小笠原忠徴

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小笠原忠徴像

小笠原 忠徴(おがさわら ただあきら、文化5年10月12日1808年11月29日)- 安政3年5月12日1856年6月14日)は、江戸時代後期の大名豊前国小倉藩の第7代藩主。小笠原家宗家8代。

第6代藩主・小笠原忠固の次男。正室は前田斉広の娘。継室も前田斉広の娘。子に娘(戸沢正実正室のち小笠原忠幹正室)。官位は従四位下、左京大夫、侍従伊予守。

生涯[編集]

文化8年(1811年)2月16日、父忠固の嫡子となる。文政7年(1824年)5月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下伊予守に叙任する。後に左京大夫に改める。天保6年12月16日、従四位下に昇進する。天保14年(1843年)9月3日、父忠固の死去により、家督を継いだ。嘉永2年(1849年)12月16日、侍従に任官する。

父の時代から小倉藩は財政難に悩まされた上、複雑な政争もあって家老や藩士など300人以上が筑前国黒崎に出奔するなどの事件もあって、忠徴が継いだ頃の小倉藩は混迷を極めていた。忠徴はこのような藩を立て直すため、積極的な藩政改革に取りかかる。

まず、忠徴は不正を許さず、これらを厳しく摘発する。さらに安政元年(1854年)には種痘を実施した。その他にも、農民に対して善政を施すなどして藩政を立て直した。安政3年(1856年)、49歳で死去した。死後、家督は養子の忠嘉が継いだ。