徳川達孝

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徳川達孝

徳川 達孝(とくがわ さとたか、慶応元年5月25日1865年6月18日) - 昭和16年(1941年2月18日)は、明治期から昭和にかけての宮中官僚政治家位階勲等爵位正二位勲一等伯爵田安徳川家第9代当主。田安家第5・8代当主の徳川慶頼の四男。幼名は群之助。後に、徳川宗家を継承した兄の徳川家達から偏諱を与えられ達孝と名乗る。

来歴[編集]

兄・家達が徳川宗家を継承したこともあり、明治2年(1869年)4月5日、田安家の次期(第9代)当主候補として嫡子となる。明治9年(1876年)11月13日、父慶頼の死去により、家督を相続する。同年11月28日、元服する。明治17年(1884年)7月7日、伯爵となる。明治20年(1887年)3月、徳川慶喜の長女・鏡子が輿入れする。明治22年(1889年)、ヨーロッパ視察を行う。明治30年(1897年)7月、貴族院議員となり、大正3年(1914年)6月6日に辞職する[1]

侍従次長となり、皇后宮大夫事務取扱を大正4年(1915年)3月23日から大正5年(1916年)6月22日[2]まで兼務した。大正11年(1922年)3月22日、大正天皇侍従長に就任し、昭和2年(1927年)3月3日に退任した。その他、学習院評議員・日本弘道会長を務める。

十五銀行の倒産や家扶の不正などで経済的に逼迫したため、昭和15年(1940年)、芝区三田綱町の邸宅2,711平方メートルを慶應義塾に売却。旧邸には慶應義塾大学綱町研究所が置かれ、昭和26年(1951年)から慶應義塾女子高等学校となった。邸宅売却後は実兄・家達公爵家が構える千駄ヶ谷本邸の別棟で暮らした。

なお、達孝は昭和12年(1937年)頃から徳川義親に家産の整理を相談し、債務の返済には成功。その一環として、昭和13年(1938年)4月、屏風などの家宝の売りたてを行った。昭和16年(1941年)逝去、満75歳没。

人物[編集]

華族として、主に宮中で活躍。侍従長に就任。謹厳な性格で知られる。野球に熱中し、三田綱町の邸宅の庭園や築山を壊して泉水を埋め、運動場を造成した(徳川邸運動場)。野球クラブ(ヘラクロス倶楽部)を組織。この運動場で新橋アスレチック倶楽部と対戦したといわれる。

著作ほか[編集]

  • 「朱舜水と第1高等学校」『朱舜水』(1912年) 朱舜水記念会、朱舜水記念会事務所。NCID BN12272885
  • 『國民道徳訓』(1915年) 徳川達孝 (述) ; 平塚睢鳩 (編)、至誠堂書店。NCID BA32012091
  • 『大正天皇御治世史』(1927年) 高木八太郎 ; 小島徳彌、教文社。NCID BN07556715一木喜徳郎閣下題辞, 徳川達孝閣下題辞, 服部宇之吉先生序文。

栄典[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 帝国議会 貴族院議員辞職六月六日」『官報』第556号、大蔵省印刷局、1914年6月9日、 219 (8/18コマ)、2019年6月10日閲覧。
  2. ^ 叙任及び辞令 依願皇后宮太夫事務取扱被免(以上6月22日同〈宮内庁〉)」『官報』第1168号、1916年6月23日、 526 (3/13コマ)、2019年6月10日閲覧。
  3. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  4. ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
  5. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  6. ^ 『官報』第1322号「叙任及辞令」1916年12月27日。
  7. ^ 『官報』第3814号「叙任及辞令」1925年5月13日。
  8. ^ 『官報』第2228号「叙任及辞令」1934年6月7日。


日本の爵位
先代:
創設
伯爵
(田安)徳川家初代
1884年 - 1941年
次代:
徳川達成