小倉城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
logo
小倉城
福岡県
小倉城庭園と復興天守
小倉城庭園と復興天守
別名 勝山城、指月城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 連結式層塔型4重5階(1609年築 非現存)
連結式望楼型4重5階(1959年再 RC造復興)
築城主 毛利勝信
築城年 天正15年(1587年
主な改修者 細川氏小笠原氏
主な城主 細川氏、小笠原氏
廃城年 慶応2年(1866年
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 天守、模擬櫓、庭園
位置 北緯33度53分4.0秒
東経130度52分27.32秒
座標: 北緯33度53分4.0秒 東経130度52分27.32秒

小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区に築かれた鎌倉時代または戦国時代から江戸時代日本の城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。

概要[編集]

小倉城は13世紀中ごろ、紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世江戸時代前後に毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興南蛮造天守などを建てた。現在、一部の石垣・堀が残り、天守・庭園大名屋敷が再建されている。ちなみに従来の構造は北九州市立いのちのたび博物館にある全体模型でうかがい知ることができる。

歴史[編集]

  • 最初の築城年代は明らかではないが文永年間(1264年 - 1274年)に緒方大膳亮惟重が居城した、というのが初見とされる。
  • 1330年元徳2年)には黒崎土佐守景経が居城、のち大内氏の持城となる。
  • 1442年嘉吉2年)に太宰少弐頼冬が攻略し、文明年間(1469年 - 1486年)には菊池氏が居城とした。
  • 1569年永禄12年)、毛利氏らと結んで大友氏に対し反乱を起こしていた宝満・岩屋城督高橋鑑種が降伏した結果、小倉城に領地替えとなる。
  • 1587年天正15年)、高橋鑑種の養嗣子・高橋元種は豊臣軍の侵攻に小倉城を開城。豊臣秀吉の家臣であった森勝信豊前国企救郡、田川郡の6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城する。この当時の城の様子については、記録がなく詳しく分かっていない。なお、子の勝永にも豊前国に1万石(4万石とも)を与えられ、この際に秀吉の計らいによって、元の姓である森に変えて中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となる。
  • 1600年慶長5年)、関ヶ原の戦いの論功行賞で丹後国宮津18万石の領主であった細川忠興が豊前国1国と、豊後国速見郡、国東郡合せて39万9千石で入封。初め黒田氏の居城であった豊前国の中津城に入城するが、1602年から7年かけて毛利氏の居城であった小倉城を改築し居城した。なおこの時城下町も整備され紫川で東西に二分し、西は主として侍町、東は町人や下級武士達の町とした。
  • 1632年寛永9年)、細川家が54万石で肥後国に移封後、播磨国明石から譜代大名小笠原忠真が豊前国企救郡、田川郡、京都郡、中津郡、築城郡、上毛郡、計6郡15万石で入封。小倉城を居城とする。以後、幕末の慶応年間まで小笠原氏の居城となる。
  • 1837年天保8年)、本丸御殿、天守を焼失し、それ以後天守は再建されず。
  • 1863年文久3年)4月、海防強化のため、城の外郭で海からの入口に当たる紫川河口両岸に砲台(東浜台場・西浜台場)を建設[1][2]
  • 1866年慶応2年)、第二次長州征討で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決める。同年8月1日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、幼少の藩主は熊本藩に退避。家老以下の藩首脳は香春で指揮を執った。
  • 1867年(慶応3年)、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城を含む企救郡は長州藩の預りとされ、引き続き占領されたままとなったため、以後も藩庁は香春に置かれ、お茶屋(藩主巡察時の滞在施設)を中心に付近一帯の町人宅も多数借り上げて設置された(その後、1870年明治2年)に京都郡豊津(現在のみやこ町)に藩庁を新設し移転)。
  • 1875年(明治8年)、陸軍歩兵第14連隊歩兵第14連隊を管轄する歩兵第12旅団本部が松の丸跡に置かれる。
  • 1898年(明治31年)、陸軍第12師団司令部庁舎が本丸跡に建てられる(1925年大正14年)久留米に移転)。
  • 1934年昭和9年)、八坂神社が鋳物師町より城内に遷座された。
  • 1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリート構造で天守が外観復興された。内部は郷土資料館として利用された。
  • 1990年平成2年)、内部全面リニューアル、ジオラマ・からくりシアター等を導入し、体験型施設に変更された。
  • 1998年(平成10年)、小倉城庭園および北九州市立松本清張記念館が開館した。
  • 2004年(平成16年)春から秋にかけての調査により、篠崎口から清水門の外堀で畝堀と堀障子が発見される。忠興当時のものと考えられている。
  • 2007年(平成19年)、瓦屋根約9万枚を全面葺き替え。

構造[編集]

本丸を中心に、南に松丸、北に北の丸、それらを囲い込むように二の丸三の丸、外郭が配された梯郭式平城であった。建物は、野面積み石垣の上に大天守と平の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を配していた。城下は、城の東を流れる紫川を天然のとして活用し城内に町を取り込んだ総構えを採っていた。

天守[編集]

天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、大天守は最上層の入母屋破風を除き、破風が一切ない構造であった。最上階は、中央に3間四方の御上段、それを取り囲むように東西に2間×5間と南北に1間×3間の縁側をめぐらせていたことが『豊前小倉御天守記』に記録されている[3]。そのさらに外側には戸板で覆った半間幅の内縁がせり出し、唐造り(南蛮造り)といわれる所以の外観をつくりだしていた[4]。なお、『倉府見聞集』には、この「唐作」(唐造り)の構造の由来が記載されている[3]。このように最上階は、下階の白漆喰塗籠の外観と打って変わり、黒塗りの戸板で囲われていたため「黒段」と呼ばれていた[4]

天守寸法概要
階層 梁間

(南北)

桁行

(東西)

高さ Composite photograph of the Kokura Castle tower restoration illustrations.png
5階 6間 8間 1間半
4階 5間 7間 1間半
3階 7間 9間 2間半
2階 10間 12間 2間半
1階 13間 15間 1間半
総高

(天守台上から棟)

12間3尺5寸
出典 『豊前小倉御天守記』[4] イラストによる江戸時代の小倉城天守の景観再現
復興天守

天保8年(1837年)に失火によって御殿とともに焼失し、天守台には「御三階」と呼ばれる建築を建て、天守の代用としていた[4]。現在見られる天守は昭和30年代に『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』等をもとに鉄筋コンクリート構造によって復興された。設計考証は藤岡通夫である。破風などは地元観光面への考慮から要望によって付加されたもので、大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が見られる。

ギャラリー[編集]

北東からのパノラマ写真

祭事・イベント[編集]

  • 小倉城薪能 - 9月下旬
  • 北九州小倉城まつり - 10月中旬

そのほか[編集]

小倉城の案内板
  • 1960年昭和35年)から10年間、小倉城内(現在北九州市役所が建っているあたり)に遊園地が設置されていた[5]。「小倉城とジェットコースター」(昭和37年頃)という絵葉書が残されている。[6]

メディアへの登場[編集]

プラモデル
フジミ模型株式会社からフジミ建築モデルシリーズ天下の名城No.6として1/400スケールでプラモデルが製造販売されている。
NHK地デジCM「地デジ侍 テレビ維新の巻」
劇団ギンギラ太陽'Sが出演、加賀美幸子ナレーションを担当。制作にあたったのは地元北九州局ではなく福岡局であったが、ロケシーンは城前と小倉城庭園で撮影された。2分版の最後のシーンにはハローワーク小倉が移転した跡に建てられた超高層アパートの上層が映りこんでいる。

交通[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 土井重人『大庄屋走る 小倉藩・村役人の日記』海鳥社、2007年、182頁-183頁
  2. ^ 白石壽『小倉藩家老 島村志津摩』海鳥社、2001年、36頁・73頁
  3. ^ a b 平井聖監修『城』(〔8〕九州沖縄/火燃ゆる強者どもの城)毎日新聞社、1996年、ISBN 4-620-60518-2
  4. ^ a b c d 西ヶ谷恭弘監修、学習研究社編『復原『名城天守』』学習研究社、1996年、ISBN 4-05-500160-6
  5. ^ 小倉城(昭和39年九州発、読売新聞)
  6. ^ 「ふくおか絵葉書浪漫」益田啓一郎 編(海鳥社刊)91頁 ISBN 4-87415-491-3

関連項目[編集]

外部リンク[編集]