金元鳳

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金元鳳 (김원봉)
Kim Won-bong 1946's.jpg
生誕 1898年8月13日
朝鮮 慶尚南道 密陽郡府北面 甘川里
死没 1958年11月??
北朝鮮
別名 號 若山 (약산) 、假名 崔林 (최림) 、金若山、陳國斌 (진국빈) 、李冲 (이충) 、金世樑 (김세량) 、王世德 (왕세덕) 、岩一 (암일) 、王石 (왕석) 、雲峰 (운봉) 、金國斌 (김국빈) 、陳沖 (진충) 、千世德 (천세덕) 、金若三 (김약삼)
出身校 中国 南京金陵大学 2年卒, 黄埔陸軍軍官学校 4年卒
職業 中国軍人、韓国独立運動家であり、北朝鮮政治家
配偶者 朴次貞, 崔東仙
金元鳳
各種表記
ハングル 김원봉
漢字 金元鳳
発音: キム ウォンボン
日本語読み: きん げんほう
English: Kim Won-bong
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金 元鳳(キム・ウォンボン、1898年8月13日(陰暦) - 1958年? 11月)は、中国の軍人、韓国独立運動家であり、北朝鮮政治家である。号は若山 (약산) 。

義烈団朝鮮義勇隊で活動し、大韓民国臨時政府光復軍副司令官となる。日本の敗戦後、1948年民主主義民族戦線(以下、民戦)などで活動しながら、金奎植金九などと共に南北連席会議に出席した後、韓国に戻らず、北朝鮮に残留。北朝鮮に社会主義政権が樹立された後は、朝鮮労働党中央委員会中央委員、最高人民会議常任委員会副委員長などを歴任した。

最初の妻である朴次貞韓国語版は、北朝鮮の国家元首を務めた金枓奉の姪。

生涯[編集]

義烈団組織[編集]

慶尚南道密陽生まれ。金若水や李如星などと交流しながら、中央高等学校(ソウル)を卒業した後、独立運動に意義を見出し満州に渡った。新興武官学校を卒業後、1919年に要人暗殺と機関破壊を目的とする武装抗日運動組織・義烈団を組織し、何度となく直接行動を行なった。

この後、組織的な抗日武装闘争のために、1926年1月、崔林の名で黄埔軍官学校に入学し、歩兵第1団第5連に配属された[1]。ここで獲得した知識及び社会主義思想を基に、同年春朝鮮民族革命党創設に携わる。1926年10月、黄埔軍官学校第4期歩兵科を卒業。卒業後も政治部教官として同校に留まり、北伐にも参加した。1927年8月、金元鳳は周恩来朱徳などが主導した中国共産党による南昌蜂起に参加した。しかし、共産党勢力と国民党政府の間で行なわれた殺戮戦を通しイデオロギーは欺瞞であると痛感し、広州起義には参加しなかった。

朝鮮義勇隊組織と独立運動[編集]

1930年朝鮮共産党再建同盟を組織して。

1932年、蒋介石の援助で朝鮮革命幹部学校を中国・南徴郊外に設置し、革命要員募集と養成を行なった。

1935年金奎植らの米州韓人独立党を吸収し朝鮮民族革命党を再結成するも、趙素昻、池青天の脱退など間もなく分裂。

1937年、金元鳳は、一時的に安楽な生活を送れるようになった。当時動向を把握していた朝鮮総督府特務機関の報告によれば、金元鳳は自家用を所有しており、臨時政府よりは張学良一派から多くの資金を受けていたとされる[2]。1937年7月10日中華民国政府の招きにより、中国高官の会議場である南徴西郊の廬山を訪れる。廬山には金九などが来ており、中国政府側代表者は日本を相手取り統一戦線を結成すべきだと説得した。帰還する前、中国政府代表者から、使命を完遂するのに必要な巨額の資金援助を受けた。

1937年11月2日、朝鮮民族革命党と金山韓国語版らの朝鮮民族解放同盟韓国語版鄭華岩韓国語版らの朝鮮アナーキスト連盟韓国語版を統合し朝鮮民族前線連盟韓国語版を編成。

1938年10月には、訓練を重ねた青年たちを糾合して、中国・漢口から、朝鮮民族前線連盟傘下の抗日軍事組織・朝鮮義勇隊を組織・編成。司令官に就任した。部隊員には元革命党員のほか、のちには朝鮮青年民族前衛同盟韓国語版党員らも編入した。しかし義勇隊の多くが、八路軍が集結している中国西北地域に移動し、義勇隊司令官である金元鳳の指揮下から離脱したため、金の影響力は急速に衰えた。社会主義系列の独立運動のために、右派である金九とは対立した。1939年、韓国独立党との統合が検討されたが、日の目を見ることはなかった。民族革命党の一部からは、既存の団体と連帯することには賛成するが既存の組織を解体して新党を結成することには賛成できないとの反発を呼び起こした。

1944年5月、戦闘の後遺症で妻の朴次貞が死去。

解放後の地下活動[編集]

以後、光復軍副司令兼第1支隊長、臨時政府軍務部長を歴任し、光復後臨時政府の要人たちと共に帰国した。1945年9月8日朝鮮人民共和国の内閣が発表されると、金元鳳は軍事副将に選任された。1946年2月16日、民族主義民族戦線の共同議長に推戴された。

帰国した後、金元鳳は、臨時政府特別政治委員会中央委員として左翼陣営と協商したが、左右両翼の対立に嫌気が指し、臨時政府を脱退した。以後、彼は民戦の共同議長に選出され、活動した。しかし、右翼と決別した後、試練の連続が待ち受けていた。

1947年3月南朝鮮労働党が主導してゼネラルストライキが発生すると、これに関連し、盧徳述逮捕された。逮捕に当たり、盧徳述にビンタを張られ、衝撃を受けたという。金元鳳の逮捕は、愛国志士に対する冒涜だという世論が高まり釈放されたが、彼は親日派と右翼の標的になった。1947年7月呂運亨が暗殺され、呂運亨の死に怒りを示した哀悼文を、「光明日報」「努力人民」など左翼誌7月25日付に掲載し、呂運亨の遺志を引き継ぐと訴えた。

南北協商参加[編集]

許憲(中央)・朴憲永(右)と

しかし、1948年、南北政党社会団体代表者連席会議のときに、金九・金奎植と共に北朝鮮を訪問した後、韓国に帰還せずそのまま滞在し、越北人士となり、その年最高人民会議第1期代議員として朝鮮民主主義人民共和国政府樹立に参加した。南朝鮮でアメリカ軍政庁指揮下の警察に捕まったとき、親日警察として有名な盧徳述に拷問され、事件を契機に親日派たちが米軍政と李承晩政権に保護され、誤った流れが発生したことが、越北の一つの動機だったと言われている。しかし、親日派と右翼陣営の標的となった彼は、5ヶ月を経たずしてテロを避けながらの移動生活を余儀なくされた。一方、金九の臨時政府は彼を警戒した。

1948年9月、北朝鮮政権が樹立されると、金元鳳は、国家検閲相に任命された。

朝鮮戦争以後[編集]

1950年朝鮮戦争が発生以後は、金元鳳は北朝鮮で政治活動をした。以後、労働相、朝鮮労働党中央委員会中央委員、最高人民会議常任委員会副委員長などの高い地位を経験した。1958年、彼の誕生60周年を記念して、北朝鮮政権から労働勲章を授与された。

南労党派延安派粛清されたときに失脚した。自殺説も流れる中、失脚直後にそのまま死亡したと推定されるだけで、死亡した時期や、経緯も知られていない。

脚注[編集]

  1. ^ 中国黄埔軍校網. “黄埔本校第四期歩一団歩五連学員姓名籍貫表” (中国語). 2016年3月26日閲覧。
  2. ^ 이정식, 《대한민국의 기원》(일조각, 2006) P71

外部リンク[編集]

  • 崔林” (中国語). 中国档案. 2017年1月2日閲覧。