デリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
デリー連邦直轄地
Delhi
デリーの名所。上左よりロータース寺院、インド門、フマーユーン廟、コンノート・プレイス、アークシャルダーム寺院
デリーの名所。上左よりロータース寺院、インド門フマーユーン廟コンノート・プレイスアークシャルダーム寺院
位置
デリーの位置の位置図
デリーの位置
座標 : 北緯28度36分36秒 東経77度13分48秒 / 北緯28.61000度 東経77.23000度 / 28.61000; 77.23000
行政
インドの旗 インド
 市 デリー連邦直轄地
地理
面積  
  市域 1,483 km2 (573 mi2)
標高 239 m (784 ft)
人口
人口 (2011年[1]現在)
  市域 16,787,941人
    人口密度   12,591.71人/km2(32,612.39人/mi2
  都市圏 21,753,486[2]
その他
等時帯 UTC+5:30 (UTC+5:30)
夏時間 なし
市外局番 011
ナンバープレート DL
公式ウェブサイト : delhigovt.nic.in

デリー連邦直轄地(デリーれんぽうちょっかつち、ヒンディー語: दिल्ली [d̪ɪlliː]英語: Delhi [ˈdɛli])は、インド首都特別地域である。面積1,483km2人口は1,100万人で、インド北部の大都市圏を形成しており、同国の商業工業政治の中心地にして南アジアを代表する世界都市の一つ。

都市の概説[編集]

デリー首都圏を構成し、ニューデリーオールドデリーに分けられる。ニューデリーの中にはニューデリー行政区があり、ここに連邦の首都機能がある。古くは現在のオールドデリーだけの町であったが、イギリス統治下の新しい首府としてニューデリーが建設された。イギリスの設計と建設による新都市部分をニューデリーと呼び、古くからある町をオールドデリーと呼んでいる。2016年の近郊を含む都市圏人口は2,573万人であり、世界第3位の巨大な大都市圏を形成している[3]プライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、デリーの2008年の都市GDPは1670億ドルであり、世界第37位である。

デリー首都圏の行政機構改革により2002年以降に発行された『世界の国一覧表』(編集発行・世界の動き社、編集協力・外務省)においてはインドの首都が「ニューデリー」から「デリー」に修正され、この変更が文部科学省学習指導要領にも反映されているため日本の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになった[4][5]。ただし日本の外務省のサイト[6]、インド政府の公式サイト[7]国連の地名標準記法一覧表では[8]、首都は「ニューデリー」と表記されている。

デリー連邦直轄地とニューデリーの関係は、日本で言えば東京都とその1区域である千代田区のような関係に当たるが、ニューデリーの行政は後述のように都市圏の大部分を管轄するデリー市行政自治体(MCD)でなくインド政府の直轄組織として置かれているニューデリー市行政委員会(NDMC)の管轄下にあり、大都市の内部で独立した行政組織を持つ点はグレーター・ロンドンシティ・オブ・ロンドンに近い構造とも言える。

歴史[編集]

建設からデリー・スルターン朝[編集]

デリーは12世紀以降各王朝の首都がおかれてきたが、その位置は王朝によって異なる。おおまかに東をヤムナー川、西を岩石の丘陵地、南を点在する丘陵に囲まれた三角形の地域(デリー三角地)に、各王朝がそれぞれ新王都を建設したからである。現在のオールド・デリーはムガル帝国中期に建設された市街地である。

チャウハーン朝のプリトヴィーラージ3世によってこの地に最初に都市がつくられたのは12世紀である。当時のデリーはデリー三角地の南西端にあたるラール・コートであった。デリーはプリトヴィーラージ3世の時代に繁栄を迎えるも、1192年にはゴール朝の将軍であったクトゥブッディーン・アイバクの率いるイスラム教徒に征服され、プリトヴィーラージは死亡して、以後デリーは800年以上にわたるイスラーム支配のもとにおかれることとなった。アイバクは征服したデリーを北インドにおける拠点と位置づけ、ラール・コートの跡にクトゥブ・ミナールの建設をおこなうなど市内の整備を行った。

1206年にゴール朝の君主であるシハーブッディーン・ムハンマドが死去し、後継者争いによってゴール朝が解体に向かうとアイバクは奴隷王朝を建国して独立し、以後1290年までの奴隷王朝、ハルジー朝(1290年 - 1320年)、トゥグルク朝(1320年-1414年)、サイイド朝(1414年 - 1451年)、ローディー朝 (1451年 - 1526年)と、1526年までの間デリーに首都を置いた5つの王朝が相次いで興亡を繰り返した。この5王朝は、総称してデリー・スルターン朝と呼ばれる。この時代、1398年にはティムール帝国ティムールによって征服、破壊されるなどしたものの、デリーには常に首都がおかれ、北インドの要衝として発展した。また、これらの王朝はすべてイスラーム王朝であり、のちのムガル帝国期も含めて、デリーはインドにおけるムスリム文化の中心地として重きをなした。

奴隷王朝期には首都はラール・コートにおかれていたものの、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーは1303年にラール・コートの北東にあたるシーリーに新たに城塞都市を建設し、ここを根拠地とした。しかしハルジー朝は間もなく滅亡し、これを継いだトゥグルク朝のギヤースッディーン・トゥグルク1321年、ラール・コートの東、シーリーの南東にトゥグルカーバードという新城塞都市を建設してここを根拠地とした。その息子のムハンマド・ビン・トゥグルク1327年にラール・コートとシーリーをつなぐ大城塞都市の建設を企図し、ここをジャハーン・パナーと名づけたものの、経済の混乱によって計画は未完に終わった。ムハンマドの跡を継いだフィールーズ・シャー・トゥグルクは、それまで城塞都市がデリー三角地の南端に集中していたのに対し、三角地の北端に近い現在のオールドデリーからニューデリー付近に1354年に新城塞都市を築き、これをフィールーザーバードと称した。このように各地に点々と建設された各城塞都市が存在し、その間に農村や荒野、その他さまざまな建造物が点在するというのがデリー・スルターン朝時代のデリーの様相であった[9]

ムガル帝国期[編集]

1526年ムガル帝国を創設したバーブルはデリー南方にあるアーグラを首都とさだめたが、その息子フマーユーンはデリーに新しく都市を建設し、首都とした。1540年にフマーユーンを追って一時スール朝を開いたシェール・シャーもデリーに首都を置き、シェール・シャーの息子を倒してふたたびデリーを奪回したフマーユーンもまたデリーを都とし、プラーナー・キラーに本拠を置いた。しかし、フマーユーンの息子アクバルは、再び首都をアーグラへと移し、デリーは荒廃の一途をたどった。

1648年にデリーは再度ムガル帝国の首都となると、アクバルの孫シャー・ジャハーンによって再建され、現在のデリーの基礎がきずかれた。現在オールド・デリーと呼ばれているデリー旧市街は、シャー・ジャハーンが築いたものであり、建設当時は「シャージャハーナーバード」(シャー・ジャハーンの町)と呼ばれていた。これ以後もムガルの首都はアーグラとデリーの間を行き来するが、1707年の6代皇帝アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の首都はデリーに固定された。これはムガル帝国の勢力が急速に縮小し、デリー近郊以外の支配を維持できなくなったことによる。

衰退したムガル帝国にデリーを守る力はなくなっており、以後デリーは幾度となく戦禍に見舞われることとなった。1737年にはマラーター王国に攻撃され、1739年にはペルシャナーディル・シャーが有名な孔雀の玉座などの財宝を略奪し、破壊されてしまった。1771年、マラーター王国の諸侯シンディア家の勢力下に入り、1803年には第二次マラーター戦争の結果イギリスが支配権を獲得する。

1857年インド大反乱によって一時的に占拠され、名目的な存在ではあるがこの町にて在位していた皇帝バハードゥル・シャー2世も反乱側に加担したが、同年に奪回された。バハードゥル・シャー2世がデリーからミャンマーに配流されることでムガル帝国は完全に滅亡し、その首都としての歴史を終えた。

インドの首都へ[編集]

ムガル帝国滅亡によってデリーは一地方都市となり、パンジャーブ州に所属することとなった。さらにインドにおけるムスリム文化の中心としての役割もなくなって一時衰退が進んだ。

しかし、1867年にはじめてデリーに鉄道が開通したのを皮切りに、19世紀末には当時イギリスがインド全土に張り巡らせていた鉄道網の北インドにおける結節点となり、徐々に繁栄を取り戻していった。やがて当時の英領インドの首都だったコルカタが東に寄りすぎているうえに、ベンガル分割令から政治的に急進化する傾向が生まれたために首都の移転が計画され、ムガル帝国の旧都であったデリーに白羽の矢が立てられ、1911年には正式に首都が移されることが決定された。同年パンジャーブ州からデリーは切り離されて独立州となり、1915年1925年1926年に近隣諸県から数か村を編入して領域を拡大した[10]1912年から1931年にはイギリス領インド帝国の暫定的な首都だったが、1931年ニューデリーが正式に首都に制定された。

1947年インド独立時にも引き続いてデリーが首都とされたが、分離独立時の大混乱によってパキスタン領となったパンジャーブ州西部からヒンドゥー教徒やシク教徒の難民が大量に流入し、また独立の約半年後、1948年1月30日にニューデリー南部のビルラー財閥のデリー邸において滞在中だったマハトマ・ガンディーがヒンドゥー極右青年によって暗殺されるなどの混乱もあった。

しかし独立以来、産業が急速に発達するとともに人口も急増し、2000年代に入るとデリーの人口はコルカタを抜いて、ムンバイに次ぐインド第2の人口を持つ大都市となった。

地理[編集]

デリーの衛星写真

ガンジス川の支流、ジャムナー川の右岸にある都市。東をジャムナ川、西を岩石の丘陵、南を点在する丘陵に囲まれ、東のヒンドスタン平原と西のパンジャーブ平原の2大穀倉地帯の中間に位置し、さらにガンジス川流域ながらインダス川との分水界にほど近い場所にあって、古くから交通の要衝となっていた。

ニューデリー[編集]

オールドデリーの南にあり、議事堂官庁などが集まっている。インドの政治経済文化の中心。人口30万人。

1911年にイギリスの手で建設が始まった地域。これにより、首都機能はここに移った。設計はエドウィン・ラッチェンスによって行われ、円形のコンノートプレイスを旧市街も含めた町の中心に、新市街の業務中心の北端に位置するように置き、そこから南に二本の道を正三角形を描くように道を伸ばし、三角の東端であるインド門と西端である政府合同庁舎および大統領官邸、およびそれをつなぐ広い道であるラージパト通りの描く三角形が街の主要部分となっている。ラージパト通り沿いには国立博物館がある。コンノートプレイスの北にはニューデリー駅があり、長距離列車が発着しデリーのターミナル駅となっている。ニューデリー駅前にはパハールガンジという安宿街が広がり、多くのバックパッカーが訪れる。ニューデリー東部にはラクシュミーナーラーヤン寺院がある。また、ニューデリー南西のチャーナキャプリー地区は大使館街となっており、日本大使館をはじめアメリカイギリスドイツ中国フランスパキスタンなど各国の大使館が軒を連ねる。

なお、ニューデリーはかつても何もない荒野だったわけではなく、ムガル帝国初期には帝国の中枢がおかれていたこともある。インド門から東に少しいったところにあるプラーナ・キラー(オールド・フォート)は、第2代皇帝であるフマーユーンが改修し自らの居城としたところである。プラーナ・キラーから南にいくとフマーユーン廟があり、その向かいにはイスラームの聖者であるニザームッディーン・アウリヤーを祀ったインド有数の聖者廟であるニザームッディーン廟がある。また、コンノートプレイスの少し南にあるジャンタル・マンタルは、アンベール王国の君主であるジャイ・シング2世天文台として1724年に建設したものである。

オールドデリー[編集]

ニューデリー建設時における本来のデリーであり、ムガル帝国の後期の首都だった地域である。オールドデリー中央部にあるインド最大のモスクであるジャーマー・マスジドなど、歴史的建造物が多い。現在のデリー市中心域の北端にあたる。現在の行政域ではセントラル区の東部に当たる。東にジャムナー川が流れる。

北東端にあるデリー城はレッド・フォートとも呼ばれ、第5代皇帝シャー・ジャハーンが建設し自らの居城とした城である。レッド・フォートからまっすぐ西へと延びる大通りはチャーンドニー・チョウクと呼ばれ、オールド・デリーの目抜き通りとなっている。オールドデリーの北側にはデリー駅があり、ラージャスターン州方面への列車が発着している。オールドデリー南東端、ジャムナー川の近くにはガンディーの記念碑であるラージ・ガートがあり、参拝客が多い。その斜め向かいにはガンディー記念博物館がある。

南部[編集]

ニューデリーのさらに南の地区は12世紀に建設された最も古いデリーであり、ラール・コート、シーリー、トゥグルカーバードといった古代の城塞都市の遺跡が点在する。ラール・コート内には、クトゥブ・ミナールデリーの鉄柱といった文化遺産が残っている。また、特徴的な外観からロータース寺院と呼ばれるバハーイー教の寺院もこの地域にある。

また、近年では大規模なショッピングセンターの建設が相次ぎ、コンノートプレイスに代わって商業集積ができつつある。フィーローズ・シャー・トゥグルクによって建設された人工貯水池であるハウズ・カース遺跡があり、その隣にあるハウズ・カース・ヴィレッジは1980年代以降開発が進み、画廊やブティックなどが並ぶスポットとなっている[11]

北部[編集]

オールド・デリーの北にあたるシヴィル・ラインズ地区は、デリー遷都後ニューデリー完成までの間に過渡的に首都機能を持った。現在ではデリー大学の事務局や北キャンパスなどがある。

ジャムナー川東岸[編集]

かつてデリーの東境はジャムナー川であったが、デリーの拡大とともに東岸にも市街地が拡大し、現在ではデリー北東区とデリー東区の二つの区が設置されてデリー市域の一部となっている。2005年にはここに世界最大のヒンドゥー寺院であるアークシャルダーム寺院が建設された。

気候[編集]

ケッペンの気候区分によると、温帯夏雨気候 (Cwa) に属する。3月上旬には、風の方向が北西から南西に変わる。3月から5月までは非常に暑い[12]が、この時期は降雨はほとんどなく、暑季と呼ばれてのちの雨季とは区別される。6月下旬になるとモンスーンが到着し、湿度が非常に高くなる[12]。これから10月初頭までは雨季となり、デリーの年間降雨のかなりの部分がこの時期に集中する。11月初旬から2月にかけては乾季であり、穏やかなとなる。冬といっても日中の平均最高気温は20度を超えており、他国からの観光客にとっては最もすごしやすいベストシーズンとされる。この時期、特に1月をピークに濃霧が発生しデリーを覆う[13]

デリーの年平均気温は25 ℃である。毎月の平均気温範囲は13℃から32℃の間である。デリーの最高気温記録は1931年7月に観測された45℃である[14][15]。デリーの年間平均降雨量は約714mmであり、ほとんどが7月と8月のモンスーン時期に降る[16]。デリーにモンスーンがやってくるのは平均では6月29日である[17]


デリーの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 21.1
(70)
24.2
(75.6)
30.0
(86)
36.2
(97.2)
39.6
(103.3)
39.3
(102.7)
35.1
(95.2)
33.3
(91.9)
33.9
(93)
32.9
(91.2)
28.3
(82.9)
23.0
(73.4)
31.4
(88.5)
平均最低気温 °C (°F) 7.3
(45.1)
10.1
(50.2)
15.4
(59.7)
21.5
(70.7)
25.9
(78.6)
28.3
(82.9)
26.6
(79.9)
25.9
(78.6)
24.4
(75.9)
19.5
(67.1)
12.8
(55)
8.2
(46.8)
18.8
(65.8)
雨量 mm (inch) 20.3
(0.799)
15.0
(0.591)
15.8
(0.622)
6.7
(0.264)
17.5
(0.689)
54.9
(2.161)
231.5
(9.114)
258.7
(10.185)
127.8
(5.031)
36.3
(1.429)
5.0
(0.197)
7.8
(0.307)
797.3
(31.389)
平均降雨日数 1.7 1.3 1.2 0.9 1.4 3.6 10.0 11.3 5.4 1.6 0.1 0.6 39.1
平均月間日照時間 213.9 217.5 238.7 261.0 263.5 198.0 167.4 176.7 219.0 269.7 246.0 217.0 2,688.4
出典 1: WMO [18]
出典 2: HKO (sun only, 1971–1990) [19]


行政[編集]

デリー9区の地図

2007年の再編以来、連邦直轄領であるデリー首都圏 (National Capital Territory of Delhi) は9つの区 (district)、27の地区 (tehsil)、59の町 (census town)、300の村 (villages) から成る[20]。これらは3つの法令指定行政自治体 (statutory towns) に属する。その3つとはデリー市行政自治体 (Municipal Corporation of Delhi, MCD)、ニューデリー市行政委員会 (New Delhi Municipal Committee, NDMC)、デリー宿営地委員会 (Delhi Cantonment Board, DCB) である[21][22]2012年7月16日、デリー政府は区の数を9から11へと増加させることを決定した[23]

デリー首都圏の中で最大の面積を管轄するのがデリー市行政自治体 (MCD)。インドの首都機能はニューデリー市行政委員会 (NDMC) の管轄区に入り、NDMCの長 (chairperson) はデリー知事 (Chief Minister of Delhi) との相談の上インド政府により任命される。

デリーの郊外には主に4つの衛星都市があり、それらはデリー首都圏の外側に広がる。ハリヤーナー州グルガーオン (Gurgaon)、ファリーダーバード (Faridabad)、ウッタル・プラデーシュ州ノイーダ (Noida)、ガーズィヤーバード (Ghaziabad)、の4都市である。

経済[編集]

住民[編集]

その他にはキリスト教(0.9%)やバハーイー教(0.1%)を含む
デリーの宗教[24]
宗教 パーセント
ヒンドゥー教
  
82%
イスラーム教
  
11.7%
シク教
  
4%
ジャイナ教
  
1.1%
その他
  
1.2%

2011年のインドのセンサスによれば、デリーの人口は16,753,235人である。人口密度は1km2あたり11,297人で、男女比は男性1000人に対し女性866人、識字率は86.34%である。2004年には、出生率は20.03、死亡率は5.59、乳児死亡率は13.08であった[25]。デリーは世界で最も急速に人口の増加している都市の一つであり、2015年までに東京ムンバイに次いで世界で3番目に大きな大都市圏となる見込みである[26]

デリーで最も信者の多い宗教はヒンドゥー教であり、デリー人口の82%を占める。次いで多いのがイスラーム教の11.7%であり、次いでシク教(4%)、ジャイナ教(1.1%)、キリスト教(0.94%)、バハーイー教(0.1%)と続く[27][28]。このほか、仏教ユダヤ教ゾロアスター教の小規模なコミュニティも存在する[29]。デリーで最も主な言語はヒンドゥスターニー語であり[30]、なかでもヒンディー語のデヴァーナガリ文字が最も多く筆記に使用される[31]。このほか、ウルドゥー語パンジャービー語の話者も多く、この2言語はデリーで2番目に話者の多い言語となっている[32]。かつてはデリーはインドのムスリム支配の中心地であり、上層のムスリムが使用していたウルドゥー語が強い力を持っていたが、インドとパキスタンの分離独立時に上層ムスリムのかなりが流出し、さらにシクおよびヒンドゥーとイスラムの間で州が分裂してしまったパンジャーブで、イスラーム側となった州西部から逃れてきたヒンドゥーおよびシク教徒のパンジャーブ人が大量に流入したため、パンジャービー語やシク教徒の割合が増加する一方でウルドゥー語の影響力は弱まった。1931年にはデリー住民のうちヒンドゥー教徒が63%、ムスリムが33%、シク教徒が1%を占めるのみだったのが、1981年にはヒンドゥーが84%、ムスリムが8%、シク教徒が6%となっていた[33]

交通[編集]

オールドデリーのメトロ

デリーの交通網はバスデリー・メトロ三輪タクシーを中心に形成されている。とくにバスはデリーの交通手段として最も主要な乗り物であり、全体の約60%の需要を占める。

地下鉄のデリーメトロも大量輸送網として広く利用され、2002年に第1次路線としてレッドラインの一部区間が開業後、順調に路線を伸ばし、2011年に、レッド、イエロー、ブルー、グリーン、バイオレット、エアポートエクスプレス線の6路線190kmが全通した[34]。三輪タクシーはタクシーよりも低運賃として人気がある。もちろんタクシーも簡単に乗ることはできるが、デリー交通網において比較的重要な位置は占めていない。

また、市南西部に位置するインディラ・ガンディー国際空港は国内外からの便を問わず、主要な市への玄関口となっており、南アジアでも最も乗降客数の多い空港の一つとなっている。これから空港の拡張によって、よりハブ空港としての重要性を増すことになるであろう。なお、日本からは日本航空全日空が毎日、エア・インディアが週3便、成田国際空港から定期便を運航している。関西国際空港からも定期便が運航されている。

しかし、近年の経済成長によるデリーの急激な人口増加は、交通機関の著しい飽和状態を生み出す原因の一つであり、これから取り組むべき課題は山積している。

教育[編集]

観光[編集]

世界遺産[編集]

フマーユーン廟はムガル建築の代表的な建築物

デリーにはフマーユーン廟クトゥブ・ミナール赤い城(レッド・フォート)といった世界遺産が点在しているほか、ジャーマー・マスジドインド門ラクシュミーナーラーヤン寺院アークシャルダーム寺院デリーの鉄柱クトゥブ・ミナール内)、政府庁舎といった観光名所が数多く存在しており、多くの観光客が訪れる。

デリーには高級から格安まで数多くのホテルが存在しており、ニューデリー駅のすぐ西側にあるパハールガンジは安宿街として、世界中からバックパッカーが集まってくる。

スポーツ[編集]

ジャワハルラール・ネルー・スタジアムはインド第三の規模のスタジアム

クリケットサッカーがデリーでは最も人気のあるスポーツ[35]である。市内にクリケット場もいくつかある。またデリーはクリケットのインディアン・プレミアリーグ (IPL) のデリー・デアデビルズと、インディアン・クリケット・リーグ (ICL) のデリー・ジャイアンツの本拠地である。

サッカーでは、2011/12年シーズンよりIリーグに参加予定のU-19クラブはデリーを本拠地としている。デリーのサッカースタジアムはアンベードカル・スタジアムだが、もともと2万人収容の競技場に近年5万人の動員するほど人気を博している。

ラグビーも近年若年層を中心に人気が出ており、デリー・ライオンズとデリー・ハリケーンのクラブチームがある。Asian5Nations(アジア5カ国対抗ラグビー)の2010年大会の開催地となった。競技場はデリー大学北キャンパスのものが唯一。

ボクシングは郊外のグルガーオンで最も人気のスポーツとなっている。他にはフィールドホッケーバスケットボールテニスゴルフバドミントン水泳などが人気である。バドミントンでは、毎年4月に世界大会であるBWFスーパーシリーズのひとつとしてインド・オープンがニューデリーで開かれている。

他にデリーにはスポーツ競技場として、ジャワハルラール・ネルー・スタジアムインディラ・ガンディー・アリーナがある。デリーは国際的なスポーツ競技会も多く開催しており、1951年第1回アジア競技大会1982年第9回アジア競技大会2010年コモンウェルスゲームズを開催した。

デリー郊外グレーター・ノイダ地区に建設中のブッダ・インターナショナル・サーキットで、2011年にF1インドグランプリが開催予定である。

ギャラリー[編集]

姉妹都市[編集]

デリーは以下の都市と姉妹都市となっている[36]

注釈・出典[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]


出典[編集]

  1. ^ Delhi Population Census data 2011”. 2017年2月3日閲覧。
  2. ^ Press Information Bureau: Government of India news site, PIB Mumbai website, PIB Mumbai, Press Information Bureau, PIB, India's Official media agency, Government of India press releases, PIB photographs, PIB photos, Press Conferences in Mumbai, Union Minister Press Conference, Marathi press releases, PIB features, Bharat Nirman Public Information Campaign, Public Information Campaign, Bharat Nirman Campaign, Public Information Campaign, Indian Government press releases, PIB Western Region”. pibmumbai.gov.in. 2017年2月3日閲覧。
  3. ^ 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新) Demographia 2016年10月29日閲覧。
  4. ^ インドの首都は「ニューデリー」か「デリー」か?二宮書店), 2016-07-03閲覧。
  5. ^ インドの首都はニューデリー? デリー?平凡社地図出版), 2016-07-03閲覧。
  6. ^ インド(India) 基礎データ(外務省), 2016-06-12閲覧。
  7. ^ Travel Advisory(india.gov.in)2012-08-24更新, 2016-07-03閲覧。
  8. ^ Geographic Names(国際連合), 2016-07-03閲覧
  9. ^ 「多重都市デリー」pp162-163 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行
  10. ^ 「多重都市デリー」pp230-231 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行
  11. ^ 「週刊朝日百科 世界100都市 ここに行きたい 第46号 デリーとアーグラー」p9 2002年10月27日発行
  12. ^ a b Climate of Delhi”. http://delhitrip.in.+2012年5月17日閲覧。
  13. ^ “Fog continues to disrupt flights, trains”. Chennai, India: The Hindu. (2005年1月7日). http://www.hindu.com/2005/01/07/stories/2005010719480300.htm 
  14. ^ “Mercury touches new high for July, Met predicts rain relief”. (2012年7月3日). http://www.indianexpress.com/news/mercury-touches-new-high-for-july-met-predicts-rain-relief/969708/ 
  15. ^ Weatherbase entry for Delhi”. Canty and Associates LLC. 2007年1月16日閲覧。
  16. ^ http://delhiplanning.nic.in/Economic%20Survey/ES%202005-06/Chpt/1.pdf Chapter 1: Introduction" (PDF). Economic Survey of Delhi, 2005–2006. Planning Department, Government of National Capital Territory of Delhi. pp. 1–7. Retrieved 21 December 2011
  17. ^ Kurian, Vinson (2005年6月28日). “Monsoon reaches Delhi two days ahead of schedule”. The Hindu Business Line. http://www.thehindubusinessline.com/2005/06/28/stories/2005062800830200.htm 2007年1月9日閲覧。 
  18. ^ World Weather Information Service - New Delhi”. 世界気象機関. 2011年5月4日閲覧。
  19. ^ Climatological Normals of New Delhi, India”. 香港天文台. 2011年5月4日閲覧。
  20. ^ Urbanization and social change: a ... – Google Books. Books.google.com. (2006-08-14). http://books.google.com/?id=tPMEAAAAMAAJ&dq=aheer+villages&q=jat 2011年3月11日閲覧。. 
  21. ^ Table 3.1: Delhi Last 10 Years (1991–2001) — Administrative Set Up (PDF)”. Economic Survey of India. 2007年7月3日閲覧。
  22. ^ Introduction”. THE NEW DELHI MUNICIPAL COUNCIL ACT, 1994. New Delhi Municipal Council. 2008年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月3日閲覧。
  23. ^ “From 9 to 11 districts for better governance in city”. (2012年7月17日). http://www.indianexpress.com/news/from-9-to-11-districts-for-better-governance-in-city/975456/ 
  24. ^ Census of India – Socio-cultural aspects”. Government of India, Ministry of Home Affairs. 2011年3月2日閲覧。
  25. ^ Chapter 3: Demographic Profile (PDF)”. Economic Survey of Delhi, 2005–2006. Planning Department, Government of National Capital Territory of Delhi. pp. 17-31. 2006年12月21日閲覧。
  26. ^ World Urbanization Prospects The 2003 Revision ([PDF)”. United Nations. pp. p7. 2006年4月29日閲覧。
  27. ^ Census 2001
  28. ^ Indian Census”. Censusindia.gov.in. 2009年9月7日閲覧。
  29. ^ Data on Religion”. Census of India 2001. p. 1. 2007年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年5月16日閲覧。
  30. ^ Hindi”. Omniglot. 2012年6月14日閲覧。
  31. ^ North East Delhi”. Rediff. 2012年6月14日閲覧。
  32. ^ “Punjabi, Urdu get second language status”. The Hindu. (2003年6月26日). http://www.hindu.com/2003/06/26/stories/2003062607100400.htm 
  33. ^ 「多重都市デリー」pp242-243 荒松雄著 中公新書 1993年11月25日発行
  34. ^ http://www.jica.go.jp/india/office/information/event/2011/110907.html デリー地下鉄が全線開通 ―インドにさらなる発展を― 独立行政法人国際協力機構 2011年9月7日 2014年11月6日閲覧
  35. ^ “Delhi to London, it’s a sister act”. India Times. (2002年7月7日). http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/15278423.cms 2009年2月18日閲覧。 
  36. ^ Sister cities of Chicago”. 2011年2月12日閲覧。
  37. ^ 福岡県庁ホームページ インド・デリー州”. 2012年8月21日閲覧。
  38. ^ Friendship agreement to be signed between London and Delhi”. 2011年2月12日閲覧。
  39. ^ a b c Sister-City Agreements”. 2011年2月12日閲覧。
  40. ^ Paris wants 'sister-city' relationship with Delhi”. 2011年2月12日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本政府
観光
世界遺産
建築
その他

座標: 北緯28度36分36秒 東経77度13分48秒 / 北緯28.61000度 東経77.23000度 / 28.61000; 77.23000 (デリー)