義烈空挺隊

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出撃前の閲兵を受ける義烈空挺隊指揮官奥山道郎大尉(左)と輸送機隊編隊長諏訪部忠一大尉(右)、軍服の色の濃い部分は迷彩

義烈空挺隊とは、敵飛行場に輸送機で強行着陸して、敵航空機と飛行場施設を破壊することを目的とした大日本帝国陸軍空挺部隊で編成された特殊部隊である。義烈空挺隊は、沖縄戦期間中の1945年5月24日に、連合軍に占領されていた沖縄嘉手納飛行場と読谷飛行場に攻撃を行った。

編成[編集]

日本軍の空襲で撃破されたサイパン島イズリー飛行場のB-29

1944年7月にサイパンの戦いにより、サイパン島がアメリカ軍に占領されると、同島の飛行場から出撃した戦略爆撃機B-29による首都圏への空襲の懸念が一気に高まった。そのため、日本軍は1944年11月2日の陸軍航空隊九七式重爆撃機9機による爆撃を皮切りにして、サイパン島を空から執拗に攻撃し、東京が初空襲を受けた3日後の11月27日には報復攻撃として、陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機2機がイズリー飛行場を爆撃し、完全撃破4機と16機を損傷させて、2機とも無事に生還した。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を5機撃破し、また迎撃してきたP-47の1機を撃墜したが全機未帰還となった。アメリカ軍イズリー飛行場は度重なる空襲で大混乱状態となり、損傷機も多数に上ったため、日本本土空襲に出撃するB-29の機数を減少せざるを得なくなった[1]

陸海軍爆撃機のイズリー飛行場への攻撃が成功した11月27日に、陸軍教導航空軍は、サイパン島に空挺部隊で編成した特殊部隊を送り込み、地上でB-29を殲滅しようと計画し[2]挺進集団に特殊部隊の編制を命じた。挺進集団の河島慶吾大佐は挺進第1連隊から一個中隊を選抜して編成することとしたが、河島と同様に挺進集団が編成されて以来在籍していた奥山道郎大尉が部隊指揮官として適任と考えて、挺進第1連隊長の山田秀男中佐を呼ぶと、挺進第1連隊長からの特殊部隊の編成と奥山を指揮官とすることを命じた。奥山は空挺部隊の経験が長いだけではなく、挺進第1連隊の中でも工兵を主体として編成されていた第4中隊の中隊長でもあり、破壊工作にはうってつけの人物であった[3]

山田は奥山を呼ぶと、サイパン島への攻撃部隊の差し出しを命じられたことや、この作戦の意義を説明したが、説明の途中ですべてを察した奥山が山田の言葉を遮るように「その指揮官は私がやりましょう」と志願した。特殊部隊の人数は教導航空軍から120名と指定されており、奥山の第4中隊の人数とほぼ同数であり、山田は奥山に第4中隊をそのまま特殊部隊に編成するか?と意見を求め、奥山も一旦は同意したが、その後の協議により、他の中隊からも40名を第4中隊に異動させて、その中から126名を選抜して特殊部隊を編成して、残った第4中隊はそのまま存続させることとなった[4]。奥山らは、12月5日に宮崎県川南駅を出発し、12月8日に豊岡に到着した。豊岡では奥山らの特殊部隊は「神兵皇(すめら)隊」と名付けられ、奥山はここで初めて自分たちの任務の詳細を神兵皇隊の将兵らに伝えている。豊岡の松林の中にはB-29の原寸大のモックアップが作られて、隊員らはそのモックアップで爆破訓練を繰り返した[5]

日本軍は陸軍中野学校諜報防諜などの教育を受けた諜報員を南方の島々に配置し、連合軍の侵攻により占領されたのちも同地に留まらせ、敵情などの情報収集を行っていた。これを「残置諜報員」と呼んだが、そのうちの1人が太平洋戦争終結から29年の時を経て、フィリピンルバング島から日本へ帰還を果たした小野田寛郎となる。サイパン島にも残置諜報員は配置されていたが、守備隊が玉砕してからは消息が途絶えた。大本営はB-29の出撃状況や日本軍の空襲による効果など、サイパン島からの情報を必要としており、陸軍中野学校卒の諜報員を空挺隊の突入の際にサイパン島に潜り込ませることを計画した[6]

1944年11月末に、ゲリラ戦や破壊活動を専門的に教育する陸軍中野学校二俣分校で初めての卒業式が行われたが、卒業式の数日前に生徒らに「サイパン島行きを志願するものはいないか?」と募集がかけられ、熊倉順策見習士官他5名が志願した。志願した熊倉らに二俣分校長の熊川中佐は「名もなく死んでくれ」と告げている。その後陸軍中野学校本校を卒業した1年先輩の石山俊雄少尉ら2名が合流、総勢8名となった中野学校卒業生は大本営陸軍部付という役職となり、陸軍参謀本部に出頭し梅津美治郎参謀総長に着任を申告したが、梅津は熊倉らを見るなり「おお、君たちが行ってくれるのか、そうか、そうか」と慈父のような眼差しで一同を見回すと、全員を前にして「大本営から初めて直接特攻隊員を出す重大な作戦である。選ばれた貴官らは、中野学校出身者である。十分、自重自愛し、あらゆる困難を克服して任務達成に活路を開くことを記念する」と訓示した[7]。その夜には梅津と次長を筆頭とした参謀本部幕僚が列席した壮行会も開催された。梅津は各人の家庭の状況などを親身になって聞き取り「九州から部隊が来るまで郷里に帰ってなさい」と帰省を認め、墓参のために自ら卓上の菊花を手折って8名に手渡すという配慮ぶりだった[8]。さらに部下参謀に「見習士官は特例をもって任官できるよう、陸軍省に交渉せよ」と命じている。梅津の鶴の一声で熊倉ら二俣分校卒業の6名の見習士官は特例で少尉に昇進し、さらに通信担当の2名の下士官も加わり合計10名となった中野学校卒業生は、豊岡で奥山らと合流し、神兵皇隊は合計136名となった[9]。サイパン島への残置諜報員としての潜入任務は中野学校の諜報員10名だけの秘密として、他の空挺隊員には口外しなかった[10]

熊倉ら陸軍中野学校の諜報員が奥山ら神兵皇隊に合流したときには、空挺隊員は猛訓練に明け暮れていたが、諜報員は鍛え抜かれた空挺隊員の体格を見ると「こんな逞しい兵隊が日本にいたのか」と驚いている。諜報員はサイパン島に潜入するという特別任務を命じられていたが[11]、組織的には奥山の指揮下となった。奥山は畑違いの諜報員に気さくに接して、「貴様らは何が何ができるのだ?」との問いかけをしてきたので、「大したことはできません」と諜報員が答えると、奥山は「忍術でも使えると思ったが、ダメか、ワッハッハ」と豪快に笑ってみせたという。奥山の人柄に諜報員らのエリート意識は即座に吹き飛び、空挺隊員と同じB-29爆破の訓練を連日行ない、空挺隊員と諜報員の一体感が高まった[12]。しかし、潜入任務については奥山にも口外はできず、任務の検討や計画は奥山ら空挺隊員には内緒で諜報員だけで行った[13]。その後、度々航空軍の参謀がやってきて、奥山ら空挺隊員にも「死に急ぐな、ゲリラ戦をやれ」と指示してきたが、奥山は諜報員らに「後のことはお前らに任す」と言ってまともに取り合わなかった[14]

航空機の爆破訓練をおこなう義烈空挺隊員

神兵皇隊をサイパンまで空輸するのは、新海ら第二独立飛行隊と同様にサイパン島空襲任務を行ってきた第三独立飛行隊(編隊長諏訪部忠一大尉)となった。第三独立飛行隊は爆撃任務で使用してきた一〇〇式司令部偵察機の爆撃機改造型から、九七式重爆撃機に機種を変更することになったが、神兵皇隊は空挺部隊ではあったが落下傘で降下するのではなく、空挺隊員が搭乗する輸送機がアメリカ軍飛行場に強行着陸し、その後に隊員が機体から飛び出して破壊工作を行うという手筈になっていた。アメリカ軍飛行場に強行着陸すれば搭乗員の玉砕は避けられず、第三独立飛行隊搭乗員らの士気はなかなか上がらなかったが、撃墜されたB-29から詳細な取扱説明書が入手できたので、搭乗員には「敵B-29を奪取し、これを操縦して帰還すべし」という新しい任務が加えられて、第三独立飛行隊の士気は大いに上がった[15]

1945年に入ると、神兵皇隊はサイパン島への出撃基地となる浜松飛行場に進出したが、部隊名称は教導航空軍により「義烈空挺隊」に変更された。B-29爆破には、破甲爆雷、二瓩柄付き爆薬、帯状爆薬などが使用される計画であったが、大型機であるB-29の上縁は地上4.5mにあり爆薬を設置するのも簡単ではなかった。しかし、運動神経抜群の空挺隊員は連日の厳しい訓練で次第にコツを掴むようになり、帯に爆薬が取り付けてあり、それを投擲して機体に巻き付けて爆破する帯状爆薬については、最初は投擲しても機体に届かない隊員もあったが、投げ縄の要領で投擲し皆上手に機体に巻き付けられるようになった。柄付き爆薬については、爆薬に取り付けてある吸盤が機体にうまく吸着するか不安であるため、そのまま自爆した方がいいという意見も出されたが、指揮官の奥山は自爆を否定「一人で最低5機は屠れ」と命じ、隊員は吸盤で爆薬がB-29の機体吸着後に、爆薬に点火して退避することとしている[16]

義烈空挺隊の練度は教導航空軍が口を挟む余地のないほどに高められていたが、義烈空挺隊がサイパン島への出撃のため浜松に進出した1945年1月には、日本軍によるサイパン島空襲の中継基地として使用されて、義烈空挺隊も使用するはずであった硫黄島が、アメリカ軍の連日の空襲で中継基地として使用するのが困難となっていた。1月17日から義烈空挺隊は出撃準備を整え、遺品、遺書、遺髪を管理班に託したが、22日まで待機したのにも関わらず出撃命令は出なかった。その1月22日に一旦作戦延期と決まり、義烈空挺隊は訓練を再開したが、出撃の見通しが立たないなかで士気は上がらず、いつしか隊員らは出撃もせず毎日美食している自分らを、「義烈空挺隊」の部隊名を捩って「愚劣食放題」と自虐的に自称している。その後、1月27日に義烈空挺隊は古巣の宮崎県川南町に帰ったが、1月30日にはアメリカ軍の硫黄島への侵攻の可能性が高まったことから、義烈空挺隊によるサイパン攻撃は正式に中止となった[17]。1945年2月16日には硫黄島にアメリカ軍が上陸して硫黄島の戦いが始まったが、義烈空挺隊に3月19日~20日に硫黄島の千島飛行場に突入する任務が命じられた。しかし硫黄島には小型の戦闘機が多数配備されており、急遽、小型機の破壊工作の訓練を行わなければならなくなった。中野学校の諜報員は硫黄島ではサイパンとは違い残置諜報もゲリラ戦もできないため、これでは義烈空挺隊に選ばれた意味がなく犬死ではないかと感じたが、表立って言えば、奥山ら空挺隊員に任務を隠していたと咎められ、隊の団結を乱すことになりかねないので黙って命令にしたがうことにした[18]。義烈空挺隊は川南から茨城県つくば市の西筑波飛行場に移動し出撃準備を整えていたが、硫黄島の戦況悪化もあって硫黄島への出撃も中止された[19]。しかし、小型機の爆破訓練はこの後の任務に活かされることとなった。

出撃[編集]

義烈空挺隊員、軍刀を持っている隊員の装備は一〇〇式機関短銃

1945年(昭和20年)4月には沖縄に連合軍が侵攻し沖縄戦が始まったが、5月になって沖縄に日本軍が構築しながらアメリカ軍に奪取された各飛行場にアメリカ軍の陸軍航空隊や海兵隊の航空機多数が進出しており、日本軍の特攻を主体とする沖縄方面への航空作戦の大きな障害となっていた。日本軍は陸軍の重砲による砲撃や、陸軍重爆撃機、海軍芙蓉部隊などの空襲により執拗に沖縄のアメリカ軍飛行場を攻撃し続けていたが、飛行場機能に支障をきたす様な損害を与えることはできず、逆にアメリカ軍の航空戦力は強化される一方であった[20][21]

大本営は、第32軍の沖縄南部への撤退と特攻作戦の援護のため、残された航空戦力を集中して沖縄のアメリカ軍飛行場を攻撃することとし、5月下旬にに開始される予定の菊水七号作戦で義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺特攻作戦(義号作戦)を決行することとし、義烈空挺隊は西筑波から熊本県健軍に移動した[22]。参謀本部は、義烈空挺隊輸送機として九七式重爆撃機12機、飛行場夜間爆撃機として四式重爆撃機12機、九九式双発軽爆撃機10機の投入を命じ[23]、海軍の第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将は義号作戦を援護するため、一式陸上攻撃機17機、銀河13機[24]、それに護衛として夜間戦闘機12機の投入を決定した[25]。義号作戦とそれに伴う夜間爆撃は、過去最大規模での沖縄のアメリカ軍飛行場への夜間攻撃となった。宇垣はより爆撃効果をあげるため、爆撃機に時限爆弾を搭載させて出撃させている[26]

義号作戦の決定には紆余曲折があった。義烈空挺隊は第六航空軍の指揮下ではあったが、その使用には大本営の許可が必要であった。第六航空軍は義烈空挺隊投入の機会をうかがってきたが、4月中旬になって沖縄のアメリカ軍飛行場の強化が進むと投入の好機と考えて、第六航空軍司令官の菅原道大大将は大本営に高級参謀の井戸田勇大佐を派遣し、使用の許可を求めた。井戸田の陳情に対して参謀本部第1部長宮崎周一中将は、「近日中に現地に出向くからその時に検討しよう」と返事を先延ばしした。その後も菅原は矢のように催促を行った結果、5月2日に「義号作戦」の準備命令は下ったが肝心の作戦命令はまた先延ばしとなった。大本営が義烈空挺隊の投入を渋ったのは、5月3日に開始された第32軍による総攻撃が失敗に終わり、見込みの薄い沖縄に日本陸軍最精鋭の義烈空挺隊を投入するのは惜しいと考えて、きたる日本本土決戦のために温存しておこうという目論見があったからとされる。その後に約束通り宮崎が福岡に訪れたが、手ぐすね引いて待っていた第六航空軍は、司令官の菅原自ら宮崎に対して「特攻隊に指定されて既に半年、計画しては取りやめになること再三に及ぶは、その心情忍び難い」と決断を即した。宮崎は即答を避けたが、東京に帰るや即時に義烈空挺隊投入を決定して「義号作戦認可せらる」という許可の電文を打電させた。菅原らは参謀本部の許可は期待しておらず、翌5月18日に九州に訪れる予定であった陸軍大臣の阿南惟幾大将にも直談判する準備中であった[27]。 一旦作戦開始が決まると、沖縄戦最大規模のアメリカ軍飛行場への夜間攻撃となる本作戦に大本営も大きな期待を寄せている[28]

出撃前に互いに軍装を整える義烈空挺隊員

5月19日に第六航空軍司令部で奥山と諏訪部も交えて、義号作戦に関する会議が開かれ作戦計画が決定した[29]

一、方針

隊ハX日Y時ヲ期シ我爆撃隊主力ノ制壓爆撃ニ膚接シ主力ヲ以テ北飛行場一部ヲ以テ中飛行場ニ強行着陸シ一挙ニ敵飛行基地ヲ爆滅ス 爾後遊撃戦闘ニ移行シ敵飛行基地及後方ヲ撹乱シ全搬ノ作戦ヲ有利ナラシム

二、攻撃實施

其一、第一期攻撃(飛行場竝周辺地区攻撃)

(一)戦闘指導要領

  1. 、X日Y時ヲ期シ主力八機ヲ以テ中飛行場ニ強行着陸シ重点ヲ在地敵飛行機竝ニ軍需品ノ破壊焼却ニ置キ併セテ揚陸場附近ノ物資集積所ヲ攻撃シ一挙ニ敵飛行基地ヲ攻撃滅ス
  2. 、北飛行場攻撃隊ハ強行着陸ニ膚接ノ重点ヲ在地飛行機ノ破壊ニ置キ、併セテ敵司令部及同地周辺地区ノ軍需品集積所ヲ攻撃ス
  3. 、着陸直後有力ナル一部ヲ以テ敵司令部及通信所ヲ急襲シ高級将校及指揮中枢ヲ崩壊セシム
  4. 、爾後海岸方向ニ戦果ヲ擴張シ揚陸地点附近ノ物資集積所ヲ攻撃ス
  5. 、中飛行場攻撃隊ハ強行着陸ニ膚接シ重点ヲ在地飛行ノ破壊ニ置キ併セテ同地周辺地区ノ物資集積所ヲ攻撃シ爾後海岸方向ニ戦果ヲ擴張セシム
  6. 、予定滑走路以外ニ着陸セル場合ニ於テモ速ニ担任地区ニ至リ任務完遂ニ努メシム
  7. 、目的達成セバ(我爆撃隊ノ制壓爆撃下)一斉ニ戦場ヲ離脱シ北飛行場東北方△二二〇・三東側谷地ニ集結シ第二期攻撃(遊撃戦闘)ヲ準備ス 離脱時期ハ(X+一日Y+六時ト予定シ)青吊ヲ(併用ス)
出撃前に黒色の染料で軍服に迷彩を施す義烈空挺隊員

以上の通り、義烈空挺隊の任務はアメリカ軍飛行場の撃滅と、海岸での揚陸物資の破壊とされていた。隊員は将校も含めて兵用の服を着用し黒色の染料で迷彩を施した。隊員らが黒色の染料で互いの軍服に迷彩を施している様子が1945年6月9日第252号の日本ニュースに遺されている[30]一〇〇式機関短銃を含む各種小火器、手榴弾10~15発を詰めた弾帯や雑のう、破甲爆雷、二瓩柄付き爆薬などを装備し、輸送機一機当たりの搭乗数は、飛行隊隊員2~3名、空挺隊員11~12名であった。 義烈空挺隊員はサイパンのB-29破壊任務訓練で、敵大・中型機には胴体に帯状爆薬を装着させ破断するか、柄付き爆薬を主翼下面に吸着させて桁を破壊する技術、硫黄島での戦闘機破壊任務訓練では、小型機に対する手榴弾・爆雷を機体に投げ入れて爆破する技術を習得しており、沖縄の飛行場に配備されている大型機、小型機いずれにも対応できる爆破技術を身に着けていた。また飛行場施設、軍需資材は爆破または焼夷攻撃を行うこととしていた。輸送任務にあたる第三独立飛行隊の搭乗員32名も、サイパン攻撃計画時は主任務である部隊輸送に加え着陸後のB-29奪取任務が付加されていたが、沖縄では着陸後には編隊長の諏訪部以下全員が奥山大尉の指揮下に入り空挺隊員と共に地上戦闘する事となった[31]。奥山は第三独立飛行隊まで道連れにすることはないと考えており、編隊長の諏訪部に「何とか友軍の占領地まで脱出してみろ」と何回も進めたが、諏訪部は「未練の残ることは止めましょう」と義烈空挺隊と一緒に戦うことを選んでいる[32]

出撃直前に完全装備で閲兵を受ける義烈空挺隊員

当初は第32軍が南部撤退を開始する予定の5月22日夜に出撃する計画であったが天候不順により翌23日に延期、しかし翌23日も雨天は続いて再延期となった。ようやく天候が回復した5月24日18:50、諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃した。出発に先立って奥山が行った最後の訓示が日本ニュース1945年6月9日第252号に遺されている[33]

出撃直前に握手を交わす義烈空挺隊の奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)。
「出撃に当たり、隊長として最後の訓辞を与える。待望の出撃の日は遂に到来をした。平生、訓練の成果を発揮をして、敵アメリカの心胆を震駭し、全軍決勝の先駆けとなるはまさに今日である」

義烈空挺隊の出撃の報告を受けた第32軍司令官牛島満中将は、撤退準備に忙殺されながらも義烈空挺隊に向けて感謝電報を発している[34]

「壮烈雄渾なる義号、並びに菊水7号作戦の実施を感謝し、衷心より必成を祈念する。軍が目下為し得る限りの努力をなし、これに策応を期しつつあり」

突入[編集]

健軍飛行場から出撃した12機の九七式重爆撃機は三角から沖縄西方海上に直進後、21:10に約90°の直角に変針し、22:00に沖縄本島に達する計画であった[35]。第60戦隊の杉森秀男大尉が搭乗する四式重爆撃機が第三独立飛行隊を沖縄まで誘導し、義烈空挺隊の突入寸前に照明弾を投下する手筈となっており、杉森機は手筈通りに照明弾2発を投下し「照明弾2発投下」と無線報告をしたが未帰還となった[36]

12機の九七式重爆撃機のなかで4機が発動機などの不調により引き返し沖縄に向かったのは8機となった。行動秘匿のために義烈空挺隊からの通信は、沖縄西方海上での変針時、沖縄本島到着、只今突入の3回とあらかじめ決めていたが、21:10の変針、22:00の沖縄本島への到着予定時刻にはいずれも連絡なく、無線を聞いていた第六航空軍司令部は重苦しい雰囲気に包まれた。その後、22:11になってから奥山隊長機から「2211只今突入」との入電があり、司令部と隣室に控えていた報道班員や新聞記者らはドッと歓声を上げた。しかしその無電が義烈空挺隊から発された最初で最後の無電となった[37]。 先導した重爆隊により、6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされた[38]。その後にアメリカ軍から平文で読谷飛行場の騒乱を伝える電文が次々と発信されるのを日本軍が傍受した。「読谷飛行場異変あり」「在空機は着陸するな」「島外飛行場を利用せよ」との電文の他、慌てた管制官が在空機を空母に誘導しようとし機動部隊の位置を暴露する混乱ぶりだった。アメリカ軍の混乱状況から判断して義烈空挺隊は果敢な攻撃を実施したものと判断されて、軍司令官の菅原は大本営に24:00に作戦成功の第一報を入れている[39]。翌5月25日に一〇〇式司令部偵察機が沖縄を偵察したが、読谷飛行場は機能喪失、嘉手納飛行場は使用制限を受けている模様であり、同日もなお義烈空挺隊は飛行場付近で敢闘中と判断された[40]

義烈空挺隊強行着陸時の読谷飛行場

読谷飛行場のアメリカ軍兵士は日本軍の爆撃機が自らの意思で着陸しようとしていることに驚愕し、猛烈な対空砲火を浴びせた[41]。アメリカ陸軍の沖縄戦公式戦史「United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle」によれば、6度にも及ぶ日本軍機による空襲ののち、24日22:30頃、義烈空挺隊のものと思われる双発爆撃機5機が伊江島の方向から、低空で進入、対空砲でたちまちそのうちの4機が撃墜されたが、最後に突入した1機が機が対空砲火をかい潜って読谷飛行場の滑走路に胴体着陸、8名の完全武装の空挺隊員が機から飛び出すと八方に突っ走り、滑走路沿いに並んでいるアメリカ軍機の破壊工作を開始している[42]。アメリカ軍海兵隊の記録では、激しい戦闘により、アメリカ軍機9機が破壊炎上(F4U戦闘機3機、C-47輸送機4機、PB4Y-2爆撃機2機)、29機が損傷(PB4Y-2爆撃機2機、F6F戦闘機3機、F4U戦闘機22機、C-47輸送機2機)[43]、破壊されたC-47の1機はチェスター・ニミッツ海軍元帥の使いとして沖縄に来ていた太平洋艦隊司令部の幕僚チャールズ・J・ムーア少将の乗機であった[44]

燃料集積所も破壊されドラム缶600本の70,000ガロンのガソリンが焼き払われ、管制塔士官のケーレー中尉を含むアメリカ兵2名が戦死し18名が負傷した。負傷者の中には足を吹き飛ばされた海兵隊のパイロット2名もいた。また対空砲火を被弾した重爆撃機のうちの1機が高射砲に体当たりして、高射砲を操作していた海兵隊員8名が戦死している[45]。読谷飛行場はこのダメージにより翌朝8時まで使用不可となった。帰還した陸軍の重爆撃機搭乗員は、読谷飛行場が大混乱に陥り、次から次にアメリカ軍航空機が炎上していたと報告しているが[46]、重爆撃機搭乗員の報告を裏付けるように、アメリカ軍従軍記者もこの読谷飛行場の状況を「地獄さながらの混乱」と記述している[47]。残りの3機はどうなったのかはアメリカ軍の記録には記述はないが、嘉手納飛行場も打撃を被っており、第五航空艦隊司令部は、嘉手納飛行場は使用できないので沖合の空母に着艦せよというアメリカ軍の無線を傍受している[48]。陸海軍の爆撃機は同時に伊江島の飛行場も爆撃し、ここでも60名のアメリカ兵が死傷するなど大きな損害を与えている[49]

翌25日13:00頃、残波岬で射殺された日本兵が義号部隊最後の一人と考えられた。義烈空挺隊員が飛行場から離れた海岸線まで達していた理由については、「義烈空挺隊攻撃計画」の通り、アメリカ軍飛行場攻撃のあとは海岸まで達して揚陸物資を攻撃する計画であったからである[50]

さらにこれは「第一期攻撃」であり、第一期攻撃が成功したのちは、生存した義烈空挺隊員はそのまま沖縄にてゲリラ戦を展開していく計画で、これを「第二期攻撃」としていた[51]

其ノ二 第二期攻撃(遊撃戦)

(一)戦闘指導要領

  1. 、△二二〇・三―一六〇・〇東側谷地ニ遊撃據点ヲ占領シ有機的攻撃ニ依リ重点ヲ(北、中飛行場)ニ置ク敵飛行場後方撹乱ニ置キ敵ノシンタンヲ寒カラシメ(補給ヲ困難ナラシム)
  2. 、據点占領地域ハ別紙第下ノ如シ
  3. 、攻撃要領 イ、△二二〇・三―一六〇・〇ノ線及越来村北側地区ニ推進據点ヲ推進シ北中飛行場及物資集積所ニ對シ攻撃ス  ロ、攻撃地区ノ配當ハ概ネ第一期戦闘ニ準ズルモ細部ハ現指示ニ依ル
  4. 、攻撃時期ハ部隊ノ集結状況ニ應ジ決定スルモ概ネX+三日以降トシ時刻ハ夜間トス
  5. 、攻撃目標ハ在地飛行機輸送機関物資集積所トス
  6. 、企 秘匿ニ関シテハ特ニ據点竝ニ連結位置ノ秘匿ニ重点ヲ置ク
  7. 、連絡 各隊間ハ勉メテ相互連絡ニ依リ確保スルト共ニ左記要領ニ依ル イ、連絡場  1、久保南方二百米断崖部東端  2、比謝川最上流源点 ロ、時刻 1、日没一時間後ヨリ一時間 2、日出二時間前ヨリ一時間 ハ、要領 各據点毎連絡者ヲ派遣シ命令報告通報傳達ス
  8. 、給養補給 各據点毎ニ現地物資資材ノ獲得ニ依リ極力蓄積シ持久性ヲ保持セシム
  9. 、速ニ該方面ニ行動シアルト予想セラル球部隊トノ連絡ニ努ム

義烈空挺隊は北飛行場東北約にある220.3高地をゲリラ戦(遊撃戦)の拠点にしようとしていた。同高地は付近に深い谷があり潜伏するにはうってつけの地形で、生存した空挺隊員はそこを拠点とし、毎晩北飛行場や物資集積所を襲撃し命ある限り戦う計画であった[52]

陸軍中野学校の諜報員は、サイパン島攻撃のときとは異なり残置諜報員としての潜入任務は命じられておらず、純粋な戦闘員として作戦に参加していたが[53]、付近の山中には、すでに他の陸軍中野学校諜報員に率いられた第二護郷隊がゲリラ戦を展開しており、義烈空挺隊の諜報員も護郷隊と連携しゲリラ戦を展開する計画であったという指摘もある。 名護市史編さん係で陸軍中野学校と沖縄戦の関連を研究している川満彰は「彼らは生き残る計画だったと思うんですよ。一般の僕たちから見ていたら無謀な計画ではあるんだけれど(中略)彼らは生き残るつもりだった。遊撃戦を展開して、大本営、関東地区の爆撃をどうにかここで少しずつでもいいから食い止めるというそういったことが計画されていたんでしょうね」と、義烈空挺隊が単なる決死の特別攻撃隊ではなく、なるべく生存をはかり、長くゲリラ戦を展開してアメリカ軍の足止めを行う任務を帯びていたと指摘している[54]

沖縄に強行着陸した後の九七式重爆。アメリカ軍が撮影した写真。

アメリカ軍の調査によると、確認された日本兵の死者は北(読谷)飛行場で13名(胴体着陸に成功した機体内で発見された3名を含む)。飛行場周辺で撃墜された他の4機には、各機とも14名ずつが乗り組んでいたと考えられ、全員が炎上した機体内やその周辺で死亡しており、その総数は69名であった。義烈空挺隊員の遺体はアメリカ海軍設営隊が埋葬している[55]。義烈空挺隊員の遺体からは、アメリカ軍パイロットが就寝しているテントの位置までが記された詳細な地図が発見され、驚いたアメリカ軍は翌朝、スパイ対策の強化を命じている[56]。6月12日に陸軍第6航空軍が発信した戦闘概報によると「義号作戦ニ参加シ北中飛行場ニ強行着陸ス任務終了後敵中突破「具志頭(島尻郡八重瀬町)」附近ニ到達セル一名」の兵士が戦果を報告したとされるが、その真偽と隊員の氏名は判明していない。[57]

義烈空挺隊の突入は苦闘する第32軍が陣取る首里山上からも視認することができ、高級参謀の八原博通大佐も嘉手納、読谷飛行場方面で火の手が揚がるのを目撃している。八原は参謀らしく「軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場でなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである」と冷静に感想を述べているが、第32軍司令部将兵は、義烈空挺隊や連日飛来する特攻機から「地上部隊よ頑張れ。今夜もまた我々特攻部隊がやってきたぞ」語りかけられているように感じて、死闘の中で戦うのは我々のみではないとの感情を深く心に抱くことができたという[58]

奥山は出撃前に少佐昇進の内示があったが、少佐の階級章を一度も付けることはなく、両肩に付いていた大尉の階級章を外すと、出撃を見送った挺進第1連隊長中山勇大佐に託して出撃している[59]。戦死認定の後にさらに二階級特進し、最終階級は大佐となっている。

義烈空挺隊の突入を報じる北日本新聞紙面

以上のように飛行場の機能に一定の打撃を与えることに日本軍は成功したが、沖縄は義烈空挺隊が突入した翌5月25日からまた天候が崩れて、第六航空軍だけでも120機の特攻機を出撃準備させていたが、出撃できたのはその中の70機だけで、沖縄まで到達できたのは24機に過ぎず、日本軍は多大な日時と労力と人的犠牲を費やしながら、義号作戦の成果を十分に活かすことはできなかった[60]。第6航空軍司令官の菅原は作戦について、日記で「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と評していた[61]。それでも数少ない特攻機はLSM-1級中型揚陸艦LSM-135を撃沈、 バトラー(掃海駆逐艦)英語版ローパー(輸送駆逐艦)英語版バリー(輸送駆逐艦)スペクタクル(掃海艦)英語版 の4隻に再起不能のダメージを与え(バリーは後日に別の特攻機の命中で沈没、他3艦は廃艦)他7隻を損傷させ、アメリカ軍兵士171名が死傷させる戦果を挙げている[62]

アメリカ軍はこの予想外のコマンド攻撃に衝撃を受けており[63]、沖縄戦における主要なアメリカ軍の公式戦史、公式報告書、アメリカ軍機関紙星条旗新聞従軍記者の報告、司令官レベルの将官の伝記などに詳細に記述されている[64][65][66][67][68][69]、なかでも米国戦略爆撃調査団報告書においては「連合軍飛行場への自殺(特攻)攻撃」と紹介され「この1機からの空挺隊員は、飛行場に奇襲をかけ、そうとうな成果をあげた」と作戦成功と評されて[70]、あと1機~2機が突入に成功していたら驚異的な損害を生じていたと結論付けられている[71]。第二次世界大戦関連で多くの著作があるイギリスの著名な歴史作家マーク・フェルトン英語版は義烈空挺隊指揮官奥山を「信じられないほど勇敢で才能のある兵士であった」と評価している[72]

義烈空挺隊が一定の成果を上げたと考えた日本軍は、義号作戦と同様な特殊部隊でのより大規模な空挺特攻作戦となる、日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦[注 1][73]を計画し準備を続けていた。これらの作戦には、義号作戦後に挺進第1連隊に統合された義烈空挺隊の生還者の一部も参加する予定であった。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった三沢基地を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊と陸軍挺進第1連隊の混成部隊をサイパン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにも関わらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした[74]。激しい爆撃だったが、航空機の大損害に対して飛行場施設と人員に損害はなかった[75]。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった[76][77][78]

菅原は戦後に作家の山岡荘八に義烈空挺隊のことを尋ねられて、「まことに立派な若者たちで惜しい!などという言葉では云いきれません。」と声を呑むようにして答え合掌している[79]。 義烈空挺隊が出撃した健軍の地にある陸上自衛隊健軍駐屯地では毎年義烈空挺隊の慰霊祭が開催されている[80]

沖縄県糸満市字摩文仁に建立された義烈空挺隊の碑、「義烈」の文字は指揮官奥山大尉の絶筆の拡大

編成[編集]

階級は出撃時の階級で表記する。

番機 機体番号 操縦手 指揮官 乗員数 結果 備考
1番機 4484 諏訪部忠一大尉 奥山道郎大尉 14名 被撃墜、全滅 陸軍中野学校二俣分校卒業者4名搭乗
2番機 4132 酒井敏夫少尉 宇都木伍郎中尉 14名 被撃墜、全滅
3番機 4136 新妻幸雄少尉 石山俊雄少尉 14名 被撃墜、全滅
4番機 6540 町田一郎中尉 原田宣章少尉 14名 突入成功、全滅
5番機 4082 菊谷少尉 菅田寿美少尉 14名 突入断念、帰投 搭乗員は飛行60戦隊、空挺隊員は挺進第1連隊に統合
6番機 4138 松尾克己曹長 梶原哲己少尉 14名 被撃墜、全滅
7番機 6156 中原正徳准尉 棟方哲三少尉 14名 被撃墜、全滅
8番機 4475 小川軍曹 山田満寿雄中尉 14名 突入断念、帰投 搭乗員は飛行60戦隊、空挺隊員は挺進第1連隊に統合
9番機 6547 久野正信中尉 渡部利夫大尉 14名 被撃墜、全滅
10番機 6001 小野曹長 熊倉順策少尉 14名 突入断念、帰投 搭乗員は飛行60戦隊、空挺隊員は挺進第1連隊に統合
11番機 4161 吉沢曹長 村上信行中尉 14名 突入断念、帰投 不時着時に1名戦死、搭乗員は飛行60戦隊、空挺隊員は挺進第1連隊に統合
12番機 4307 木村正雄曹長 渡辺祐輔少尉 14名 被撃墜、全滅

12機中、1機突入成功、4機突入断念、7機被撃墜
168名中99名戦死(58%)

隊員の主な武装[編集]

装備名 部隊装備数
九四式拳銃 73
九九式短小銃 42
一〇〇式機関短銃 37
九九式軽機関銃 12
八九式重擲弾筒 11
九七式手榴弾九九式手榴弾 2,015
二瓩柄付爆薬 46
九九式破甲爆雷 171
一瓩爆発灌 44
三式手投爆雷 44
焼夷剤 189
十年式信号拳銃 1

隊員の辞世の句・言葉[編集]

義烈空挺隊

吾か頭 南海の島に 瞭さるも

我は微笑む 國に貢せば

— 奥山 道郎大尉

拝啓 御両親様
忠秋は本日敵飛行場に斬込みます
生前は何一つも出来ず申訳ありません
リツ高坊には呉々も宜しく御伝え下さい
祖父母様へも宜しく御伝え下さい
其れから私物梱包一個軍刀一振送ります
承知ください
二十四歳で玉砕です
附記
死後の処置について
イ 金銭貸借なし
ロ 婦人関係なし
リッチャン
必勝を信じ 後に続くものを確信し 今より征く 何もできずにすまなかった 元気で暮せ 高坊
軍刀をやる 立派な日本人になれ 負けるな 父母様をたのむ
  神州不滅

— 阿部 忠秋少尉[81]
奥山に 名もなき花と 咲きたれど

散りてこの世に 香りとどめん

— 今村 美好曹長
念願の日が遂にきました。本当にこの日をどんなにか待っていたか知れません。

咲いた花なら散らねばなりません。立派な花を咲かせて御覧に入れます

— 伊藤 馨軍曹[82]

第三独立飛行隊

武士の 行くべき途は ただひとつ

散って甲斐ある 命なりせば


五月雨の 落つる雫も 今日はなく
我の征途を 守るらん

— 久野 正信中尉
待つありて 眺むる月の 涼しさよ

また咲きいでん 靖国のみや

— 新妻 幸雄少尉
よしや身は 千々に散るとも 来る春に

また咲きいでん 靖国のみや

— 関 三郎軍曹

義烈空挺隊を描いた作品[編集]

参考文献[編集]

  • 米国陸軍省(編) 『沖縄:日米最後の戦闘』 外間正四郎(訳)、光人社、1997年ISBN 4769821522
  • 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』講談社、2009年
  • 田中賢一 『帰らぬ空挺部隊―沖縄の空にかける墓標』 原書房、1976年ASIN B000J9FE1M
  • 加藤正夫 『陸軍中野学校―秘密戦士の実態』 光人社、2014年ISBN 4769824831
  • 宇垣纏著 『戦藻録後編』 日本出版協同、1953年ASIN B000JBADFW
  • 八原博通 『沖縄決戦 高級参謀の手記』 中公文庫プレミアムisbn=4122061180、2015年
  • ハンソン・ボールドウィン 『勝利と敗北 第二次世界大戦の記録』 木村忠雄(訳)、朝日新聞社、1967年ASIN B000JA83Y6
  • 『沖縄方面海軍作戦』 防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社戦史叢書17〉、1968年
  • 『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』 防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社戦史叢書36〉、1970年
  • 山岡荘八 『小説 太平洋戦争』 講談社〈講談社文庫〉、2015年ISBN 4062931591
  • ジョージ・ファイファー 『天王山―沖縄戦と原子爆弾』上下、小城正(訳)、早川書房、1995年ISBN 978-4152079206
  • 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡』 米国戦略爆撃調査団 編纂、大谷内和夫(訳)、光人社、1996年ISBN 4769807686
  • 北影雄幸 『特攻の本 これだけは読んでおきたい』 光人社、2005年ISBN 476981271X
  • チェスター・マーシャル 『B-29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記』 高木晃治(訳)、ネコパブリッシング2001年ISBN 4873662350
  • B.M.フランク 『沖縄―陸・海・空の血戦』 加登川幸太郎(訳)、サンケイ新聞社出版局、1971年ASIN B000J9HB0Y
  • Rielly, Robin L. (2010). KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II. Mcfarland. ISBN 0786446544. 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 20㎜機銃で武装した96式小型トラックをグライダーで沖縄のアメリカ軍飛行場に降下させて、飛行場のアメリカ軍機を攻撃するという作戦

出典[編集]

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  1. ^ マーシャル 2001, p. 122-125
  2. ^ 山岡荘八 2015, p. 556
  3. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.2
  4. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.3
  5. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.4
  6. ^ 田中賢一 1976, p. 79
  7. ^ 加藤正夫 2014, p. 176
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  9. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.4
  10. ^ 加藤正夫 2014, p. 177
  11. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成16年11月 第61号 P.20
  12. ^ 田中賢一 1976, p. 82-83
  13. ^ 加藤正夫 2014, p. 177
  14. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.5
  15. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.6
  16. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.5
  17. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.9
  18. ^ 加藤正夫 2014, p. 181
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外部リンク[編集]