残留日本兵

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残留日本兵(ざんりゅうにっぽんへい)とは、第二次世界大戦の終結に伴う現地除隊ののちも日本へ帰国せずに現地に残留した旧日本軍の将兵を指す。

概要[編集]

アジア太平洋の各地に駐留した旧日本軍将兵は1945年8月の終戦により現地で武装解除、除隊処分とされ、日本政府の引き上げ船などで日本へ帰国し復員した。しかし、その一方で様々な事情から連合国軍の占領下におかれた日本に戻らず、現地での残留や戦闘の継続を選んだ将兵も多数存在した。

  1. 終戦を知らされず、あるいは信じず現地で潜伏し作戦行動を継続したもの。
  2. 第二次世界大戦後、欧米諸国の植民地に戻ったアジアの各地で勃興した独立運動に身を投じたもの。
  3. 市街地への空襲原子爆弾による日本本土の惨状を伝え聞き、家族の生存や帰国後の生活を絶望視したもの。
  4. 現地人と婚姻関係を持ったもの。
  5. 日本で戦犯として裁かれることを恐れたもの。

その他、多くの理由により日本本土への帰国を断念し、現地にて生活基盤を築くことになった。なお、日本国政府は彼らを「脱走兵」扱いとし、軍人恩給も死後の遺族恩給も支払っていない。

中国[編集]

中国大陸では、残留日本軍が非軍人の在留日本人とともに多数が国民党軍共産党軍に参加し、国共内戦を戦った。山西省では国民党軍に軍人・非軍人合わせ約2600人の日本人が参加し、終戦後も4年間にわたり戦闘員として戦った(中国山西省日本軍残留問題)。また、八路軍支配地域では旧日本陸軍の飛行隊長を始めとする隊員300名余りが教官となってパイロットを養成した(東北民主連軍航空学校)。 

インドネシア[編集]

第二次世界大戦終結後、スカルノが独立宣言をしたにも拘らず、旧宗主国オランダが再植民地化を試みイギリスなどの支援を受けてインドネシア独立戦争が勃発したインドネシアでは、日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や作戦指導をするとともに、自ら戦闘に加わるなどした。独立戦争の終結後、インドネシアでは多くの元日本兵が独立戦争への功績を讃えて叙勲されている。

インドネシア残留日本兵が作った互助組織「福祉友の会」は、日本に留学する日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本とインドネシアの架け橋としての役割も果たした。元残留日本兵は、毎年行われるインドネシアの独立式典にも呼ばれているが、死亡したり、高齢で体調が悪化したりなどで参加者は減っていき、2014年の式典には1人も参加できなかった[1]

2014年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)が94歳で死去した。小野は、行方不明者を除くと、最後の残留日本兵とされ、これで所在が確認できるインドネシアの残留日本兵は全員死亡したとされる[2][3]。小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地埋葬された[4]

ベトナム[編集]

フランス植民地支配下に戻ったベトナムでは、700人から800人の日本兵が残留[5]するとともに航空機や戦車をはじめとした兵器が残され、ベトナム独立戦争中の1946年に設立されたクァンガイ陸軍中学などいくつかの軍事学校で旧日本陸軍将校・下士官による軍事教育が行われた。ベトナム独立戦争に参加して戦死した旧日本兵には、烈士墓地に顕彰されているものもいる[6]

マリアナ諸島[編集]

第一次世界大戦後、日本の委任統治領となった北マリアナ諸島サイパン島北方のアナタハン島に駐在していた軍人や民間人数十人が、終戦後にアメリカ軍から拡声器で終戦の通告を受けたものの、それを信じずそのまま自給自足の生活を続け、またその後彼らの存在を忘れたアメリカ軍はそのまま放置した。後に島に残った1人の女性を巡り残留者同士で殺し合った後、1950年6月と1951年6月にアメリカ軍に救出されるまで在留を続けた(アナタハンの女王事件)。

潜伏していた日本兵[編集]

残留した現地に同化したものや、独立運動などに参加したものの他に、ジャングルなどに潜伏し終戦を知らずに戦闘を継続した日本兵も存在しており、アメリカ合衆国グアム島に1972年まで潜伏していた横井庄一軍曹や、フィリピンルバング島に1974年まで潜伏していた小野田寛郎陸軍少尉らの事例がある。

近年でも『終戦を知らずにジャングルの奥地で身を潜めている』残留日本兵発見の情報がインドネシアやフィリピン等の旧日本軍が展開した地域で流れる事があるが、大半の情報は不確かで真実が甚だ疑わしい(厚生労働省の見解より)。2005年5月、フィリピンのミンダナオ島に2人の日本兵が生存していると大々的に報じられたが、何の証拠も出なかったために大使館員や厚生労働省の担当者は現地を引き上げた。

フィリピン[編集]

フィリピン防衛戦の結果、1945年2月にフィリピンのほぼ全域がアメリカ軍の勢力圏に戻ったが、その後も相当数の日本軍兵士がゲリラ戦及び諜報を目的にフィリピンの各地に残留した。同年8月に日本が無条件降伏したことを知らされなかった兵士の多くが、その後独立したフィリピンの各地で戦いを続けた。しかしその後、終戦を知りフィリピン軍警察に投降したり、銃撃戦の末に射殺されたりして数が減っていき、1974年3月10日に、最後まで残った小野田寛郎が元上官からの命令を受けてフィリピン軍に投降しその後帰国した。

グアム[編集]

1944年8月に行われたグアムの戦いで、グアム島はアメリカの手に戻ったが、その後も生き残った一部の兵士は山中に撤退しアメリカ軍に対してゲリラ戦を行っていた。しかし、1945年8月に日本軍の無条件降伏したことを知らされないまま残留した兵士もいた。その後彼らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活したが、病気や現地の警官との銃撃戦などで数が減っていき、最後に残った横井庄一が1972年1月24日に発見され、同年2月2日に満57歳で日本に帰還した。

主な残留日本兵一覧[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]