マレー作戦
| E作戦 | |
|---|---|
イギリス領マレーのクアラルンプールに突入する日本軍部隊 | |
| 戦争:太平洋戦争 | |
| 年月日:1941年12月8日 - 1942年2月15日 | |
| 場所:マレー半島 | |
| 結果:日本軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 35,000(増援兵力を除く)[1] | 88,600(増援兵力を除く)[2] |
| 損害 | |
| 戦死1,793、戦傷2,772[3] | 損害約25,000 うち遺棄死体約5,000、捕虜約8,000(日本の報告数)[4] |
マレー作戦(マレーさくせん、馬来作戦)は、太平洋戦争で日本軍が南方作戦で実施したイギリス領マレーへの進攻作戦。陸海軍中央協定で定められた作戦名称はE作戦[5]。マレー作戦は太平洋戦争の劈頭で他の作戦に先行して攻撃を開始した[6]。シンガポール島攻略を最終目標にしており[7]、1942年2月15日にそれを達成した[8]。
目次
背景[編集]
日本の計画[編集]
日本軍は開戦と同時に南方作戦の実施を計画していた。南方作戦の目標は、香港、マニラ、シンガポールの重要軍事拠点を覆滅して東亜における米英勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった[9]。南方作戦の攻略目標は、フィリピン、マレー、ジャワの三つが柱になっていた。そして、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とし、対米作戦を重視する海軍はフィリピンを先攻重視して右回りする作戦を主張し、米英可分を期待していた陸軍はマレーを先攻重視して左回りする作戦を主張した。左右の作戦は並行して行われるが、どちらを先攻させるか、あるいは両方同時に攻める二本建てかが問題であった[10]。
また、南方作戦の議論ではマレー上陸作戦を開戦劈頭急襲的に行うか、航空撃滅戦後に実施するかが課題となった[11]。陸軍は南方作戦の根本方針を先制急襲としており、シンガーポールの早期攻略を企図していた。そのため、マレー上陸案として航空撃滅戦と同時に数地点に急襲上陸する甲案を企図した。しかし、この案は英航空戦力をそのままにして長途の渡洋接敵ののち上陸することであり、上陸の前日に企図が暴露することは必然と考えられ、輸送船団や護衛艦隊に大きな損失が出ると予想された。そのため、海軍はこれに反対し、航空撃滅戦を行った後に上陸を行う乙案を出した。その後、議論が重ねられ、甲案を本則として乙案の場合は先遣兵団集合点出発前にこれを決定特令することになった。しかし、敵の航空を撃滅しない危険は残り憂慮され、上陸失敗の場合の対策も講じられた[12]。
南方攻略作戦はマレーからの左回り作戦とフィリピンからの右回り作戦の二本建てでジャワを目指す案となって、1941年10月29日までに陸海軍中央統帥部における南方作戦の計画書類の策定が終わり[13]、マレー作戦は南方作戦陸海軍中央協定において作戦名称は「E作戦」と定められた[14]。
マレー作戦の最終目的はシンガポール島の攻略であり、第二十五軍が南タイ上陸以降に行う作戦はその前哨戦である。そのため、第二十五軍の戦力などはシンガポール島攻略を基礎として決められている。しかし、シンガポール攻略を研究するだけの資料がないため、兵力量算定の前提条件も不明のままで現地軍に一任することとなった[15]。背面攻撃ということもあり、第二十五軍の兵力なら可能であろうと判断されたが、第二十五軍も作戦初期には具体的計画を立てられず、計画に着手したのはクワラルンプール占領後で、準備が軌道に乗ったのはクルアン占領後のことである[16]。
シンガポール島の前面に進出するまでには、困難な渡洋上陸作戦があり、その後さらに千キロメートルを超える長隘路の突破作戦がある。日本が開戦直前に想定した英軍のマレー方面の兵力判断は正規軍七、八万、義勇軍二万の計十万前後であった[17]。南方作戦はハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアムに対して先制攻撃をもって開始されるが、海軍は期待をかけたハワイ空襲に奇襲が必要とし、陸軍は長途の危険な渡洋作戦からマレー作戦に奇襲が必要とした。ハワイの明け方はマレーの夜半にあたり、マレー作戦のコタバル上陸がハワイ攻撃に先行しない限度でなるべく早く行うように規制する必要があった。1941年11月10日の東京協定でハワイ攻撃を優先すると陸海軍が確認したが、この攻撃要領ではハワイ攻撃は航空部隊が夜間発艦となっており、11月23日に機動部隊が検討の結果から黎明発艦へ変更し、空襲時刻を一時間半遅らせた。海軍は今さら陸軍に延期を申し出るわけにいかず、夜間発艦のハワイ攻撃に合わせて上陸を予定していたマレー作戦の上陸が先行することになった[18]。この作戦は開戦前に宣戦布告を行う予定であった対米開戦とは異なり、宣戦布告無しで対英開戦することは予定通りであった。この時の日本軍の開戦日の暗号は大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐瀬島龍三少佐考案の「ヒノデハヤマガタ(ヒノデハヤマガタトス)」である。
マレー方面の状況[編集]
長年イギリスの植民地支配下に置かれていたシンガポールは、日英同盟の破棄以降イギリス軍によって防御設備の強化が進められ「東洋のジブラルタル」とも称されていた。海に面した南側には戦艦の主砲並みの15インチ(38センチ)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群が構築され、さらに多数の戦闘機群が配備されて難攻不落の要塞と言われていた。北側のジョホール海峡側および同じく植民地であるマレー半島におけるイギリス軍の防備は手薄であったが、広大なマレー半島そのものが天然の防壁となると考えられていた。上陸可能地点であるタイ領内のシンゴラ(ソンクラ)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、マレー半島を縦断する道路は一本道で両側には鬱蒼たるジャングルとゴム林が広がっていた。さらに半島には大小約250本の河川が流れ、南に撤退するイギリス軍が橋梁を破壊すれば容易に日本軍の進撃を阻止できると考えられた。その間にイギリス軍はシンガポール北側の防備を強化することができると考えていた。
イギリス軍は国際情勢の悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点(植民地)であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600、インド兵37,000、オーストラリア兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。兵力数は日本軍の開戦時兵力の2倍であったが、訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。軍の中核となるべきイギリス第18師団はいまだ輸送途上であった。
また、ヨーロッパ戦線およびアフリカ戦線に主要部隊が張り付かざるを得ない状況であったことから、これらの植民地に配置された兵士の多くは世界各地のイギリスの植民地から集めた異なる民族の寄せ集めであり、統帥には苦心があった。特に多数を占めたインド兵たちは、生活の糧を得るためにイギリス軍に入隊したものの、祖国を植民地支配し抑圧するイギリス人のために、祖国から遠く離れたマレーの地で命を投げ出す理由など持ち合わせていなかった。
空軍については現地司令部から本国へ幾度も増強の要請がなされたが、ドイツ軍に対して劣勢でその対応だけで手一杯であった本国はこれに対応できなかったため、開戦当時のイギリス空軍の中心はバッファローの二線級機とならざるを得なかった(開戦後の1942年1月後半以降は主力機ハリケーンを順次投入)。さらに、日本軍に対する研究が不十分なイギリス空軍は「ロールス・ロイスとダットサンの戦争だ」と人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていた。
経過[編集]
時間は全て日本時間。
渡洋作戦[編集]
1941年12月4日、三亜で作戦の全船団の出撃を確認した馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将は、最後に馬来部隊主隊を率いて同地から出撃した[19]。マレー攻略船団部隊は午前8時までに警戒航行隊形の制形を終えた。この日は晴れ・風向北・風速5米で、山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船18隻は、小沢中将の指揮する重巡5隻、軽巡1隻、駆逐艦14隻、駆潜艇1隻、合計21隻の艦艇に護衛され、マレー半島を目指して進撃を開始した。一方、南方部隊指揮官・近藤信竹海軍中将も、戦艦2隻、重巡2隻、駆逐艦10隻から成る南方部隊本隊を率いて同日午後12時45分馬公を出撃し、約700海里南西方にあるマレー攻略船団部隊の支援のために続行した[20]。
6日午後1時45分、船団護衛中の各艦は機影を発見し、日本側が英軍機と確認できたその飛行機は船団に接近し、護衛艦艇の射撃圏外から偵察を続けた。午後3時、小沢中将は航空機による英軍機撃墜を第一、第二航空部隊に命令した。12月1日に大本営海軍部は輸送船団を偵察する航空機が現れた場合の撃墜を指示していた。また、この朝に今次作戦の機密書類を搭載した陸軍徴用機が中国沿岸に不時着し、それらの書類が中国軍の手に入った疑いがある旨、大本営海軍部から通報もあった。したがってこの撃墜を契機にこの方面で日英が戦闘状態に入り、南方作戦全体に大きな影響を与える心配があったが、小沢中将はこれくらいで破たんすることはないと考えていたという。しかし、両航空部隊は英軍機を発見できなかった[21]。7日午前3時、小沢中将は第二航空部隊に夜間索敵を命じ、午前9時50分、「神川丸」の零式水偵(緒方英一予備少尉)が索敵の帰途に英軍飛行艇(PBY型)を発見し、交戦中、約10機の陸軍機がこれを発見して午前10時15分これを撃墜し、午前11時、「山陽丸」艦長がこの報告を小沢に送信した[22]。
予期された英航空部隊の反撃はなく、英艦隊も認めない状況をかんがみ、小沢中将は予定通りの上陸を決意し、「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下中将に伝えて同意を得て、午前10時30分、分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した[23]。7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、英艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた[24]。
第一次マレー上陸作戦[編集]
コタバル方面[編集]
マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊は、佗美浩少将率いる佗美支隊(歩兵第56連隊、山砲兵一コ大隊基幹)で、兵力は約5500名、これを輸送する輸送船「淡路山丸」「綾戸山丸」「佐倉丸」はいずれも優速船であり、佐倉丸は防空船として装備されていた。3隻合わせた搭載舟艇は約60隻、一回で2000人を輸送する能力があった[25]。コタバル上陸船団部隊は第三水雷戦隊司令官・橋本信太郎海軍少将の指揮のもと解列後先遣兵団主力船団と並進した。隊形は「綾波」「磯波」、掃海艇2隻、駆潜艇1隻が3隻の輸送船を直接護衛し、旗艦「川内」、「敷浪」「浦波」は船団の前方20キロに幅30キロの掃蕩隊形を制形するものだった[26]。1941年12月7日午後4時30分、浦波はノルウェーの商船HAFTHOKを発見し、情報活動の疑いがあったため、自沈させた。さらに午後7時25分、英ブレンハイム型爆撃機を発見したため射撃したが見失った[27]。
1941年12月8日午前1時35分、第一回上陸部隊約1300名は約20隻の舟艇で隊形を整えてコタバル陸岸へ進発した。第二回上陸部隊は第一回の30分後に出発予定であったが遅れ、午前2時45分、那須歩兵連隊長以下が出発した[28]。午前3時30分、第一回の舟艇の一部が船団に帰ってきたころ、英軍機3機が日本の船団と艦艇に攻撃を開始し、その後一時間にわたり低空爆撃と機銃掃射を反復した。そのため、橋本少将は揚陸を第二回までで中止し、船団はシンゴラに退避するべきと陸軍に意見を述べたが、陸軍の支隊長は上陸戦闘遂行上認めがたく3回必要であるとして、午前6時30分までに上陸が終了するとの支隊長の判断に基づき、同時刻になったら揚陸状況にかかわらず船団を退避することで合意した[29]。第三回上陸部隊は第一回で帰還した舟艇に次々移乗出発することになった。午前7時、橋本少将は泊地の各艦に退避を命じた[30]。上陸した第一線部隊は英軍の水際陣地に苦戦し、日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、佗美支隊は800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、英軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、コタバル周辺の英航空部隊を一掃した[31]。
コタバルを引き揚げてシンゴラに移動した「川内」の橋本少将は陸軍戦闘機隊によるコタバル上空警戒の実施を第二十五軍司令部に要請しようと参謀を派遣したが、作戦中の混乱で連絡が取れなかった[32]。しかし、コタバルで苦戦中の佗美支隊を見殺しにもできず、午後3時40分、橋本少将は「川内」と駆逐艦4隻でシンゴラを出発し、パタニ方面の駆逐艦2隻にも合同を命じた。そのため、コタバル再揚陸は二隻の輸送船に対して、軽巡1、駆逐艦10、掃海艇2、駆潜艇1、計14隻が護衛することになった[33]。 午後4時、橋本少将は馬来部隊に海軍航空部隊の支援を電請した[34]。9日午前7時20分頃、輸送船は陸上戦闘の状況が不明のため、8日の錨地に投錨し(9日の錨地はツンバット港沖の予定だった)、コタバル揚陸作業を再開した[35]。午前9時50分、日本の陸軍戦闘機が上空警戒を開始[36]。護衛部隊は徐々に引き上げ、最後に残った第十九駆逐隊第一小隊も輸送船の揚陸を終えると午後6時30分に引き上げた[37]。佗美支隊はその後、1月3日までに東海岸の要衝クアンタンを制圧し、第25軍主力と合流した。
シンゴラ・パタニ方面[編集]
シンゴラはマレー国境近くのタイ領であり、第二十五軍先遣兵団は主力はシンゴラから、安藤支隊はパタニ、ターベから上陸し、マレー国境を突破し、所在の英軍の抵抗を排除してケダー州西部を南進しようと計画した[38]。8日午前4時12分、シンゴラの第一回上陸部隊の先頭部隊が上陸に成功、上陸後は英国領事館を占領し、シンゴラ港に上陸根拠地と水上基地の設営を始めた[39]。陸海の航空部隊が陸戦支援、哨戒を実施した[40]。
パタニ、ターベ上陸を行う安藤支隊(指揮官は歩兵第42連隊長安藤忠雄大佐)は歩兵第42連隊を基幹とする人員約7200名、車両約230からなる部隊であり、輸送船6隻に分乗した。このうち歩兵一コ大隊に各種部隊を加えた約2800名がターベに上陸する部隊で輸送船2隻に分乗していた[41]。支隊の任務は主力をパタニ河口西岸に、一部をターベ北方に上陸させ、パタニ、ターベ両飛行場を占領し、ケダー州に進撃することだった[42]。8日午前3時、パタニ・ターベ部隊ともに上陸開始に成功する。パタニではタイ軍の反撃があったが、午前11時40分頃、タイ軍は降伏した。夕刻までに両飛行場ともに占領に成功した[43]。
宇野支隊[編集]
宇野支隊(指揮官は歩兵第143連隊長宇野節大佐)は第十五軍第五十五師団の一部で、歩兵第143連隊を基幹とする各種部隊から成り、その任務は、佛印からタイに陸路進駐する近衛師団と呼応して、南部タイ各地に上陸して付近の飛行場を占領し、第二十五軍のマレー攻略を容易にするとともに、すみやかにマレー半島を横断してその西岸ビクトリア・ポイントに達し、その飛行場を占領して馬来方面作戦部隊の側背を掩護するのにあった[44]。宇野支隊の上陸地は、ナコン、バンドン、チュンポン、プラチャップであった。別に吉田支隊(近衛歩兵第四連隊第三大隊基幹)が海軍艦艇の護衛を受けず、輸送船「白馬山丸」に乗船して、単船でバンコク南方海岸に上陸する。分進地点で分かれた宇野支隊船団は、「占守」がナコン船団を、「香椎」がチュンポン、バンドン船団を護衛し、プラチャップに向かう輸送船には護衛艦艇はつけられなかった[45]。
7日午後9時頃、タウ島の東30海里でバンドン、チュンポン船団は両方面に分離し、「香椎」はバンドンの輸送船「山浦丸」を護衛した[46]。バンドン上陸部隊の舟艇隊は8日午前8時40分、シーラット河口を発見して遡江を開始、午前10時頃、バンドン市に突入し、同日中に飛行場を占領した。宇野支隊長の直率するチュンポン船団は8日午前3時頃に泊地に侵入し、上陸後はタイ軍の抵抗を受けたが、武装を解除させ、飛行場を占領した[47]。
ナコン船団の第一回上陸部隊は8日午前4時頃に舟艇隊を出発させたが、豪雨の影響で午前5時20分頃ようやく海岸に達した。しかし、目指すパクパーン河口の発見に手間取り、午前7時30分発見して遡江を開始。午前10時頃、ナコン駅付近に達し、若干のタイ軍の抵抗を排除してナコン市周辺と飛行場を占領した[48]。
プランチャップに向かった上陸部隊は午前6時30分頃上陸し、タイ軍の抵抗を制圧し、飛行場を占領した[49]。
マレー沖海戦[編集]
1941年12月9日午前0時、マレー第一次上陸作戦を概成したと判断した馬来部隊指揮官の小沢治三郎海軍中将は、マレー第二次上陸作戦と英領北ボルネオ攻略作戦の編制に切り替えた[50]。海軍の第一航空部隊による開戦初頭のシンガーポールに対する空襲は相当の成果を収めたと判断され、陸軍の第三飛行集団の北部マレー方面の航空作戦はおおむね順調に経過している模様であった。英航空部隊の活動は一般的に低調なため、防備に追われ、消極作戦に終始しているものと判断された[51]。
9日午後2時30分、馬来部隊司令部は、英戦艦がセレター軍港に在泊しているという陸偵報告を受信した[52]。英艦隊は将来的に好機をつかんで反撃に来る公算があるため、南シナ海の哨戒強化、セレター在泊中の英戦艦に航空攻撃を加えて同港からの後退を強要する必要があった。さらに作戦海面では敵潜出没の報が頻繁にあり、少なくとも3隻以上の潜水艦が作戦に従事している様子で各部隊は対潜掃蕩を徹底してその制圧撃破を図る必要もあった。これらの情勢判断に基づき、小沢中将は主に航空部隊と潜水部隊をもって英海空部隊の反撃に備え、水上部隊の大部分は次期作戦の準備を行うと定めて発令した[53]。一方、開戦前に日本の船団の接近を知った英東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス中将は、英艦隊で出撃して日本船団を攻撃する決意をして、8日午後6時55分、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いてシンガーポールを出撃していた[54]。
9日午後3時15分、伊65(原田毫衛艦長)が艦影二を発見、英艦隊発見の第一報を打電した[55]。その後見失ったが、10日午前4時41分、潜水艦による再発見の報で英艦隊が反転してシンガーポールに避退中と知った南方部隊指揮官:近藤信竹海軍中将は、午前5時、これを追撃するとともに、第一航空部隊及び潜水部隊に対し「敵ハ〇三四一地点フモロ四五ヲ「シンガーポール」ニ向ケ遁走中ナリ 航空部隊及び潜水部隊ハ極力此ノ敵ヲ捕捉撃滅スベシ」と命じた[56]。第一航空部隊による索敵攻撃が行われた結果、午後1時頃、イギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが撃沈された。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の海戦となった[57]。
第二次マレー上陸作戦[編集]
12月12日午後7時、カムラン湾から輸送船「智利丸」「錦隆丸」が出撃しシンゴラへ先行したのに始まり、英領ボルネオ攻略部隊、マレー上陸部隊などが続き、13日午後12時20分、最後に小沢中将が「鳥海」「鬼怒」を率いて出撃した[58]。マレー上陸のために分離した輸送船は途中敵襲を受けることなく、16日午前4時45分コタバル、午前10時シンゴラ、午前11時パタニ、午後11時ナコン、17日午前6時バンドンの各泊地で揚陸を開始した[59]。
この作戦は戦艦2隻を撃沈した後だったので水上部隊に反撃される公算は低く、陸軍第三飛行集団の作戦成果により航空部隊の反撃を受けることは全くなく終了した。唯一潜水艦が脅威であり、すでに揚陸を終えた輸送船が数隻撃沈されたが、日本もオランダ潜水艦を一隻撃沈した[60]。
マレー半島作戦[編集]
イギリス軍は、タイとイギリス領マレーの国境近くのジットラには、ジットラ・ライン(ジットラ陣地)と呼ばれる防御陣地を構築していた。狭隘な地形を利用しており、英印軍第6、第15旅団からなる兵力6,000、装甲車90両が展開、強固さは「小マジノ線」とも称され、イギリス軍はこの要塞で日本軍を3ヶ月は足止めできると豪語していた。
だが、本来ジットラは湿地帯であり構築段階での工事は難航、工事を請け負っていたタイ政府も半ば匙を投げかけていた。そこに目をつけた日本軍は、「マレーのハリマオ」として現地で名をはせていた盗賊・谷豊と彼を引き入れた諜報員・神本利男をジットラ・ラインに潜入させた。 まず谷が仲間とともに陣地の測量を行い、神本がそのデータをタイ王国公使館附武官の田村浩大佐を通じ本国へと送った。第5師団はこのデータを基にして、半年にわたって演習を重ねた。
続いて一党は二人一組に分かれて労働者の中に紛れ込み、資材の投棄や建設機器の破壊などの実力行使に入った。この結果、ジットラ・ラインの工事は大幅に遅れた。
12月10日、佐伯挺進隊は九七式軽装甲車を先頭にタイ・イギリス領マレー国境を通過。さらに11日にアースンの国境陣地を突破したため、九七式中戦車10両・九五式軽戦車2両を装備する戦車第1連隊第3中隊等が佐伯中佐の指揮下に入り特別挺進隊を編成、ジットラ・ライン突破に当たった(en:Battle of Jitra)。12日未明予期せず砲撃を受け、特別挺進隊は東側の敵陣地に戦車で夜襲をかけ一角を占領、夜が明けるとその場所こそがジットラ・ラインであった。12日昼間は猛烈な砲撃を受けるが午後には歩兵部隊も到着。その夜の夜襲を決意し準備を進めていたところ、午後5時に英印軍はジットラ・ラインから全面退却した。
ジットラ・ラインをわずか1日で、しかも581名の佐伯挺進隊が突破するとは大本営ですら驚愕した勝利であった。佐伯挺進隊の戦死27、戦傷83。英印軍の捕虜は1,000名以上。この勝利により山下中将は作戦のスケジュールを繰り上げた。
マレー半島のイギリス軍は軽く抵抗して時間を稼ぎながら、大小250本の河川にかかる橋梁を逐次爆破し後退した。日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部隊を有効活用し、進撃を続けた。日本軍の歩兵は自転車に乗って完全装備で1日数十キロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前からこの地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。
馬や自転車を活用した日本軍であったが、重砲や車両の前進には橋梁の修復が不可欠であり、第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の修復速度であった。この作業には各師団の工兵隊と独立工兵連隊とが文字通り不眠不休であたった。西海岸では舟艇機動も効果を発揮した。20人乗りの舟艇30隻を用意して運び込み、十数回にわたって海上をつたってイギリス軍の背後を奇襲した。マレー半島西岸の制海権はいまだイギリス側にあったが、イギリス海軍はこれに対して何の手も打てなかった。
年が明けて1月6日、日本軍はスリム(en)でイギリス軍の堅陣にぶつかった(en:Battle of Slim River)。ここで戦車第6連隊の島田豊作少佐は戦車の機動力を頼りとする戦車夜襲を決行する。島田は7日午後11時から、九七式中戦車と九五式軽戦車が中核となった夜間突撃を敢行した。これにより1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲し壊滅させた[61]。イギリス軍によるマレー半島有数の都市であるクアラルンプールの防衛計画は崩壊し、12日に同市は放棄された。
1月14日にはイギリス軍を追撃中の向田支隊(戦車第1連隊基幹)がゲマスでオーストラリア第8師団の逆襲を受け壊滅するという一戦もあった(en:Battle of Gemas)。1月中旬、近衛師団が前線に到着し、疲労した第5師団に代わって第一線に立った。19日、近衛歩兵第5連隊第2大隊はバクリ(en)で英印軍第45旅団と対戦し、大柿大隊長以下6割の死傷者を出しながらも英印軍を殲滅、第45旅団長を戦死させた(en:Battle of Muar)。
1月末、日本軍はマレー半島最南端のジョホール・バルに迫り、イギリス軍はマレー半島内での抗戦をあきらめシンガポール島内へ退却した。1月31日、最後の部隊がジョホール・バルを脱出し、工兵隊がマレー半島とシンガポール島とを結ぶ土手道(コーズウェー)を爆破した。同日、第5師団と近衛師団の先頭部隊は相次いでジョホール・バルに突入、ここにマレー半島での戦闘は終結した。
日本軍は12月8日の上陸から55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ1,100キロを進撃した。海上機動も650キロに及んだ。日本軍の損害は戦死者1,793名、戦傷者2,772名。イギリス軍は遺棄死体5,000名、捕虜8,000名を数えた。
シンガポール島攻略作戦[編集]
シンガポール島攻略の促進のためにQ作戦、S作戦が立てられた。
S作戦中、1月27日、マレー半島南部のエンドウ沖で日本軍の輸送船を狙って攻撃したイギリス軍の駆逐艦サネットが沈没。
2月8日に、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入するが、そこでイギリス軍の強力な砲火を受け動けなくなった。その後は日英軍ともに消耗戦が続き、15日には日本軍の砲弾も底をつき一時的な攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が日本軍により破壊され、上下水ともに給水が停止したことが抗戦を断念した最大の理由であった。
シンガポール攻略戦での日本軍の戦死者は1,713名、戦傷者3,378名。イギリス軍は約5,000名が戦死し、同数が戦傷したと言われ、さらに10万人が捕虜となった[62]。
参加兵力[編集]
日本軍[編集]
- 陸軍
- 第25軍 - 司令官:山下奉文中将、参謀長:鈴木宗作中将、参謀副長:馬奈木敬信少将、高級参謀:池谷半二郎大佐、作戦主任参謀:辻政信中佐
- 第5師団 - 師団長:松井太久郎中将、4個歩兵連隊(歩兵第11、第21、第41、第42連隊)、捜索第5連隊、工兵第5連隊、砲兵第5連隊基幹
- 近衛師団 - 師団長:西村琢磨中将、3個歩兵連隊(近衛歩兵第3、第4連隊、第5連隊)、近衛捜索連隊基幹
- 第18師団 - 師団長:牟田口廉也中将、3個歩兵連隊(歩兵第124連隊(川口支隊)欠)、歩兵第56連隊(佗美支隊)は12/8コタバル上陸、歩兵第55連隊(木庭支隊)は12/28コタバル着、歩兵第114連隊と師団主力は1/23シンゴラ着
- 第3戦車団 - 戦車第1、第2、第6、第14連隊
- 独立工兵第4、第15、第23連隊
- 独立山砲兵第3連隊、野戦重砲兵第3、第18連隊
- 第3飛行集団 - 集団長:菅原道大中将、作戦機459機、予備153機、作戦後半には一部を残し蘭印方面へ転用
- 第56師団(マレー作戦には最終的に参加せずビルマ戦線へ転進)
- 海軍
イギリス軍[編集]
- マレー軍(司令官アーサー・パーシヴァル中将)
- イギリス領インド帝国軍(英印軍)
- 第3軍団(Indian III Corps) - 第11師団第6、第15旅団(ジットラ)、第9師団第8旅団(コタバル)、第9師団第22旅団(クアンタン)、第28旅団(軍団予備、イポー)
- 第12旅団(軍予備、ポートディクソン)
- 第45旅団(1月上旬シンガポール着[63])、第53旅団(1月中旬同着)、第44旅団(1/25同着)
- オーストラリア軍
- 第8師団(Australian 8th Division) - 第22旅団(メルシン)、第27旅団(クルアン)
- イギリス軍
- 第18師団(British 18th Infantry Division) - 第53旅団(1月中旬シンガポール着)、第54、第55旅団(1/28同着)
- シンガポール要塞守備隊
- マレー人部隊 - 第1、第2旅団(シンガポール)
- イギリス領インド帝国軍(英印軍)
- 東洋艦隊
- Z部隊(司令長官:トーマス・フィリップス海軍大将) - 戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戦艦レパルス基幹
- 空軍(246機)
影響[編集]
日本軍は驚異的な速度でマレー半島を進軍し、イギリス軍を急追して開戦以来70日でマレー半島およびシンガポールを陥落させた(当時のシンガポールの状況)。日本軍は戦前から周到な準備を重ね、陸軍の進撃を海軍と航空部隊が支援し(ただし第3飛行集団は作戦後半になって蘭印方面へ転用された)、また歩兵、工兵、戦車がよく協力しあった。日本軍の南方作戦は順調なスタートを切り、その後3月にはオランダの植民地のジャワ島、5月にはイギリスの植民地の現ミャンマーを制圧して、開戦時に於ける作戦目標を達成した。
一方、イギリス軍は本土防衛に注力せざるを得ない状況であったうえに、情報不足ということもあり敵の戦力を過小評価して準備不足のまま戦争に突入した。植民地から調達した多民族からなる軍隊はまとまりを欠き、陸海空相互の協力も不十分であった。
兵站に関しては、日本軍はイギリス軍から鹵獲した食糧、燃料、軽火器等を活用した。糧食は日本軍のものより味も良く兵士たちは「チャーチル給養」と名づけて喜んだという。当時マレーには500万の人口が居住し肥沃で農業が盛んで食糧は豊かであったため、現地での食糧などの調達も円滑に進んだ。このようにして本来兵站能力に欠けた日本軍は、貧弱な補給部隊に依存することなく軽快に行動できた(後日、兵站能力に欠ける日本軍は人口希薄で食糧生産の乏しいガダルカナルやニューギニアで飢餓に苦しんだ)。
なお、逃げ遅れたイギリス軍のホーカー ハリケーンやブリュースターF2A バッファローなどの主力戦闘機や、ロッキードハドソンなどの輸送機が完全な状態のまま多数鹵獲され、一部の機材は現地で日本軍によりそのまま利用されたほか、後に日本本土に送られ性能テストなどに使用された。
マレー作戦で日本軍は初めて英印軍と対戦した。難なくこれを破ったことで、「中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行えば必ず退却する」(牟田口中将)[64]という認識を持った。その後のセイロン沖海戦における日本軍の圧勝もこの認識を後押ししたが、このような驕った認識が後に連合国軍に対して劣勢に回った中で行われたインパール作戦における悲劇の一因となる。
東南アジアにおける最大の植民地であるマレー半島およびシンガポールの陥落は、そして同時期の香港の陥落と併せて、これまで数世紀にわたって行われたイギリスのアジア植民地支配の転換点となり、「植民地帝国」としてのイギリスの崩壊を決定づけた。
戦後これらの地は日本軍の撤退を受けてイギリスの植民地として復帰したものの、同じアジア人である日本人に打ち破られたイギリス人やオランダ人、アメリカ人やフランス人の惨状を目にしたアジア各地では、独立指導者を中心とした民族主義が高揚した上に、本土も戦火で荒廃したイギリスはもはや遠方の植民地を維持するだけの国力を持たなかったため、これまでの様なイギリスの地位は長くは持たなかった。十数年後のことであるが、(タイ領土除く)マレー半島一帯は1957年にマラヤ連邦としてイギリスから独立する。
主題にした作品[編集]
- 映画
- 『ハワイ・マレー沖海戦』山本嘉次郎監督、東宝映画、1942年
- 『シンガポール総攻撃』島耕二監督、大映、1943年
- 『マライの虎』古賀聖人監督、大映多摩川、1943年
- 『大日本帝国』舛田利雄監督、東映、1982年
- 『ハリマオ』和田勉監督、松竹、1989年
- 『少年義勇兵』ユッタナー・ムクダーサニット監督、タイ映画、2000年
- 『アドナン中尉』アズィズ・M・オスマン監督、マレーシア映画、2000年
- ゲーム
- 1942(ボードゲーム) - コマンドマガジン日本版第57号付録、国際通信社
脚注[編集]
- ^ 『マレー作戦 第二次世界大戦史』
- ^ 『マレー作戦 第二次世界大戦史』
- ^ 『マレー作戦 第二次世界大戦史』
- ^ 『マレー作戦 第二次世界大戦史』
- ^ 戦史叢書76 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5> 307頁
- ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 45頁
- ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 472頁
- ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 642頁
- ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 37頁
- ^ 戦史叢書76 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5> 308頁
- ^ 戦史叢書76 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5> 297-298頁
- ^ 戦史叢書20 大本営陸軍部<2>昭和16年12月まで 543-545頁
- ^ 戦史叢書76 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5> 298頁
- ^ 戦史叢書76 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5> 307頁
- ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 472頁
- ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 472-473頁
- ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 473頁
- ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 45頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 379-380頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 380-382頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 387-390頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 392頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 393頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 395頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 395-396頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 397頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 398頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 398頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 398-399頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 399頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 413頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 409頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 409-410頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 410頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 411頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 412頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 413頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 401頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 403頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 403-404頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 404-405頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 405頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 406頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 406-407頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 407頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 408頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 409頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 408頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 409頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 425頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 426頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 426頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 427頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 488頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 431-432頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 453頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 425頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 511-512頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 516-517頁
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 521頁
- ^ 島田豊作『サムライ戦車隊長島田戦車隊奮戦す』146頁
- ^ 『マレー作戦 第二次世界大戦史』
- ^ 『戦史叢書 マレー進攻作戦』付表は誤植とみられる。
- ^ 『インパール作戦秘史―陸軍崩壊の内側』, p.121
参考文献[編集]
- 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 マレー進攻作戦』、1966年
- 陸戦史研究普及会(編)『マレー作戦 第二次世界大戦史』原書房、1966年
- 越知春海『マレー戦記』図書出版社、1973年
- 片倉衷『インパール作戦秘史―陸軍崩壊の内側』経済往来社、1975年
- 島田豊作『サムライ戦車隊長 島田戦車隊奮戦す』光人社、1984年
- 森山康平『マレー・シンガポール作戦』フットワーク出版、1991年
- 伊藤正徳『帝国陸軍の最後〈1〉進攻篇』(文庫)、光人社、1998/1、ASIN: 4769821875
- 藤原岩市『F機関』
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 防衛研究所、平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書
- National Archives of Singapore
- Campaign in Malaya on The Children (& Families) of the Far East Prisoners of War
- Australia's War 1939-1945: Battle of Malaya
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