松平頼貞

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松平 頼貞
時代 江戸時代前期から中期
生誕 寛文4年1月25日1664年2月21日
死没 延享元年8月3日1744年9月9日
別名 義山(号)
墓所 茨城県常陸太田市瑞竜山
官位 従四位下侍従大学頭左近衛少将
常陸国額田藩主→陸奥国守山藩
氏族 水戸松平家
父母 父:松平頼元、母:嘉禰(小笠原忠真の娘)
兄弟 頼貞本多忠国頼愛
正室蜂須賀隆重の娘
頼尚(次男)、頼寛(三男)、定賢(五男)、頼恭(六男)、頼済(七男)、勝之助七郎、染姫(小笠原長煕正室)、与米姫(細川興生正室)、津治姫堀直尭正室)

松平 頼貞(まつだいら よりさだ)は、常陸額田藩の第2代藩主、のち陸奥守山藩の初代主。守山松平家第2代当主

生涯[編集]

寛文4年(1664年)1月25日、額田藩の初代藩主・松平頼元の長男として生まれる。水戸徳川家初代の徳川頼房の孫である。元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継ぐ。

元禄13年(1700年)9月25日、額田から陸奥守山に移封された。元文4年(1739年)、尾張藩主・徳川宗春に対して蟄居を伝える使者を務めた。寛保3年(1743年)10月28日、家督を三男の頼寛に譲って隠居する。翌延享元年(1744年)8月3日に死去した。享年81。

頼貞は多くの男子をもうけており、元文から寛保の間に六男の頼恭高松松平家を、七男の頼済府中松平家を継いでいる。以後、文化年間(19世紀初め)以降に本家の水戸藩徳川治紀斉昭の息子たちが養子入りするまで、水戸家の連枝4家のうち宍戸松平家を除く3家を頼貞の血筋が占めた。他にも五男の定賢親藩久松松平家を継いでいる。