歩兵第22連隊

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歩兵第22連隊
創設 1884年明治17年)
廃止 1945年(昭和20年)
所属政体 日本の旗 日本
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 連隊
兵科 歩兵
所在地 松山
編成地 愛媛県 松山市
通称号/略称 山3474
上級単位 広島鎮台 - 第5師団 - 第11師団 - 第5師団 - 第11師団 - 第24師団
最終位置 沖縄県 糸満
主な戦歴 日清 - 日露 - シベリア出兵 - 第一次上海事変 - 日中 - 第二次世界大戦
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歩兵第22連隊(ほへいだい22れんたい、歩兵第二十二聯隊)は、愛媛県松山市に所在した日本陸軍歩兵連隊である。愛媛県人が主力をなし、『伊予の肉弾連隊』と畏怖された精鋭部隊であった。兵力は最盛期で約3000名。数々の戦役に出征して武勲を重ね、予州健児の名声を高めた。昭和20年6月沖縄戦にて強大な米軍と交戦し、勇戦敢闘の末に玉砕。

年表[編集]

  • 1884年(明治17年)松山にて広島鎮台の所属部隊として第1大隊が発足。
  • 1886年(明治19年)8月17日に軍旗授与。
  • 1888年(明治21年)鎮台を改編し師団が創設され第5師団に所属する。
  • 1898年(明治31年)第11師団創設にともない、第11師団に所属した。
  • 1904年(明治37年)旅順要塞攻略に参加。
  • 1905年(明治38年)歩兵第62連隊が新設され、第11師団に所属し、歩兵第22連隊は再び第5師団に所属。
  • 1919年(大正8年)第5師団に属しシベリア出兵に参加。
  • 1925年(大正14年)宇垣軍縮により歩兵第62連隊(徳島)が廃止され、第11師団所属に戻った。
  • 1932年(昭和7年)に第11師団に属して第一次上海事変に出兵。
  • 1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発し、22連隊は8月23日上海郊外の呉淞に上陸。
  • 1938年(昭和13年)3月に愛媛県に帰還。
  • 1938年(昭和13年)9月には再度満州に派遣され、東安に駐屯した。
  • 1939年(昭和14年)10月、第11師団の改編にともない、第24師団に編入され、徴募区域も愛媛県から北海道に変更された。
  • 1940年(昭和15年)以降、愛媛県出身の歩兵の初年兵は、丸亀、徳島、高知の各歩兵連隊に入営するようになった。
  • 1944年(昭和19年)8月、満州の西東安から沖縄に約2800名が進出する。
  • 1945年(昭和20年)4月1日。アメリカ軍が沖縄県嘉手納方面から上陸を開始する。
  • 1945年(昭和20年)6月24日。圧倒的優勢なアメリカ軍と対戦し、最後の一兵まで勇戦敢闘して全滅する。
  • 1962年(昭和37年)沖縄戦にて散華した愛媛県出身将兵約2000名を慰霊するため『愛媛之塔』が沖縄県摩文仁に建立される。

略歴[編集]

日清戦争日露戦争に参戦し、特に日露戦争では第3軍(司令官:乃木希典大将)第11師団(師団長:土屋光春中将)に属し、1904年旅順要塞攻略に参加して旅順要塞最強の堡塁と謳われた東鶏冠山の攻略で活躍した。当時の戦いぶりは、22連隊旗手を務めていた桜井忠温の「肉弾」に余すところなく描かれている。このとき以来、22連隊は「伊予の肉弾連隊」と称され、精強ぶりを畏怖されるようになった。肉弾とは、「肉体をもって弾の如く斬り込む」という意味である。

太平洋戦争末期、22連隊第1大隊(大隊長 中島平吾大尉 少候15期 長野県出身)は独立混成第50旅団に編入され、約500名が歩兵第333大隊として陸軍での呼称ではメレヨン島、現在の呼称は、ウォレアイ環礁のウォッタガイ島の守備に派遣された。メレヨンでは、敵軍との地上戦こそなかったが、武器弾薬輸送船と食料輸送船が相次いで敵潜水艦に撃沈され、基地機能は敵機動部隊の空襲で破壊され、補給の途絶した絶海の孤島であったため、将兵の約9割が餓死、病死する惨状であった。メレヨン島派遣部隊は、アメリカ海兵隊を相手に善戦しているペリリューの戦いに転進を意見具申していたが、すでに輸送手段は途絶しており、やがて暗号規約の更新も不可能となったため、完全に孤立して餓死を待つのみとなった。メレヨンでは伝染病が発生し、連絡に訪れた日本軍潜水艦に傷病兵が収容されると、潜水艦の艦内で伝染病が発生し、横須賀に到着したときには傷病兵は全員病死していた。また、メレヨン島に不時着した二式大艇の記録では、島内では銃声が鳴り響き、それは兵士達が自殺する時の銃声であったと記述されている。ただしこのような危機的状況においてもメレヨン島の住民からの略奪は一切行われなかった。メレヨン島民は事前に隣の島に疎開させており、戦後も慰問に訪れた日本人を温かく迎えている。

沖縄戦では、首里城北方の守備を担当し、大激戦となった嘉数の戦いシュガーローフの戦いにも増援部隊として参加した。沖縄守備部隊は、臨時編成の寄せ集めであったが、22連隊は関東軍の現役兵中心の部隊であったため、高級参謀の八原博通大佐は、特に期待をかけていたと言われる。装備については、三八式歩兵銃が主力小銃であったが、命中率の良さには評価が高く、敵戦車の車外見張りを狙撃して目潰しを行い、接近した歩兵が、九九式対戦車地雷をもって戦車のキャタピラを破壊する戦術によって大きな戦果を挙げている。

那覇市北部の守備陣地において、アメリカ軍と対峙し、3週間以上もの間一歩も退かぬ善戦を見せた。この戦いにおいて、アメリカ軍は日本軍守備隊の健闘を「歩兵戦闘の極み」と賞した。戦いの損害によりアメリカ陸軍は1個師団の後退を余儀なくされている。アメリカ国内では、日本軍の抵抗が予想以上に激しくて損害が甚大となり、国民の戦意も低下してきたことから、日本の降伏条件を無条件降伏から、天皇制の保持を認めるように変更している。5月4日には日本軍最後の攻勢の主力として、日本軍一斉反撃の先頭に立ったが米軍の砲撃の前に攻勢は挫折した。

その後22連隊は、喜屋武半島に撤退し、抗戦を続け、同地を視察に訪れたサイモン・B・バックナー・ジュニア将軍は日本軍の狙撃によって戦死する。22連隊の最後の状況は、明らかでない部分が多いが、分散した状態で各個に粘り強く戦っていた。真壁タヂリガマの壕は 6月15日まで連隊本部として使用されていた。1945年(昭和20年)6月24日真栄里において、22連隊長の吉田勝大佐(士32期 北海道出身)は連隊旗を奉焼し、その後米軍によって洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ全員が戦死した。翌日沖縄本島守備の日本軍玉砕が発表される。

現在、愛媛県護国神社には22連隊の忠魂碑があり、門柱と歩哨舎が数少ない史蹟として保存されている。また、松山市堀之内にある歩兵第22連隊跡を示す石碑の隣には、「最も愛情あるものは 最も勇敢なり」という22連隊兵士の言葉が刻まれている。

沖縄戦での行動記録[編集]

当初沖縄戦は、米軍を包囲殲滅する決戦思想であったため、22連隊は嘉手納に布陣し、当地で築城と飛行場設営に汗を流した。築城においては、建設資材の調達がままならず、人力に頼る工法で、非常に危険な難工事であった。また、嘉手納では作戦会議中に対戦車用の急造爆雷の爆発事故が発生し、22連隊の指揮官ほぼ全員が死傷する重大事故も生起していた。

沖縄本島到着から半年をすぎた1945年(昭和20年)4月。決戦兵力であった第9師団が台湾へ移動したことにより、22連隊は、沖縄本島最大の重要港湾である小禄付近に移動した。那覇市南方の島尻一帯の防衛を任じられ、当地で築城、飛行場建設にあたった。

アメリカ軍上陸[編集]

4月1日に米軍が嘉手納海岸から上陸してくるが、22連隊は島尻地区の陣地において沖縄本島南方からの奇襲上陸に備えていた。

4月10日、22連隊は豊見城から首里方面への陣地移動が命じられた。これにより22連隊は、戦闘に本格的に参加していく。首里北方を守備していた62師団が損害甚大となったことで、沖縄戦最大の激戦となった嘉数の戦いに増援部隊として参加する。22連隊は、敵舟艇の上陸に備えた自らの陣地を放棄して、ほぼ遭遇戦に近い状態で首里を目指して南下してくる米軍と会敵する。

4月11日、22連隊は、首里北方の弁ヶ岳付近に進出した。

4月12日、22連隊は日本軍反撃の主力として第62師団に編入されたが、地理不案内なため行動に支障をきたしていた。第1大隊(大隊長 鶴屋義則少佐 士52期 鹿児島県出身)は155高地に斬り込みを敢行したが、米軍は最新鋭の赤外線眼鏡を狙撃班に装備していたため、先頭の第1中隊(中隊長 鈴木義雄大尉 士56期 岩手県出身)は奇襲に失敗し、中隊長以下約60名の戦死者を出して後退した。第2大隊(大隊長 平野茂雄少佐 特志 愛媛県出身)の一部は、142高地に移動して夜間斬り込みを敢行した。しかし、米軍の砲撃の前に日本軍の攻勢は挫折した。

4月13日、22連隊は首里北方の西原村に展開した。22連隊は、左翼、右翼部隊に増援派出を命じられる。第1大隊は幸地での戦闘を継続したが、第2大隊は、棚原地区の増援として独立歩兵第12大隊に配属される。また第3大隊(大隊長 田川慶介大尉 士53期 愛媛県出身)は、嘉数地区増援のため独立歩兵第13大隊に配属された。

4月17日、第2大隊は、独立歩兵第12大隊から配置を解除された。

幸地の戦い[編集]

4月22日から24日にかけて陣地転換が行われ22連隊は連隊本部を幸地に移した。首里には日本軍守備隊の総司令部があったが、首里北方を守備する第62師団が、実質的に壊滅したことによる大幅な作戦変更であった。22連隊は第24師団に復帰し、首里北方の幸地に全面展開して、アメリカ軍と激戦を交える。[1]

22連隊は、第24師団の中央に展開し、右翼は北海道歩兵第89連隊、左翼は山形歩兵第32連隊が担当した。上級司令部からは、さらに前進して敵陣地奪取を命じられたが、22連隊長吉田中佐は彼我の兵力差を考慮して、より現実的な持久戦案を意見具申し、これが認められた。対戦するアメリカ軍は、第77歩兵師団、第96歩兵師団であり、短期攻略を目論み次々と侵攻してきたが、22連隊は地形を生かした防御戦闘により善戦した。ここでは激戦として名高い「幸地の戦い」が繰り広げられた。幸地での22連隊の奮戦は、日露戦争以来「伊予の肉弾連隊」として訓練された、伊予将兵の能力が最大限に発揮されたといえるであろう。これらの戦いにおいて、アメリカ軍は日本軍守備隊の健闘を「歩兵戦闘の極み」と賞した。

4月24日、第1大隊長鶴屋少佐は、第3大隊陣地で敵情偵察中に敵駆逐艦の艦砲射撃によって戦死し、26日に小城正大尉(士54期 鹿児島県出身)が引き継いだ。

4月26日、22連隊は幸地に健在であった。第1大隊は米軍の砲撃により大損害を出しつつも米第7師団の攻勢を阻んでいた。第1大隊長小城大尉は、地理不案内なため反対斜面陣戦法を活用できず、敵のロケット弾の猛射を浴びここで半数以上の部下を失う。しかし、小城大尉は、大隊に配備されている36個の八九式重擲弾筒の集中射撃で応戦しつづけて米軍の進撃を阻止していた。

4月26日~29日、幸地、小波津地区では、機関銃と迫撃砲約12門の集中射撃によって、米軍の攻勢を防ぎきった。

27日、22連隊は、歩兵第32連隊の援護と前田高地の奪還を命じられたが、アメリカ軍の攻勢の前には、机上の空論であった。戦線は交錯し、アメリカ軍は、航空機や砲撃による同士討ちで、兵士60名以上の戦死者を発生していた。

4月30日、日本軍の前線部隊は、夜襲を実施した。歩兵第32連隊伊東大隊は146高地を夜間攻撃して奪回に成功した。歩兵第89連隊深見大隊の120高地の奪回は失敗した。22連隊は、第2大隊を攻撃準備させたが、出撃はしなかった。30日朝には、米軍は戦車を伴い反撃したが、日本軍は速射砲、野戦高射砲を用いて防衛に成功した。

5月1日~3日、幸地では、米軍の火焔放射戦車を含む部隊と交戦し、霧雨にも助けられ、迫撃砲と手榴弾の集中投擲で撃退した。

5月2日、歩兵第64旅団に配属されていた第3大隊は、安波茶で22連隊復帰の命令を受領した。

日本軍総反撃[編集]

5月3日、増援として、独立歩兵第28大隊が連隊に加わった。 同日夜には、翌日実施される日本軍総反撃の先駆けとして、斬り込み隊を編成し、米軍陣地へ夜間浸透を試みた。

5月4日、日本軍最後の総反撃が始まった。22連隊は「中突進隊」と呼称され、アメリカ軍陣地を中央突破し棚原北方の占領を命じられた。しかし、22連隊の前面にはすでに強力なアメリカ軍の野戦陣地が形成されており、八原参謀の指示を受け、損耗を避けるため、22連隊の第11中隊(中隊長 木口恒好大尉 士55期 愛媛県出身)のみが出撃することとなった。

04:50、突撃準備射撃が開始され、軍砲兵の15cm榴弾砲、10cmカノン砲が100,000発以上発射された。

05:00、日本軍は前進を開始する。

07:00、第3中隊が煙幕を作りアメリカ軍陣地の視界を奪うことに成功した。第11中隊は、機を得てアメリカ軍陣地に接近を図る。しかし、運悪く風向きが南西風から南東風となり、中隊はアメリカ軍の攻撃にさらされた。奇襲には失敗したが、すでに死を覚悟している木口恒好大尉の指揮のもと、中隊は壮烈な強襲をかけたが、アメリカ軍はM4中戦車をもって反撃し、第11中隊は全員戦死した。さらにアメリカ軍は戦車をもって幸地陣地に攻撃を加えたが、22連隊は総力を挙げてこの防戦に努めた。

5月5日、第3大隊は22連隊と合流したが、消耗しており、実質2個中隊の兵力であった。 1800、日本軍は攻撃失敗を悟り、作戦中止命令を下令した。

第1大隊長の小城大尉によれば「木口大尉は、これが全く軍神という言葉がぴったり当てはまるような素晴らしい将校でした。明けても暮れても雨霰と飛んでくる米軍の迫撃砲弾やロケット砲弾の弾幕の中で、兵隊と同じようにタコツボに入ったままビクともしないで中隊をしっかりと掌握してました。木口大尉が「大隊長、あそこへ戦車がウロウロしていますが、私が行ってやっつけてきますから、やらして下さい、いいですか。」と言うんです。それで「お前、一回だけだぞ、中隊長がそんな無理なことをしたら困るから。」と言ったら、陣地にいれば安全なのに陣地を捨てて兵隊を三、四人連れて、中隊長自ら爆薬の箱を背負って、今から攻撃しようと支度をしている米軍の方へ行って、戦車に忍び寄って爆薬で二両吹っ飛ばしました。ドカーンドカーンとすぐわかりました。それは勇敢な人でした。それでまた行きたいと言うから、もうやめてくれ、そう再々やったのでは相手も警戒しているし、君は大事な隊長だから今回かぎりでやめてくれと言って、やめてもらいました。いよいよ上からの命令で攻勢をとることになった時、木口君の部隊を参加させることになりました。木口君は、軍刀ではまだるっこい、銃剣を持って行きますと言って、死んだ兵隊の銃を取って、銃剣術に自信があったのか、それを持って先頭に立って行きました。惜しいことに木口君は失敗に終わった攻勢で戦死されてしまいました。軍神と言ってもいいような立派な働きでした。正直言って二十二連隊の中身は大方入れ換えられて北海道の兵隊が大部分になっていました。それでも、二十二連隊の持っている伝統、雰囲気というものがありますから、木口君だけではなく兵隊さんも皆立派でした。」と、回想している。

再編成[編集]

5月6日、沖縄県は梅雨が始まった。日本軍の総攻撃は失敗に終わったが、アメリカ軍からの逆襲もなく部隊再編を急いだ。第32軍は再度持久戦に徹するよう指示をだした。22連隊は、幸地から146高地において、アメリカ軍の攻撃を破砕するように命じられた。雨により、衛生環境が著しく悪化し、傷病兵が増加した。また、沖縄本島の非舗装道路は、交通を害し、補給は停滞した。日本軍の地下壕内にも雨水が侵入してきた。

5月7日、米軍の火炎戦車が侵入してきたが、一通り火炎を放射して反転していくところを背後から砲撃して撃破した。

5月8日、第1大隊と第3大隊が交代するよう準備されたが、敵の攻撃の前に第1大隊(小城大隊)、第3大隊(田川大隊)が共同で守備に就いた。前日から雨が降り続く中、アメリカ軍の攻撃は続き、手榴弾戦、白兵戦が繰り返された。すでに不眠不休の激戦が続いており、第1大隊は交代を心待ちにしていたが叶わなかった。アメリカ軍は次々と新手を繰り出しており、その状況をうらやましく見えたと22連隊記録に記述されている。第1大隊は戦績を認められ、22連隊長から感状を授けられた。

5月9日、22連隊は2日連続の米軍の攻撃を受け、さらに損害を受けた。幸地南西にある高地頂上をアメリカ軍に占領された。22連隊は増援を要請したが、本来戦闘職種ではなく、武器もほとんど手にしたことのない航空機の整備兵が補充されてきた。

5月10日、22連隊は、昨日から幸地南西で激しい争奪戦を繰り返していた。10日夜には、夜襲を敢行したが、損害を増やしただけに終わった。22連隊は消耗し、完全包囲される恐れがあったため、弁ヶ岳北東に後退していった。22連隊の戦力は、第1、第2大隊をあわせて200名以下、第3大隊は壊滅し、第10中隊長渡邊裕二大尉(士56期 秋田県出身)以下10数名となった。アメリカ軍はハウ高地から幸地にかけて野戦築城を施し守備を固めた。しかし切り通しから140高地と呼ばれる陣地は依然、22連隊が死守していた。この陣地の守兵の中には、日支事変における実戦経験者数名を含めて、もっとも頼もしい下士官数名がいた。彼らはこれまでと同じように、敵の攻撃を撃退し続けていた。

アメリカ軍総攻撃[編集]

5月11日、米軍の総攻撃が開始された。米軍はすでに沖縄本島北部の攻略を完了しており、この総攻撃にはアメリカ海兵隊 第1師団、第6師団、アメリカ陸軍第77師団、第96師団、第7師団が投入される。22連隊は、首里に中央突破を仕掛けてくるアメリカ第77師団と対戦した。

5月11日から15日にかけて、22連隊は石嶺地区で防戦にあたり、連日アメリカ軍の攻勢を撃退していた。140高地(米称FLAT TOP 現:那覇市首里石嶺町2丁目市営住宅給水塔)を中心として第2大隊平野大尉以下奮戦したが、5月15日時点で、140高地の残兵は20数名となり、32連隊伊藤大隊の増援を受け、戦車27連隊の90式野砲4門の支援砲撃で戦線を維持することができた。

5月16日、歩兵第22連隊第1大隊全将兵が疲労困憊の中、アメリカ軍の不意の手榴弾突撃により第1大隊壊滅。小城大隊長は、洞窟内で拳銃自決を図るが、爆薬が投入され意識消失するも意識回復後、奇跡的に洞窟を脱し、弁ヶ岳の22連隊長吉田中佐に合流した。

5月17日、140高地の頂上が一時米軍に占領されたが、夕刻までに撃退した。

5月18日、140高地は火炎戦車を伴う米軍に包囲され、馬乗り攻撃を受けた。翌日には洞窟陣地が爆破された。翌々日には140高地で250体以上の日本兵の遺棄遺体を米軍により確認された。

5月20日、日本軍右翼部隊の歩兵第89連隊は、運玉森で壊滅した。第24師団長は22連隊を師団予備とし、歩兵第32連隊を中地区隊とすることを命じた。

5月21日、日本軍左翼部隊の歩兵第32連隊も事実上壊滅し、津嘉山に後退した。以後日本軍左翼の防御は、歩兵第32連隊から独立歩兵21大隊に変更された。日本軍の中央部隊である22連隊は善戦を続け、戦車第27連隊(連隊長 村上 乙中佐 士36期 愛媛県出身)の応援を受けて、首里北方石嶺、弁ヶ岳を堅持する。ただし、戦車第27連隊は、増援のための移動中に、砲撃により道路が破壊されて通行ができず、戦車から機関銃を取り外し、連隊の陣地に徒歩で移動してきた。戦車第27連隊は、沖縄戦唯一の日本軍戦車部隊であり、その増援に大きな期待をされていたが、実勢は八九式中戦車14輌と九五式軽戦車14輌しか配備されておらず、そもそも米軍戦車とは比較にならない弱装の日本軍戦車である。主力戦車は、先の総攻撃で壊滅し、残存の戦車も悪路にはばまれて機動すらできず、機関銃を担いだ戦車兵が応援にきたことに、前線の将兵は失望した。米軍は攻勢をさらに強化して、アメリカ第77師団の援護に第96師団も投入して首里攻略を狙った。

第1大隊長の小城大尉の回想を記す。「昼間は連日戦ってその間中、撃たれっ放しです。敵が攻めてくるのは午前一回午後一回です。それで疲れ切っているのに夜は壕を掘り、弾を取りに帰り、負傷者を後ろに下げてやったり、戦死者を仮埋葬で埋めたりと、やることはいっぱいあるわけです。そういう状態で飯も食えません。そこへ私たちの居た部落の女子青年団の人達がおにぎりを作ってカマスに入れて第一線まで運んでくれました。第一線の後ろは無事かというと、そうではありません。道路のめぼしい交差点は全て、日本軍が移動出来ないように一晩中弾を撃ってきます。交通遮断射撃とか、引っ掻き回すという意味で擾乱射撃と日本軍は言っていましたが、そんな生易しいものではなく、どの交差点にも間をおいて集中射撃が加えられます。そういう所をかい潜って女の子達がおにぎりを届けてくれました。そのおかげで、一日一食ですけれどご飯を食べて三週間以上、同じ陣地で頑張ったのです。 他の陣地が全部やられて私の大隊が、鉛筆芯の先の尖った所みたいな形で頑張っていたとき、軍司令部が押さえられそうになって危ないから戦線を縮小するから下がれということで下がりました。その時のことです。私の壕の地下に前の部隊の負傷兵が寝かされているというので何段も階段を下りて地下二階くらいのところまで行ってみると、そこに負傷兵が寝ていました。私が下りて行って「俺の大隊はここから下がるから米軍が来るぞ、君たちも下がりなさい。」と言ってよく見ると、豚の脂を燃やした灯のかたわらに女の子が一人だけで、負傷兵が三、四人を看護していました。そしてその女の子は「私はここに残ります。」と言うのです。私としてはもはや何も言うことができませんでした。海軍の沖縄根拠地隊司令官の大田実少将が、大本営へ最後の電報を打ったときに、沖縄県民はこんなによく戦った、戦後格別の御配慮をお願いしたい、と言っておられますが、その通りでした。軍と一緒にいなければ飯も食えないということもありましたが、先程のおにぎりを運んでくれた青年団といい、ひめゆり部隊だけではなく、多くの人達が各部隊毎に軍に協力して戦いました。」

撤退と連隊の玉砕[編集]

5月27日、首里の放棄が実施され、日本軍は沖縄本島南部に撤退を開始した。アメリカ軍の追撃は、一部の残留部隊による絶望的な抵抗と、豪雨によって阻止される。首里には、日本軍の負傷兵約1万名が収容されていたが、司令部の南部転進により約半数がその場で自決した。

5月29日、首里陥落。

5月31日、日本軍は沖縄本島南部に撤退を完了する。 22連隊は、喜屋武半島の真栄里に撤退し抗戦を続けた。 22連隊の最後の状況は、明らかでない部分が多いが、分散した状態で各個に粘り強く戦っていたものと思われる。

6月10日、22連隊長吉田中佐は、これまでの戦績を認められ大佐に昇進した。

6月15日まで22連隊の本部は、真壁タヂリガマの壕を使用していた。

6月18日、真栄里へ前線視察に訪れたバックナー将軍(w:Simon Bolivar Buckner, Jr.)は日本軍の狙撃によって戦死する。迫撃砲5発による破片で戦死したと公式発表された。

6月24日、22連隊長は連隊旗を師団司令部のある宇江城に後送のうえ奉焼した。明治天皇より軍旗を下賜され59年後のことである。その後、真栄里において米軍によって洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ22連隊本部全員が戦死した。翌日、沖縄本島守備の日本軍玉砕が日本国内に発表される。22連隊本部が全滅した後も、糸満南方の防衛を担った22連隊の兵士たちは、最後の一兵まで手榴弾を投げ続け徹底抗戦した。

慰霊碑[編集]

戦後、沖縄では歩兵第22連隊の将兵の慰霊のため、慰霊碑が建立された。

栄里之塔[編集]

昭和27年3月、22連隊玉砕の地に「栄里之塔」が建立された。所在はバクナー将軍慰霊碑がある丘のすぐ麓で、近隣に白梅の塔などの戦跡も点在している。2014年1月現在も付近では不発弾の捜索作業が続いている。

栄里之塔の碑文は以下の通り。

 歩兵第二二連隊は第三二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す  住民とともに勇戦奮斗せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和二十年六月十七日玉砕し悠久の大義に生く  終戦後真栄里部落民は本戦斗に協力せし住民並びに将兵の遺骨一二,〇〇〇柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う  昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会

山三四七四部隊慰霊之碑[編集]

昭和56年1月5日真壁タヂリガマに山三四七四部隊(歩兵第22連隊)の慰霊碑が建立された。しかし、敷地が個人所有地であり、地盤も損傷したことから平成15年11月3日、萬華之塔敷地内に移設された。

山三四七四部隊慰霊之碑の碑文は以下の通り。

 山3474部隊は歩兵第22連隊の戦時に於ける名称である。連隊長吉田勝大佐以下3千有余名は昭和20年 4月10日豊見城を出発戦闘配備につき、其の後幾転戦、6月下旬連隊本部の最後まで戦い抜いた。ここ、真壁タヂリガマの壕は 6月15日まで連隊本部があり戦傷患者収容の壕でもある。此の地に慰霊碑を建て、亡き戦友と住民の霊をなぐさめたいと考え、「土地所有者」の御厚意と関係者の方々の御協力により、部隊生存者の積年の悲願である碑を建立し諸霊をなぐさめ、もって不戦の誓いとし、永久の平和を祈念致します。

山雨之塔[編集]

歩兵第22連隊及び歩兵第89連隊の軍旗を奉焼した糸満市宇江城に建つ。

山雨之塔の碑文は以下の通り。

 大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和19年 8月、遙か北満より雨宮巽中将の統ぶる山兵団長駆沖縄の布陣に参加す。翌20年 4月 1日上陸せる米軍を迎撃、血戦 3か月に及んで刀折れ弾尽き 6月30日兵団長以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大儀に生く。茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を伝う。

愛媛之塔[編集]

日本軍沖縄守備隊司令部玉砕の地、摩文仁に建つ。歩兵第22連隊のほか他部隊で劣悪辛苦の中、勇戦敢闘した愛媛県出身将兵約2000名の遺功を讃える。なお犠牲者数には、沖縄へ進出中に輸送艦を撃沈され戦没した者、戦艦大和乗組員、神風特別攻撃隊搭乗員等は含まれていない。

愛媛之塔の碑文は以下の通り。

 過ぐる太平洋戦争最終の激戦場ここ沖縄の地に県人2,076名が壮烈な戦死をとげられたこの遺烈をたたえ冥福を祈って郷党相はかりはるかに故山の石を運び慰霊の塔を建てる  昭和37年10月

歴代連隊長[編集]

歴代の連隊長
(特記ない限り陸軍大佐
氏名 在任期間 備考
1 杉山直矢 1886.5.27 - 中佐、1890.6.大佐
2 上田有沢 1891.6.18 - 中佐、1893.11.大佐
3 富岡三造 1894.6.6 - 1901.11.3 中佐、1896.11.大佐
4 児島八二郎 1901.11.3 - 1903.3.21 中佐
5 青木助次郎 1903.4.2 - 1907.11.13 中佐、1903.12.大佐
6 藤井幸槌 1907.11.13 - 1909.1.28
7 奥村信猛 1909.1.28 - 1910.5.14
8 岩田正吉 1910.5.14 - 1911.8.8
9 大多和新輔 1911.8.8 - 1916.8.18
10 梅津喜一 1916.8.18 -
11 井上第五郎 1919.7.25 -
12 鈴木新之丞 1920.6.1 -
13 松田善衛 1921.10.11 -
14 今枝内蔵之助 1924.2.4 -
15 継屯 1925.3.18 -
16 山岡重厚 1928.3.8 -
17 酒井鎬次 1929.8.1 -
18 山脇正隆 1931.8.1 - 1932.8.1
19 七田一郎 1932.8.8 -
20 本多政材 1933.8.1 -
21 田北惟 1935.8.1 -
22 永津佐比重 1937.8.2 -
23 村治敏男 1938.7.15 -
24 小松崎力雄 1939.8.1 -
25 今関靖夫 1940.12.2 -
26 田中幸憲 1941.10.15 -
吉田勝 1945.3.9 - 6.17 戦死

編成(昭和20年当時)[編集]

  • 歩兵大隊3個 
    • 歩兵大隊 人員799名 
      • 大隊本部 人員55名 大隊通信隊 六号無線(携帯用)
      • 歩兵中隊3個 179名×3 中隊長中尉 中隊指揮班20名 三八式歩兵銃九六式軽機関銃×9、八九式重擲弾筒×9
        • 小隊52名×3個 小隊長少尉
          • 分隊×4個 分隊長軍曹 1個分隊は分隊長以下13名、につき九六式軽機関銃1丁。1名につき九九式手榴弾4個装備
      • 機関銃中隊1個 137名 中隊長中尉 九二式重機関銃×8
        • 機関銃小隊×3個 小隊長少尉 九二式重機関銃×4丁(機関銃小隊は、歩兵中隊に編入されて行動する)
          • 機関銃1個分隊15名
      • 大隊砲小隊1個 70名 70m九二式歩兵砲×2
        • 大隊砲分隊 分隊長以下11名で1門を運用
    • 歩兵砲(連隊砲)中隊1個 75mm四一式山砲×4門
    • 速射砲中隊1個 60名 九四式37mm速射砲 ×4門
    • 連隊通信隊 通信中隊1個 九二式五号無線機(手動発電、伝搬距離約60km)、九四式無線機、九六式無線機

歩兵第二十二聯隊歌[編集]

1 時は明治の十九年   八月十有七日に   協力同心帝國を   保護せよかしとのたまひて   さつけ給ひし我か軍旗   聯隊長はかしこみて   死力をつくし國家をは   守りまつらんと奉答し   拝受せられし我か軍旗   光かかやく我か軍旗

2 二十七年征清の   軍(いくさ)おこるや仁川に   上陸なして平壌を   おとしいれたる旗風に   鶏林八道なひかして   満州の野に進入し   しはしは敵とたたかひて   うちやふりつつ   おひまくり   遼西まても攻め入れり   田庄台まて攻めぬけり

参考文献[編集]

  • 『日本陸軍連隊総覧 歩兵編(別冊歴史読本)』新人物往来社、1990年。
  • 原 剛『明治期国土防衛史』錦正社、2002年。
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 客野澄博著『二十二聯隊始末記』1972年 愛媛新聞社
  • 官報

関連項目[編集]