韓国光復軍

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韓国光復軍
Korean Liberation Army.JPG
韓国光復戦線青年工作隊在柳州与各機関団体代表留別記念撮影(1939年4月4日)
各種表記
ハングル 광복군
漢字 光復軍
発音 クァンボククン
日本語読み: こうふくぐん
ローマ字 Gwangbokgun
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光復軍の兵士
OSS将校と光復軍幹部
前列中央が李範参謀長

韓国光復軍(かんこくこうふくぐん、: Korean Liberation Army)は、1940年9月17日中華民国の支援のもとに同国臨時首都重慶で創立された大韓民国臨時政府の軍隊である。単に光復軍とも呼ぶ。

概要[編集]

大韓民国臨時政府を正式な交戦国・交戦団体に昇格させて連合国の一員とするという、明確な政治目標を持った組織である。きたるべき新政府の正式な軍隊を目指したという点で、他の抗日組織とは一線を画した。

重慶では、蒋介石を長とする国民党政府軍事委員会の傘下にあった。中国全域では中国共産党影響下の朝鮮人抗日組織の方が勢力が強かったが、「光線(光復戦線)」と「民線(民族戦線)」の統合が要求されて、直接の指揮下にない朝鮮人部隊も名目上は光復軍を名乗ることがあった。結果、国家主義者と共産主義者が混在することになって、日中戦争中も消えることがなかった中国大陸内における国共内戦の対立構造の中で不和が目立った。

軍政期冷戦対立が顕在化する中で、結局は大韓民国臨時政府は正式な政府と認められなかった。光復軍も同じく、正式な朝鮮(民族)の軍隊として認められず、連合国軍の一員には最後までなれなかった。アメリカによって解体を命じられたことで、大韓民国臨時政府および光復軍の力で朝鮮独立の礎となすという画期的な構想が実現することはなくなった。韓国陸軍の前身も、戦後のアメリカ軍政時代に結成された現地人部隊である南朝鮮国防警備隊に譲ることになる。

経緯[編集]

1919年朝鮮独立運動金九らによって上海で設立された亡命政府である大韓民国臨時政府(通称:臨政)は、一部の秘密結社やテロ組織以外には、自らの軍事組織を持たず、満州で活躍した独立軍などの抗日パルチザンは臨時政府の指導下にはなかった。1937年になって上海の臨時政府は独自の軍創設を計画したが、日中戦争が起こって延期された。臨時政府の所在地も上海から杭州に移動し、日本軍の進撃に追われるように、1937年11月に長沙広州を経て、 1938年に柳州、1939年に四川省綦江と点々としていた。1940年9月に重慶に落ちつき、ここで光復軍総司令部が創立された。これはライバル組織である朝鮮義勇隊の成立に遅れること1年半後であった。

大韓民国臨時政府主席である金九は、光復軍宣言文を発表し、「光復軍は韓・中二つの国の独立を回復しようと共同の敵・日本帝国主義を打倒し、連合国の一員として抗戦することを目的にする」とその主旨を明らかにした。

光復軍総司令部創設式典は重慶の嘉陵賓館で挙行され、総司令官には李青天(一名・池青天、本名・池大亨)、参謀長に李範、総務処長に崔用徳、参謀処長に蔡元凱、副官処長に黄学秀、政訓処長に趙素昂、訓練処長に宋虎聲、軍法処長に洪震、管理処長に金起元、軍需処長に車利錫、軍医処長に劉振東が任命された[1]

当初は兵力不足のため、兵士の募集と訓練が任務であった。1940年11月中旬に西安総司令部暫定部署が制定され、華北地区移住の朝鮮人を対象に兵士募集活動を展開した[2]。1941年1月に韓国青年戦地工作隊が、1942年5月に朝鮮義勇隊の一部が編入された。1945年3月の時点で光復軍の兵力は514人(中国人将校43人を含む)であったという[2]

光復軍は当初、第1支隊(支隊長李俊植)、第2支隊(支隊長公震遠)、第3支隊(支隊長金学奎)の3個支隊編制であったが、1941年1月に、韓国青年戦地工作隊を改編して第5支隊(支隊長羅月煥)が編成された。

当初は中国政府は援助に熱心ではなかったが、1941年11月に軍事委員会から臨時政府に対して『韓国光復軍行動規則九箇条』を提案した[3]。提案が受け入れられた後、軍事委員会は多くの中国人将校を光復軍の総司令部と各支隊に派遣して強化した[3]。終戦直前には総司令部将校56人のうち、派遣された中国人将校は43人を占めた[3]

1941年12月8日真珠湾攻撃が起きてアメリカが参戦すると、中国は対日宣戦布告を行い、連合軍の一員となりたかった臨時政府も12月10日対日宣戦布告をしたが、これは日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は無かった。

1942年5月、編入された朝鮮義勇隊を第1支隊、既存の第1、2、5支隊を統合して第2支隊を編成して、3個支隊編制に改編された。第1支隊長は金元鳳(別名・金若山、副司令兼任)、第2支隊長は李範奭が就任し、第3支隊長は変わらず金学奎であった。

光復軍は作戦計画として中国戦線での招募・訓練などと戦闘部隊への編入、韓国内での地下軍組織及び破壊工作、太平洋方面で派遣司令部設置と韓国人同胞への再訓練、韓国飛行隊の設立などを構想した。

1943年9月、印緬戦区工作隊[4]をインドに派遣[1]。宣伝や尋問などの工作を担当した。任務を完了した工作隊は1945年7月に重慶へ帰還した[1]

一方、光復軍は中国に派遣されていたアメリカ戦略事務局(OSS、のちの中央情報局)と協約を結んで特務工作訓練を実施した。当時、朝鮮人学徒陸軍志願兵制度の実施で朝鮮青年が日本軍に編入され南洋群島と中国戦線に配置されていたが、その一部が日本軍を脱出して光復軍に参加。西安で3か月間の特殊工作訓練を受けた。これらを山東からアメリカ潜水艦に乗せて朝鮮本国に潜入させて、朝鮮国内の要所を破壊・空港を占領した後にアメリカ軍の飛行機で更なる物資を運び込み、武装蜂起を促すという計画であった。

1945年8月初め、光復軍のこの国内進入作戦について、金九とドノバン大佐(OSS長官)は同意したが、この作戦計画を実践に移す直前に日本が降伏した。また同じ頃、参謀長金弘壹が蒋介石と交渉して武漢奪還作戦に光復軍が参加することを計画していたが、これもご破算となった[5]。終戦後は各地に幹部を派遣し、日本軍及び満州国軍の朝鮮籍兵士を吸収した。

このような経緯から光復軍は戦闘の実績がほぼなく、インド・ビルマ戦線に光復軍工作隊(9名)を派遣して朝鮮系日本兵の投降を呼びかけてイギリス軍に協力したことが、数少ない実績であった。終戦後、光復軍はソウルのアメリカ軍政政府の要求によって武装を解除して帰国した。

記念碑[編集]

2014年5月、光復軍第2支隊の所在地だった西安市にその活動を称える記念碑が設置された。

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b c 抗戦時期の韓国光復軍” (中国語). 中国黄埔軍校網. 2015年9月3日閲覧。
  2. ^ a b “证言篇:在华韩人的抗战” (中国語). 時事報告. (2014年12月12日). http://www.ssbgzzs.com/ssbg/xsbg/201412/t20141212_2344126.shtml 2015年9月3日閲覧。 
  3. ^ a b c 内田知行. 抗日戦争と民衆運動. 創土社. pp. p. 258.. 
  4. ^ 隊員は韓志成、文應国、崔俸鎮、金尚俊、羅東奎、朴永晋、宋哲、金成浩、李英洙の9名
  5. ^ 佐々木春隆 『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』 (第1刷版) 国書刊行会、p. 334.頁。 ASIN B000J6V1IA

参考文献[編集]

  • 梶村秀樹 『朝鮮近代の民衆運動』 明石書店、1993年ISBN 4750305502 
  • 拳骨拓史 『韓国の歴史教材『東アジア史』の真実』 PHP研究所、2013年ISBN 9784569810423 

関連項目[編集]