近衛上奏文

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近衛上奏文(このえじょうそうぶん)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿昭和天皇に対して出した上奏文

背景[編集]

1945年1月6日、アメリカ軍がフィリピンルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は内大臣木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧め、また、近衛も木戸に斡旋を求めていた。木戸と宮内大臣松平恒雄とが協議し、重臣らが個々に拝謁することになった[1]。準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた[2]。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であり、木戸が残した日記にも本来の目的は記されていない。

重臣らは以下の順で昭和天皇に意見を述べた。重臣の内、米内光政(海軍大臣)、阿部信行(朝鮮総督)は現職にあるため召集されていない[3]

上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って吉田茂邸を訪れた。吉田もこれに共感し、牧野伸顕にも見せるために写しをとったが、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生はスパイであり、写しが憲兵側に漏れたために吉田は拘引され、その他近衛周辺の人物も次々と、近衛を取り締まる布石も兼ねて取調べを受けることとなる。2人のスパイは、吉田拘引後は近衛邸の床下に入り盗聴を行っていたという。

近衛の上奏と御下問[編集]

1945年2月14日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、

「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」

と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛の二人が昭和天皇に拝謁し、以下の上奏文を捧呈した[4]

敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。

敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。

つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

ソ連は欧州に於て其周辺諸国にはソビエト的政権を爾余の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。

ユーゴーチトー政権は其の最典型的なる具体表現に御座候。ポーランドに対しては予めソ連内に準備せるポーランド出国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申候。

ルーマニアブルガリアフィンランドに対する休戦条件を見るに内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエト政権に非ざれば存在し得ざる如く致し候。

イランに対しては石油利権の要求に応ぜざる故を以て、内閣総辞職を強要致し候。

スイスがソ連との国交開始を提議せるに対しソ連はスイス政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。

英米占領下のフランスベルギーオランダに於ては対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、且之等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり、而して是等武装団を指揮しつつあるものは主として共産系に御座候。ドイツに対してはポーランドに於けると同じく巳に準備せる自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存候。

ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は、内政不干渉の立場を取るも事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引ずらんと致し居候。ソ連の此意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野[5]を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。かくの如き形勢より押して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻て国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。

少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。

抑々満洲事変支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物に御座候。

是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。

此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。

不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。

昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。

一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。

戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。

もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有之候。従て戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も、影を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるがゆえに、その本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものなりと存候。 尚これは少々希望的観測かは知れず候えども、もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来米英及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改らば、彼等としては戦争の継続につき、考慮するようになりはせずやと思われ候。

それはともかくとして、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上


昭和天皇は、上奏文の内容の特異さに驚き、次のように下問した[6]

天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」

近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」

近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」

天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」

近衛「それは、陛下のお考え…。」

天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」

近衛「従来、軍は永く一つの思想によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣香月真崎小畑石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」

天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」

近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

解説[編集]

昭和18年1月、近衛文麿は参考として木戸に書簡を送り「軍部内の或一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。勿論未だ全貌を露呈するには至らずと雖、徐々に巧妙に小出しに着々実現の道程を進みつつあるが如し」と告げた[7]。そして同年3月18日、近衛は、小林躋造海軍大将を荻外荘に招いた。

当時日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東條内閣に対する信頼感が減退し、一部識者の間では、東條英機首相の更迭の必要性が囁かれる中、吉田茂と共に早期講和を画策していた小林大将は、次期首班候補の一人として浮上していた。

近衛は、会談劈頭に陸軍中堅層が抱懐するという以下の『国家革新の陰謀』[8]を打ち明け、小林大将に、後継首班を引き受け「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請したのである。

満州事変発生以前より石原莞爾はソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案[9]を作らしめた。この二案は池田成彬、結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。

石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の新人の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ新人は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。

この魅せられた連中は参謀本部よりも陸軍省内に多く、現に北支事変の起った時も、参謀本部は常に政府の局地解決に同意し、この方針で指令したのだが、陸軍省に蟠踞する革新派が出先の軍と通謀しドンドン事変を拡大した。之には立派な証拠がある。今、企画院に居る秋永少将の如きも支那事変を早く治められては困ると云って来た事もある。要するに陸軍の新人は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである(中略)。

要するに陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。

翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている。速かに之を粛清しないと国家危うしである。

小林大将は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、かねてより岡田啓介海軍大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いており[10]、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった[11]

同年4月、中野正剛と共に東條首相を批判していた三田村武夫代議士が荻外荘を訪問し近衛と会談した。三田村は1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院代議士となり、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会(昭和16年2月3日)では、日本の上層部が戦時防諜体制の大きな抜け穴になっていることを問題視して近衛首相を叱咤し、世間から危険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求していた[12]

荻外荘の近衛を訪問した三田村は、戦局と政局の諸問題について率直な意見を述べ、「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と近衛を詰問したところ、近衛は珍しくしみじみとした調子で、第一次第二次近衛内閣当時のことを回想し、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られていたような気がする-」と述懐した[13]

近衛文麿が小林躋造と三田村武夫に告白したこと及び三田村と警視庁特高第一課長の秦重徳[14]から聴取したことと同じ趣旨の警告と反省が昭和20年2月14日には近衛から昭和天皇に上奏されたのである。

三田村は、近衛上奏文を「近衛が自分の経験と反省を述べ、自分が革命主義者のロボットとして躍らされたのだと告白するもの」と評し[15]、敗戦後に長年にわたる自分の調査研究と政治経験、そして自分が入手した企画院事件、近衛文麿のブレーントラスト昭和研究会に結集していた企画院革新官僚および朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実や三木清ら共産主義者の戦時中の好戦的な言動と思想、ゾルゲ事件、ソ連およびコミンテルンの世界戦略に関する多数の証拠資料に依拠して、近衛上奏文に該当する具体的事実を解剖し、近衛内閣の軍事外交内政政策の背後にソ連の対日諜報謀略活動があったことを指摘した[16]。三田村の資料と論究は1950年3月に「戦争と共産主義-昭和政治秘録」(民主制度普及会)として出版され、馬場恒吾(読売新聞社長)、南原繁(東大総長)、島田孝一(早稲田大総長)、小泉信三(元慶応義塾大学塾長)、田中耕太郎(最高裁判所長官)、飯塚敏夫(元大審院判事)の賛辞と支持を得た。これは後に遠山景久によって復刊され、晩年の岸信介(元首相)に大きな衝撃を与えた[17]

サンフランシスコ講和条約発効後の日本では、近衛上奏文に対する様々な見解が発表されている。近衛は二・二六事件など1930年代中期のテロやクーデターの観察により軍部内の共産化を憂慮しており、1940年(昭和15年)には日中戦争の長期化で革命必至との認識を持っており、この認識は軍部の革新派が満州事変以後の戦争を計画したとする陰謀論へと転換されたという見解[18]1941年(昭和16年)9月から翌年4月にかけて発覚したゾルゲ事件が近衛の対共産党政策への影響を与えたという見解[19]、「マルクス主義者であった近衛文麿がマルクス主義者ではないとの偽イメージを作る自己弁護の文書[20]」などである。

近衛が上奏に「軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候」と警告した通り、陸軍中枢にはソ連に接近し、天皇制存続を条件に戦後、ソ連や中国共産党と同盟を結び、共産主義国家の創設を目指す「終戦構想」があったという[21]。1945年6月には、駐スイス中国国民政府(蒋介石政権)の陸軍武官が米国からの最高機密情報として、「日本政府が共産主義者たちに降伏している」と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった。

脚注[編集]

  1. ^ 岡 (1966)、上巻 三一頁。
  2. ^ 藤田 (1987)、43頁。
  3. ^ 藤田 (1987)、73頁。
  4. ^ 木戸幸一関係文書495~498頁。
  5. ^ 当時、中国の延安で活動していた野坂参三(変名・岡野進)を指す。
  6. ^ 木戸幸一関係文書495~498頁。
  7. ^ 木戸幸一関係文書591~592頁。
  8. ^ 近衛文麿の最側近の一人である矢部貞治は、昭和16年5月6日に、米内内閣を倒した陸軍中堅層を「大政翼賛会を親軍的一国一党運動として支持しソ連邦との抱合を企図する革新右翼」と呼んでいた(現代史資料国家総動員2、484~488頁)。
  9. ^ 国内革新案とは、日本国権社会党による一国一党政治、少数内閣制、銀行、重要産業、商業の国公営化の実現を目指す「政治行政機構改造案」である。石原莞爾は昭和6年5月に、「戦争は必ず景気を好転せしむべく爾後戦争長期に亘り経済上の困難甚だしきに至らんとする時は、戒厳令下に於いて各種の改革を行うべく平時に於ける所謂内部改造に比し遙かに自然的に之を実行するを得べし。我が国情は国内の改造を第一とするよりも寧ろ国家を駆って対外発展に突進せしめ途中状況により国内の改造を断行するを適当とす」 と述べ、参謀本部戦争指導課長として昭和11年秋頃に宮崎正義に「産業五カ年計画」と「政治行政機構改造案」を立案させたが、後者の案は検討段階で中止になった(石原莞爾資料国防論策編76~78頁「満蒙問題私見」、秦郁彦【軍ファシズム運動史】246~247頁、伊藤隆【近衛新体制】59~60頁)。
  10. ^ 海軍には支那事変の勃発以前から陸軍統制派アカ論が存在した。海軍大将の山本英輔は、斉藤実内府に送るの書(昭和10年12月29日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統がファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍のパンフレットは其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」と警告を発していた(木戸幸一関係文書257~258頁)。
  11. ^ 終戦工作の記録上67~72頁「小林躋造回顧録」
  12. ^ 第76回帝国議会衆議院国防保安法案委員会議録第3回昭和16年2月3日。
  13. ^ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義、28頁。
  14. ^ 昭和19年6月、荻外荘に招かれた警視庁特高第一課長の秦重徳は、我が国の共産主義運動について、「今日のわが国には共産党はなく、従って、共産主義運動は統一性を欠いている。けれども、共産主義者は職場と時とに即応して運動を行っており、戦争による国民生活水準の低下は、これら運動の温床になっている。その運動は正面から共産主義を標榜せず、敗戦の場合にそなえて共産主義者を養成するという目的でなされているものが多い。要するに、現在の情勢は『枯草を積みたる有様』であるから、これにマッチで火をつければ、直ちに燃え上がる。警視庁では国体を否認するものを左翼、そうでないものを右翼として扱っているものの、この右翼の中には実は左翼の多いことは、明かである。最近の産業奉還論のごときは、その良い例である。またいわゆる転向者の大部分は真に転向しているのではない」と近衛に説明した(岡義武【近衛文麿】202頁)。
  15. ^ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義、30頁。
  16. ^ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義参照。戦後日本において地政学の再評価を行った外交史研究家の曽村保信は、戦争と共産主義-昭和政治秘録(三田村武夫著/民主制度普及会、1950年)を「大東亜共栄圏とマルクス主義との関わりを歴史的に立証した本」と評価し、これに依拠して、「戦前および戦中の日本では地政学は日本に対英米開戦を迫る国際共産主義の一手段として、言い換えればすなわちスターリンの対外政策実現のために知らず知らずのうちに利用されたというあまり香ばしくない過去の閲歴を持っている」と述べ、「日本の大陸政策に最も大きな影響を与えた外来の思想は実はマルクス主義であって、本来の意味の地政学ではなかったように思われる」と結論づけた(曽村保信【地政学入門外交戦略の政治学】130~134頁)。
  17. ^ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義、311~322頁。岸信介は戦争と共産主義-昭和政治秘録を読み、次のように遺言した。 「知友のラジオ日本社長、遠山景久君が、某日、『岸先生、大変な本を見付けました。是非第一読下さい』と持参されたのが、この三田村武夫氏の著書であった。読む程に、私は、思わず、ウーンと唸ること屡々であった。支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる(中略)。 この本を読めば、共産主義が如何に右翼、軍部を自家薬籠中のものにしたかがよく判る。何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに、先述の疑問を解く鍵があるように思われる。 国際共産主義の目的は、この著書でも指摘しているように、大東亜戦争の終結以降は筋書どおりにはいかず、日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らなければならない。往年のラストボロフ事件、又、最近のレフチェンコ事件などは、ほんの氷山の一角にすぎないのであろう。これを食い止めるには、自由主義体制を執るすべての国家が連帯して、自由と民主主義をがっちりと守り、敵の一党独裁・計画経済に対するに、複数政党・市場経済の社会を死守することである。 私は、私自身の反省を込めて、以上のことを強調したい。また、このショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。」
  18. ^ 庄司 (1995) 「それでは何故、上奏文のなかで過剰とも思える革命への恐怖と、それによってもたらせる陰謀説が展開されたのだろうか。元来近衛がこのような傾向を持ち、ゾルゲ事件や軍部憎悪により増幅されたことは否定し得ないが、異常とも言える内容が問題である。むしろ近衛の本音というより、殖田らの影響とともに、当時近衛らのグループが模索していた、さらには二・ニ六事件以降の宿願である皇道派の復権・組閣のために、皇道派に冷淡な天皇を説得しようとする政略的な意味があったと推測される。そのためには、誇張された表現が必要であった」
  19. ^ 藤田 (1987)、58頁。
  20. ^ 「『本土決戦』『一億玉砕』を叫んだ敗戦革命論者たち](平間洋一「中国共産党 野望と謀略の90年」『別冊正論』平成23年6月号) 中川八洋は「近衛文麿が対英米戦争主義者でなかったかのような偽イメージ、あるいは近衛文麿がマルクス主義者でなかったかのような偽イメージをつくる、近衛自身による自己演技の最たるものがあの有名な近衛上奏文であろう。それは日中戦争と日米戦争の八年戦争のすべての責任を軍部に転嫁するに絶妙で華麗な演技の典型であった。この上奏文をもって近衛文麿が従前から英米に対する戦争の回避論者であったと、その証拠としてあげるものが多いが、それは余りにも短絡的である。また読解力に欠陥ありといわざるをえない(中略)。近衛上奏文は、日本の八年戦争とは日本の共産化を目的として共産主義者(マルクス主義者、社会主義者)たちによって遂行されてきたこと、一九四四年頃からのスローガン一億玉砕はレーニンの敗戦革命論に従った、共産革命がし易い荒廃した日本社会をつくるためのものであること、陸士・陸大の秀才組のある部分がソ連軍を日本に導入しての日本の共産化を策謀していること、などの最も深刻な諸状況について最も正確に鋭く核心を衝く省察をなしている。が同時に、この近衛の指摘は、マルクス主義にかぶれた陸士・陸大卒の赤い軍人たちに対英米戦とその継戦の動きのすべての責任を転嫁する狙いであるのは誰しも一読すれば理解できよう。」と近衛上奏文を批評している(近衛文麿とルーズベルト大東亜戦争の真実76、81頁)。
  21. ^ 終戦へ共産国家構想 陸軍中枢「天皇制両立できる」1/42/43/44/4 産経新聞2013年8月12日

参考文献[編集]

  • 終戦工作の記録上下巻(江藤淳監修、波多野澄雄編、講談社文庫、1986年)
  • 敗戦の記録(参謀本部編、原書房、1967年)
  • 大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(軍事史学会編、錦正社、1998年)
  • 尾崎秀実著作集1~5巻(尾崎秀実著/勁草書房、1979年)
  • 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義(三田村武夫著、自由選書、1987年復刊)
  • 近衛文麿とルーズベルト(中川八洋著、PHP出版、1995年)
  • 第二次世界大戦と日独伊三国同盟―海軍とコミンテルンの視点から(平間洋一著、錦正社、2007年)
  • 近衛日記(共同通信社開発局、1968年) ASIN: B000JA68IO
  • 道越治・松橋雅平・松橋暉男『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』毎日ワンズ 、2006年 ISBN: 4901622153
  • 木戸幸一『木戸幸一日記』上巻、木戸日記研究会校訂、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300117
    • 岡義武 『解題』、1966年、一頁-四十三頁。
  • 『木戸幸一関係文書』、木戸日記研究会編、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300131
    「時局ニ関スル重臣奉答録」 四九五頁-四九八頁
    近衛上奏文を収録。
  • 藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。ISBN 4122014239
    当時、昭和天皇の侍従長を務めていた藤田尚徳から見た上奏の経緯と、上奏文の口語訳とが記述されている。
    • 「天皇の終戦秘密工作」43頁-54頁
    • 「陽の目を見た近衛上奏文」55頁-67頁
    • 「御意思に遠い重臣の奏上」68頁-85頁
  • 庄司潤一郎「『近衛上奏文』の再検討 国際情勢分析の観点から」、『国際政治』109号 終戦外交と戦後構想、日本国際政治学会、1995年5月、 54頁―69頁、 ISSN 0454-2215

関連項目[編集]