崔用徳

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崔用徳
Choi Yong-duk 최용덕 (韓國新任駐華大使崔用德偕夫人及女公子昨來臺履任 (19610720 中央日報)).png
崔用徳大使(1961年7月19日、台湾
生誕 1898年9月19日
Flag of Korea (1882-1910).svg 大韓帝国漢城府
死没 (1969-08-15) 1969年8月15日(70歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
所属組織 Chinese-army Wuhan flag (1911-1928) 19 dots.svg 直隷軍閥
Republic of China Air Forces Flag (1937).svg 中華民国空軍
Flag of the Provisional Government of the Republic of Korea.svg 韓国光復軍
Flag of the Republic of Korea Air Force.svg 大韓民国空軍
軍歴 1916-1927(直隷軍閥)
1927-1940(中国空軍)
1940-1946(光復軍)
1949-1956(韓国空軍)
最終階級 中校(中国空軍)
参将(光復軍)
中将(韓国空軍)
除隊後 中華民国大使、逓信部長官
墓所 国立ソウル顕忠院将軍第1墓域29号
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崔用徳
各種表記
ハングル 최용덕
漢字 崔用德
発音: チェ・ヨンドク
日本語読み: さい ようとく
ローマ字 Choe Yong-deok
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崔 用徳(チェ・ヨンドク、최용덕1898年9月19日[† 1]-1969年8月15日)は日本統治時代の朝鮮独立運動家であり大韓民国軍人韓国空軍創設者の1人。重慶帰りでは李範の次に位する人物であった。本貫慶州崔氏韓国語版경주최씨)。は滄石(창석)。別名は崔容徳崔龍徳。中国名は崔滄石(崔沧石、ツイ・ツァンシー)[1]

生涯[編集]

中国での活動[編集]

1898年、漢城府城北洞にて2等軍医官・崔益煥と泰安李氏の母の三男として生まれる[2]。1908年に美洞鳳鳴学校に入学[† 2]。15歳の時に北京の匯文中学校へ留学するが、のちに中退。崇実中学校を卒業する。

1916年、段祺瑞軍閥(安徽派)傘下の軍官学校を卒業。参戦軍軍士教導団の青年教練官[† 3]を経て参戦軍第2師(師長:馬良済南)に配属。崔の志願により航空部隊に送られて飛行技術を学び、のちに保定航空教練所(後に保定航空学校に改称)が設立されると学生として編入される[3]。航空学校の同期には第一次上海事変で日本軍と交戦した戦闘機搭乗員の一人であり、日中戦争期の中国空軍総指揮部参謀長となる石邦藩がいた[4]

また、三・一運動の起こった1919年ごろから独立運動にも積極的に参加するようになり、当初は安東の怡隆洋行を通じて大韓民国臨時政府交通部(総長:文昌範韓国語版)の業務に参加したと思われる。同年6月、臨時政府の支援団体である大韓独立青年団が安東市内で結成された時、崔は徐曰甫や林基盤、金思益らに自宅を拠点として貸し出すほどだったという[5]。これ以降、崔は徐曰甫と行動を共にするようになる。しかし翌年3月(1919年3月結成、11月解散とも[6])、日本の圧力で大韓独立青年団は解散となる。その後、朴容萬韓国語版申采浩ら創造派(反臨時政府・武力闘争派)と接近。1921年4月、申采浩らが李承晩の委任統治請願を糾弾したとき、崔と徐らはこれを支持、臨時政府の外交独立論・準備論への反発、独立戦争論を主張した。1922年、二人は金元鳳の義烈団に加入して爆弾の運搬、金相玉韓国語版[† 4]の支援等を行った。翌1923年、義烈団に政治的対立が発生すると二人とも離脱、宋虎などと共に申義団を結成した。また同年、韓僑同志会を設立したが、創造派でありながらその半数を占める[† 5]共産主義・アナーキスト系を排除していた[7]

1924年、呉佩孚軍閥航空隊に所属して第2次奉直戦争に参加[† 6]。1924年11月16日の東亜日報で戦死したと報道されるが[8]、後に生還した事が確認された[9]。11月、保定航空学校は孫岳率いる国民軍第3軍に接収される。

1925年秋、保定航空学校卒業。同学校の卒業生で航空隊が編成され、第1隊隊長に楊鶴霄、第2隊隊長に崔が就いた[10]国民軍第3軍の対奉魯軍(奉天軍、直魯軍)作戦に従事[3]

1926年3月、孫岳が病に倒れ、国民第3軍航空隊が呉佩孚率いる討賊聯軍に再度接収されると、今度は直隷派側として国民軍と対峙することになる。4月、呉は国民軍の楊虎城李虎臣の部隊が拠点としていた西安城を攻略すべく、鎮嵩軍統領の劉鎮華を討賊聯軍陝甘軍総司令に命じた。同年夏、陝甘軍支援のため援陝航空支隊(隊長:鄒慶雲)が編成されると、崔も部隊に加わり、西安を包囲していた劉の支援に向かった[11][12]。冬に入り、西北軍の援助で陝甘軍が瓦解すると、器材の保全のため崔は深夜に東に向けて飛行することになった[12]。夜が明けはじめ華陰上空に入ったところで霧に覆われ、燃料も尽きた状態となったが、崔は霧がかかった中着陸を試み、無事に成功させた[12]。その時の飛行機と飛行場には夜間飛行用の計器や施設が無く、また夜間の離陸もこの頃の中国ではあまり無かった[12][† 7]

その頃、呉佩孚も北伐を開始した国民革命軍の攻撃を受け、各地で敗退を重ねていた。崔は孫伝芳の五省連軍に身を寄せ、1926年11月には上海虹橋の五省連軍航空司令部(司令官:願栄昌)航空隊の飛行員となった[† 8][13]。敵対していた国民革命軍と戦う意思は無く、1927年春に合流して東路軍航空司令部の飛行員となる。同年、航空処航空第1隊(隊長:張維)隊附を経て水上機隊隊員[14]。1928年1月、水上機隊(隊長:劉国楨)副隊長[15]。水上機隊は山東や河北などの戦場を転戦し、唐生智討伐でも活躍した[15]。1929年、反乱した張発奎の部隊の討伐に参加[16]

1930年、蔣介石配下の碭山県帰徳基地航空第4隊(隊長:楊官宇)副隊長として中原大戦に参加[4]。同年、隴海戦役の際、帰徳で左足を負傷[17]。1930年(民国19年)10月24日、軍政部航空第4隊副隊長[18]。しかし1931年、上官の楊官宇が汪兆銘孫科ら反蒋派の樹立した広州国民政府に従うと、崔も劉炯光[19]ら第4隊隊員とともに陳済棠配下の広東空軍の所属となる[† 9]。しかし満州事変勃発に伴い両者の和解ムードが広まると、崔は広東空軍を離脱し南京国民政府に帰順。同時期に李青天が韓国独立軍を結成して崔を航空部長に任命したが、この指令が崔に届くことは無かった[20]。1931年頃、蒋介石の私有飛行機の人員候補に孫基宗を推薦[21]。1931年末に休暇を利用して南京から武漢方面に転任[22]

第一次上海事変では、漢口において王家墩飛行場を守備していた[23]。日本租界に配備されていたサーチライトは強力な光を照射して飛行員の目を晦ますため脅威であった。また隊員の誰もが自機が離陸する前に租界から砲撃されることを知っていた。崔は「あいつらのサーチライトを使って風向きに応じて、我々が離着陸できるようになれば面白い[† 10]」といった冗談を言って、部隊の憂鬱な空気を打破した[23]

1932年、航空第2隊と共同で共産ゲリラの討伐に参加[24]。同年冬、馬鞍山及び洪洞の共産ゲリラ討伐が完了すると剿匪空軍は再編され、崔は中央航空学校高級班を受けることになり、翌年に卒業[23]。そのまま飛行教官として同校に留まり、後進(4期、5期生)の育成に力を注いだ[23]。1934年6月、飛行機事故で負傷[25]。事故により飛行士としての活動を止めることになった[26]。1934年8月13日に校長の周至柔が蒋介石に向けて「崔滄石など4人[† 11]の韓籍飛行員が忠実に服務中であるから心配ない」との電報を宛てている[27][28]

後に漢口において中央航校陸空連絡班の創立に携わっていた[29]。陸空連絡班は剿匪における陸軍と空軍の調整訓練に着眼したもので、崔はこれらのための施設、企画、講習、実習を一手に創立した[29]。1935年5月、中央各師から一人ずつ選抜された上尉以上の軍官計53名が陸空連絡訓練班第一期として入学。続く二期生は62名が入学した[30]。これらの成果として各軍や師団に迅速で確実な陸空連絡専門員が配置されるようになった[29]。それだけでなく剿匪の軍事観を変え、日中戦争でも成果があった[29]

1935年春、南昌老営房飛行場に代わる大型飛行場として青雲譜に青雲譜飛行場(三家店飛機場)が新設されると[31]、崔は同飛機場站長に就任。同年6月、飛行隊の拠点となりうる各主要都市の大型飛行場を「第三線飛機場」として、同エリアの各飛行場の地勤業務を統括させる「総站」の制度が置かれたことを受け、空軍南昌総站長に就任する[1][32]日中戦争勃発後、同飛機場は南京・筧橋とともに中国空軍戦闘機隊の重要拠点となり、器材や燃料、弾の運輸、設備の補修や人員への給養の他に、戦前から南昌飞机制造公司のイタリア軍事顧問団技術者をはじめ、第14国際志願大隊[† 12]ソ連空軍志願隊の要求にも対応するという激務を強いられた[29]。また、この頃から独立運動にも再び積極的になり、大韓民国臨時政府本部のある杭州にて閔弼鎬韓国語版や李範奭と接触、運動を支援している[33]

1938年5月に中央訓練委員会陸空連絡訓練班(主任:朱暉日中国語版)副主任[34]。1940年7月から1942年7月まで中国陸軍大学特別班第5期に在学[35]

陸軍大学卒業後は大韓民国臨時政府に参加[3]。軍務部航空創設委員会主任、空軍設計委員会副主任、韓国独立党中央常務執行委員などを務めた。1942年8月、韓国光復軍常務局長(総務処長?)に任命[36]。以後、高級参謀、参謀処長を歴任した。

終戦後は韓国光復軍北平弁事処長および華北韓僑宣撫団軍務組主任として活動[37][38]

帰国後[編集]

1946年7月に38度線以南に帰国し、同年8月に航空関係者を集めて韓国航空建設協会を結成した。1948年4月に航空幹部要員として歩兵学校と警備士官学校で教育を受けて、同年5月に少尉に任官。同年7月に陸軍航空基地司令官。同年8月、国防部次官。蔡秉徳や申應均と共に国軍組織法の草案を起草した[39]

1950年5月、空軍士官学校校長、任准将。それから1か月後の6月25日に朝鮮戦争が勃発したが、当時の士官学校の武装は99式小銃10艇、拳銃3丁しかない有様だった。そこで崔は、往十里の製作所にて木銃150艇を製造させ生徒と教官に支給、また陸軍と連携して金浦地区警備司令部を編成するなど朝鮮人民軍の金浦半島上陸に備えた[40]。しかし、ソウルの各軍司令部の撤退を見て南部撤退はやむなしと判断、学校を鎮海に移動させた。障壁のない銃後で空軍士官の育成に崔は全力を注ぎ、教育制度の整備などを通じて学校の体制をほぼ完成させた。またその一方で、「軍歌は軍人の士気を旺盛せしめ、必勝の信念を持たしめる」として空軍士官学校校歌や「空軍歌」(공군가)、「飛行行進曲」(비행행진곡)、「銀翼の歌」(은익의 노래)、「空軍行進曲」(공군행진곡)など数多くの軍歌を作詞した[40]

1951年7月、空軍本部作戦参謀副長。

1952年5月、任少将。同年12月1日、空軍参謀総長。東部戦線にて激戦が展開された固城郡の351高地の近接支援任務を主導。また航空機の増加に応じて第10戦闘飛行戦隊を戦闘飛行団に昇格させるなど空軍増強に大きく寄与した[41]。また飛行機製作こそ空軍強化の道と考え、航空廠を設置、後に復活号が開発された[42]

1953年1月31日、任中将[43]

1955年、空軍参謀総長顧問。

1956年1月、予備役編入。

1960年、逓信部長官。

1961年、中華民国大使。

1965年、韓中文化協会会長(2代)[44]

1968年12月24日、当時参謀総長であった金成龍を含めた歴代参謀総長、韓国初の女性飛行士である權基玉などが集まって崔の新居入住式が行われた[45]。それまで崔は給料の多くを後輩達のために使い、予備役編入後は葛月洞(갈월동)の借家で暮らしていた[45][46]。これを聞いた金成龍ら全将兵や予備役軍人の親睦団体であるポラメ会(会長:張徳昌)の会員が寄付金80万ウォンで大方洞韓国語版に20坪の洋館を建て、さらに20万ウォン分の生活用品も揃えた[45]

1969年8月15日午後2時40分に持病であった高血圧によりソウルの自宅で死去。遺言は「私が死んだら、軍服を着せて埋めてくれ。我が国で作られた飛行機に乗らずして死ぬとは、無念だ」[47]

19日午前10時、空軍本部にて告別式が執り行われた[48]。また、光復前より親交のあった李殷相は崔の死を悼み、「哀詞」と題した歌を詠んだ[49]

2006年、金英煥李根皙と共に韓国空軍史の象徴人物に選ばれた。

2015年6月、戦争記念館が「6月の護国人物」に選定[42]

年譜[編集]

  • 1916年 - 中国軍官学校卒業
  • 1924年4月 - 保定航空教練所(後に保定航空学校に改称)入所
  • 1925年秋 - 保定航空学校卒業
  • 1926年 - 援陝航空支隊隊附
  • 1926年11月 - 五省連軍航空司令部飛行員
  • 1927年
    • 3月 - 国民革命軍東路軍航空司令部飛行員
    • 4月18日 - 航空処航空第1隊隊附[50]
    • 10月 - 水上飛機隊飛機師
  • 1928年
    • 1月 - 水上飛機隊副隊長
    • 7月 - 第4集団軍航空隊副隊長
  • 1930年
    • 10月20日 - 中校[51]
    • 10月24日 - 軍政部航空第4隊副隊長[52](~1933年7月18日)
  • 1933年7月18日 - 航空第4隊隊附[53](~1934年1月17日)、空軍少校上級[54]
  • 1934年1月17日 - 中央航空学校教育処教官[55](~1935年4月)
  • 1935年
    • 春 - 南昌青雲譜機場站長
    • 6月 - 南昌総站長
    • 9月7日 - 空軍少校[56]
  • 1937年9月7日 - 空軍中校[57]
  • 1938年5月2日 - 中央訓練委員会陸空連絡訓練班副主任
  • 1940年7月 - 中国陸軍大学特別班第5期入校
  • 1942年7月 - 中国陸軍大学特別班第5期卒業
  • 1942年 - 光復軍総司令部総務処長
  • 1943年
    • 5月 - 韓国独立党中央監察委員[58]
    • 7月6日 - 光復軍総司令部高級参謀[59]
    • 8月19日 - 韓国臨時政府空軍設計委員会副主任[60]
  • 1945年
    • 5月1日 - 光復軍総司令部参謀処長[61]
    • 7月 - 韓国独立党中央常務執行委員[62]
    • 8月以降 - 光復軍駐北平弁事処長
  • 1946年
    • 7月 - 帰国
    • 8月 - 韓国航空建設協会会長
  • 1948年
    • 4月1日 - 陸軍歩兵学校入校
    • 5月1日 - 陸軍歩兵学校卒業、朝鮮警備士官学校入校
    • 5月14日 - 朝鮮警備士官学校卒業、少尉任官
    • 7月 - 陸軍航空基地司令官
    • 8月 - 国防部次官
  • 1950年5月1日 - 空軍士官学校校長
  • 1951年7月 - 空軍本部作戦参謀副長
  • 1952年5月 - 少将
  • 1952年12月1日 - 空軍参謀総長
  • 1955年 - 空軍参謀総長顧問
  • 1957年10月 - 慶州崔氏宗親会会長(~1958年5月)[63]
  • 1960年6月2日 - 逓信部長官
  • 1961年7月 - 駐中華民国大使(~1962年)
  • 1965年 - 韓中文化協会会長(~1968年)

勲章[編集]

親族[編集]

  • 妻 胡耀東(中国人、天津籍、上海体育専科学校優秀生、1928年春結婚[23]、後に胡用國に改名、1991年直腸癌により死去[46]
  • 娘 崔宝旭(최보옥、1960年米国の大学卒業、潘明五との間に一人娘)
  • 婿 潘明五(中華民国軍軍人、結婚時は少校[64]
  • 義姉 胡靜芳(胡耀東の姉、石邦藩の妻[23]
  • 義弟 胡治平(胡耀東の弟、陸軍工兵軍官、中国空軍に服務[23]、中共に転向?)、胡振祥(同じく胡耀東の弟、中央航校8期、遷台後は松山基地大隊長)

脚注[編集]

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  1. ^ 『朝鮮戦争/韓国篇 中巻』では1894年としている。
  2. ^ 1908年、李鳳來によって設立された私立学校。1913年ごろ廃校
  3. ^ かねてより労働要員を連合国側に派遣していた中国語版中国は、1917年8月14日、連合国としてドイツに宣戦布告した。段祺瑞配下の徐樹錚が日本の坂西利八郎らの支援で編成したのが参戦軍である。三個師から編成され、構成員はあらかじめ参戦軍軍官教導団および参戦軍軍士教導団の訓練を受けた。だが参戦は叶わず、1919年6月に西北辺防軍へと再編、第一師は10月にモンゴル侵攻を行っている
  4. ^ キリスト教共産主義者。1923年1月、京城の鍾路警察署に爆弾テロを行ったとされる。
  5. ^ 1923年3月9日の国民代表会議本会議に参加した創造派57名中23名が共産主義者であった。国民代表会議韓国語版を参照。
  6. ^ 1927年10月2日の東亜日報の記事[1]によると航空学校在学中に戦線に投入されたという。
  7. ^ 滑走路灯が発明されたのは1930年。ただし、こうした状況は日中戦争初期の1937年~1938年半ばごろでも変わる事はなく、中国空軍のエースパイロットだった劉粋剛は鐘楼の火を飛行場の明かりと誤認し事故死した。また、ソ連空軍志願隊政治委員アンドレイ・リトフは夜間飛行で灯火のない広州に命がけの着陸をした記録を残している。しかし、1942年冬時点では既に電気式の飛行場灯火が導入されていたらしく、同年11月1日に蘭州の飛行場では停電のため飛行場灯火が点灯されずC-53が着陸に失敗、乗っていた空軍第八大隊大隊長・鄭長庚らが事故死したとの事。
  8. ^ 第1隊隊長は張維、第2隊隊長は耿煜曾(保定軍校5期、南苑航校3期、29年5月21日事故死)で、各隊ごとにコーデュロン製戦闘機3機、フランコ・ブリティッシュ・アビエーション英語版水上機FBA 17英語版ないしFBA 19英語版)を2機保有していた。崔がどちらに所属していたかは不明
  9. ^ 広東空軍は陳済棠の第1集団軍隷下であり、張恵長中国語版黄光鋭陳慶雲らかつて孫文の下で黎明期中国航空隊の発展に寄与した者が多く帰順していた。広州国民政府の解消後、そして崔の離脱後も広州を掌握する陳済棠のもと軍閥空軍として新桂系の広西空軍とともに存続し、最終的に1936年の両広事変を経て吸収された
  10. ^ 原文は「喂!他這探照燈若能給咱們對正風向,讓咱們飛幾個起落,倒也滿有趣的。」
  11. ^ 他は張聖哲金恩済金震一
  12. ^ クレア・リー・シェンノートフライング・タイガース以前、主にアメリカ人義勇兵で構成された部隊。部隊長は国際旅団やのちには冬戦争にも参加したフランス人ヴィンセント・マイナー・シュミット(Vincent Minor Schmidt)。小規模で民間出身者が多かったためめぼしい戦果を挙げられず、中国人との軋轢もあって短期間で解散、中国人部隊へと置き換えられた。

出典[編集]

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  7. ^ 軍史第95号 p.436
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参考[編集]

外部リンク[編集]

軍職
先代:
なし
Republic of China Air Forces Flag (1937).svg 空軍南昌総站長
初代:1935.6 - 1938.5
次代:
楊官宇
先代:
李根晳
大韓民国の旗 大韓民国空軍士官学校校長
第3代:1950 - 1952
次代:
金貞烈
先代:
金貞烈
大韓民国の旗 大韓民国空軍参謀総長
第2代:1952 - 1954
次代:
金貞烈
公職
先代:
-
大韓民国の旗 大韓民国国防部次官
初代:1948.8.20 - 1950.5.14
次代:
張暻根韓国語版
先代:
呉禎洙
大韓民国の旗 大韓民国逓信部長官
第10代:1960
次代:
李相喆韓国語版
外交職
先代:
白善燁
大韓民国の旗中華民国大韓民国大使
第5代:1961 - 1962
次代:
金信