第3次桂内閣

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第3次桂内閣
Tarō Katsura cropped.jpg
内閣総理大臣 第15代 桂太郎
成立年月日 1912年大正元年)12月21日
終了年月日 1913年(大正2年)2月20日
与党・支持基盤官僚内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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第3次桂内閣(だいさんじ かつらないかく)は、元老内大臣侍従長桂太郎が第15代内閣総理大臣に任命され、1912年大正元年)12月21日から1913年(大正2年)2月20日まで続いた日本の内閣である。

内閣の顔ぶれ・人事[編集]

国務大臣

1912年(大正元年)12月21日任命[1]。在職日数62日(第1次、2次、3次通算2,886日)。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 15 桂太郎 Tarō Katsura cropped.jpg 陸軍大将
公爵
外務大臣兼任
外務大臣  25 桂太郎 Tarō Katsura cropped.jpg 陸軍大将
公爵
内閣総理大臣兼任 1913年1月29日免兼[2]
26 加藤高明 Takaaki Kato.jpg 外務省
男爵
1913年1月29日任[2]
内務大臣 24 大浦兼武 大浦兼武 肖像写真.jpg 貴族院
無所属
茶話会
陸軍中尉
子爵
大蔵大臣 15 若槻禮次郎 Reijiro Wakatsuki posing cropped.jpg 大蔵省 初入閣
陸軍大臣 10 木越安綱 Kigoshi Yasutsuna.jpg 陸軍中将
陸士旧1期
男爵
初入閣
海軍大臣 6 斎藤実 Saito Makoto 1910.jpg 海軍大将
海兵6期
男爵
留任
司法大臣 17 松室致 Matsumuro Itasu.jpg 司法省 初入閣
文部大臣 23 柴田家門 Kamon Shibata cropped.jpg 貴族院
無所属
(茶話会)
初入閣
農商務大臣 23 仲小路廉 Nakashouji Ren.jpg 貴族院
無所属
初入閣
逓信大臣 20 後藤新平 Shimpei Gotō.jpg 内務省
男爵
鉄道院総裁拓殖局総裁
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

1912年(大正元年)12月21日任命[3]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 17 江木翼 Tasuku egi.jpg 内務省
法制局長官 14 一木喜徳郎 Kitokuro Ichiki cropped Kitokuro Ichiki Dai Nippon Hotokusha.jpg 貴族院
無所属
内閣恩給局長
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身 国務大臣 その他
きぞくいん貴族院[注釈 1] 3 法制局長官
ぐんぶ軍部 3 国務大臣のべ4
かんりょう官僚 3 内閣書記官長
その他 0
9 国務大臣のべ10

内閣の動き[編集]

1900年代の日本の政治は、官僚機構(藩閥)の主宰者の地位にあった桂太郎と、衆議院第一党の座を維持した立憲政友会西園寺公望総裁)との連携によって成り立ち、桂・西園寺両名が交互に首相に就任していた(桂園時代)。しかし、政権内部では、藩閥勢力の最大実力者で、政党内閣制への導入を嫌う山縣有朋筆頭元老と、西園寺総裁にかわって政友会を取り仕切り、地方への利益誘導を図る原敬を中心に、権力闘争が常に起こっており、1911年の第2次西園寺内閣成立後には、桂園の一方の雄であった桂は、山縣・原の双方からその微温的な態度を敬遠され、1912年8月、明治天皇の崩御を口実として、山縣の推挙で内大臣侍従長という宮中職をあてがわれ、事実上の政界引退に追い込まれた。

同年11月、二個師団増設問題が勃発。当初は陸軍と政友会との予算獲得の争い、条件闘争に過ぎなかったが、政界復帰を目論んだ桂が侍従長の権限を用いて山縣と原の間の連絡をかき乱した結果自体はエスカレート、陸軍は上原勇作陸軍大臣を引き上げ、後任の大臣を出さないことによって、西園寺内閣を総辞職においこんだ(軍部大臣現役武官制)。後任の首相には元老会議の推薦により桂が推挙され、桂は政界復帰を果たす。周囲は、桂が引き続き政友会と連携して政権を運営するものと見ていたが、政友会(特に原)の利益誘導の態度に嫌気がさした桂は、政友会以外の新党の結成を以前から企図しており、首相就任を機に、「桂新党」の結成に乗り出す。

しかし、この西園寺内閣の崩壊、桂の再度の首相就任が、山縣と桂が示し合わせた陰謀であるとみなされ、「憲政擁護・門閥打破」を掲げた憲政擁護運動が、民間で湧き上がる。桂は、政友会をはじめとする各政党から議員を大量に引き抜き、綱領を示せば輿論の支持は得られると考えて新党結成に突き進むが、肝心の政友会からの合流はほぼ皆無で、更に議事堂が連日群衆に取り囲まれ、出入りする大臣や「桂新党」の議員の身が危険にさらされるまでエスカレートする。

2月9日、桂は最終手段として大正天皇の詔勅(優詔、御沙汰)を引き出し、西園寺、原ら政友会首脳も一旦は矛を収めることに同意する。しかし、西園寺が自党の代議士の説得に失敗、勅旨貫徹に失敗した西園寺は責任を取って総裁を辞職する。進退窮まった桂は、2月10日、内閣総辞職を決意するに至った(大正政変)。在任期間は62日間で、東久邇宮内閣(54日間)に次いで史上第2位の短命内閣になった[注釈 2]

政変後、原が総裁に就任した政友会は、桂の後継として大命を受けた山本権兵衛首相を支えることで与党復帰を果たす。一方、桂は直後に病死したが、第3次桂内閣で政界進出した加藤高明がその遺志を継いで立憲同志会を結成、のちに政友会と二大政党を形成する立憲民政党の母体となった。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 大浦兼武は警視庁警部として抜刀隊を率いた功で陸軍中尉に任じられたため、正式な軍人ではない。
  2. ^ ただし、第1次第2次を含めると、桂は安倍晋三に次いで歴代内閣史上2番目の長期在任首班である(2021年現在)。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]