国体

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国体(こくたい、旧字体: 國體)とは、八木秀次によれば“あるの基礎的な政治原則[1]。事実上、日本の事象に特化した政治思想用語であり、特に「天皇を中心とした秩序(政体)」[2]を意味するとされている。そのため、外国語においても固有名詞扱いで "Kokutai" と表記される。

概要[編集]

】とは政体の下に属する土地人民地理上の区画首都封土ふるさとの意。【】とは典型または規範などの意[3]

一般に国体とは、日本神話の、皇室万世一系天照大神の子孫であり、によって日本の永遠の統治権が与えられている(神勅[4]天皇により統治された、人民や古里の決まりといった意義。国体論では、とりわけ他国との対比において、王朝交代・易姓革命近代においては市民革命が起きなかったことを、日本の国体の表れとして重視する。論者の大部分は天皇による国家統治を国体の不可欠の要素として主張する。

不変の国体の存在を措定する限りにおいて、国体論は概して民族主義的・保守主義的立場といってよいが、その範囲内で、具体的に何を日本の国体の本質とみなすかは、時代や論者によって差異がある。

国体論の視座は大別して「徳」と「智」があり[5]、徳川封建社会以来のイデオロギーとしての朱子学や儒家的な思惟を重視すれば、国体とは個人の内面や実践に深く関わっており、親兄弟、家族や地域とのかかわりといった儒教的全体としての側面が強調され(徳)、それは西洋近代の先進文明が象徴する(智)に優先する。智を優越させた立場は福沢諭吉の「文明論之概略」であり、近代主義的な西欧文明論による日本社会の改造を意味する。「建國の體」を重視する君権学派は前者であり、「海外各國ノ成法」を重視する立憲学派は後者となる[6]

「国体思想」の要素は

  • 神国思想:日本の国家と皇統は神々に由来し、日本は神々に守護されているという信仰。特にファシズム時代には天皇を現人神と仰いだ(『国体の本義』・修身の教科書など)。神国思想は、大東亜戦争で敗北した為崩壊したとする論者もある。
  • 皇国史観:天皇を中心とする日本の国の歴史を称揚する歴史観。
  • 国民道徳論:忠君報国や親孝行などを日本の古来からの道徳として称揚する(教育勅語など)。
  • 家族国家論:日本の国家を一大家族に擬制し、皇室を国民の宗家とし、天皇を家長にたとえる。
  • 君主国体説:諸国家を「主権」の所在により君主国体と民主国体に分類し、日本を君主国体とする憲法学説(穂積八束上杉慎吉)。
  • 立憲主義・民本主義:天皇による統治は国民のために行われるべきと主張する(美濃部達吉吉野作造など)。

などが挙げられる。

「国体」は旧字体では「國體」と書き、古くから漢籍に見える。「国体」の文字は『管子』君子篇では「国を組織する骨子」の意味で、『春秋穀梁伝』では「国を支える器」の意味で用いられている。古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味している。

国家観の意味で「国体」の語が用いられるようになったのは江戸後期以降であるが、それ以前にも国体の萌芽となる思想は現われていた。そのひとつは、日本を神々の国であるとする神国思想、もうひとつは皇位の血統性を強調する皇国思想である。

前史[編集]

記紀[編集]

古事記』・『日本書紀』は、日本の国家と皇室の由来を語りおこしており、それ自体が神国思想といえる。『日本書紀』の一書(別伝)に天壌無窮の神勅には、天皇の先祖が高天原から降下したという天孫降臨において、天降りする孫に天照大神が与えたとされる言葉である。皇位の栄えは天地とともに無限であろう、と言祝(ことほ)ぐ。明治以降特に強調された言葉ではあるが、『日本書紀』の本文では採用されておらず、編纂時に強調されていなかったようである。ただし、『古事記』・『日本書紀』はその全体が、皇統の系譜を叙述の規範としており、皇位の血統的連続性いわゆる万世一系を前提とした史書である。

古代[編集]

一説には、雄略天皇は、中華皇帝から倭王に封じられた最後の天皇であり、これ以降、歴代天皇は中華皇帝に臣下の礼をとらなくなる。雄略天皇はまた国内では「治天下大王」を名乗り、自己より上位の権威を認めない姿勢を示した。

武烈天皇の崩御に伴って、大和の有力豪族たちは皇族を遠く北陸からむかえ皇位に推戴した。これが継体天皇である。こうした有力豪族たちの行動は、皇位には何よりも血統性が重要であるという一種の信仰を背景としたものであり、日本独自の国体観の始まりといえる。

  • 十七条憲法(注、官民に対する教諭書的性格が強く、現在の「憲法」の概念とは異なる。)
  • 「日の出づる処の天子」(607年、推古天皇15年、聖徳太子の皇帝に送ったとされる親書の一節。)頼山陽は『日本楽府』の冒頭の詩「日出処」で、「日の出ずる処、日の没する処」を易姓革命による中華王朝の存亡流転に対比して、万世一系の皇統を護る日本の国体の永久不変を常昇する東海の一輪の太陽に例えた。翌年の608年、推古天皇15年、遣隋使小野妹子の携えた国書に、「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す。」とある。『日本書紀
  • 大化の改新
  • 和気清麻呂の物語。769年(神護景雲3年)、宇佐神宮より皇位を道鏡に譲れとの神託がくだったが、和気清麻呂が勅使として参向し、以前の神託を否定し、即位計画は破綻して皇位につくことはなかった。皇位継承についての男系子孫継承の原則を破壊しようとした道鏡は、和気清麻呂によってその野望を打ち砕かれた。
  • 王土王民思想律令制参照。)

中世[編集]

中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に、元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。

朱子学が鎌倉後期に日本に伝来すると、その正統主義、尊王斥覇の思想が日本の国体観に加わった。

後醍醐天皇鎌倉幕府を打倒し天皇親政を試みた。鎌倉幕府の倒壊から南北朝時代を物語る『太平記』は、楠木正成などの南朝方武将を好意的に描き、後の歴史観に大きな影響を残した。また南朝方の有力公家北畠親房は南朝の正統性を主張するために歴史書『神皇正統記』を著し、皇国史観の元祖となった。又、戦国時代末期には、豊臣秀吉が外国宛書簡で神国思想を表明した。これは、江戸幕府を樹立した徳川家康にも継承された。

徳川時代[編集]

徳川時代に入ると学者による論説が登場した。これには儒学者の流れと国学者の流れがある。

儒学者流では、山崎闇斎とその学統が有名である。山崎闇斎は神儒一致(神道と儒教との一体化)の垂加神道を唱え、その弟子浅見絅斎は『靖献遺言』を著し尊皇思想の源流となった。闇斎は、皇統はそれ自体が道の存在を示しており、さらには天皇こそが儒教的な人倫の道の体現者であるとした。一説には、孫弟子の栗山潜峰(1671年(寛文11年) - 1706年(宝永3年))は、国体の語を日本独自の国家観の意味で初めて用いたといわれている。 水戸藩作成の史書『大日本史』には、孫弟子の三宅観瀾栗山潜鋒らが編纂に携わった。『大日本史』は、朱子学の正統主義の立場から、南朝正統論を強調した。水戸学では日本とは一つの道徳的実残の運動体(国体)であると考えられており、山崎闇斎の思想とともに幕末の尊皇攘夷運動の思想的契機の一つとなった。

一方、国学者流では本居宣長の影響も大きい。ほとんど読めなくなっていた『古事記』の解読にほぼ成功して、神国思想を強調した。

「国体」の語を用いた国家論が本格的に始まるのは、水戸学以降である。会沢正志斎は著書『新論』1825年(文政8年)の冒頭で国体と題した章を設けて尊皇攘夷を論じた。また、藤田東湖が起草し同藩主徳川斉昭が撰文した『弘道館記』1837年(天保8年)は「国体以之尊厳」と刻み、日本の道徳が皇統に由来することを説いた。これら水戸学者の著作は幕末の志士たちの間で広く読まれたことから、「国体」の語が一般に通用するとともに、水戸学流の国体観念が明治維新の原動力となる。

吉田松陰は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。後、吉田松陰門下から明治政府の高官となった者が多く、吉田松陰の国体観が明治国家に与えた影響は大きい。

水戸学の国体論とは別に大きな影響力を持ったものとして頼山陽日本外史』がある。これは「国体」の語を用いていないが、尊皇思想を背景に南朝方武将の楠木氏や新田氏を忠臣として描写しており、幕末の志士の間で多くの愛読者を獲得した。

国学者平田篤胤は神国思想に基づく国体を論じた。篤胤は禁書であったキリスト教関係の書を参照して、「アメノミナカヌシノカミ」(天御中主神)を創造神に位置づけ、世界を「幽冥界」と「顕明界」とに分け、前者は「オオクニヌシノミコト」(大国主命)が、後者は「天皇」が統治する世界であると考えた。そして天皇を全世界(人類・生物・物質)の統治者として位置づけた(平田篤胤『霊能御柱』)。こうした平田国学は豪商豪農層に広い支持を獲得し、一部の武士階級にも尊皇攘夷の思想を育んだ。この解釈は1880年明治13年)に始まる神道事務局祭神論争での出雲派の敗北によって表面上は衰退したが、現在でも神道系の新宗教の多くはこの解釈を奉じている。

なお、この頃の「国体」の語の用法にはブレがあり、例えば、国が鎖国から開国に転じることを「国体変革」と呼んでいる事例や、幕藩体制を「国体」と称している例がある。島崎藤村の『夜明け前』(第一部下12章5節)には松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、「一新更始の道を慶喜に建白した(中略)。天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の「国体」を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した。」とある。これは「国体」の語を広く国家体制の意味で用いていることによる。

本史[編集]

明治維新から明治憲法施行まで[編集]

「国体」に関する著作は、明治7年に小早川惟克『國體略附政體』、太田秀敬『國體訓蒙』、田中知邦『建國之體略記』、明治8年に石川貞一『國體大意』、加藤弘之『国体新論』が発表されていた[7]

加藤弘之は『国体新論』を著して「人民を以て独り天皇の私有臣僕となすが如き」「従来称する国体」は「野鄙陋劣」であると批判し、「欧州の開明論」による「国家君民の権利義務」の理が「公明正大なる国体」であると主張した。これは明治政府の一部から批判を受けたため、加藤弘之は著書を自ら絶版するとともに、思想を転向し、社会進化論に基づき明治国家を擁護するようになる。

1876年明治9年)、元老院に憲法起草を命じる勅語は「我が建国の体に基き広く海外各国の成法を斟酌して以て国憲を定めんとす」としており、「建国の体」即ち国体に基づいた憲法が要求された。これを受けて元老院が作成した憲法案は、伊藤博文に「各国の憲法を取り集めて焼き直ししただけであり、我が国体人情等に少しも注意したものとは察せられない」と反対され、廃案になった。

1881年(明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。

「朕、祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総攬し、又、つとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんことを期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆、漸次、基を創め、序に循て歩を進むるの道によるにあらざるはなし。なんじ有衆また朕が心を諒とせん。顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。今、在廷臣僚に命じ、仮すに時日をもってし、経画の責に当らしむ。その組織権限に至っては、朕、親ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。朕おもうに、人心進むに偏して、時会速なるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺る。これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、もって朝野臣民に公示すべし。もしなお故さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、処するに国典をもってすべし。特にここに言明し、なんじ有衆に諭す。

奉勅 太政大臣 三条実美」

この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、1884年明治17年)、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば、おのずから国体が変換する」と演説した。伊藤の部下であった金子堅太郎は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。大日本帝国憲法制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。

君主国体説[編集]

上杉慎吉は「天皇主権者タルコトハ我ガ日本ノ国体ニシテ、人民ガ主権タルハアメリカ合衆国ノ国体ナリ」 [8]と述べている。

東京帝国大学で憲法学を教授していた筧克彦法学博士は、貞明皇后に「古神道及び国体学」に関し皇后宮にて進講。御進講録「神ながらの道」は皇后宮職より公刊。また1935年昭和10年)に文部省開催の、憲法講習会の講演録「大日本帝國憲法の根本義」を文部省憲法教育資料中の1冊として上梓。同書には以下のようにある。

  • 「皇国神ながらの御主人様。御親様の御威力と皇国大生命の力とは不二たることを貴き性質とする。」
  • 「天皇様と国家とはもと二元的に相対立せる存在ではなく、神代ながらに不二である。 皇国は、天孫(皇孫)天降りによりて開かれ。開かれし当初より一生命、一徳、一統治権。」「引用は『大日本帝國憲法の根本義』皇学会、1936年(昭和11年)。による。」

天孫降臨より皇国神ながらの御主人様つまり国家主体として、天皇がある事をあきらかにした同講演が文部省主催であったことで、国家公認の国体学の権威としての地位をかため、皇太后宮より著作が公刊されたことにも伴い、帝国政府部内の国体説としては敗戦まで批判を許さなかった。詳細は筧克彦参照。

家族国家論の流行[編集]

日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める。憲法学者穂積八束は「我が日本固有の国体と国民道徳との基礎は祖先教に淵源す。祖先教とは先祖崇拝の大義を謂う。」「天祖は国民の始祖にして天皇は国民の宗家たり」(『国民教育 愛国心』1837年(天保8年))と述べ、また、高山樗牛も「皇室は宗家にして国民は末族なり」(「我国体と新版図」『太陽』1897年明治30年))とした。井上哲次郎も「我国は其総合家族制度の究極のものにして、其家長が天皇なり。」(「我国体と家族制度」1911年明治44年))としている。

大正デモクラシーと国体[編集]

天皇機関説により憲法を立憲君主制へ解釈改憲し、政党内閣の法的裏付けを求める動きが大正デモクラシーのバックボーンとなった。憲法学者美濃部達吉と上杉慎吉の論争を経て、天皇機関説は事実上の通説となった。

有機的国体論[編集]

[9]著名な国語学・文法学者であり、文部省起草「国体の本義」起草にも関わったとされる山田孝雄は1910年「大日本国体概論」を出版し[10]身体論的国家観を提示した。

  • 国体は国の体なり。喩えば、人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり。之を生理学的に見れば、幾多の細胞の組織せる有機体なり(「大日本国体概論」)。

ここに見られる類比的思考は西欧で広範に見られる<自然>な身体をモデルにした国家有機体説であり、「ペストやコレラの病毒の如き」「無政府共産主義の如きものゝ伝来に接し仮初にも之に感染するの偏狭者」[11]「病気で衰弱した身体にバチルスの入り易い様に毒は直ちに食ひ込んだ」「日露戦後の世間が疲弊した弱身にくひ込んだ病気である」[12]といった有機体としての国家、あるいは隠喩としての病の比喩は、この時代の空気[13]であった[14]

民本主義[編集]

民本主義の主唱者吉野作造は「君民同治を理想とする所の民本主義の政治は、…寧ろ国体観念を鞏固にするものである。」(「民主主義と国体問題」『大学評論』1917年大正6年))と述べ、美濃部達吉は「政治上の意義に於ての民主主義は…毫も我が国体に抵触するものではなく、却って益々国体の尊貴を発揮する所以である。」(「近代政治の民主的傾向」『太陽』1918年(大正7年))と主張した。明治期にはキリスト教を排撃していた井上哲次郎も、「日本の国体は万世一系の皇統を中心として来られるもの、日本は君主国にして民本主義を取れり、君主主義と民主主義との調和を保てるものにして其所に我国体の安全は存す」(『我国体と世界の趨勢』)と、民主主義に寄る姿勢を示した。

1921年(大正10年)、内務省神社局は『国体論史』を出版し、国体論の歴史を概観するとともに、「神話はその国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、これを根拠として我が国体の尊厳を説かんと欲するは危し。先入主として、これらの『国造り説』と相容れざる進化学上の知識を注入せられおる国民はあるいはこれを信ずる事をえざるが故なり」とした。内務省神社局がこのような見解を示していたことは注目される。 内務省神社局長であった水野錬太郎(内務大臣・文部大臣・神職会会長等も歴任。「天皇の政治利用」だと非難されて文部大臣辞任に追い込まれた。水野文相優諚問題参照。)は「日本の仏教は早くから国体精神と同一化し、儒教も、もとより国体精神と同一化してをり、そのほか外国の新文明新思想も国体精神と一致しつつあるもので、外来の思想を論難したり議論すべきでない」 [15]と述べている。

第二次世界大戦の時代[編集]

治安維持法[編集]

1922年(大正11年)、共産主義インターナショナル(コミンテルン)は日本の共和制への移行というテーゼを日本共産党に示唆した(日本共産党においてはこの22年テーゼは草案段階に終わる)。このような国体変革を狙った動きに対して、1925年(大正14年)公布の治安維持法は「国体の変革」を目的とした結社を禁止し、更に田中義一が主導した1928年(昭和3年)の法改正で最高刑が死刑に引き上げられた。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決によれば「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」(大判昭和4年5月31日刑集八巻317頁)とされた。治安維持法により共産主義革命運動が厳しく摘発されるとともに、この頃から「国体の変革」が言語的タブーとなる。
そうした環境下においてもなお、コミンテルンは日本の政体をドイツ語のMonarchieと規定、君主制の廃止を日本共産党に示唆した。君主制は「天皇制」と翻訳される。日本共産党は32年テーゼで天皇制打倒を目標に掲げ、当局から厳しく摘発された。

国体の名を借る政争[編集]

1927年、新たに結成された立憲民政党が政綱に「議会中心的主義」と掲げたのに対し、翌年、その対立政党である立憲政友会鈴木喜三郎(当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」(大阪朝日新聞1928年2月20日)と批判。逆に、政友会内閣が締結した不戦条約に「人民の名において」という文言があったのをとらえて、野党民政党はこれを国体に反するものとして論難した。

国体明徴運動[編集]

文部省の思想問題対策[編集]

  • 文部省は国民精神文化研究所を「我が国体、国民精神の原理を闡明にし、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くる」ために設置(学生思想問題調査委員会答申、1932年5月)。
  • 文部省『国体の本義』『臣民の道
  • 文部省内思想問題研究会編纂、青年教育普及会発行、紀平正美安岡正篤共著『国体の真意義・日本の国体』、1932年10月
  • * 安岡正篤著『日本の国体[16]
  • * * 緒論 国体及び政治に関する世の五大疑問
  • * * 第1章 国家は何が故に尊きや

・各人各階級は自然に各自の欲求に活きる。一方で、社会全体の心理的生理的に相影響する本然の生活関係に在る人間の集団が一種の有機的体系として在る。そういった全体を傷なってしまわないように、各自の欲求すなわち部分的欲求に即して、有機的体系を維持せんとする全体的欲求、社会的欲求がなければならない。この全体的欲求の実態を「官」あるいは「司」といい、民の指導的地位身分を意味する。官司の本質は自恣に走り社会生活を乱ることのないように民を正治することに在る。この作用の性質ゆえにこれを特に政治(政は正である)といい、その最高の政治組織体を国家というのであって、本然の規範的存在である。

・以上のように国家は本然的規範的発展の果てに成立したものであるから、我々は国家に就いて自ずから敬虔の念を懐き尊貴の情を催さざるを得ないのである。

  • * * 第2章 為政者と民衆との本質的関係如何

・人間と自然的動物とを区別する微妙な特徴は「敬」と「恥」の存在である。小さいもの卑しいものが大なるもの高いものに引接されるとき、之に対して自ずから催す感情が「敬」、自ら反って湧く感情が「恥」である。国家民衆はいかにしてよく敬に居り、恥を知ることができるか。それは当然百官有司すなわち為政者―指導階級によらねばならない。民衆は各々その生を営んで他が有るのを知らず、知っても深くは意に介さない。そこで民衆を乱雑に陥れず、統一調和してよく永生に即かしめる全体的意思に当たる者が為政者なのである。

・従って、為政者は「民」に対してぜひとも「士」でなければならない。最も恥を知り敬に居り、自然的生活を人格的に純化する者、道義の人でなくてはならない。

・なお、国家や政治についての本質論は、勿論現実の国家や政治の頽廃とは自ずから異なる問題である。国家や政府の神聖な意義を認め国家や政府の本義を尊重することは、現実の国家や政府がそのままに神聖であることを意味しはしないし、現実の国家や政府の頽廃とは関係なく超然として在るべき態度である。

  • * * 第3章 天皇は何が故に神聖不可侵なりや

・内外創造の太極、唯一者、これを一番普遍的な民族的観念で「天」と称する。国家においてこの天を表現する位体を天子という。天を神と宗教的に観念すれば、天子はすなわち「あきつみかみ」=「あらひとがみ」である。天を道徳的に内証すれば、天子はすなわち「すめらみこと」である。

・天子は造化そのものを体とし、国家民衆の真我なるものであるから、至虚にして至霊、百官有司の明徳有為に対して言えば、玄徳無為でなければならない。官民をして各々その明徳を明らかにし、為すあらしめるが天子の徳であり、為である。政府には善悪の審判がなければならない。しかし、このように政府をして善を善とし悪を悪とせしむるは天徳の作用で、天徳自体は本来善もなく悪もない。大日本帝国憲法第3条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とあるのは正にこの玄徳無為の哲理を法律的に表現したものを解釈することができる。

・人間が禽獣と侔しい動物ではなく、敬に居り恥を知る万物の霊長である限り何者にも易え難い至尊を何人も持たねばならない。至尊は畢竟真我であり、神である。同時に我々の国家にもまた是の如き至尊がなければならない。或いは之を国旗に表徴し、或いは之を法律に懸け、或いは之を無象に観る。我々は之を天皇に拝する。我々に天皇在すことは我々の胸奥に神在すに侔しい。天皇を蔑する者は神を蔑する者である。道を知らぬ者である。しかも是の如き者すら、否、是の如き者ほど深刻に実は天皇の慈悲の中に摂取されて居るのである、天皇の恵沢に浴して居るのである。

  • * * 第4章 万世一系の皇統が何故至貴至尊なりや

・我が国で革命という語が厭われて、維新の語が用いられるのは、西洋支那と国体を異にする点から観て当然と思う。国体と政体とを多くの法律、政治学者は区別してきた。憲法学の穂積八束博士は「国体は主権の所在に由って定まり、政体は主権行動の形式に由って分る」(憲法提要p98)とし、政治学の小野塚博士も「国体は最高機関の組織に由る区別にして、政体はその活動の形式に由る区別なり」(政治学大綱上巻p112)として居るが、世間では全く二者を混用して居る。安岡は「その国が如何なる価値的生活を現せるや国家生活に於る天地人三才すなわち至尊官司(特に政府)民衆が如何に組織活動せるや」の状態を国体といい、特にその中「国家の至尊官司が如何に表現組織され、如何に作用せるか」の状態を政体としようと思う。

・更生は生命自体の作用、真我の妙現でなければならないように、国家に於ける革命も本来天子の徳でなければならない。国家が滅亡の危機に瀕するとき、革命を遂行して新局面を打開することが毎に天皇の御稜威に由って行われてこそ真の道義国家である。

・政道に就いて最も大切なのは維新革命の原理である。我々は国家に於てその始の盲目的自然の状態を脱し、堂々と有道に進んで居る。利己的物質的暴力的生活を去って大我的理想的に進んで居るその最も高潔な自覚は至尊奉仕の念である。至尊奉仕の自覚が君民を一貫して普遍的に輝いていてこそ真の道義的国家であり、我が日本こそこれにあたる国である。この自覚の光が歴史的にいまだかつて滅び尽きたことはない。すなわち日本国民は万世一系の皇統を有して居る。それは国家の道義的確立という至貴至尊の価値を物語って居る。

  • * * 第5章 今日世界は君主国変じて共和国となり而してそれが世界共通の政治的進歩とさるゝ時日本独り如何にして天皇政治を清標し得るや

・今日次第に君主政治が亡び共和政治と変わる世に、そしてそれがまた当然政治の進歩と考えられておるとき、日本独り如何にして天皇政治を神聖不可侵とすることができるかという疑問は以上をもって氷解するであろう。 

  • 日本精神と辯證法 日本精神の根本(紀平正美と共著) 青年敎育普及會、1932年4月
  • * 安岡正篤著『日本精神の根本[17]
  • * * 第1章 如何に生くべきか即如何に死すべきか

・日本精神史上光明を放つ武士道は、いつでも露の命を永遠の価値に換えようという覚悟を根本にしていた。さらに永遠の光に依ってそのままに不朽の意義あらしめよう、一瞬の今を無限そのものたらしめようと念願した。如何に生くべきかは寧ろ如何に死すべきかであった。

・事の成敗利鈍は暫く舍いて、友人石田三成のために体を抛つのが武士の道とした大谷吉隆の事例には真に不断の瀕死を知って、永遠の今に生きようとする真の民族精神が赫々と輝いて居る。ここが論理を超越して日本人を動かす。

  • * * 第2章 現実に対する驚悟

・永遠の価値に生きよう、第一義諦に生きようとすれば、現実の夢のような生活、幻のような生活をはっきりと省察しなければならない。現実を直視して、俗悪な生活を徹底的に点検せねばならない。日本人は理想精神のゆえに人生の現実に慊らぬことに於いて、実に微妙な情意を持っていた。この日本人の微妙な心情に儒教仏教の感化殊に仏教の寂滅観が潤いを与えた。無常観、人生の無常は、日本人の心情に先にあったものに仏教がしっくり契って之を長養したものである。

・はっきりと心眼を開いて、本当の本当の人生を発見したい熱望が重要である。剣法に依って心法を練った古の武士の中にその実例を見出す。

  • * * 第3章 真性の体現

・真実な心境に触れると、本当の情趣がにじみ出てくる。真剣の人は何処やら優に床しい真心がある。真情が出るようになれば、本当の智慧も現れる。与えられた瞬間の命に永遠の意義を創造しようとする。そこで、束の間の命が非常に尊くなってくる。そこに所謂武士の礼というものがあった。学問の第一義も知識より、かかる人格生活の体現を深めること即ち志を立てるにある。大塩平八郎の洗心洞箚記には、立志は文字通り士心を立てることでなければならない。士は民と違って、物欲に支配さるる経済至上主義ではなく、能く精神の優越を確保する道義の主体たる人をいうのであるから、道に生きんとする是れ即ち立志である、と説かれている。三輪執斎も士心を説いて、士心の特徴は「憤」にあると言う。これは論語に「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず」とある通り、能く驚く、人生の事に活発な感激と創造力とを持つことである。 

第二次世界大戦[編集]

  • 「天皇が統治する政体」を意味する所の「国体」思想は、日中戦争大東亜戦争で頂点に達した。
  • 大東亜戦争終結ノ詔書終戦詔書「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」1945年(昭和20年)8月14日

第二次大戦期におけるこうした「国体」観念のあり方は、戦後の政治学や歴史学の立場から「天皇制ファシズム」と称されることがある[18]天皇制ファシズム参照)。

後史[編集]

  • 憲法改正審議における政府答弁「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。」「日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。」「日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります。」(以上吉田茂

「日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。」「稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。」(以上金森徳次郎国務大臣、1946年(昭和21年)6月25日衆議院本会議答弁)


帝国日本の敗戦により米軍を主力とする連合国軍による占領が始まると、民主化が進められて国民主権を明記した日本国憲法が施行された。それにともない、学術研究、言論、社会運動における「天皇制」の語は一般化した[19]
  • 戦後の共産主義運動における天皇制反対の名による皇室制度・国体への批判
日本の敗戦後に日本共産党指導部は釈放され、活動を再開した。象徴天皇制をうたった日本国憲法下においても天皇制に対する批判的なスタンスを変えることはなく、日本共産党及び同党の周辺知識人の主張によると、国体には「ほとんど同義」 [20]の語に天皇制がある。
  • 2004年に、日本共産党は綱領を改定。その中では天皇制について「一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」という方針をうちだしている。
  • 国体の言語タブー化。本来の大和言葉、国柄(くにがら)への言換え。
  • 国旗国歌法案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌・君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」(1999年(平成11年)6月29日衆議院本会議、小渕恵三首相)と答弁。

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  1. ^ 八木は「欧米に国体に似た文字があるかと言えば、強いて言えば、フランス革命イギリスにも影響を及ぼし、イギリスもまた共和政体に変更すべしという議論があったときにエドマンド・バークが『イギリスの政体は共治である。君民共治はイギルスの基礎的政治の原則(Fundamental Political Principle of England)である・・・』と主張した。このバークのいう「基礎的政治の原則」という文字が、やや日本の国体に似ているように思う」とする。「明治憲法の思想: 日本の国柄とは何か 八木秀次(PHP出版)P.123
  2. ^ 「過去との断絶と連続--1945年以降のドイツと日本における過去との取り組み」マンフレート・ヘットリング/ティノ・シェルツ 川喜田敦子 訳(ヨーロッパ研究6 2007年3月 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部ドイツ・ヨーロッパ研究センター)[1][2]P.5
  3. ^ KO字源[3]
  4. ^ 「天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)宝祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮りなかるべし。と仰せられてある。即ちこゝに儼然たる君臣の大義が昭示せられて、我が国体は確立し、すべしろしめす大神たる天照大神の御子孫が、この瑞穂の国に君臨し給ひ、その御位の隆えまさんこと天壌と共に窮りないのである。而してこの肇国の大義は、皇孫の降臨によつて万古不易に豊葦原の瑞穂の国に実現されるのである。」『国体の本義
  5. ^ 子安宣邦「朱子学と近代日本の形成-東亜朱子学の同調と異趣」 台湾東亜文明研究学刊第3巻第1期 2006.6、PDF-P.4、5
  6. ^ 立憲学派は国体に関わる実践は、法理ではなく倫理の範疇に関わるものであるとする。立憲学派においても国体とは国家創業以来の「歴史の経験」の現実であるとし、超国家的なものとしての倫理の実践を重視する。法体制として憲法による君主権の制約というイギリス流の憲法観に拠るものであり、天皇廃止論に輿するものではない。
  7. ^ 「野口米次郎の一九二〇年代後期の指向性」堀まどか(総研大文化科学研究 第4号2008.3.31)[4]P.94(脚注7)
  8. ^ 上杉慎吉『帝国憲法』1924年 大正13年度東京帝国大学講義 謄写版
  9. ^ この項目、「有機的<国体/国語>論の本義」西野厚志(早稲田大学大学院教育学研究科紀要)2013.9[5]から起筆した。
  10. ^ 西野2013.9によれば山田孝雄が国体論に傾斜し始めたのは幸徳秋水らによる大逆事件およびその一連の報道が大いに関係しており「1910年11月10日深く心に感ずるところあり」(大日本国体論自序)とある。
  11. ^ 「前代未聞の事件」時事新報1911.1.20
  12. ^ 井上哲次郎「破壊思想の源流」読売新聞1910.11.19
  13. ^ 西野2013.9、P.5
  14. ^ 有機的な国家身体から排除される側であった幸徳秋水ですら「所謂愛国心は実に之が病菌たり、所謂軍国主義は実に之が伝染の媒介たる」ゆえ「愛国的病菌は朝夜上下に蔓延し、帝国主義的ペストは世界列国に伝染し、二十世紀の文明を破毀し尽さずんば已まざらんとす」(「廿世紀の怪物帝国主義」1901年 警醒社書店)と同様の比喩を用いている。西野2013.9、P.5。
  15. ^ 『水野博士古稀記念 論策と随筆』水野博士古稀祝賀会事務所刊、1937年昭和12年)。
  16. ^ 国体の精華とは如何、政治の本質如何、という二つの問題を主な5つの条項に分けると、どうなるか。その要説。著者の当時の立場は金雞學院學監。
  17. ^ 自己は宇宙の秘義を開く鍵である。人は自己の人格内容に従って世界の理趣を無限に掬むことができる。日本人が本当に世界を知るためにも、先ず日本人として日本民族精神を、殊にその根本的特質、真骨頭ともいうべき点を明確に自覚し、之を長養する必要がある。国体の精華を解するためには日本精神の根本の霊活さを味識せねばならない。著者の当時の立場は金雞學院學監。
  18. ^ 『社会学小辞典』(有斐閣・1982年・増補版)の「天皇制ファシズム」の項には〈日本の場合、イタリアやドイツなどのような「下から」の運動による国家権力の掌握ではなく、天皇制国家権力自体が「上から」なし崩し的にファシズム化していったので、天皇制ファシズムと呼ばれる。〉とある。
  19. ^ 上記の通り戦前即ち帝国時代にも日本共産党は「天皇制」の用語を使用していたが、一般には普及しなかった。
  20. ^ 『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、189頁、「国体」の項。

参考文献[編集]

  • 概要、『国体の本義』文部省編纂内閣印刷局印刷発行、1937年5月31日。
  • 概要、筧克彦述『神ながらの道』皇后宮職 、1925年6月 。(尚 書誌ID 000002065114 「国立国会図書館」所蔵を用いた
  • 概要、中西旭主筆『世界観の確立』『尊皇の大義』台湾総督府国民精神研修所、1941年3月。
  • 概要、verfassungの邦訳の解説として(国を治める)過程の語義が含まれるかについて、Schmitt, Carl. Verfassungslehre. 1928,Auflage.
  • 筧克彦述『大日本帝国憲法の根本義』文部省、1936年、( 憲法教育資料 )資料 ID 1120977508 「東京都立中央図書館」所蔵
  • 今泉定助先生講演 御国体の實相』 大日本運動本部(編集発行 林路一)1938年4月

その他文献情報[編集]

概説[編集]

  • 「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」衆議院憲法調査会事務局(平成15年5月)[6]
  • 「日本における「議院内閣制」のデザイン」斉藤憲司(国立国会図書館調査及び立法考査局 レファレンス2010.11)[7]

思想史[編集]

  • 「朱子学と近代日本の形成-東亜朱子学の同調と異趣」子安宣邦(台湾東亜文明研究学刊第3巻第1期2006.6)[8]
  • 「日本政治思想」米原謙(MINERVA政治学叢書 ミネルヴァ書房)※第3章 明治維新と「国体」の創造[9][10][11]
  • 「近代日本と国体観念」岡崎正道(岩手大学人文社会科学部、人間・文化・社会 1997.3.28)[12][13]

論考[編集]

  • 「主権論をめぐる「日本的系譜」の可能性について」田中悟(国際協力論集18 2010.06)[14][15]
  • 「野口米次郎の一九二〇年代後期の指向性」掘まどか(総研大文化科学研究 第4号2008.3.31)[16]
  • 「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」長谷川亮一(千葉大学・博士号授与論文 2006年)[17]
  • 「十五年戦争下の朝鮮・台湾における教員「研修」」中村顕一郎(創価大学文系大学院教育学紀要 平成16年)[18]※院生論文
  • 「太平洋戦争における「終戦」の過程」コンペル・ラドミール(横浜国際経済法学第18巻第3号2010.3)[19]
  • 「司馬遼太郎の夏目漱石観」高橋誠一郎(初出:異文化交流第4号 東海大学外国語教育センター)[20]
  • 「過去との断絶と連続--1945年以降のドイツと日本における過去との取り組み」マンフレート・ヘットリング/ティノ・シェルツ 川喜田敦子 訳(ヨーロッパ研究6 2007年3月 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部ドイツ・ヨーロッパ研究センター)[21][22]
  • 「内務官僚の「中正なる国家」構想」崔鐘吉(筑波大学博士授与論文)※論文要旨のみ[23][24]
  • 「近代日本の国家と家族に関する一考察」加藤千香子(横浜国立大学人文紀要 第一類 哲学・社会科学 1996.11.31)[25][26]

関連項目[編集]