小笠原忠真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
小笠原忠真
時代 江戸時代
生誕 慶長元年2月28日1596年3月26日
死没 寛文7年10月18日1667年12月3日
改名 春松丸(幼名)→忠政→忠真
別名 忠眞
墓所 福岡県北九州市小倉北区の広寿山福聚寺
官位 従四位下侍従左近将監
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
信濃松本藩主→播磨明石藩主→豊前小倉藩
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原秀政、母:登久姫松平信康娘)
兄弟 忠脩忠真万姫蜂須賀至鎮室)、千代姫(保寿院細川忠利正室)、忠知松平重直忠慶長俊溝口政房原昌行
正室:亀姫本多忠政娘、徳川家康養女)
側室:那須藤(永貞院
長安長宣、市松姫(宝光院黒田光之正室)、嘉禰(兼姫、松平頼元正室)、鍋姫、
忠雄真方坂牧忠増長弘、千代姫、姫松
養子:繁姫蜂須賀忠英正室)

小笠原 忠真(おがさわら ただざね)は、江戸時代前期の大名茶人信濃松本藩2代藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩初代藩主。

生涯[編集]

下総国古河城に生まれる。徳川秀忠から偏諱を授かって忠政と名乗り、晩年に忠真と名を変えた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父と長兄・忠脩が戦死したため、総領家の家督を相続することとなり、信濃松本8万石を領した。また、忠脩未亡人の亀姫を正室とした。

後に播磨明石10万石を経て、豊前小倉15万石に移封された。

前小倉藩主39万石の細川忠利は義兄弟である。

島原の乱の際には長崎守備の任を果たした。剣豪・宮本武蔵が最も長く仕えたといわれる。

大名茶人でもあり、同地の茶湯隆盛の基盤を築いた。上野焼の育成に尽力した外、茶人の古市了和を召し抱えて小笠原家茶道古流を興した。

元和5年、黄檗宗の開祖隠元隆琦の高弟即非如一を招き、広寿山福聚寺を建立した。

糠漬けを好み、小倉城入封の際にも、ぬか床を持ち込み、城下の人々にもぬか漬けを奨励した影響で、現代に至るまで、旧城下の小倉では各家に代々受け継がれた「百年床」というぬか床があるほどである[1]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『城下町小倉の歴史』 長崎街道城下町の会
  • 『原色茶道辞典』淡交社

参照[編集]

  1. ^ 小倉城周辺のパノラマ 漬物処 糠蔵”. 小倉城-小倉文化史の散策-. 2013年12月13日閲覧。