内藤耻叟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

内藤 耻叟(ないとう ちそう、文政10年9月25日1827年11月15日) - 明治36年(1903年6月7日)は、明治時代に活躍した歴史家。本名は正直

経歴[編集]

文政10年(1827年)、常陸国(現茨城県)水戸南町に美濃部茂政の二男として生まれ、水戸藩士・内藤氏を継ぐ。天保12年(1841年)に藩校弘道館に入り、同校において会沢正志斎藤田東湖らに師事。のちに幼少期の徳川慶喜の学問の相手もつとめている。安政6年(1859年)に藩内の論争に巻き込まれて謹慎の上、隠居を命ぜられる。後に天狗党鎮圧に加わった功績で慶応元年(1865年)に弘道館教授に任ぜられるが、翌年再び藩内の論争に巻き込まれて入獄、その後幕末期の混乱に乗じて水戸を脱出し、放浪生活を送る。その後、明治3年(1870年)に山形県府藩県三治制の県)職員となり、明治11年(1878年)に東京府に新設された小石川区の区長に就任する。

明治14年(1881年)には群馬県中学校の校長に任ぜられ再び教育に携わるようになる。明治17年(1884年)、東京大学講師、明治19年(1886年)より帝国大学文科大学教授。経学・日本史・支那歴史・支那哲学・漢文学・和漢古代法制などの科目を担当。明治24年(1891年)非職。この間、明治22年から24年の間には陸軍教授を兼任。明治36年(1903年)、中風のため[1]東京小石川で死去。77歳。

後期水戸学の思想と学風を堅持し、提唱し続けた。著書に『徳川十五代史』『安政紀事』など。

著書[編集]

  • 支那文学全書「四書講義 上巻 大学 中庸 論語」内藤耻叟講述 博文館
  • 支那文学全書「四書講義 下巻 孟子」内藤耻叟講述 博文館
  • 支那文学全書「小学 孝経 忠経 講義」 内藤耻叟講述 博文館
  • 支那文学全書「近思録講義」 内藤耻叟講述 博文館
  • 「徳川十五代史」内藤耻叟講述 博文館

脚注[編集]

  1. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)20頁

関連項目[編集]