徳川綱條

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
徳川綱條
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦2年8月26日1656年10月13日
死没 享保3年9月11日1718年10月4日
改名 采女、綱條
別名 鳳山
諡号 粛公
戒名 長享院殿天誉堪然白性大居士
慈廣院殿正慧日勇大居士
墓所 瑞龍山
官位 従五位上采女正正四位下左近衛権少将
右近衛権中将従三位参議
正三位権中納言、贈従二位
幕府 江戸幕府
常陸水戸藩
氏族 水戸徳川家
父母 父:松平頼重、母:土井利勝の娘(晧月院
養父:徳川光圀
兄弟 綱方綱條松平頼剛松平頼侯松平頼芳
正室:今出川公規の娘・本清院
側室:山崎氏、岡崎氏、井出氏
鍋千代、巌麻呂、吉孚、豊麻呂、金松
直松、友千代、清姫、元姫、幸姫
養子:宗堯

徳川 綱條(とくがわ つなえだ)は、江戸時代中期における常陸水戸藩の第3代藩主

生涯[編集]

青年時代[編集]

明暦2年(1656年)8月26日、讃岐高松藩主・松平頼重の次男として江戸の高松藩邸にて生まれる。幼名采女(うねめ)。

寛文5年(1665年)8月、本家・水戸家に移り、2,000石を与えられる。これに先立って同母兄・徳川綱方が第2代水戸藩主・徳川光圀の養嗣子に迎えられており、綱條は光圀の次男格という扱いであった。綱條の実父・松平頼重は光圀の実兄であるから、綱條は甥に当たる。父・頼重の後嗣には、光圀の子・頼常が内定していたため、高松藩主の次男であるより水戸藩主の次男である方がいいだろうということで、水戸家に入ったという[1]。 兄・綱方が早世したため、寛文11年(1671年)6月、正式に光圀の養嗣子として迎えられた。

光圀が養嗣子を迎えた理由は、彼の生い立ちにあった。光圀の父・徳川頼房(綱條の祖父)は、頼重・光圀の母である久昌院が身ごもると、家老・三木之次に久昌院を預け、頼重は江戸で、光圀は水戸で生まれた。頼重はその後に京へ送られたため、同母兄弟であったが、互いに会ったのは頼重12歳、光圀6歳のときであった。こうしたことから光圀は、実子による藩主の世襲にこだわらず、他家から養子に迎えた者の方が色々な識見もあってよいと考えていたようである。光圀はまた、『史記』の「伯夷伝」の影響や、兄を差し置いて家督を継いだことへの負い目もあって、兄の子を養子として迎えることを決意したという。なお、頼常は生後間もなく京都に、翌年には高松に送られて、2歳から高松城内にて養育されていた。のちに頼重の養嗣子となる(高松藩2代目藩主)。いわば兄弟の子のトレードであった。

水戸藩主[編集]

元禄3年(1690年)、叔父で先代の光圀が隠居した跡を継ぎ、35歳で藩主となる。光圀は水戸藩領の西山荘に暮らし、元禄13年(1700年)12月死去した。

この頃、水戸藩の財政は深刻な事態となっていた。水戸藩の石高は元々28万石であったが、光圀の代に2人の弟(綱條には叔父)頼元頼隆にそれぞれ2万石ずつ分与していた(額田藩保内藩)。綱條の代になった元禄13年(1700年)に将軍・徳川綱吉が小石川邸に来臨した際、頼元の子・頼貞と頼隆には改めて幕府より2万石ずつが与えられ(守山藩常陸府中藩)、元の領地は本家に返納されている。翌年の元禄14年(1701年)5月、新田開発の分を含めるとして、表高を28万石から35万石にすることを幕府から許可される。しかし実際には加増されていないため、表高を基準とした格式を維持するために財政はさらに悪化した。財政難は徐々に表面化し、元禄13年に初めて領内で御用金が集められたが、次第に藩士の俸禄の遅延・不払いが起こった。加えて物価の上昇で農村は疲弊、田畑は荒廃し、領民の貧富の差が拡大した。借金は宝永6年(1709年)で8万両に及んだという。

綱條はそのため、元禄16年(1703年)から本格的に改革を始めた。宝永3年(1706年)、清水仁衛門の推薦で松波勘十郎を登用する。勘十郎は美濃国出身の浪人であるが、経済の才能に優れていたため、大和郡山藩備後三次藩から招かれて、改革を成功させていた人物である。綱條もそれを見込んで招いたのではと考えられる。招かれた勘十郎は、財政再建のために倹約令や経費節減、人員削減、不必要な組織の改廃などを行なった。特に人員削減では武士の中でも低い身分の郷士を取り立てて、それまでの代官手代などを半分に削減、さらに百姓などまでも取り立てて、代官などに取り立てられた者もいる。これは、これまで不正を行なっていた者の処罰的意味と、領民から支持を得るために行なったことである。また商業においては、それまで城下の商業を行なうことは水戸藩出身の商人だけしか許されていなかったが、勘十郎はこれを規制緩和して、他藩の商人も招き入れた。確かにこれにより商業も潤ったが、これは商品経済化の促進を招くことにもなった。

さらに大規模な改革として、大貫海岸(大洗町)と涸沼、涸沼と北浦巴川)間に運河を掘削する計画を立てた。勘十郎はこの運河による江戸との交易により、財政を潤わせようとしていた。2本の運河は「大貫運河」と「紅葉運河」と呼ばれた。工事は宝永4年(1707年)夏から実行され、半年余りで完成した。しかし、紅葉運河では北浦側の方の水位が高く、水門で水位を調節しながら船を通すことを強いられ、かえって費用高となった。水深も浅くすぐに土砂に埋まってしまい、何度も掘り直さなければならず、実質的にあまり役に立たなかった。しかも、農繁期にもかかわらず難工事に動員された農民たちへの賃金の支払いが不十分で、ほかの場当たり的な改革への不満も募らせる結果となった。加えて、厳しい年貢増徴政策も行なわれ、領民は大いに苦しんだという。これら一連の改革を「宝永の新法」という。

改革失敗から晩年[編集]

厳しい年貢増徴政策や運河建設による労役は、領民の憤激を生んだ。宝永5年(1708年)12月、松波勘十郎の罷免と新法の全廃を求めて多数の農民が江戸に向かい、水戸藩や支藩の守山藩の江戸屋敷に約1カ月にわたり押しかけて直訴した。ここに至って綱條も、騒ぎが大きくなる前にと勘十郎を罷免、宝永6年(1709年)1月改革を中止した。そして特に領民から悪人とまで名指しされていた勘十郎を投獄し、正徳元年(1711年)に獄死させた。しかし綱條は最後まで勘十郎の死を惜しんだという。現在、茨城町から鉾田市にかけて、紅葉運河の一部として「勘十郎堀」が残っている。

ただ、綱條自身政治に対し熱心とは言えず、能楽好きが度を越していると非難されることもあった。

宝永6年(1709年)、嫡男・吉孚が父に先立って25歳で早世。綱條はこのとき54歳。他に成長した子女はなく、吉孚の遺児・美代姫の婿とすることを意図して、2年後、甥の讃岐高松藩主・松平頼豊の長男・軽千代(宗堯)を養嗣子に迎えた。

正徳6年(1716年)、将軍・徳川家継が病に倒れると次の将軍候補の一人となったが、将軍に選ばれたのは紀州藩主の徳川吉宗であった。最晩年は『礼儀類典』を幕府に献上し、さらに『鳳山文稿』、『鳳山詠草』などの著作も多く残した。因みに、養父の光圀が編纂した歴史書の名を『大日本史』と名づけたのは綱條である。

享保3年(1718年)9月11日、63歳で死去。養嗣子の宗堯が跡を継いだ。

官歴[編集]

家系[編集]

  • 正室:季姫・本清院・荘恵夫人(今出川公規の娘)
  • 側室:順(山本氏・了照院)
    • 長男:鍋千代(夭折5歳)
    • 長女:清姫(夭折3歳)
    • 六男:直松(夭折3歳)
    • 七男:友千代(夭折9歳)
  • 側室:都礼(岡崎氏・禅定院)
    • 二男:巌麻呂(夭折1歳)
    • 三男:吉孚(1685~1709)
    • 四男:豊麻呂(夭折3歳)
    • 二女:元姫(夭折2歳)
    • 三女:幸姫(夭折3歳)
  • 側室:理璵(井出氏)
    • 五男:金松(夭折5歳)

7男3女があったが、三男・吉孚を除いて10歳未満で夭折し、さらに吉孚も25歳で早世して、子女全員に先立たれた。 養女の八十姫も夭折。もうひとりの養女・益姫ははじめ肥後熊本藩主・細川綱利の嫡子・与一郎と婚約していたが、与一郎が死去。その弟・細川吉利と婚約したが、吉利も死去したため、支藩の府中藩に嫁いだ。

関連項目[編集]

演じた俳優[編集]

補注[編集]

  1. ^ 「高松の御総領松千代(綱方)様、去年水戸之御世継に被為成候上は、是非采女(綱條)様には高松御世継之筈にて御座候得共高松之御世継には未だ采女様御誕生以前より、鶴松(頼常)様高松へ御越被成候故、采女様には兎角何方にても御次男之筈にて御座候、然る上は水戸の御次男に被成候て、後には刑部様(頼元)播磨様(頼隆)程之御身體格には可被遊と之思召之由に御座候」(『三浦市右衛門覚書』)