦では陸攻25機が、戦艦2隻合計で2発~3発の命中弾を得たが、[185]続く珊瑚海海戦では九六陸攻19機が米機動部隊に水平爆撃を行ったものの[186]1発の命中弾もなかった[187]など、大戦中目ぼしい成果を挙げる事ができず、航行中の目標への水平爆撃の兵術的価値を判定できる戦例は、少数ながらも命中弾があったマレー沖海戦のみとなってしまった。[188]

このような戦績も踏まえ、戦後に桑原虎雄元中将以下、多数の元海軍航空隊関係者で組織された日本海軍航空史編纂委員会が、その著書『日本海軍航空史』にて、日本軍の水平爆撃に対して「大東亜戦争開戦前に至ってようやく訓練方法も確立し、その精度も向上して用兵的に期待し得る練度に達したものの、なおその程度は艦船攻撃における急降下爆撃並びに雷撃に比すれば、その期待度ははるかに低いものであった。」と総括し、米軍が動的水平爆撃をする環境(優勢な航空戦力、優秀な照準器)は整っていたのに、動的水平爆撃を実施した戦例が無かった事も指摘し、航行中の艦船への水平爆撃の有効性に疑問を投げかけている。[189]

誘導爆弾であれば、投下高度と命中精度を両立でき、実際に運用されたドイツ軍の誘導爆弾フリッツXはイタリア軍の戦艦ローマを撃沈し、英軍戦艦ウォースパイトを大破する戦果を挙げている。
高度6000mから投下されたフリッツXは音速近い速度が出たと言われるが[190]、オペレーターが目視で手動で誘導しなくてはならなかった為、誘導兵器でありながら、命中率や命中誤差はオペレーターの技量に大きく依存していた。またオペレーターの誘導の為に、母機が命中まで目標上空まで飛行しなければならず[191]母機の損害が増大し、運用が中止されている。
日本軍も誘導爆弾であるイ号一型乙無線誘導弾を開発し[192]、実際にテストも行われた。[注 22]但しフリッツXと同様に、敵艦艇の防空砲火射程外から投下できても、母機は誘導爆弾を誘導する為に敵艦に接近せねばならず、防空砲火の絶好の目標となってしまうと、誘導爆弾の開発に携わった陸軍航空部坂本英夫部員は指摘している[193]。更に、ドイツ軍による戦艦ローマ撃沈時とは異なり [注 23] 、レーダー管制された多数の迎撃機が待ち構える米艦隊に、大重量の誘導爆弾を搭載して接近することが困難な事であった。それは桜花の戦績を見ても明らかであった。
その為に、母機からの誘導が必要ないパッシブホーミング方式(現代のサイドワインダー (ミサイル)と同様に目標の赤外線を探知し自律的に誘導する)を採用した、ケ号爆弾も開発[194]したが実用には程遠かった。
従って、爆弾の終速が特攻機より速くなる高高度からの爆撃は、誘導爆弾であっても命中率や実用性が特攻と比較できる水準になく、終速が速く威力があったとしても、艦船攻撃戦術としての有効性は特攻に大きく及ばなかったと言える。

しかし、特攻に主に使われた零戦は、もともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのは難しかった。[195]。 速度超過を防止するためのダイブブレーキを持たない零戦のような機体は、突入直前に機体が浮き上がってしまったり、操縦不能になったり、被弾でフラッター現象等を起こし空中分解してしまうため、操縦者にはこれを抑制する技量や自制心も必要になった。
それが原因で、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた軍令部次長大西瀧治郎中将が、第一航空技術廠長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。
その要請を受けて、第一航空技術廠と横須賀海軍航空隊は1945年5月に協同で、250㎏爆弾を搭載した無人の零戦をカタパルトで射出し、様々な角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30°以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30°未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまう事が判明した。
この実験結果を見て大西瀧治郎中将は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなるケースもあるので、今後はその点を注意する必要があると述べたという。[196]

しかし、護衛空母 セント・ロー に命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきて、そのまま時速480km/hで浅い角度で体当たりしたが[197]搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させそのまま爆沈したように、いずれにしても、実戦においては、爆撃も特攻もその状況に応じて、終速や命中角度や効果は大きく異なるため、一律に爆撃が速いとか、特攻の突入角度が浅いとか評価する事はできない。

1945年3月11日、特攻機陸上爆撃機「銀河」の突入で飛行甲板に大穴が開き、艦内が大破した空母ランドルフ

日本海軍軍令部が1945年3月2日に海軍省に対して説明した特攻の威力は下記の通りであった。[198]

特攻機の威力

桜花 (炸薬量1300kg) 800㎏爆弾を搭載した特攻機 500㎏爆弾を搭載した特攻機 250㎏爆弾を搭載した特攻機
威力点 5点 3点 2点 1点

撃沈に要する威力

正規空母 巡改(軽)空母   護衛空母     戦  艦     巡洋艦  
所要弾薬 桜花1機と800kg特攻機1機 桜花1機と800kg特攻機1機 800kg特攻機1機 桜花2機 桜花1機
所要威力点 8点 8点 3点 10点 5点

ただこれは目安であって、実戦でこの通りになると言うわけではない。
護衛空母セント・ローは1機の250㎏爆弾搭載零戦、ビスマーク・シー は同2機の特攻で撃沈されているし、それぞれ5機の特攻を受けて沈まなかった駆逐艦ニューコムやラフェイみたいな例もある。
逆に、ニューコムやラフェイの例を、特攻に威力がないとする例に出される事があるが、駆逐艦アブナー・リードキャラハンなどは1機の特攻で撃沈されているし、排水量であれば軽巡洋艦クラスの艦隊随伴給油艦ポーキュパイン(基準7,219トン 満載10,674トン)も1機の特攻機で撃沈されており、撃沈に至った特攻機の命中機数で一概に特攻攻撃の威力を測ることはできない。

日本陸軍の特攻の威力に対する評価は、戦後に米国戦略爆撃調査団の事情聴取に対し、第6航空軍の高級参謀が、「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる」と供述している。[199]

実際に、大戦中に数多く被弾しながら長期の戦線離脱をしなかった空母エンタープライズが、沖縄戦中に富安中尉の爆装零戦1機の突入を受け大破し、空母として復帰出来ないほどの甚大な損傷を受けたり、神風特攻金剛隊の零戦1機がニューメキシコの艦橋に突入し、装甲が厚い戦艦艦橋を破壊、艦長以下本艦幕僚の殆どが死傷したり、少数の特攻機の突入で、主力艦に深刻な損害を与えた事例は枚挙に暇がない。

一方で、米軍の分析は特攻という攻撃方法そのものではなく、「45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身騙され、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した」[200]と特攻機に搭載された爆弾の威力不足を指摘していた。

大本営も特攻機に搭載される爆弾の威力不足は認識しており、海軍省軍務局長・海軍航空本部・海軍艦政本部両総務部長に対して、現用特攻機の装備と攻撃法では大型艦に致命的打撃威力を発揮できないとして、画期的威力増大策の研究を指示している。

その概案としては

1、特攻攻撃により爆弾を敵艦船の水線下に確実に命中させる方法

2、特攻機突入時の擊速増大の方法、突撃時攻撃機の翼を切断し速力を急増し、敵の迎撃を局限すると共に擊速を増大させる( キ115の開発と増産 )

3、成形炸薬弾頭であるV爆弾の実戦配備。(成形炸薬弾頭とはモンロー/ノイマン効果を利用した弾頭)

4、液体酸素、過酸化水素、黄燐等の炸裂威力助成剤を搭載し爆発威力を増大させる

5、旧型魚雷に過酸化水素を充填し代用爆弾とする。

などが考えられた。 [201]

この内、 3の成形炸薬弾の開発の為に、未完成で建造中止された空母阿蘇で威力実験される事となった。[202]

1945年7月に、倉橋島大迫特殊潜航艇基地沖で実施された実験で、海軍はV弾頭の250㎏爆弾、V弾頭500㎏爆弾を空母阿蘇艦上に設置し爆発させている。250kg爆弾では飛行甲板が大きくめくれ上がり使用に耐えない損傷を負わせ、500㎏爆弾では防御甲板が破壊され、舷側より浸水が始まり、かなりの効果が認められたが、V弾頭の爆弾は更なる実験中に終戦を迎えた。[203] その後に陸軍の対艦大型成型炸薬爆弾桜弾を艦上で爆発させた。[204]桜弾の爆発は艦底まで達したが、爆発時点での浸水は限定的で5度傾いただけであった。しかし、その後次第に浸水し最終的に着底した。[注 24] 桜弾は単体で2.9トンもあり、当実験前より陸軍の四式重爆撃機飛龍に桜弾を搭載した特攻専用機、桜弾機 キ-167が運用されていたが、あまりの重量に離陸すらあやうく、福岡大刀洗基地より4機出撃し2機が未帰還であったが戦果は無かった。[205]
その以前にも、同じ四式重爆撃機飛龍に、海軍より支給された800㎏爆弾2発を搭載する代わりに、軽量化の為に無線・爆撃装備や副操縦席に至るまで全て撤去され、機種と尾部の風防ガラスをベニヤ板に変えられた特攻専用機「ト」号機も開発され、陸軍特攻「富嶽隊」として出撃が繰り返されたが、戦果は確認されていない。[206]

搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解し様々な対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下する為、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。 特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、米軍の特攻対策マニュアル「Anti-Suicide Action Summary」にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を再優先で攻撃すること。」と徹底されており、[207]米戦闘機の優先攻撃目標となっていた為に、敵艦への接近が非常に困難になっていた。

米軍は戦後に、「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し[208]、日本側も「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括している。[209]

1944年12月15日LST472号に特攻機が命中し火災が発生、積載されていた戦車や車両に次々と引火し沈没した。特攻機により発生する火災は米海軍の大きな脅威となった。

特攻機による損害艦は死傷者が多い事が特徴だったが、それは搭載している航空燃料による激しい火災が主な要因で、負傷者の大半が火傷によるものだった。後送される特攻による負傷者は、包帯を全身に巻かれミイラの様になっており、チューブで辛うじて呼吸し、静脈への点滴でどうにか生き延びているという惨状であった[210]、また、火傷が原因で後日死亡する負傷者も多かった。 [注 25]
その為米海軍は水兵に対して、「対空戦闘に必要最低限の人数以外は退避させる」「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた。[211]

沖縄戦での特攻[編集]

特攻作戦が最大規模で実施されたのは、沖縄戦中の1945年4月6日の菊水1号作戦発動時であり、翌7、8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入され多大な戦果を挙げている。[212]。駆逐艦「ブッシュ」、「コルホーン」、輸送駆逐艦「デッカーソン」、掃海駆逐艦「エモンズ」、輸送船「ローガンビクトリー」、「ホッブスビクトリー」、揚陸艇LST-447が沈没。軽空母「サン・ジャシント」、正規空母「ハンコック」、戦艦「メリーランド」、駆逐艦「モリス」、「ハッチングス」、「ベネット」、「ロイツェ」、「マラニー」、「ハリソン」、「ニューコム」、「ホーワース」、「ヘインズワース」、「ハイマン」、「タウジング」、「ロングショー」、「グレゴリー」、護衛駆逐艦「ウィッター」、「フィバーリング」、「ウェスン」、敷設駆逐艦「ハリー・F・バウワー」、掃海駆逐艦「ロッドマン」、「ハーディング」、掃海艇「ファシリティ」、「ディフェンス」、「ラムソン」、「デバステーター」、掃海特務艇311号、321号、81号が損傷を受けた。また陸上砲撃により戦艦「ネバダ」が損傷を受け、水上特攻艇により駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」、「ポーターフィールド」、資材輸送艦「スター」、「LSM-89」が損傷。他にも友軍艦からの誤射や衝突で数隻が損傷した。米戦艦を護衛中だった駆逐艦「ニューコム」では、特攻機が戦艦ではなく自分達に突入したことに対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという[213]。東京のラジオは、米戦艦2隻、巡洋艦3隻、小型艦船57隻撃沈、米空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた[214]

このように、駆逐艦に損害が集中したのが沖縄戦の特攻作戦の特徴と言える。米軍は、フィリピン戦での特攻による大損害を分析し、様々な特攻対策を講じたが、その中の一つが戦艦や空母といった主力艦隊の外周を、レーダー搭載の駆逐艦等のレーダーピケット艦で取り囲み早期警戒網を張り巡らし、特攻機が主力艦隊に到達する前に効果的な迎撃を行うというものであった。[215]

この対策により、空母等の主力艦への突入機数は減少したが、逆にレーダーピケット艦の損害は増大する事となり、さながら『弱いヤギ(ピケット艦)を犠牲に、狼(特攻機)から群れ(主力艦艇)を守る様なもの』とも揶揄されている[216]。米海軍水陸両用部隊司令リッチモンド・K・ターナー中将の幕僚は、「艦隊より優秀な艦を選んでレーダーピケット艦としたが、それはそのピケット艦と乗組員に対する死刑宣告も同然だった」と述懐し[217]、また特攻による駆逐艦の損害があまりに多く、第54任務部隊司令モートン・デヨ少将は指揮下の駆逐艦が、次々と撃沈されたり損傷して戦線離脱し、ついに12隻となった為「駆逐艦の消耗具合が容易ならざる水準に達している」[218]と危機感を募らせている。

レーダーピケット艦の消耗により、早期警戒網を突破して主力艦隊に突入する特攻機も増え、戦艦・空母といった主力艦の損害も次第に増加していくこととなった。モートン・デヨ少将が座乗していた旗艦戦艦テネシーにも2機の特攻機が命中し、死傷者199名の甚大な損傷を受けている。モートン・デヨ少将自身も、艦橋目がけて突入してきた特攻機が直前で撃墜されて、九死に一生を得ている。その際、集中射撃しても中々撃墜できなかった特攻機を見て「彼奴らの体は何でできているのだろうか。」と驚嘆している[219]

アメリカの著名な歴史家で、アメリカの海軍史研究の第一人者のサミュエル・モリソンは自分の著作で沖縄戦の特攻攻撃を「ゼウス神の電光の様に青空からうなり出てくる炎の恐怖」や「かつてこのような炎の恐怖、責め苦の火傷、焼けつくような死に用いられた兵器は無かった」と表現し、その特攻と戦った米軍の駆逐艦乗りに対して「沖縄の戦いの中で、来る日も来る日も、これらの艦船の乗組員が示した持続する勇気、臨機応変の才、敢闘精神は海軍の歴史にいくつもの類例を残している」と称賛している。[220]

特攻で損傷した艦艇は、8隻の工作艦が配置された慶良間諸島沖で応急修理がなされ、それでも修理できない甚大な損害を被った艦は米海軍の前線基地であったウルシー環礁やハワイ・米本土に送られた。多数の損傷艦が送られた慶良間諸島沖は、常に多数の損傷艦で溢れ、駆逐艦の墓場と呼ばれていた。特攻機はその“墓場”に配置された工作艦にも攻撃し損傷艦が出ている。

この後菊水作戦は第10号まで行われ、米海軍は沖縄戦において艦船36隻沈没、368隻損傷[221]、航空機768機、人的損害として1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名を失ったが、これは米海軍の第二次世界大戦上で最悪の損害であった。

しかし一方で、沖縄戦での特攻は米軍の特攻対策が強化された事により、有効率が下がり日本側の犠牲も多かった。その為、特攻の効果があったのは奇襲的効果のあったフィリピン戦のみで[222][223]、末期の沖縄戦の特攻は効果もないのに、軍の面子や惰性で続けられたとする表現も多く[224]、日本ではとかく過小評価されがちであるが、有効率がフィリピン戦26.8%から沖縄戦14.7%で12%減に対し、攻撃機数は約3倍(フィリピン戦650機、沖縄戦1,900機)であり、米海軍の損害は沖縄戦の方が遥かに大きかった。

特攻で海軍艦艇が大損害を被った沖縄戦は、米軍にとって大戦で最大級の衝撃であり、沖縄戦での特攻作戦を「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」と総括している。[225]また、米海軍は公式文書で特攻に対して「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」と率直に苦しみぬいた状況を吐露している。[226]更に、もし日本本土決戦になっていた場合の想定として「オリンピック作戦(九州上陸作戦)に対抗して、九州防衛の為の特攻機が準備され、これより規模の小さい準備がジッパー作戦に対抗してシンガポール防衛の為になされた。これらの特攻機の使用により、上陸作戦時の連合軍艦隊が、連合軍が計画した多様な効果的対策に関わらず大きな損害を受けたであろうことは疑問の余地はない。」と特攻により大損害を被るという予測もしていた。[227]

陸海で、米軍が第二次世界大戦最大級の損害を被った沖縄戦がようやく終わると、大英帝国首相ウィンストン・チャーチルハリー・S・トルーマン米大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている。[228]

特攻攻撃により損害を受けた連合軍の艦船[編集]

参考文献[229][230][231][232][233][234][235][236][237][238][239][240][241]

※米軍死傷者の数は参考文献、米軍公式資料、各被害艦のホームページ記載の中の最大値を記載。

特攻攻撃によって沈没した連合軍艦艇[編集]

1944年12月5日、特攻により沈んだ輸送駆逐艦ワード。本艦は真珠湾攻撃の際に日本軍の攻撃前に特殊潜航艇を撃沈し日米の戦端を開いた艦。
1945年6月10日、特攻機が至近弾となって大きく傾いた駆逐艦ウィリアム・D・ポーター、懸命の復旧作業も実らず、この後に横転し沈没した。
航空特攻
沈没日 艦名 艦種 場所 戦死者 負傷者
1944年10月24日 ソノマ 艦隊曳航船 フィリピン 7 36
1944年10月24日 LCI1065 歩兵揚陸艦 フィリピン 13 8
1944年10月25日 セント・ロー 護衛空母 フィリピン 143 370
1944年11月1日 アブナー・リード 駆逐艦 フィリピン 23 56
1944年11月27日 SC-744 駆潜艇 フィリピン 6 7
1944年12月5日 LSM-20 中型揚陸艦 フィリピン 8 9
1944年12月7日 マハン 駆逐艦 フィリピン 18 31
1944年12月7日 LSM-318 中型揚陸艦 フィリピン 3 3
1944年12月7日 ワード 輸送駆逐艦 フィリピン 0 5
1944年12月10日 PT-323 魚雷艇 フィリピン 0 10
1944年12月10日 レイド 駆逐艦 フィリピン 150 不明
1944年12月11日 ウィリアム S. ラッド リバティ型輸送艦 フィリピン 0 10
1944年12月15日 LST-472 戦車揚陸艦 フィリピン 6 5
1944年12月15日 LST-738 戦車揚陸艦 フィリピン 1 11
1944年12月18日 PT-300 魚雷艇 フィリピン 8 7
1944年12月21日 LST-460 戦車揚陸艦 フィリピン 約100 不明
1944年12月21日 LST-749 戦車揚陸艦 フィリピン 30 10
1944年12月28日 ジョン・バーク 弾薬輸送艦 フィリピン 69 0
1944年12月30日 ポーキュパイン 艦隊給油艦 フィリピン 7 8
1945年1月4日 オマニー・ベイ 護衛空母 フィリピン 98 65
1945年1月5日 リュース・L・ダイチ 弾薬輸送艦 フィリピン 71 0
1945年1月6日 ロング 駆逐艦 フィリピン 1 35
1945年2月21日 ビスマーク・シー 護衛空母 硫黄島 318 99
1945年4月2日 ディカーソン 輸送駆逐艦 沖縄 54 97
1945年4月6日 ブッシュ 駆逐艦 沖縄 94 32
1945年4月6日 コルホーン 駆逐艦 沖縄 35 21
1945年4月6日 エモンズ 掃海駆逐艦 沖縄 64 71
1945年4月6日 ホッブス・ビクトリー 弾薬輸送船 沖縄 13 2
1945年4月6日 ローガン・ビクトリー 弾薬輸送船 沖縄 15 9
1945年4月7日 LST-447 戦車揚陸艦 沖縄 5 17
1945年4月12日 マナート・L・エベール 駆逐艦 沖縄 82 32
1945年4月12日 LCS-36 上陸支援艇 沖縄 4 29
1945年4月16日 プリングル 駆逐艦 沖縄 65 100
1945年4月22日 スワロー 掃海艇 沖縄 2 9
1945年4月22日 LCS-15 上陸支援艇 沖縄 15 11
1945年4月27日 カナダ・ビクトリー ビクトリー型輸送艦 沖縄 3 5
1945年5月3日 リトル 駆逐艦 沖縄 30 79
1945年5月4日 LSM(R)-195 中型揚陸艦 沖縄 8 16
1945年5月4日 モリソン 駆逐艦 沖縄 152 102
1945年5月4日 ルース 駆逐艦 沖縄 150 94
1945年5月4日 LSM(R)-190 中型揚陸艦 沖縄 13 18
1945年5月4日 LSM(R)-194 中型揚陸艦 沖縄 13 23
1945年5月9日 オバーレンダー 護衛駆逐艦 沖縄 54 51
1945年5月25日 ベイツ 輸送駆逐艦 沖縄 21 35
1945年5月25日 LSM-135 中型揚陸艦 沖縄 11 10
1945年5月28日 ドレクスラー 駆逐艦 沖縄 158 51
1945年6月10日 ウィリアムD. ポーター 駆逐艦 沖縄 0 61
1945年6月16日 トゥィッグス 駆逐艦 沖縄 193 34
1945年6月21日 LSM-59 中型揚陸艦 沖縄 2 8
1945年6月21日 バリー 輸送駆逐艦 沖縄 0 30 [注 26]
1945年7月28日 キャラハン 駆逐艦 沖縄 47 73
合計 51隻 2,353名 1,905名

※ソノマとLCI1065は、日本で最初の特攻と言われる神風特攻隊敷島隊等より前の沈没艦であるが、米軍公式記録上は特攻機(suicide plane)によるものとなっている。[242]

水中特攻(回天)
1944年11月20日、仁科関夫中尉搭乗の回天が命中し沈没した武装タンカーミシシネワ
沈没日 艦名 艦種 場所 戦死者 負傷者
1944年11月20日 ミシシネワ 武装タンカー ウルシー 63 95
1945年1月12日 LCI-560 歩兵揚陸艇 ウルシー 3 0
1945年7月24日 アンダーヒル 護衛駆逐艦 フィリピン 112 約100
合計 3隻 178名 195名
水中特攻(特殊潜航艇)
沈没日 艦名 艦種 場所 戦死者 負傷者
1942年5月30日 ブリティッシュ・ロイヤリティ [注 27] タンカー ディエゴ・スアレス 不明 不明
1942年5月31日 クッタブル 宿泊艦 シドニー 19 0
1945年3月26日 ハリガン[注 28] 駆逐艦 沖縄 162 不明
合計 3隻 181名 不明

※セブ島に展開していた第33特別根拠地隊が、駆逐艦1隻を撃沈したという資料もあるが[243]米軍公式記録に該当する駆逐艦の沈没なし(第33特別根拠地隊が作戦活動した1944年11月~1945年3月頃迄に潜水艦に撃沈された駆逐艦は護衛駆逐艦エヴァソールのみ、但しこれは伊号第四十五潜水艦の戦果)

水上特攻(震天・マルレ)
艦種 隻数 戦死者 負傷者
上陸支援艇 3隻 27名 22名
歩兵揚陸艇 2隻 8名 11名
哨戒艇 2隻 5名 5名
合計 7隻 40名 38名

特攻攻撃の損傷で除籍となった連合軍艦艇[編集]

※米本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦[244]

1945年5月6日、5機の特攻機が命中した駆逐艦ニューコム。損傷が酷く本土に曳航後除籍。特攻では撃沈に至らなくても、本艦と同様に除籍された艦も多い。
航空特攻
損傷日 艦名 艦種 場所 戦死者 負傷者
1945年1月5日 ブルックス 輸送駆逐艦 フィリピン 3 11
1945年1月6日 ベルナップ 輸送駆逐艦 フィリピン 38 49
1945年4月6日 ロイツェ 駆逐艦 沖縄 8 33
1945年4月6日 ニューコム 駆逐艦 沖縄 43 64
1945年4月6日 ウィッター 掃海駆逐艦 沖縄 6 6
1945年4月6日 モリス 駆逐艦 沖縄 13 45
1945年4月16日 ハーディング 掃海駆逐艦 沖縄 22 10
1945年4月29日 ハガード 駆逐艦 沖縄 11 40
1945年5月3日 アーロン・ウォード 掃海駆逐艦 沖縄 45 49
1945年5月4日 シェイ 掃海艦 沖縄 27 97
1945年5月4日 サンガモン 護衛空母 沖縄 46 116
1945年5月9日 イングランド 護衛駆逐艦 沖縄 35 27
1945年5月11日 ヒュー・w・ハドレイ 駆逐艦 沖縄 28 67
1945年5月11日 エヴァンス 駆逐艦 沖縄 30 29
1945年5月20日 チェ―ス 掃海駆逐艦 沖縄 0 35
1945年5月20日 サッチャー 駆逐艦 沖縄 14 53
1945年5月25日 スペクタクル 掃海艦 沖縄 29 6
1945年5月25日 バトラー 掃海駆逐艦 沖縄 9 不明
1945年5月26日 PC1603 駆潜艇 沖縄 3 15
1945年5月29日 シュブリック 駆逐艦 沖縄 32 28
1945年6月6日 ウィリアム・ディッター 掃海駆逐艦 沖縄 10 27
合計 21隻 449名 794名
水上特攻(震洋・マルレ)
損傷日 艦名 艦種 場所 戦死者 負傷者
1945年1月10日 ウォー・ホーク 攻撃輸送艦 沖縄 61 32
1945年4月27日 ハッチンス 駆逐艦 沖縄 0 20
合計 2隻 61名 52名

特攻攻撃によって損傷した連合軍の主力艦(巡洋艦以上)[編集]

1944年11月25日、特攻攻撃で大破し175名の死傷者を出した空母イントレピッドでの戦死者の水葬。
1944年10月30日、特攻機により大破した空母フランクリンの被害報告書。
艦名 艦種 損傷場所 戦死者 負傷者 備考
コロラド 戦艦 フィリピン 19 72
メリーランド 戦艦 フィリピン.沖縄(合計2回) 62 68
ニューメキシコ 戦艦 フィリピン・沖縄(合計2回) 84 206 フィリピンでは艦橋に特攻機が命中、英陸軍ラムズデン中将と本艦艦長フレミング大佐戦死し、タイム誌の従軍記者も死亡した
カリフォルニア 戦艦 フィリピン 45 151
ミシシッピ 戦艦 フィリピン・沖縄(合計2回) 27 71
ネバダ 戦艦 沖縄 11 47
メリーランド 戦艦 沖縄 31 38
ウェストバージニア 戦艦 沖縄 4 23
ミズーリ 戦艦 沖縄(合計2回) 0 3
テネシー 戦艦 沖縄 23 176
アイダホ 戦艦 沖縄(合計2回) 0 13
ニューヨーク 戦艦 沖縄 0 2
オクラホマ 戦艦 真珠湾 429 32 1999年~2009年にかけ、軍事専門家のピーター・フス氏の研究グループや、米海軍史研究家のパークス・スティーブンソン氏らの研究グループなど複数のグループが、真珠湾攻撃で甲標的の発射した魚雷が命中し、転覆の原因となったと発表[245]、米海軍戦史研究所発行の月刊誌「Naval History」にも掲載され、TⅤでも報道された[246]
ラミリーズ 英軍戦艦 ディエゴ・スアレス 不明 不明 甲標的の雷撃で大破。修理と改装に1年を要した。
イントレピッド 正規空母 フィリピン.室戸沖・沖縄(合計4回) 97 236 米軍艦艇では最多の特攻被害艦
フランクリン 正規空母 フィリピン(合計2回) 57 24 修理から復帰後に九州沖航空戦で緩降下爆撃により甚大な損害を被った
レキシントン 正規空母 フィリピン 50 132
エセックス 正規空母 フィリピン 15 44
ハンコック 正規空母 フィリピン.沖縄(合計2回) 62 73
タイコンデロガ 正規空母 台湾沖 143 202 艦長のディクシー・キーファー大佐も65か所の傷を負い、腕を骨折する重傷を負った。終戦まで完治せず、1945年11月に軍用機墜落で事故死したが、その際も未だ腕を吊ったままだった。[247]
サラトガ 正規空母 硫黄島 123 192
ランドルフ 正規空母 ウルシー 25 106
ワスプ 正規空母 室戸沖 101 269 原因は急降下爆撃[248]もしくは特攻機[249][250][251]いずれか 
エンタープライズ 正規空母 沖縄(合計2回) 18 86
バンカーヒル 正規空母 沖縄 402 264 特攻攻撃単独では最大の人的被害
インディファティガブル 英軍正規空母 沖縄 27 21 本艦も含めた沖縄戦従軍の英軍正規空母は、全艦特攻攻撃で損傷している
イラストリアス 英軍正規空母 沖縄 0 0
フォーミダブル 英軍正規空母 沖縄 9 59
インドミタブル 英軍正規空母 沖縄 0 0
ヴィクトリアス 英軍正規空母 沖縄 4 24
ベローウッド 軽空母 フィリピン 92 54
カボット 軽空母 フィリピン 36 16
ラングレー 軽空母 台湾沖 0 0
サン・ジャシント 軽空母 沖縄 1 5
バターン 軽空母 沖縄 9 50
スワニー 護衛空母 フィリピン(合計2回) 107 160
サンティー 護衛空母 フィリピン 16 27
キトカン・ベイ 護衛空母 フィリピン(合計2回) 18 56 1回目は機体命中したが爆弾が海上に落下、2回目は爆弾が不発で致命的な損傷を逃れている
ホワイト・プレインズ 護衛空母 フィリピン 1 20
カリニン・ベイ 護衛空母 フィリピン 5 55
マーカス・アイランド 護衛空母 フィリピン 1 1
マニラ・ベイ 護衛空母 フィリピン 22 56 命中した1機は遺品により 半世紀ぶりに第十八金剛隊丸山隆中尉機と判明した[252]
サボ・アイランド 護衛空母 フィリピン 0 0
カダシャン・ベイ 護衛空母 フィリピン 29 22
サラマウア 護衛空母 フィリピン 15 88
ルンガ・ポイント 護衛空母 硫黄島 0 11
ウェーク・アイランド 護衛空母 沖縄 0 0
ナトマ・ベイ 護衛空母 沖縄 1 4
ルイビル 重巡洋艦 フィリピン・沖縄(合計3回) 45 152 フィリピン戦では米第七艦隊・第77.2任務部隊旗艦であったが、特攻攻撃により司令のセオドア・チャンドラー少将が戦死した。また命中したのは神風特攻旭日隊吹野匡中尉と三好精策少尉搭乗の彗星であったことが、元乗組員が持ち帰った破片から判明した。 [253]
ミネアポリス 重巡洋艦 フィリピン 0 2
インディアナポリス 重巡洋艦 沖縄 9 20 艦尾に特攻攻撃を受け航行不能、米本土での修理後に原爆輸送の特殊任務に従事、任務後に回天作戦中の伊58により撃沈(通常魚雷の雷撃による)
オーストラリア 豪軍重巡洋艦 フィリピン(合計5回) 87 120 軽微な損傷を含めると5回(6回という説もあり)の最多の特攻被害艦、一回目は神風特攻隊「ゼロ号」の男こと久納好孚中尉機とも言われている[254]
デンバー 軽巡洋艦 フィリピン 0 4
モントピリア 軽巡洋艦 フィリピン 0 11
ナッシュビル 軽巡洋艦 フィリピン 133 190 特攻攻撃された2か月前まではダグラス・マッカーサーが旗艦として座乗していた
セントルイス 軽巡洋艦 フィリピン 16 43
コロンビア 軽巡洋艦 フィリピン 37 113
ビロクシ 軽巡洋艦 沖縄 0 2 命中した特攻機の500㎏爆弾が不発で損傷は軽微だった
バーミンガム 軽巡洋艦 沖縄 51 81 レイテ沖海戦で軽空母プリンストンの爆発に巻き込まれ大破、その復帰後間もなく再度の戦線離脱に追い込まれた
合計 2,599名 3,997名

特攻攻撃によって甚大な損害を被った連合軍艦艇(駆逐艦以下)[編集]

1945年4月12日、特攻攻撃で艦首を失う甚大な損傷を被った掃海駆逐艦リンゼー。
艦名 艦種 損傷場所 戦死者 負傷者
リドル 輸送駆逐艦 フィリピン 36 22
コールドウェル 輸送駆逐艦 フィリピン 33 40
アウリック 駆逐艦 フィリピン 32 64
ドゥ・ページ 駆逐艦 フィリピン 32 157
オブライエン 駆逐艦 沖縄 50 76
マラニー 駆逐艦 沖縄 30 36
キッド 駆逐艦 沖縄 38 55
ホワイトハースト 輸送駆逐艦 沖縄 37 37
リンゼー 掃海駆逐艦 沖縄 52 60
シグピー 駆逐艦 沖縄 22 74
ラッフェイ 駆逐艦 沖縄 32 71
ブライアント 駆逐艦 沖縄 34 33
イシャーウッド 駆逐艦 沖縄 42 41
ヘーゼルウッド 駆逐艦 沖縄 46 36
バーチェ 駆逐艦 沖縄 57 32
ブレイン 駆逐艦 沖縄 66 78
カシンヤング 護衛駆逐艦 沖縄(合計2回) 23 104
ボリー 駆逐艦 沖縄 48 66
マシューPデェディ リバティ型輸送艦 フィリピン 61 104
ジェレミーMデイリー リバティ型輸送艦 フィリピン 106 43
トーマス・ネルソン リバティ型輸送艦 フィリピン 168 88
アキレス ドッグ艦 フィリピン 33 28
マーカス・デイリー リバティ型輸送艦 フィリピン 203 49
オレステス 魚雷艇補給艦 フィリピン 59 109
キールⅤジョンソン リバティ型輸送艦 フィリピン 130 9
ヘンライコ 攻撃輸送艦 沖縄 49 125
コンフォート 病院船 沖縄 30 48
ピンクニ― 傷病者輸送艦 沖縄 35 12
テラー 掃海艦 沖縄 48 123
ラグランジ 攻撃輸送艦 沖縄 21 89
合計 30隻 1,677名 2,025名

他、軽微な損傷の小艦艇及び補助艦艇は省略

特攻対策[編集]

フィリピン戦での特攻による損害を重く見た米海軍は、最初の特攻被害からわずか1ヶ月後の1944年11月24日から26日の3日間に渡り、サンフランシスコにて、ワシントンから米海軍省首脳と、真珠湾から太平洋艦隊司令部幕僚と、フィリピンの前線から第三艦隊司令ハルゼー中将と第38任務部隊司令ミッチャー少将の、海軍中央から実戦部隊までの幕僚らが一堂に会して、異例とも言える特攻対策の集中会議を行った。[255]

その後も対策会議は継続的に行われ、航空特攻に対して、回避運動、射撃指揮レーダー近接信管を駆使した対空砲火、、レーダーピケット艦戦闘機による迎撃、などの対策が次々と講じられ、特攻の有効性が減じられる事となった。 ニミッツはこれらの特攻対策が強化された事と、本土決戦準備の航空機温存策で日本軍の特攻攻撃が減衰した沖縄戦末期の6月上旬ごろには「神風特攻の脅威を自信をもってはね返すとこまで来ていた」と胸を張っている。[256]

回避運動[編集]

航空特攻による被害が問題になると、アメリカ海軍のオペレーションズ・リサーチ部門はただちに特攻機の攻撃を受けた艦のデータ収集に着手した。短期間のうちに477件が収集され、このうち有効なデータは365件であった。分析に当たっては、攻撃を受けた艦を大型艦(空母・戦艦・重巡洋艦)と小型艦軽巡洋艦・駆逐艦等に層別化して、まず艦の回避運動の有無に応じて、特攻機の突入成功率と、対空砲火による撃墜率を分析して、下表のような結果が得られた[257]

特攻機の突入成功率
回避運動 大型艦 小型艦
あり 22% 36%
なし 49% 26%
対空砲火による撃墜率
回避運動 大型艦 小型艦
あり 77% 59%
なし 74% 66%

要すれば、大型艦では回避運動をとった方が突入を受けにくいのに対して、小型艦ではむしろ回避運動をとった方が突入を許しやすく、かつ、これは対空砲火による撃墜率と相関しているとの結果であった。この結果は、下記のような理由に基づいていると考えられた[257]

  1. 特攻機の阻止には回避運動よりも対空砲火による効果のほうが大きい
  2. 大型艦では回避運動中でも艦が安定しているため、対空砲火に与える影響が小さいのに対して、小型艦では艦の動揺が激しく、対空砲火の射撃精度への悪影響が大きい

また特攻機の攻撃経路(急降下低空か、艦のどの方位から攻撃してきたか)に応じた突入成功率を分析した結果、艦首・艦尾方向から急降下突入を受けた場合には突入を許す危険性が増大すること、また艦の真横方向から低空突入を受けた場合にも同様の傾向が見られるとの結果が得られた[257]

これらの分析結果に基づき、下記のような勧告がなされたことにより、勧告に従った艦艇に対する突入成功率は29%に低下した。なお勧告に従わなかった艦艇に対する突入成功率は47%という高率を保っていた[257]

  • 大型艦には回避運動を推奨する一方、小型艦には対空砲火に悪影響を与える回避運動を避けさせる
  • 特攻機が高空から攻撃してきた場合には艦腹を、低空から攻撃した場合には艦首尾線を向けさせる

対空砲火[編集]

下表[258]はアメリカ軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ軍側からのみの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。

一般的に特攻を無効化したと評価されている[259][260]5インチVT信管が、実際には特攻に対して大きな効果を挙げておらず、対して40mmボフォースは通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォースのレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。 その為、特攻機に対し一番有効であった40mmボフォースが大幅に増設され、エセックス級空母では、当初は4連マウント×8基=32門だったのが、最多で18基=72門まで増設され、Mk.51 射撃指揮装置 により射撃管制されていた。[261]

この高角砲の威力不足は深刻な問題とされ、戦後ボフォース4連装がVT付き3インチ両用砲に換装される大きな動機となった。

特攻機の撃墜判定記録
火砲 44.10 44.11 44.12 45.01
5インチ通常 1,479発/機
(1.5機)
1,213発/機
(5機)
493発/機
(9機)
2,675発/機
(3.5機)
5インチVT 242発/機
(6.5機)
324発/機
(6機)
218発/機
(4機)
402発/機
(8機)
3インチ通常 59発/機
(1.5機)
392発/機
(1機)
戦果なし 986発/機
(4機)
40mmボフォース 2,201発/機
(23.5機)
2,408発/機
(27機)
1,003発/機
(33機)
3,576発/機
(30.5機)
28mm機銃 戦果なし 戦果なし 戦果なし 2,170発/機
(1機)
20mm機銃 9,983発/機
(11機)
8,755発/機
(13機)
3,933発/機
(23.5機)
16,313発/機
(15機)
12.7mm機銃 戦果なし 戦果なし 24,942発/機
(0.5機)
17,402発/機
(2機)
通常攻撃機の撃墜判定記録
火砲 44.10 44.11 44.12 45.01
5インチ通常 748発/機
(23機)
2,601発/機
(1.5機)
795発/機
(5機)
1,765発/機
(4機)
5インチVT 65発/機
(9.5機)
798発/機
(1機)
179発/機
(6.5機)
1,083発/機
(3機)
3インチ通常 294発/機
(4機)
戦果なし 戦果なし 戦果なし
40mmボフォース 3,672発/機
(23機)
1,249発/機
(6.5機)
2,151発/機
(9.5機)
5,633発/機
(7.5機)
28mm機銃 戦果なし 戦果なし 戦果なし 戦果なし
20mm機銃 7,802発/機
(27機)
3,156発/機
(5.5機)
6,729発/機
(8機)
7,935発/機
(10機)
12.7mm機銃 39,986発/機
(0.5機)
875発/機
(1機)
戦果なし 9,929発/機
(1.5機)

レーダーピケットライン[編集]

沖縄本島残波岬(米軍呼称BOLO)を起点としたレーダーピケットライン

沖縄本島の残波岬を中心点とし、沖縄本島を取り囲む様に16ブロックの海域に分け、各ブロックに複数の対空レーダーを装備した駆逐艦等のピケット艦を配置した。
さらに各ブロックは、中心点より70~100km離れた遠距離ブロックと、15~50㎞の近距離ブロックに分けられた。そのブロックに、駆逐艦数隻と駆逐艦より多数の補助艦艇で編成されたピケットチームが配置されたが、各艦は警戒網に穴が出来ないように、ブロック海域内に円状に展開していた。
また沖縄本島から離れた海域に展開していた第58任務部隊周囲にも、多数のピケット艦を配置した。
それで特攻機の接近を探知すると、各艦に設置された戦闘指揮所(CIC)からの通知で、上空待機している戦闘機を最適位置に迎撃に向かわせると共に、ピケット艦と戦艦・巡洋艦を特攻機進入海域に集中させ、対空砲火を濃密にした。[262]
その為に沖縄戦では、常に多数の敵戦闘機が待ち受け、その追撃は執拗であったと海軍航空隊参謀安延大佐が回想している。[263]
また早期警戒能力強化の為、沖縄本島の北部と沖縄周辺の小島に、レーダーサイトを多数設置した。[264]
しかし、日本軍は電探紙(今で言うチャフ)を投下し、レーダー妨害策を取った。また、特攻機がピケットライン分断の為にレーダーピケット艦を攻撃目標とした事により、ピケット艦の損害が増大した為、米軍はピケット艦自身に護衛機を付けるという対策で対抗している。[265]

戦闘機による迎撃[編集]

正規空母の標準搭載機の艦上爆撃機艦上攻撃機を減らし、艦上戦闘機を倍増した。

空母エセックスの標準搭載機数の変遷[266]

F6F(艦上戦闘機)[注 29] SB2C(艦上爆撃機) TBF(艦上攻撃機) F4U(艦上戦闘機)
1944年7月(特攻開始前) 39機 36機 20機
1945年4月(沖縄戦開始時) 38機 15機 15機 36機

艦爆・艦攻減による攻撃力低下は、艦戦(ⅤF)の一部を戦闘爆撃機(ⅤBF)として運用することによって対応し、増加搭載する戦闘機は海兵隊戦闘機(ⅤMF)より補充した。
しかし、海兵隊のパイロットは空母の発着艦ができない為、急遽集中訓練が行われたが、事故が多発し、空母エセックスだけでも、最初の9日間で13機の戦闘機が訓練中の事故で失われ、7名の海兵隊パイロットが事故死している。[267]

特攻隊員[編集]

待遇[編集]

特攻隊は、各部隊から選出された特攻要員が予定戦力となり、特攻配置の部隊、あるいはそれに準じる部隊に移動して、出撃が決まると隊名が付されて特攻隊員となり、特攻隊が編成される。特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)[注 30]の栄誉を受けることが原則であった[268]

特攻隊員の間では特攻花と称し、機内にテンニンギクほか日本の花(テンニンギクは外来種)を持ち込み、その花を本土(大隅薩摩半島の岬)から離れる瞬間に投げたり、そのまま胸に抱いて戦場へということがあった[269]

特攻隊員には自決するための特攻隊用短刀が下賜された。東京・秋葉原にあった陸海軍御用鞘師(佐官待遇)の処にて刀身が製作された。鞘に物心一如真言宗空海の言葉が鞘書きされている。ハバキは木製。刀袋に入れて特攻隊員に授与された。

特攻隊の自決用に製作された短刀。神風特攻隊、人間魚雷回天、陸軍の特攻隊員に下賜された。刀身は不錆刀。

陸軍特攻振武隊員1,276名のうち、機体故障などの理由によって帰投した605名の内の一部が福岡県振武寮(福岡女学院女子寮)に隔離された。中では担当者だった倉澤清忠らによって再教育と称し、反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経などをさせられ「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた[270]。その存在は秘匿されていたとの事で、軍の公式資料では詳細を確認できない。再教育の後、特攻隊員の生き残りは、本土決戦のための特攻要員として全国に再配置された。

振武寮は、小説月光の夏でその存在が広まったが、存在した期間は1か月余、隔離された人数も最大で80名[271]とされている。 その為、陸軍振武隊の生還者でも全員が振武寮に隔離されたとする証言をしているという事でもない。[272]

日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称した。名称は猪口力平中佐の発案によるもので、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から名付けたものである[273]。一方で第201航空隊飛行長中島正少佐の証言では「かみかぜ」と読む[274]。神風特攻隊は、心構えを厳粛にするため特別扱いはしない、勝手な体当たりの禁止と大西瀧治郎によって決められた[275]。初期には特攻隊員は出撃前にぼた餅やいなり寿司をもらう儀式があったが、後に省略されていった。 但し特攻の前日の食事は豪勢であり、ビールなどの酒類も振る舞われたが、手を付けない隊員も多かったと言う。 戦艦の突入による玉砕攻撃は、豊田副武によって「海上特攻隊」と命名された[276]

志願[編集]

最初の特別攻撃隊となる第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として戦死し軍神と畏敬された関行男大尉
日本陸軍

陸軍初の特攻部隊の1つ富嶽隊の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。もう1つの万朶隊は飛行隊長が面接を行い志願を募った[277]。終戦後、アメリカ戦略爆撃調査団からの質問に対して、陸軍航空本部次長の河辺虎四郎中将は「志願者に不足することはなかった」と証言している[278]

藤井一中尉は、熊谷陸軍飛行学校の少年飛行兵の教官であったが、教え子が次々と特攻出撃し戦死する中で、自らも教え子と共に特攻出撃をする事を願い陸軍に二度に渡り特攻を志願するが、妻子があることや専門の搭乗員ではなかった為いずれも却下された。夫の固い決意を知った妻女は「私たちがいたのでは後顧の憂いとなり、十分な活躍ができないと思いますので、一足先に逝って待ってます。」との遺書を遺し、子供2人と入水自殺を遂げた。その後3回目の志願を血書で陸軍に提出、陸軍もようやく藤井中尉の志願を受理し、昭和20年5月28日四十五振武隊快心隊の隊長として出撃し戦死している。[279]

陸士57期堀山久生中尉は、躊躇なく特攻志願しているが、その理由を「陸軍士官学校では、戦争が危急の際は率先して陸軍士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」と述べている。[280]

大倉巌陸軍少尉機は親戚の女性(許嫁)を同乗させ、谷藤徹夫陸軍少尉は自機に新妻を乗せて特攻した[281]

大刀洗陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している[282]二等兵だった記者の渡邉恒雄は太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がることが出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている[283]

日本海軍

海軍では、特攻は志願を建前に編成していたが、募集方法や現場、時期、受け取り方により実態は異なっていた。特攻兵器の部隊は比較的早い段階から特攻要員が集められた。中島正飛行長によれば、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという[284]。「たとえ志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされた[285]。終戦後のアメリカ戦略爆撃調査団の質問に対して、下級現場指揮官5名(中佐1、大尉4)は全て志願者だったと証言している[286]。。

坂本雅俊(回天要員)は戦局を挽回する兵器とだけ知らされ志願したという[287]。竹森博(回天要員)によれば、志願は希望する者は○を、しないものは白紙を出し、志願したのに選出されなかったものは教官に詰め寄ったという。決まった後も回天を見せられ、特攻の説明があり、もし嫌なら原隊へ返すと説明されたという[288]。鈴木英男(桜花要員)によれば必ず死ぬ任務のため強制はしないが志願者がいれば答えてほしいと募集があり、志願したという。佐伯正明(桜花要員)によれば一人づつ呼ばれ説明を受け行くか聞かれて志願したという[289]。湯野川守正(桜花要員)によれば、詳細は伏せられて、必死必中兵器として募集があり、志願したという[290]

最初の神風特攻隊編成では、編成を一任された玉井浅一によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明して志願を募ると、皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという[291]。しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫び、さっと一同の手が上がったと証言するものもいる[292]。志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」という[293]。志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という[294]。志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明されたという[295]。志願者井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は親しんだ上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという[296]

特攻第一号の隊長関行男大尉は海軍兵学校出身者という条件で上官が指名したものであった。人選に関わった猪口力平によれば指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせてください」と即答したという[297]が、人選した玉井浅一によれば関は「一晩考えさせてください」と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った[298]

フィリピンの201空の奥井三郎は志願は氏名を書き封筒に入れ提出する方法で募集されたという[299]。クラーク基地で神風特攻隊の志願者は前へと募集がかかると全員志願したため、多いので選考し連絡するということになった。志願者杉田貞雄によれば葛藤もあったが早いか遅いかの違いで行くものは誇るように残るものは取り残された気分になったという[300]

菅野直大尉は特攻に再三志願したものの技量が高く直掩、制空に必要なため受理されなかった[301]杉田庄一上飛曹も特攻に志願したが菅野と同様の理由から許可されなかった[302]

角田和男少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという[303]。搭乗前に失禁、失神する隊員もおり、怖じ気づいて整備兵に抱えられて搭乗するものもいた[304]

清水芳人によれば、海上特攻は否応なしの至上命令であったという[305]。末期にはパイロットはすべて特攻要員に下命されたが、田中国義は何度でも行くからせめて爆撃をやらせてほしかったが誰にも言えることではなかったという[306]

反対・拒否[編集]

陸軍飛行第62戦隊隊長石橋輝志少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した。石橋はその日のうちに罷免された[307]。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。

海軍では、特攻に関する指揮官先頭を守って、部下から特攻を出さなかった指揮官に、343空司令源田実大佐[308]芙蓉部隊指揮官美濃部正少佐[309]の例がある。343空飛行長志賀淑雄少佐は上級司令部から343空に特攻の打診があった際に、行けと言う軍令部参謀が最初に行くべきだと意見具申して、源田司令から賛意を得ている[310]。特攻に反対したが、認められずに特攻を出している例には、203空飛行隊長岡嶋清熊少佐[311]、203空飛行長進藤三郎少佐[312]、341空飛行隊長藤田怡与蔵少佐[313]がある。特攻の志願が募られた際、岩本徹三海軍少尉は「死んでは戦争は負けだ。戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落すのが仕事だ。一回の体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と志願しなかった。

構成人数・比率と戦死者数[編集]

1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻は、特攻機数は陸軍202機、海軍333機。戦死者は陸軍252名、海軍420名であった。沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える。

殆どの特攻隊員は下士官学徒出陣士官将校)である。海軍では下士官・兵は予科練、陸軍では少年飛行兵出身であり、部隊編成上特攻の主軸となった。そして学徒出陣の士官は海軍は主に飛行予備学生、陸軍は主に甲種幹部候補生特別操縦見習士官出身者からなる。特攻指導者冨永恭次陸軍中将の長男である冨永靖を始め、阿部信行朝鮮総督(陸軍大将、第36代総理大臣)、松阪広政司法大臣といった陸軍および政府高官の子息の一部も特攻隊員ないし特攻で戦死している。

海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた[314]。これは当時の搭乗員における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。

あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表[315]に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。

階級 あ号作戦期間中の戦死者数 構成比率 捷号作戦期間中の戦死者数(内特攻) 構成比率 天号作戦期間中の戦死者数(内特攻) 構成比率
士官 99名 6.5% 185名(内33名) 9.9% 190名(内52名) 6.6%
予備士官 23名 1.5% 163名(内75名) 8.7% 963名(内507名) 33.6%
特務士官 38名 2.5% 30名 1.6% 55名 1.9%
准士官 115名 7.5% 124名(内10名) 6.6% 67名(内17名) 2.3%
下士官兵 1,257名 82.0% 1,371名(内299名) 73.2% 1,591名(内1,014名) 55.5%
合計 1,532名 100.0% 1,873名 100.0% 2,866名 100.0%

顕著に増加したのは天号作戦期間中の予備士官の戦死である。これはこの頃から予備士官の実戦配備が軌道にのり、以後急速に士官の数的主力を占めていく過程と連動している。

下表[315]は昭和20年4月1日現在の海軍航空隊の搭乗員構成比率である。すでに予備士官は士官の5倍近い数に達しており、この後さらに終戦までに海兵出身士官の補充0名に対して予備士官は実に6279名が新たに戦列に加わった。終戦時点で海兵出身士官1034名に対して予備士官は8695名にも及んでおり、全体の9割を占めるに至っていた[314]

階級 S20.4.1現在数 構成比率
士官 1,269名 5.3%
予備士官 5,944名 25.0%
特務士官 675名 2.8%
准士官 827名 3.5%
下士官兵 15,114名 63.0%
合計 23,829名 100.0%

海軍の特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)であった。
特攻戦死者数の合計が一致しないのは、資料の差異や後日調査結果の補完などに起因するものと推測される。

2010年8月現在確認されている特攻隊員戦死者数は

海軍
  • 海軍航空特攻隊員:2,531名
  • 特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
  • 回天特攻隊員:104名
  • 震洋特攻隊員:1,081名
  • 合計:4,156名
陸軍
  • 陸軍航空特攻隊員:1,417名
  • 丹羽戦車特攻隊員:9名
  • 海上挺進戦隊員(マルレ):263名
  • 合計:1,689名

この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者、義烈空挺隊等の特攻作戦関連戦没者などが以下となる。

  • 第二艦隊戦没者:3,751名
  • 回天部隊関連戦没者:1,083名
  • 震洋部隊関連戦没者:1,446名
  • 陸軍航空関連戦没者:177名
  • 海上挺進戦隊関連戦没者:1,573名
  • 空挺部隊関連戦没者:100名
  • その他(終戦時自決、神州不滅特別攻撃隊、大分701空による「宇垣軍団私兵特攻」など)戦没者:34名
  • 合計:8,164名

以上合計14,009名を数える[316]

元特攻隊員の著名人[編集]

年表[編集]

  • 1941年11月11日、真珠湾攻撃に参加する甲標的の部隊が特別攻撃隊と命名される[317]
  • 1944年2月26日、海軍は脱出装置を条件に人間魚雷の試作を命じた[318]
  • 1944年春、陸軍航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致し研究が開始した[319]
  • 1944年4月、海軍艦政本部で各種水中・水上特攻兵器の特殊緊急実験が開始した[320]
  • 1944年5月、陸軍で体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される[321]
  • 1944年6月25日、元帥会議が行われ特攻が示唆された[322]
  • 1944年7月1日、大森仙太郎少将が海軍特攻部長に発令された(正式就任は9月13日)[323]
  • 1944年8月、海軍は航空特攻に動き出し特攻兵器桜花の開発を始める[324]
  • 1944年9月28日、大本営陸軍部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる[325]
  • 1944年10月17日、日本軍は捷一号作戦を発動。
  • 1944年10月20日
    • 大西瀧治郎海軍中将、第一航空艦隊司令長官に着任(発令は10月5日)。神風特別攻撃隊編成命令を行う。
    • 大本営陸軍部から鉾田教導飛行師団に編成命令が下される[326]
  • 1944年10月21日、海軍、第一次神風特別攻撃隊初出撃。(空振りに終わるも大和隊隊長、久納好孚中尉未帰還。)
  • 1944年10月25日、神風特攻隊敷島隊(零戦6 隊長:関行男大尉)、突入に成功、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈。他に零戦10、彗星1が突入。米艦船5隻を撃破。特攻における初戦果となる。
  • 1944年11月7日、陸軍、特別攻撃隊“富嶽隊”初出撃。(山本中尉機未帰還。)
  • 1944年11月20日、海軍、回天特攻隊“菊水隊”4基、ウルシー環礁で初出撃。戦果未確認。初の水中特攻
  • 1944年11月24日、B-29による東京初空襲。陸軍、震天制空隊第10飛行師団第47戦隊見田義雄伍長、B-29ラッキー・アイリッシュ号に体当たりによる空中特攻。ラッキー・アイリッシュ号撃墜。初の組織的空中特攻。
  • 1944年11月26日、義号作戦。ブラウエン飛行場に“薫空挺隊”降下。戦果未確認。初の空挺特攻。
  • 1945年1月9日、リンガエン湾にて陸軍海上挺身隊第12戦隊(戦隊長:高橋攻大尉)40隻(一説には70隻)が米上陸部隊に対してマルレ、震洋による挺身攻撃。戦車揚陸艇など撃沈6隻、撃破10隻の戦果を挙げる。
  • 1945年1月12日、在フィリピン陸軍航空部隊、最後の特攻出撃。
  • 1945年1月25日、在フィリピン海軍航空部隊、最後の特攻出撃。
  • 1945年2月19日、連合軍、硫黄島に上陸作戦開始。硫黄島戦始まる。海軍、硫黄島周辺の艦船に向け特攻作戦開始。
  • 1945年3月18日、九州沖航空戦始まる(- 21日)。
  • 1945年3月21日、第一神雷桜花隊(桜花15機)出撃。特攻兵器桜花初出撃。進撃中、米戦闘機に迎撃され戦果無し。
  • 1945年3月26日、天号作戦発動。
  • 1945年4月1日、連合軍、沖縄に上陸作戦開始。
  • 1945年4月6日 - 7日、菊水一号作戦開始。菊水作戦(沖縄への大規模航空特攻作戦)、坊ノ岬沖海戦において海上特攻が行われた。
  • 1945年4月10日、菊水二号作戦開始。
  • 1945年4月16日、菊水三号作戦開始。
  • 1945年4月17日、|バギオ近郊イリサンにて、丹羽治一准尉以下11名が九五式軽戦車九七式中戦車各一両で米M4中戦車に体当り陸上特攻。三両撃破(戦車の頭突き)。
  • 1945年4月22日、菊水四号作戦開始。
  • 1945年5月3日、菊水五号作戦開始。
  • 1945年5月11日、菊水六号作戦開始。
  • 1945年5月24日、菊水七号作戦開始。義烈空挺隊、沖縄の米飛行場に強行着陸(空挺特攻)。
  • 1945年5月28日、菊水八号作戦開始。
  • 1945年6月1日、菊水九号作戦開始。
  • 1945年6月21日、菊水十号作戦開始(最後の菊水作戦)。
  • 1945年6月23日、沖縄での組織的戦闘が終結。以後、兵力、機材、燃料の枯渇及び本土決戦のための兵力温存のため散発的な特攻攻撃となる。
  • 1945年7月1日、第180振武隊が都城より出撃し、陸軍の沖縄航空特攻終わる。
  • 1945年7月28日、宮古島より出撃した神風特攻第三龍虎隊が駆逐艦キャラハン撃沈(他にも駆逐艦プリチェット、カシンヤング損傷)特攻による最後の撃沈艦。
  • 1945年8月13日、喜界島から海軍第2神雷爆戦隊2機が沖縄の連合軍艦船群に突入。攻撃輸送艦ラグランジ大破、戦死21名負傷89名、特攻による最後の損傷艦、沖縄への航空特攻終結。
  • 1945年8月15日、
    • 木更津から流星1、百里原から彗星8が特攻出撃。最後の組織的特攻となった。
    • 正午に玉音放送があり終戦する。
    • 午後(夕刻)、宇垣纒海軍中将、計11機を指揮して大分基地から沖縄に特攻出撃。8機突入、戦果無し[注 31][327]
  • {{要出典範囲|date=2015-06-29|1945年8月19日、神州不滅特別攻撃隊、大虎山飛行場から今田均少尉以下十名が赤峰付近に進駐し来るソ連戦車群に体当り全員自爆を遂げた[注 32][注 33][328]

特別攻撃隊を描いた作品[編集]

映画[編集]

音楽[編集]

テレビ[編集]

DVD[編集]

  • ドキュメンタリー『ドキュメント 特攻〜日本海軍による対艦体当たり攻撃機の記録〜前篇・後篇(全2巻)』DVDアートデイズ 2007年
  • ドキュメンタリー『Kamikaze in Color』DVD、Goldhill Home Media 2006年

舞台[編集]

[編集]

他多数

注釈[編集]

  1. ^ 大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中沢佑、起案源田実。「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見[52]。「神風」の名前が既にあるため大西は出発前にすでに名前も打ち合せていたとも言われる。しかし、命名者の猪口力平は19日に提案したと証言している。最初の編成命令を起案した門司親徳によれば起案日は誤記で23日ではないかと話している[53]。電文の起案を担当した源田実も名前はフィリピンに出張した際に大西から直接聞いたと証言している[54]
  2. ^ 船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約1/3にあたる
  3. ^ 「艦艇で追跡出来てしまう程に遅い」という皮肉。実際は九三式中間練習機が爆装しても140㎞/hは出る為不可能。
  4. ^ 工場生産における品質管理の思想が日本に入るのは戦後の朝鮮特需の時であり、この当時は量産品に関しては生産量優先で品質は全く考慮されていない。例としては層流翼を採用した紫電の完成機は、工作不良による左右の主翼揚力や主翼取付け角の不均衡により真っ直ぐ飛ばない機体の方が多かったと言われる
  5. ^ うち1回は、1機のB-29の水平尾翼を自機のプロペラでかじり取った後、そのまま、そのB-29の背面に馬乗りになった状態で飛行し、そのB-29が失速して高度を下げ始めた直後に、体当たり時に損傷を受けた機体を巧みに操縦して東京郊外の農地に不時着した。終戦時は軍曹。現在も健在
  6. ^ 単純に全てをTNT火薬だとすると広島型原爆約10発分の威力
  7. ^ 有効至近命中は米軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上
  8. ^ 合計が合わないが原資料のまま
  9. ^ インド洋作戦での急降下爆撃では、2隻の重巡に合計45発、ハーミーズ37発で合計82発の命中に対し、九九式艦上爆撃機の損失10機であり、特攻と同じ算式で有効率を計算すると、82発/10機=820%という比較不可能な有効率になる
  10. ^ 珊瑚海海戦で日本側の戦闘詳報では2空母に急降下爆撃18発、魚雷12発命中としているが、実際の命中はレキシントンに爆弾2発魚雷2発、ヨークタウンに爆弾1発と乖離があった。
  11. ^ 命中は米軍側の記録に基づく、命中率は艦爆の総出撃数と命中の比率、有効率は特攻の有効率の算式と同じ、総損失数と命中の比率
  12. ^ 機動部隊主力攻撃時のみを表示(珊瑚海海戦でのタンカーネオショー撃沈時などの補助艦攻撃時は除外)
  13. ^ 特攻機は全て艦爆に計上
  14. ^ この内第二次攻撃隊27機は接敵できず(5機不時着水)
  15. ^ 内1発は艦攻の水平爆撃
  16. ^ 戦闘爆撃機の零戦を含む
  17. ^ 他3発の至近弾と1機の体当りあり
  18. ^ この内若桜隊4機は接敵できず帰投(1機未帰還)
  19. ^ 特攻機のみ
  20. ^ 破損したスクリューを修理中に誤って水没させている。
  21. ^ 伊58潜は回天作戦中であったが、橋本艦長の判断により、通常魚雷で攻撃し撃沈している。
  22. ^ 熱海湾外で行われた初回のテストの際に、誤って旅館に命中し、4名の死傷者が出ている
  23. ^ イタリア艦隊を護衛してた戦闘機はなく、ドイツ軍を刺激しないように積極的な対空射撃も禁じられていた。
  24. ^ 米軍機の攻撃により着底したという説もあり
  25. ^ 護衛空母セント・ローは沈没時に113名戦死したが、その後に負傷が原因で30名が死亡
  26. ^ 5月25日の大破時の負傷者、沈没時には死傷者なし
  27. ^ 引き上げられて再利用されたが、その後にドイツ軍のUボートの雷撃で大破、沈まなかったが放棄された。
  28. ^ 米軍公式記録では機雷により沈没となっているが、戦後暫く経ってからの調査で甲標的丙型の雷撃による撃沈の可能性も高い事が判明した(木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」図書出版社,1993/8/15 http://www.combinedfleet.com/Okinawa.htm )
  29. ^ 夜間戦闘機型も含む
  30. ^ 兵→飛行兵曹長・下士官→少尉、士官→二階級
  31. ^ この攻撃は玉音放送後の戦闘行動として、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない。
  32. ^ この攻撃は玉音放送後の戦闘行動、さらに2名女性を同乗させた軍紀違反の理由により、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない[要出典]
  33. ^ 記録には存在しないTemplate:要出典番号[誰によって?]。公式記録では8月15日が最後の特攻とされているがTemplate:要出典番号[誰によって?]

脚注[編集]

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  1. ^ 寺田近雄『完本 日本軍隊用語集』学習研究社117頁
  2. ^ 土井全二郎『失われた戦場の記憶』80-86頁(光人社 2000年)
  3. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫505頁
  4. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁
  5. ^ 戦史叢書」48 比島捷号陸軍航空作戦343頁
  6. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁
  7. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫507頁
  8. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁
  9. ^ 戦史叢書87陸軍航空兵器の開発・生産・補給459-460頁
  10. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.34-37
  11. ^ 丸『特攻の記録』光人社NF文庫140-143頁
  12. ^ 戦史叢書87陸軍航空兵器の開発・生産・補給455-456頁
  13. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦345頁、『特攻隊振武寮』p.55
  14. ^ 『特攻隊振武寮』p.57
  15. ^ 柳田邦男『同時代ノンフィクション選集7巻戦死と自死と』文芸春秋330頁
  16. ^ 戦史叢書48比島捷号陸軍航空作戦347頁
  17. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦345頁
  18. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁
  19. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁、『特攻隊振武寮』p.69
  20. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁
  21. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦347-348頁
  22. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦347頁
  23. ^ 御田重宝『特攻』講談社242-243頁、戦史叢書48比島捷号陸軍航空作戦347頁
  24. ^ 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 307頁
  25. ^ 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 311頁
  26. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 708-709頁
  27. ^ 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 307頁
  28. ^ 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 311頁
  29. ^ NHK「ETV特集」『許されなかった帰還 〜福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争〜』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育)
  30. ^ 戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後124頁
  31. ^ 寺田近雄『完本 日本軍隊用語集』学習研究社117頁
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  33. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.322-324
  34. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.325-327
  35. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.326-327
  36. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.34-39
  37. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.327
  38. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 327-328頁
  39. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.328
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  55. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-504頁
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]