陳公博

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陳 公博

1943年

中華民国の旗 中華民国(汪兆銘政権)
第2代 主席
任期 1944年11月1945年8月16日

中華民国の旗 中華民国(汪兆銘政権)
第2代 行政院長
任期 1944年11月12日1945年8月16日

中華民国の旗 中華民国(汪兆銘政権)
初代 立法院長
任期 1940年3月30日1944年11月12日
主席 林森
汪兆銘

中華民国の旗 中華民国(汪兆銘政権)
第2代 上海特別市長
任期 1940年11月20日1944年11月11日

中華民国の旗 中華民国(汪兆銘政権)
初代 広東省政府主席
任期 1940年4月23日1940年11月8日

任期 1931年12月28日1935年12月1日

中国国民党
第2代代 中央執行委員会
任期 1944年11月20日1945年8月16日

出生 1892年10月19日
広東省広州府南海県
(現:仏山市南海区
死去 1946年6月3日
中華民国の旗 中華民国 江蘇省蘇州市
政党 中国共産党
中国国民党
中国国民党 (汪兆銘政権)
配偶者 李励荘
陳 公博
職業: 政治家
各種表記
繁体字 陳 公博
簡体字 陈 公博
拼音 Chén Gōngbó
ラテン字 Ch'en Kung-po
注音二式 Chén Gūngbó
和名表記: ちん こうはく
発音転記: チェン ゴンボー
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陳 公博(ちん こうはく、1892年10月19日光緒18年8月29日〉 - 1946年民国35年〉6月3日)は、中華民国政治家日中戦争中に汪兆銘と共に日本との協調路線を政策方針とする南京国民政府を設立、戦後は日本に協力した漢奸として死刑となった。

人物・来歴[編集]

広東省に生まれる。清朝の高官だった父親は広西提督を務めた。陳公博は北京大学に学び五四運動に参加、マルクス主義社会主義に触れる。1920年に大学を卒業すると陳独秀らの指導の下中国共産党オルグとして活動、翌1921年中共一大会議に参加するが、後に共産党から脱党する。

共産党脱党後に渡米し、1925年コロンビア大学修士号を取得。帰国後に中国国民党に入党し、廖仲愷汪兆銘と共に国民党左派として活動する。北伐が始まると蔣介石や汪と共に北上するが、一時蔣に反旗を翻し武漢国民政府に参加。武漢国民政府解散後は張発奎李済深と共に抵抗を続けるが1927年には香港へ亡命する。翌1928年上海へ赴くが、国民政府に対して反主流的な言動を取り続ける。

満洲事変勃発後に蔣によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが、1936年に汪が行政院長を辞任すると陳も下野する。1938年に汪共々重慶を脱出し、対日和平を模索。1940年に至って汪兆銘政権が成立すると立法院長を務めると共に上海市長を兼任。1944年3月から政府主席代行、11月に汪が死去すると政府主席・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。

戦後の混乱時に、支那派遣軍総参謀副長今井武夫少将に申し出て、小川哲雄大尉の手引きで青島へ行く予定が情勢が危険なため日本へ向かい、盲目飛行で福岡県雁の巣飛行場へ向かったが針路がずれ、1945年8月20日に鳥取県米子市三柳地区の飛行場へ降り立った。米子市、東伯郡東郷湖畔[1]金閣寺などで匿われるが、国民政府の要請による連合軍命令により迎えにきた中国兵に引き渡され中国へ帰国する[2]。「南京偽政府を樹立し、中国国民の利益に反する行為を行なってきた」[3]との理由で1946年4月12日死刑判決を受け、6月3日蘇州で銃殺された。

脚注[編集]

  1. ^ 東郷池が正式名称であるが、当時の報道、回想録の表現をそのまま使用する。
  2. ^ この間の事情は、みすず書房から発行の今井武夫『支那事変の回想』に詳述されている。
  3. ^ 益井康一『漢奸裁判史』 P60

参考文献[編集]

陳公博(『写真週報』1940年4月3日)

関連項目[編集]

 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
孔祥熙
実業部長
1931年12月 - 1935年12月
次代
呉鼎昌
 中華民国の旗 中華民国汪兆銘政権
先代
(創設)
立法院長
1940年3月 - 1944年11月
次代
梁鴻志
先代
(創設)
広東省政府主席
1940年4月 - 11月
(陳耀祖が代理)
次代
陳耀祖
先代
傅筱庵
上海特別市長
1940年11月 - 1944年12月
次代
周仏海
先代
汪兆銘
主席
1944年3月 - 1945年12月
(1944年11月まで代理)
次代
(廃止)
先代
汪兆銘
行政院長
1944年11月 - 1945年8月
次代
(廃止)