歩兵第22連隊

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歩兵第22連隊
創設 1884年明治17年)
廃止 1945年(昭和20年)
所属政体 日本の旗 日本
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 連隊
兵科 歩兵
所在地 松山
編成地 愛媛県 松山市
通称号/略称 山3474
上級単位 広島鎮台 - 第5師団 - 第11師団 - 第5師団 - 第11師団 - 第24師団
最終位置 沖縄県 糸満
主な戦歴 日清 - 日露 - シベリア出兵 - 第一次上海事変 - 日中 - 第二次世界大戦
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歩兵第22連隊は、愛媛県松山市で建軍された日本陸軍歩兵連隊である。日露戦争以降、『伊予の肉弾連隊』と畏怖された精鋭部隊であった。数々の戦役に出征して武勲を重ね、予州健児の名声を高めた。愛媛県人が主力をなし、全兵力は最盛期で約3000名。

年表[編集]

現在、松山市堀之内の歩兵第22連隊跡には、歩兵第22連隊旗手桜井忠温中尉の『最も愛情あるものは、最も勇敢なり』の言葉が刻まれている。

略歴[編集]

日清戦争日露戦争に参戦し、特に日露戦争では第3軍(司令官:乃木希典大将)第11師団(師団長:土屋光春中将)に属し、1904年旅順要塞攻略に参加して旅順要塞最強の堡塁と謳われた東鶏冠山の攻略で活躍した。当時の戦いぶりは、22連隊旗手を務めていた桜井忠温の「肉弾」に余すところなく描かれている。このとき以来、22連隊は「伊予の肉弾連隊」と称され、精強ぶりを畏怖されるようになった。肉弾とは、「肉体をもって弾の如く斬り込む」という意味で、肉弾戦とは白兵戦の同義語である。

太平洋戦争末期、22連隊第1大隊(大隊長 中島平吾大尉 少候15期 長野県出身)は独立混成第50旅団に編入され、約500名が歩兵第333大隊として陸軍での呼称ではメレヨン島、現在の呼称は、ウォレアイ環礁のウォッタガイ島の守備に派遣された。メレヨンでは、敵軍との地上戦こそなかったが、武器弾薬輸送船と食料輸送船が相次いで敵潜水艦に撃沈され、基地機能は敵機動部隊の空襲で破壊され、補給の途絶した絶海の孤島であったため、将兵の約9割が餓死、病死する惨状であった。ただしこのような危機的状況においてもメレヨン島の住民からの略奪は一切行われなかった。メレヨン島民は事前に隣の島に疎開させており、戦後も慰問に訪れた日本人を温かく迎えている。

沖縄戦では、首里城北方の守備を担当し、沖縄戦の大激戦となった嘉数の戦いシュガーローフの戦いに増援部隊として参加した。装備については、三八式歩兵銃が主力小銃であったが、命中率の高さには評価が高く、敵戦車の車外見張りを狙撃して目潰しを行い、接近した歩兵が、九九式対戦車地雷をもって戦車のキャタピラを破壊する戦術によって大きな戦果を挙げている。また、八九式重擲弾筒を駆使した戦術により、幸地の戦いにおいてアメリカ陸軍の侵攻を何度も撃退した。その後22連隊は、喜屋武半島に撤退し抗戦を続け、同地を視察に訪れたバックナー将軍(en:Simon Bolivar Buckner, Jr.)は日本軍の攻撃によって戦死する。1945年(昭和20年)6月真栄里において、米軍は爆薬を22連隊本部の洞窟陣地に投げ込み、22連隊本部は全員戦死した。翌日沖縄本島守備の日本軍玉砕が発表された。

沖縄戦での行動記録[編集]

当初沖縄戦は、米軍を包囲殲滅する決戦思想であったため、22連隊は嘉手納に布陣し、当地で築城と飛行場設営に汗を流した。築城においては、建設資材の調達がままならず、人力に頼る工法で、非常に危険な難工事であった。また、22連隊自らの棲息壕の構築のみならず、増援部隊の受け入れを考慮するよう要求され、自隊の3倍以上の兵力を収容でき、かつ1t爆弾にも耐えうる地下壕の構築を厳命されていた。

沖縄本島到着から半年をすぎた1945年(昭和20年)4月。決戦兵力であった第9師団が台湾へ移動したことにより、22連隊は、沖縄本島最大の重要港湾である小禄の海軍司令部壕の隣に移動した。那覇市南方の島尻一帯の防衛を任じられ、当地で築城、飛行場建設にあたった。アメリカ軍の上陸までに、22連隊は現地で召集された1500人以上の沖縄県出身者が配属された。

アメリカ軍上陸[編集]

4月1日に米軍が嘉手納海岸から上陸してくるが、22連隊は島尻地区の陣地において沖縄本島南方からの奇襲上陸に備えていた。

4月10日、22連隊は豊見城から首里方面への陣地移動が命じられた。これにより22連隊は、戦闘に本格的に参加していく。首里北方を守備していた62師団が損害甚大となったことで、沖縄戦最大の激戦となった嘉数の戦いに増援部隊として参加する。この時、22連隊は行軍中に、特攻機が敵艦に命中する光景を目撃して「やった。万歳!」と一斉に喜び叫んだ。

4月11日、22連隊は、首里北方の弁ヶ岳付近に進出した。

4月12日、22連隊は日本軍反撃の主力として第62師団に編入されたが、地理不案内なため行動に支障をきたしていた。第1大隊(大隊長 鶴屋義則少佐 士52期 鹿児島県出身)は155高地に斬り込みを敢行したが、米軍は最新鋭の赤外線眼鏡を狙撃班に装備していたため、先頭の第1中隊(中隊長 鈴木義雄大尉 士56期 岩手県出身)は奇襲に失敗し、中隊長以下約60名の戦死者を出して後退した。第2大隊(大隊長 平野茂雄少佐 特志 愛媛県八幡浜出身)の一部は、142高地に移動して夜間斬り込みを敢行した。しかし、米軍の砲撃の前に日本軍の攻勢は挫折した。

4月13日、22連隊は首里北方の西原村に展開した。22連隊は、左翼、右翼部隊に増援派出を命じられる。第1大隊は幸地での戦闘を継続したが、第2大隊は、棚原地区でゲリラ戦術により善戦している独立歩兵第12大隊(大隊長 賀屋与吉少佐)に配属される。また第3大隊(大隊長 田川慶介大尉 士53期 愛媛県松山出身)は、嘉数の戦いで大戦果をあげている独立歩兵第13大隊(大隊長 原宗辰少佐)に配属されたが、米軍の絶え間ない砲撃により、通信線は寸断され伝令は出られず、連絡がとれないままになっていた。22連隊では、軍用犬を連絡に走らせたが、それも壕を突っ走った途端に撃ち殺された。

4月17日、第2大隊は、独立歩兵第12大隊から配置を解除された。

4月21日夜、伊祖高地の奪還のため、22連隊第3大隊は、夜襲を敢行した。この時、愛媛県人が多数所属する独立歩兵第15大隊と独立臼砲第1連隊も参加したが、攻撃は成功せず、甚大な犠牲を払った。

幸地の戦い[編集]

4月22日から陣地転換が行われ22連隊は連隊本部を幸地に移した。首里には日本軍守備隊の総司令部があったが、首里北方を守備する第62師団が、実質的に壊滅したことによる大幅な作戦変更であった。22連隊は第24師団に復帰し、首里北方の幸地(米称ゼブラヒル:現 中頭郡西原町アドベンチストメディカルセンター付近)に全面展開して、アメリカ軍と激戦を交える。

22連隊は、第24師団の中央に展開し、右翼は北海道歩兵第89連隊、左翼は山形歩兵第32連隊が担当した。上級司令部からは、さらに前進して敵陣地奪取を命じられたが、22連隊長吉田勝中佐(士32期 北海道出身)は彼我の兵力差を考慮して、より現実的な持久戦案を意見具申し、これが認められた。対戦するアメリカ軍は、第77歩兵師団、第96歩兵師団であり、短期攻略を目論み次々と侵攻してきたが、22連隊は地形を生かした防御戦闘により善戦した。ここでは激戦として名高い「幸地の戦い」が繰り広げられた。幸地での22連隊の奮戦は、日露戦争以来「伊予の肉弾聯隊」として訓練された、伊予将兵の能力が最大限に発揮されたといえるであろう。

4月24日、第1大隊長鶴屋少佐は、第3大隊陣地で敵情偵察中に艦砲射撃によって戦死し、26日に小城正大尉(士54期 鹿児島県出身)が引き継いだ。敵の戦車群が迫る中、第2大隊の山之内敏夫少尉(愛媛県周桑郡出身)は、「生命を大切にせいよ。」と部下一人一人の手を握って言い渡したのち、自ら急造爆雷を抱きかかえて敵戦車に体当たりを敢行した。第2大隊は石嶺に後退し、負傷兵は首里鳥堀の患者収容所に運んだ。

4月26日、22連隊は幸地に健在であった。第1大隊は米軍の砲撃により大損害を出しつつも米第7師団の攻勢を阻んでいた。第1大隊長小城大尉は、地理不案内なため反対斜面陣戦法を活用できず、敵のロケット弾の猛射を浴びここで半数以上の部下を失う。しかし、小城大尉は、大隊に配備されている36個の八九式重擲弾筒の集中射撃で応戦しつづけて米軍の進撃を阻止していた。幸地、小波津地区では、機関銃と迫撃砲約12門の集中射撃によって、米軍の攻勢を防ぎきった。

4月27日、22連隊は、歩兵第32連隊の援護と前田高地の奪還を命じられたが、アメリカ軍の攻勢の前には、机上の空論であった。戦線は交錯し、アメリカ軍は、航空機や砲撃による同士討ちで、兵士60名以上の戦死者を発生していた。22連隊の正面には、敵戦車20数両と2500~3000名の敵が攻め込んできたが、機関銃中隊の八幡勇少尉(愛媛県松山出身)は、銃身が焼け付くほどに奮戦して守り切った。

4月30日、日本軍の前線部隊は、夜襲を実施した。歩兵第32連隊伊東大隊は146高地を夜間攻撃して奪回に成功した。歩兵第89連隊深見大隊の120高地の奪回は失敗した。22連隊は、第2大隊を攻撃準備させたが、出撃はしなかった。30日朝には、米軍は戦車を伴い反撃したが、日本軍は速射砲、野戦高射砲を用いて防衛に成功した。陣頭に立って戦い、部下には「死に急ぐなよ」と言い聞かせていた尺八の名手、鈴鹿喜四郎准尉(愛媛県周桑郡出身)が戦死した。

5月1日~3日、幸地では、米軍の火焔放射戦車を含む部隊と交戦し、霧雨にも助けられ、迫撃砲と手榴弾の集中投擲で撃退した。この時、22連隊第11中隊長 木口恒好大尉(士55期 愛媛県八幡浜出身)は、第1大隊長小城大尉に「大隊長!あのへんで、敵の戦車がうろうろしているから、私が行ってやっつけてきますから、やらしてください!いいですか?」と自ら志願し、兵士2,3人を連れて敵陣に潜入し、敵の戦車を見事爆砕した後、無事に生還して、22連隊の士気を大いに高めた。

5月2日、歩兵第64旅団独立歩兵第13大隊に配属されていた第3大隊は、安波茶で22連隊復帰の命令を受領した。

総反撃[編集]

5月3日、増援として、独立歩兵第28大隊が連隊に加わった。 同日夜には、翌日実施される日本軍総反撃の先駆けとして、斬り込み隊を編成し、米軍陣地へ夜間浸透を試みた。攻撃準備をする兵隊は、栄養失調から夜盲症に罹っている者も多かった。22連隊は、軍旗を弁ヶ岳から幸地に移した。

5月4日、日本軍最後の総反撃が始まった。また、沖合では大規模な特攻作戦である菊水5号作戦も開始された。22連隊は「中突進隊」と呼称され、アメリカ軍陣地を中央突破し棚原北方の占領を命じられた。しかし、22連隊の前面にはすでに強力なアメリカ軍の野戦陣地が形成されており、八原参謀の指示を受け、損耗を避けるため、22連隊の第11中隊(中隊長 木口恒好大尉 士55期 愛媛県八幡浜出身)のみが出撃することとなった。22連隊の支援に戦車第27連隊(連隊長 村上乙中佐 士36期 愛媛県新居浜出身)の戦車10数台が現れ、兵士たちは心強さを覚えた。

04:50、突撃準備射撃が開始され、軍砲兵の15cm榴弾砲、10cmカノン砲が100,000発以上発射された。

05:00、日本軍は前進を開始する。

07:00、第3中隊が煙幕を作りアメリカ軍陣地の視界を奪うことに成功した。第11中隊は、機を得てアメリカ軍陣地に接近を図る。しかし、運悪く風向きが南西風から南東風となり、中隊はアメリカ軍の攻撃にさらされた。奇襲には失敗したが、すでに死を覚悟している木口恒好大尉の指揮のもと、壮烈な強襲をかけ獅子奮迅と戦闘したが、アメリカ軍はM4中戦車をもって反撃し、第11中隊は全員戦死した。また、戦車27連隊の戦車もほとんどが撃破された。しかしながら、22連隊の兵士は、この状況下でも敵陣を約1000mも潜入する者も見られた。アメリカ軍は、さらに戦車をもって幸地陣地に攻撃を加えたが、22連隊は総力を挙げてこの防戦に努めた。

5月5日、第3大隊は22連隊と合流したが、消耗しており、実質2個中隊の兵力であった。 1800、日本軍は攻撃失敗を悟り、作戦中止命令を下令した。

再編成[編集]

5月6日、沖縄県は梅雨が始まった。日本軍の総攻撃は失敗に終わったが、アメリカ軍からの逆襲もなく部隊再編を急いだ。第32軍は再度持久戦に徹するよう指示をだした。22連隊は、幸地から146高地において、アメリカ軍の攻撃を破砕するように命じられた。雨により、衛生環境が著しく悪化し、傷病兵が増加した。また、沖縄本島の非舗装道路は、交通を害し、補給は停滞した。日本軍の地下壕内にも雨水が侵入してきた。

5月7日、米軍の火炎戦車が侵入してきたが、一通り火炎を放射して反転していくところを背後から砲撃して撃破した。

5月8日、第1大隊と第3大隊が交代するよう準備されたが、敵の攻撃の前に第1大隊(小城大隊)、第3大隊(田川大隊)が共同で守備に就いた。前日から雨が降り続く中、アメリカ軍の攻撃は続き、手榴弾戦、白兵戦が繰り返された。すでに不眠不休の激戦が続いており、第1大隊は交代を心待ちにしていたが叶わなかった。アメリカ軍は次々と新手を繰り出しており、その状況をうらやましく見えたと22連隊記録に記述されている。第1大隊は戦績を認められ、22連隊長から感状を授けられた。

5月9日、22連隊は2日連続の米軍の攻撃を受け、さらに損害を受けた。幸地南西にある高地頂上をアメリカ軍に占領された。22連隊は増援を要請したが、本来戦闘職種ではなく、武器もほとんど手にしたことのない航空機の整備兵が補充されてきた。

5月10日、22連隊は、昨日から幸地南西で激しい争奪戦を繰り返していた。10日夜には、夜襲を敢行したが、損害を増やしただけに終わった。22連隊は消耗し、完全包囲される恐れがあったため、弁ヶ岳北東に後退していった。22連隊の戦力は、第1、第2大隊をあわせて200名以下、第3大隊は壊滅し、第10中隊長渡邊裕二大尉(士56期 秋田県出身)以下10数名となった。アメリカ軍はハウ高地から幸地にかけて野戦築城を施し守備を固めた。しかし切り通しから140高地と呼ばれる陣地は依然、22連隊が死守していた。この守兵の中には、日支事変以来のもっとも頼もしい歴戦の下士官が数名おり、彼らはいつもと同じように敵の攻勢を撃退し続けていた。

 日本軍の歩兵は銃剣術を鍛えてました。だから防御していて敵が目の前に迫っても、早く来ないか、来たらやってやると自信があるわけです。だから八百名の大隊が四、五十名になって八百名と同じ陣地を持っていても米軍を寄せつけない。米軍も怖がって突っ込んで来ないという状態で、兵隊がどんどん少なくなって戦線を縮小しないと隙間だらけで危ないから、ちょっと配置を変えようとすると「ここで、死なして下さい!」と動かない、それはもう立派なものでした。

 昼間は連日戦ってその間中、撃たれっ放しです。敵が攻めてくるのは午前一回午後一回です。それで疲れ切っているのに夜は壕を掘り、弾を取りに帰り、負傷者を後ろに下げてやったり、戦死者を仮埋葬で埋めたりと、やることはいっぱいあるわけです。そういう状態で飯も食えません。そこへ私たちの居た部落の女子青年団の人達がおにぎりを作ってカマスに入れて第一線まで運んでくれました。第一線の後ろは無事かというと、そうではありません。道路のめぼしい交差点は全て、日本軍が移動出来ないように一晩中弾を撃ってきます。日本軍の射撃なんかとても目じゃないというほど、どの交差点にも間をおいて集中射撃が加えられます。そういう所をかい潜って女の子達がおにぎりを届けてくれました。そのおかげで、一日一食ですけれどご飯を食べて三週間以上、同じ陣地で頑張ったのです。と、歩兵第22連隊第1大隊長小城正大尉が戦後述べている。

アメリカ軍総攻撃[編集]

5月11日、米軍の総攻撃が開始された。米軍はすでに沖縄本島北部の攻略を完了しており、この総攻撃にはアメリカ海兵隊 第1師団、第6師団、アメリカ陸軍第77師団、第96師団、第7師団が投入される。22連隊は、首里に中央突破を仕掛けてくるアメリカ第77師団と対戦した。

5月11日から15日にかけて、22連隊は石嶺地区で防戦にあたり、連日アメリカ軍の攻勢を撃退していた。140高地(米称フラットトップ 現:那覇市首里石嶺町2丁目市営住宅給水塔)を中心として第2大隊平野大尉以下奮戦したが、5月15日時点で、140高地の残兵は20数名となり、32連隊伊藤大隊の増援を受け、戦車27連隊の90式野砲4門の支援砲撃で戦線を維持することができた。

5月16日未明、アメリカ軍の手榴弾奇襲攻撃により、歩兵第22連隊第1大隊は大損害を受け後退する。この日、沖縄出身者の防衛召集兵百数十名が、22連隊に補充されることになったが、22連隊長吉田中佐は「22連隊は、全滅に瀕している。もう来るには及ばない。後日に備えて原隊に帰り、負傷兵の治療に専念してくれ。」と補充兵に命令した。すでに戦争の帰結は、22連隊の兵士すべてにわかっている。これ以上沖縄出身の補充兵を、敵戦車の餌食にしたくなかった。 32軍司令部は大本営に対して、首里に最後の予備兵力を投入するも保持困難と打電し、武器なき25000人の戦闘員に対する急速兵器の輸送を要請した。

5月17日、140高地の頂上が一時米軍に占領されたが、夕刻までに撃退した。22連隊の兵士は、タコツボ壕を巧妙に偽装して隠れ、敵をやり過ごして背後から殺しまくった。

5月18日、140高地は火炎戦車を伴なう米軍に包囲され、馬乗り攻撃を受けた。米軍戦車は、タコツボ壕を一つ一つ踏みつぶし、潜伏している日本兵を確実に殺していった。翌日には洞窟陣地が爆破された。翌々日には140高地で250体以上の日本兵の遺棄遺体を米軍により確認された。

5月20日、日本軍右翼部隊の歩兵第89連隊は、運玉森で壊滅した。第24師団長は22連隊を師団予備とし、歩兵第32連隊を中地区隊とすることを命じた。

5月21日、日本軍左翼部隊の歩兵第32連隊も事実上壊滅し、津嘉山に後退した。以後日本軍左翼の防御は、歩兵第32連隊から独立歩兵21大隊に変更された。日本軍の中央部隊である22連隊は、戦車第27連隊(連隊長 村上乙中佐 士36期 愛媛県新居浜出身)の応援を受けて、首里北方石嶺、弁ヶ岳を堅持する。ただし、戦車第27連隊は、増援のための移動中に、砲撃により道路が破壊されて通行ができず、戦車から機関銃を取り外し、連隊の陣地に徒歩で移動してきた。戦車第27連隊は、沖縄戦唯一の日本軍戦車部隊であり、その増援に大きな期待をされていたが、主力戦車はすでに壊滅し、残った数両の軽戦車も悪路にはばまれて機動すらできず、機関銃を担いだ戦車兵が応援にきたことに、前線の将兵は失望した。米軍は攻勢をさらに強化して、アメリカ第77師団の援護に第96師団も投入して首里攻略を狙った。

撤退と連隊の玉砕[編集]

5月27日、首里の放棄が実施され、日本軍は沖縄本島南部に撤退を開始した。アメリカ軍の追撃は、一部の残留部隊による絶望的な抵抗と、豪雨によって阻止される。首里には、日本軍の負傷兵約1万名が収容されていたが、司令部の南部転進により移動不能な負傷兵約5000名がその場で自決した。

5月29日、首里陥落。

5月31日、日本軍は沖縄本島南部に撤退を完了する。 22連隊は、喜屋武半島の真栄里に撤退し抗戦を続けた。 22連隊は、約300名に増員されたが、その兵士のほとんどが、野戦病院の壕から這い出てきた負傷兵たちであった。

6月10日、22連隊長吉田中佐は、これまでの戦績を認められ大佐に昇進した。

6月15日まで22連隊の本部は、真壁タヂリガマの壕を使用していた。

6月18日、真栄里へ前線視察に訪れたバックナー将軍(w:Simon Bolivar Buckner, Jr.)は日本軍の砲撃により戦死する。

6月24日、真栄里において、22連隊長は連隊旗を本田昇少尉(愛媛県上浮穴出身)に託し、宇江城の24師団司令部に後送のうえ奉焼した。その後米軍によって洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ全員が戦死した。翌日、沖縄本島守備の日本軍玉砕が発表される。22連隊本部が玉砕した後も、糸満南方の防御に就いていた22連隊の兵士たちは、最後の一兵まで手榴弾を投げ続け、徹底抗戦をしていたという。

 なお、22連隊玉砕の地には、戦後、栄里の塔という慰霊碑が建立され、以下の碑文が刻まれた。

 歩兵第22連隊は第32軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和20年6月17日玉砕し悠久の大義に生く。終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨1万2千柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。

 昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会

歴代連隊長[編集]

歴代の連隊長
(特記ない限り陸軍大佐
氏名 在任期間 備考
1 杉山直矢 1886.5.27 - 中佐、1890.6.大佐
2 上田有沢 1891.6.18 - 中佐、1893.11.大佐
3 富岡三造 1894.6.6 - 1901.11.3 中佐、1896.11.大佐
4 児島八二郎 1901.11.3 - 1903.3.21 中佐
5 青木助次郎 1903.4.2 - 1907.11.13 中佐、1903.12.大佐
6 藤井幸槌 1907.12.13 -
7 奥村信猛 1909.1.19 - 中佐、1909.1.28大佐
8 岩田正吉 1910.5.10 - 1911.8.8
9 大多和新輔 1911.8.14 -
10 梅津喜一 1916.8.18 -
11 井上第五郎 1919.7.25 -
12 鈴木新之丞 1920.6.1 -
13 松田善衛 1921.10.11 -
14 今枝内蔵之助 1924.2.4 -
15 継屯 1925.3.18 -
16 山岡重厚 1928.3.8 -
17 酒井鎬次 1929.8.1 -
18 山脇正隆 1931.8.1 - 1932.8.1
19 七田一郎 1932.8.8 -
20 本多政材 1933.8.1 -
21 田北惟 1935.8.1 -
22 永津佐比重 1937.8.2 -
23 村治敏男 1938.7.15 -
24 小松崎力雄 1939.8.1 -
25 今関靖夫 1940.12.2 -
26 田中幸憲 1941.10.15 -
吉田勝 1945.3.9 - 6.17 戦死

編成(昭和20年当時)[編集]

  • 歩兵大隊3個 
    • 歩兵大隊 人員799名 
      • 大隊本部 人員55名 大隊通信隊 六号無線(携帯用)
      • 歩兵中隊3個 179名×3 中隊長中尉 中隊指揮班20名 三八式歩兵銃九六式軽機関銃×9、八九式重擲弾筒×9
        • 小隊52名×3個 小隊長少尉
          • 分隊×4個 分隊長軍曹 1個分隊は分隊長以下13名、につき九六式軽機関銃1丁。1名につき九九式手榴弾4個装備
      • 機関銃中隊1個 137名 中隊長中尉 九二式重機関銃×8
        • 機関銃小隊×3個 小隊長少尉 九二式重機関銃×4丁(機関銃小隊は、歩兵中隊に編入されて行動する)
          • 機関銃1個分隊15名
      • 大隊砲小隊1個 70名 70m九二式歩兵砲×2
        • 大隊砲分隊 分隊長以下11名で1門を運用
    • 歩兵砲(連隊砲)中隊1個 75mm四一式山砲×4門
    • 速射砲中隊1個 60名 九四式37mm速射砲 ×4門
    • 連隊通信隊 通信中隊1個 九二式五号無線機(手動発電、伝搬距離約60km)、九四式無線機、九六式無線機

歩兵第二十二聯隊歌[編集]

1 時は明治の十九年   八月十有七日に   協力同心帝國を   保護せよかしとのたまひて   さつけ給ひし我か軍旗   聯隊長はかしこみて   死力をつくし國家をは   守りまつらんと奉答し   拝受せられし我か軍旗   光かかやく我か軍旗

2 二十七年征清の   軍(いくさ)おこるや仁川に   上陸なして平壌を   おとしいれたる旗風に   鶏林八道なひかして   満州の野に進入し   しはしは敵とたたかひて   うちやふりつつ   おひまくり   遼西まても攻め入れり   田庄台まて攻めぬけり

愛媛県人を主力としたその他の部隊[編集]

  • 独立歩兵15大隊 昭和13年2月松山にて編成。昭和20年6月沖縄県摩文仁にて玉砕。
  • 歩兵第62連隊第1大隊 昭和13年7月松山にて編成。南部仏印にて終戦。
  • 歩兵第234連隊 昭和14年8月松山にて編成。中国戦線を転戦し、昭和21年5月帰還。
  • 歩兵第43連隊第3大隊 昭和15年2月徳島にて編成。昭和19年8月、グァム島にて玉砕。
  • 歩兵第122連隊 昭和15年8月松山にて編成。昭和17年フィリピンの戦いに参加したのち、マーシャル諸島で終戦。
  • 独立歩兵第333大隊 昭和19年2月満州にて22連隊第1大隊を改称。メレヨン島にて終戦。

参考文献[編集]

  • 『日本陸軍連隊総覧 歩兵編(別冊歴史読本)』新人物往来社、1990年。
  • 原 剛『明治期国土防衛史』錦正社、2002年。
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 客野澄博著『二十二聯隊始末記』1972年 愛媛新聞社

関連項目[編集]