義烈空挺隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
出撃直前に握手を交わす義烈空挺隊の奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)。

義烈空挺隊または義号部隊とは、沖縄戦期間中の1945年5月24日に沖縄の読谷飛行場への強行着陸と破壊を目標とした義号作戦に用いられた大日本帝国陸軍空挺部隊である。

概要[編集]

義烈空挺隊強行着陸時の読谷飛行場
沖縄に強行着陸した後の九七式重爆。アメリカ軍が撮影した写真。

1945年(昭和20年)5月上旬、陸軍第6航空軍が海軍とも協議して義号作戦を策定した。

「義号部隊ヲ以テ沖縄北、中飛行場ニ挺進シ敵航空基地ヲ制圧シ其ノ機ニ乗シ陸海軍航空兵力ヲ以テ沖縄附近敵艦船ニ対シ総攻撃ヲ実施ス」

義烈空挺隊(挺進第1連隊より抽出の1個中隊基幹)は昭和19年12月、B-29戦略爆撃機の発進基地であるサイパン島アスリート飛行場攻撃を主任務とし、隊長・奥山道郎大尉以下、陸軍中野学校出身者10名を含む136名で編成された部隊であったが、中継地点である硫黄島方面の戦況悪化により、数度の出撃中止や攻撃目標の変更を経た後、昭和20年5月沖縄戦への投入が決定された。

輸送任務にあたる第三独立飛行隊隊員32名も、サイパン攻撃計画時は主任務である部隊輸送に加え着陸後のB-29奪取任務が付加されていたが、沖縄では着陸後奥山大尉の指揮下に入り戦闘する事となった。

隊員は将校も含め墨染めの迷彩を施した兵用の服を着用、一〇〇式機関短銃を含む各種小火器、手榴弾10~15発を詰めた弾帯や雑のう、破甲爆雷、二瓩柄付き爆薬などを装備していた。

その攻撃要領は敵大・中型機には胴体に帯状爆薬を装着させ破断するか、柄付き爆薬を主翼下面に吸着させて桁を破壊する。また小型機には、手榴弾・爆雷を機体に投げ入れて爆破する。施設、軍需資材は爆破または焼夷攻撃を行うというものであった。この義烈空挺隊を空輸する第三独立飛行隊は諏訪部忠一大尉以下32名、九七式重爆撃機12機で編成された。 爆撃機一機当たりの搭乗数は、飛行隊隊員2~3名、空挺隊員11~12名であった。

5月24日18:50、諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃した。

同日22:11頃、諏訪部機より突入を知らせる最後の無電「オクオクオクツイタツイタツイタ」があり、先導した重爆隊により熊本を発った12機のうち6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされた。残りの4機は発動機の不調などにより目的地に辿り着けず途中で帰還している。戦後の日本側の戦史でも、しばらく戦時中のまま「北(読谷)飛行場に6機、中(嘉手納)飛行場に2機突入」の記録が残った。

他方、アメリカ陸軍省の記録[1]からは、24日22:30頃、伊江島の方向から義烈空挺隊のものと思われる双発爆撃機5機が低空で侵入した事が分かっている。このうち北飛行場(読谷飛行場)に1機のみ、胴体着陸・挺身攻撃に成功。この機体は滑走路に胴体着陸した状態の写真や、機体の撤去作業中の動画などが記録映像に残っておりよく知られている。飛行中に対空砲を浴びて戦死し機内で突っ伏した状態の搭乗員の写真なども残っている。アメリカ軍の記録などによると、その他の機体は激しい対空砲火により読谷飛行場上空で炎上撃墜され、遺体数も確認されている(後述)。

胴体着陸を試みた爆撃機のうち、最後に突入した一機が対空砲火をかい潜って読谷飛行場の滑走路に胴体着陸、10名程の完全武装の空挺隊員(及び飛行隊員)が予定通りに航空機に対する破壊活動を行った。F4U戦闘機2機、C-54輸送機4機、PB4Y-2爆撃機1機が破壊され、B-24爆撃機1機、F6F戦闘機3機、F4U戦闘機22機が損傷し、合計26機の被害が後の調査で確認された。これには米軍自身の無秩序な発砲によると思われる被害も含まれている。しかし、海兵隊と陸軍の記録には異なる部分もあり、正確な損害は不明である。さらにドラム缶600本の集積所2箇所が爆破され炎上、70,000ガロンの航空機用燃料が焼失している。

翌25日13:00頃、残波岬で射殺された日本兵が義号部隊最後の一人と考えられた。

この日本陸軍空挺部隊の北(読谷)飛行場攻撃騒ぎの中、アメリカ軍側は2名が戦死、18名が負傷した。

米軍の調査によると、確認された日本兵の死者は北(読谷)飛行場で13名(胴体着陸に成功した機体内で発見された3名を含む)。飛行場周辺で撃墜された他の4機には、各機とも14名ずつが乗り組んでいたと考えられ、全員が炎上した機体内やその周辺で死亡しており、その総数は69名であった。

6月12日に陸軍第6航空軍が発信した戦闘概報によると「義号作戦ニ参加シ北中飛行場ニ強行着陸ス任務終了後敵中突破「具志頭(島尻郡八重瀬町)」附近ニ到達セル一名」の兵士が戦果を報告したとされるが、その真偽と隊員の氏名は判明していない。[2]

攻撃成功により少佐に昇進した奥山隊長は、戦死認定の後に二階級特進し、最終階級は大佐となっている。

以上のように飛行場の機能に一定の打撃を与えることに日本軍は成功したが、天候不良のためこの機会を生かすことができなかった。第6航空軍司令官の菅原道大は作戦について、日記で「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と評している[3]

編成[編集]

階級は出撃時の階級で表記する。

番機 機体番号 操縦手 指揮官 乗員数 結果 備考
1番機 4484 諏訪部忠一大尉 奥山道郎大尉 14名 被撃墜、全滅 陸軍中野学校二俣分校卒業者4名搭乗
2番機 4132 酒井敏夫少尉 宇都木伍郎中尉 14名 被撃墜、全滅
3番機 4136 新妻幸雄少尉 石山俊雄少尉 14名 被撃墜、全滅
4番機 6540 町田一郎中尉 原田宣章少尉 14名 突入成功、全滅
5番機 4082 菊谷少尉 菅田寿美少尉 14名 突入断念、帰投
6番機 4138 松尾克己曹長 梶原哲己少尉 14名 被撃墜、全滅
7番機 6156 中原正徳准尉 棟方哲三少尉 14名 被撃墜、全滅
8番機 4475 小川軍曹 山田満寿雄中尉 14名 突入断念、帰投
9番機 6547 久野正信中尉 渡部利夫大尉 14名 被撃墜、全滅
10番機 6001 小野曹長 熊倉順策少尉 14名 突入断念、帰投
11番機 4161 吉沢曹長 村上信行中尉 14名 突入断念、帰投 不時着時に1名戦死
12番機 4307 木村正雄曹長 渡辺祐輔少尉 14名 被撃墜、全滅

12機中、1機突入成功、4機突入断念、7機被撃墜
168名中99名戦死(58%)

隊員の主な武装[編集]

隊員の辞世の句・言葉[編集]

義烈空挺隊

吾か頭 南海の島に 瞭さるも

我は微笑む 國に貢せば

— 奥山 道郎大尉

奥山に 名もなき花と 咲きたれど
散りてこの世に 香りとどめん

— 今村 美好曹長

第三独立飛行隊

武士の 行くべき途は ただひとつ

散って甲斐ある 命なりせば


五月雨の 落つる雫も 今日はなく
我の征途を 守るらん

— 久野 正信中尉
待つありて 眺むる月の 涼しさよ

また咲きいでん 靖国のみや

— 新妻 幸雄少尉
よしや身は 千々に散るとも 来る春に

また咲きいでん 靖国のみや

— 関 三郎軍曹

義烈空挺隊を描いた作品[編集]

参考文献[編集]

  • 米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社、2006年
  • 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』講談社、2009年

脚注[編集]

出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 『沖縄 日米最後の戦闘』米国陸軍省編
  2. ^ 海軍機密第一二一三四〇番電
  3. ^ 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』講談社、2009年、p.201

外部リンク[編集]