河後森城

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河後森城
愛媛県
別名 河後森城、川後森城
城郭構造 山城
天守構造 有り、後に宇和島城月見櫓へ転用
築城主 渡辺氏
築城年  伝・建久7年(1196年
主な改修者 伊達氏
主な城主 渡辺氏戸田勝隆、桑折氏
廃城年 元和元年(1615年
遺構 石垣、土塁、堀切、門(現・永昌寺山門)
指定文化財 国の史跡
再建造物 門、建物
位置 北緯33度13分25.0秒
東経132度42分31.0秒
座標: 北緯33度13分25.0秒 東経132度42分31.0秒
地図
河後森城の位置(愛媛県内)
河後森城
河後森城

河後森城(かごもりじょう)は、愛媛県北宇和郡松野町松丸に存在した日本の城山城)。国の史跡[1]

構造[編集]

四万十川の支流・広見川と、さらにその支流の堀切川鰯川に囲まれた馬蹄形の独立丘陵上にある。山頂の本郭を中心に、二段・三段の平坦地が設けられ、古城~本城~新城と馬蹄形に曲輪が設けられていた。馬蹄の中央は風呂ヶ谷と呼ばれる谷戸となっている。発掘調査が行われて、掘立柱建物跡が複数確認されており、調査結果を踏まえて城内に門や建物が復元されている。また16世紀終わりから17世紀初頭の頃に大きな改修を受けており、瓦葺きの建物や多聞櫓等の存在が確認され、天守相当の建物が存在したと言われている。

沿革[編集]

川原淵殿と呼ばれた渡辺氏が代々の居城としており、天文後期から天正年間にかけて機能した。天正8年(1580年)から翌年の間に、城主・渡辺教忠の近習だった芝源三郎が謀略により当城を奪っている。天正11年(1583年)の四国の役の後、戸田勝隆により芝源三郎は放逐された。その後、当地を治めた藤堂高虎は当城の天守を移築して板島城の月見櫓にしたという。慶長19年(1614年)に伊達秀宗宇和島藩を創立した際、付家老の桑折氏が当城に入っている。その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になったとされる。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(179番)に選定された。

脚注[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]