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津村秀松

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
津村 秀松
人物情報
生誕 (1876-06-14) 1876年6月14日
日本の旗 日本和歌山県御坊市
死没 1939年12月23日(1939-12-23)(63歳没)
出身校 東京高等商業学校
子供 津村秀夫(長男)
津村信夫(次男)
学問
研究分野 経済学
研究機関 神戸高等商業学校
主な指導学生 大西猪之介
学位 法学博士
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津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日[1] - 1939年12月23日[2])は日本経済学者実業家神戸高等商業学校(現・神戸大学教授大阪鐵工所(現・日立造船取締役会長等を歴任した。

経歴

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1876年、和歌山県日高郡御坊村(現・御坊市)生まれ。旧制和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年東京高等商業学校 (現・一橋大学)専攻部を卒業。東京高等商業学校校長だった小山健三の娘と結婚した。

1900年から1903年まで欧米に留学し、留学中に石川巌・石川文吾神田乃武・瀧本美夫・志田鉀太郎福田徳三関一とともに「商業大学の必要」を建議し、東京高商の大学昇格運動を始めた。帰国後、神戸高等商業学校教授に就任。1915年、法学博士号を取得した。

その後久原財閥の久原本店理事に就任し、飯島幡司教授を久原商事に入社させた。1926年から大阪鐵工所(現・日立造船取締役会長を務め、専務の飯島とともに再建にあたり、1932年にともに退任した。このほかに久原合名理事、久原商事専務、日本汽船専務、昭和商事部常務、日本産業取締役、日高銀行監査役、久原用地部監査役、海洋社監査役、日本共同汽船取締役を兼務した[3][4][5][6][2][7][8]

家族・親族

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脚注

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  1. ^ 『人事興信録 4版』人事興信所、1915年、つ5頁。
  2. ^ a b 「津村秀松」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク
  3. ^ 津村、飯島両氏-久原関係を去る大阪毎日新聞 1932年??月12日(神戸大学図書館新聞記事文庫。原典の掲載月が明記されていない)
  4. ^ 池だ哲郎, 「紀州英学史素描」『英学史研究』 1969年 1969巻 1号 p.1-14, doi:10.5024/jeigakushi.1969.1
  5. ^ 「130年の歩み」日立造船
  6. ^ 「第二期 昇格運動時代」如水会
  7. ^ 「詩人 津村信夫の肖像」保険教育システム研究所
  8. ^ [書評] 杉原四郎著『日本の経済思想史』」『關西大學經済論集』 52巻 1号 p.81-88 2002年, ISSN 04497554
先代
山岡順太郎
大阪鉄工所会長
1926年 - 1932年
次代
鮎川義介