プラカード事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
食糧メーデー当日の様子
最高裁判所判例
事件名 不敬
事件番号 昭和22(れ)73
1948年(昭和23年)5月26日
判例集 刑集 第2巻6号529頁
裁判要旨
  1. 恩赦は、ある政治上又は社会政策上の必要から司法権行使の作用又は効果を行政権で制限するものである。そして、大正元年勅令第二〇号恩赦令の規定による恩赦は、天皇の大権に基いて行政の作用として、既に刑の言渡を受けたものに対して判決の効力に変更を加え、まだ刑の言渡を受けないものに対しては刑事の訴追を阻止して、司法権の作用、効果を制限するものである。よって、どの判決の効力に変更を加え、どの公訴についてその訴追を阻止するかは、専ら行政作用の定むるところに従うべきである。また、本件のごとく公訴繋属中の事件に対しては、大赦令施行の時以後、公訴権消滅の効果を生ずる。
  2. 公訴権が消滅した場合、裁判所は、その事件につき、実体上の審理をすゝめ、検事の公訴にかゝる事実が果して真実に行われたかどうか、真実に行われたとして、その事実は犯罪を構成するかどうか、犯罪を構成するとせばいかなる刑罰を科すべきやを確定することはできなくなる。よって、原審が大赦令の施行にもかかわらず実体上の審理をなし、その判決理由において被告人に対し有罪の判定を下したことは違法である。
  3. 大赦の場合には、裁判所としては免訴の判決をする一途であり、被告人の側でも、無罪を主張して、実体の審理を要求することはできない。
大法廷
裁判長 三淵忠彦
陪席裁判官 塚崎直義 長谷川太一郎 沢田竹治郎 霜山精一 井上登 栗山茂 真野毅 庄野理一 小谷勝重 島保 斎藤悠輔 藤田八郎 岩松三郎 河村又介
意見
多数意見 三淵忠彦 塚崎直義 長谷川太一郎 井上登 小谷勝重 島保 藤田八郎 岩松三郎 河村又介
反対意見 沢田竹治郎 霜山精一 栗山茂 真野毅 庄野理一 斎藤悠輔
参照法条
刑訴法363條3號、刑法74條、恩赦令3條
テンプレートを表示

プラカード事件(プラカードじけん)とは、1946年昭和21年)5月19日食糧メーデーよこせメーデー、正式には「飯米獲得人民大会」)の際、参加者の一人である日本共産党員の田中精機工業[1]社員・松島松太郎が掲げた「ヒロヒト 詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)のプラカード不敬罪に問われた事件[2]。「食糧メーデー不敬事件」とも。検察は松島を刑法74条違反で訴追したが、松島側は「ポツダム宣言の受諾によって天皇の神性消滅を受けて不敬罪は消滅した」と主張して争われた[3]

裁判[編集]

松島は不敬罪起訴されたものの、GHQの意向により、不敬罪ではなく名誉毀損罪とすることとされ、第一審(東京地方裁判所昭和21年11月2日判決)は不敬罪を認めず、天皇個人に対する名誉毀損罪のみが認められた。

控訴審東京高等裁判所昭和22年6月28日判決)はあくまで法を順守し、不敬罪を認定した上で、日本国憲法公布に伴う大赦令により、免訴判決を下した(新憲法下に於ても天皇が日本の元首であると判示)。

上告審(最高裁判所昭和23年5月26日大法廷判決)は、無罪判決を求める被告上告棄却した。多数意見(9裁判官)の理由は、大赦により公訴権が消滅しているので、裁判所はこれ以上の実体審理をなしえない。控訴審の実体審理は違法だが、免訴の結論は正しい、というものである。

本来、この事件では法的に日本国憲法と不敬罪というテーマが問題となるはずであったが、最高裁は免訴判決を下すことによってこの問題についての判断を避けた。本事件での最高裁判決は免訴判決の法的性質という刑事訴訟法上の重要問題についての先例となっている。ただしこの裁判には、当時連合国軍占領下の日本を統括していたGHQの意向が強く働いていることは無視できない。

脚注[編集]

  1. ^ 現在のTNK
  2. ^ 『諷刺の笑いとその応答』p.3
  3. ^ 『諷刺の笑いとその応答』p.4

参考文献[編集]

  • 横坂健治 「天皇と不敬罪」『憲法判例百選II 第5版』(有斐閣、2007年)366頁
  • 「免訴判決の性質」『刑事訴訟法判例百選』(有斐閣、2005年)236頁
  • 長島平洋 『諷刺の笑いとその応答-不敬罪を軸にII』 日本笑い学会〈笑い学研究 No.18〉、2011年7月23日、3-13頁。2012年11月30日閲覧。
  • 吉田健二「証言:日本の社会運動 食糧メーデーとプラカード事件 - 松島松太郎氏に聞く(1) - (3)」『大原社会問題研究所雑誌雑誌』2003年5・6・8月号[1][2][3] インタビューは1988年と1989年におこなわれたもの。

外部リンク[編集]