毛利勝永

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毛利勝永
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正6年(1578年
死没 慶長20年5月8日1615年6月4日
改名 森吉政 → 毛利吉政 → 毛利勝永
別名 吉政、通称:豊前守、号:一斎
官位 従五位下豊前守
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 森氏 → 毛利氏
父母 父:毛利勝信
兄弟 勝永吉近(山内勝近)
正室:安姫(龍造寺政家娘)、継室:某[1]
勝家、太郎兵衛(鶴千代)、女

毛利 勝永(もうり かつなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名豊臣氏の家臣。大坂の陣で活躍。また大坂城入りを励ました妻[1]は、戦前は銃後の守りの手本として、『婦女鑑』(明治20年)などに取り上げられている[2]

「勝永」というは一次史料で確認できない。発給文書は全て「吉政」と署名している[3]。「吉政」の「政」は龍造寺政家からの一字拝領である[4]

生涯[編集]

前歴[編集]

天正6年(1578年[5]、森吉成(毛利勝信)の子として、尾張国で誕生したとされるが[6]、近江国長浜で誕生したとする説もある[7]。父の吉成と同じく、豊臣秀吉に家臣として仕えた。

天正15年(1587年)、秀吉は豊前国8郡の内、黒田孝高に6郡12万石を、吉成に規矩郡、高羽郡の2郡6万石を与えて小倉の領主としたが、この6万石の内の1万石が勝永に与えられた[8]。ただし『慶長4年諸侯分限帳』では、勝永の分を4万8,000石としている[9]

豊前に封された際に、秀吉の指示によって森(もり)姓から中国地方の毛利氏と同じ毛利(もり)の漢字を変えて改姓したとされるが[10]、翌年正月19日の秀吉朱印状の宛名は「森壱岐守とのへ」となっているので、実際に毛利姓に変えたのは、肥後国人一揆豊前国人一揆の鎮圧後のことである[11]

天正16年(1588年)、毛利輝元の接待役となり、能興行で太鼓を披露し、輝元や公家衆との会見に相伴を許された[12]。天正18年(1590年)、巡察師ヴァリニャーノが再来日した際に小倉で出迎えた[13]

慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に従軍。慶長の役では、蔚山倭城を救援して、明・朝鮮連合軍を撃退した際に戦功を立てた。戦地では朝鮮で入手した豊臣秀次に贈って、秀次から礼状をもらっている[14]

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去で形見分けがなされ、遺物さださねの刀を受領[9][16]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に西軍に参戦した。領国のある九州に下向していた父に代わり中央で軍勢を指揮した勝永は伏見城の戦いで格別な戦功をあげ、毛利輝元宇喜多秀家より感状と3,000石の加増を受ける。しかし、毛利九左衛門香春岳城城主)や毛利勘左衛門などの多くの家臣を失った。続く安濃津城の戦いや関ヶ原本戦時には、勝永は輝元家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下に置かれ、家中も混乱状態にあり[17]、活躍の場なく終わった。

豊前では小倉城を黒田如水(孝高)に奪われており、戦後改易となった。父と共にその身柄を加藤清正[18]、次いで山内一豊に預けられた[19]。旧知でもあり親交のあった山内家では1千石の封地をあてがわれ、父子とも手厚く遇されたという。殊に勝永の弟は山内姓を与えられ、山内吉近を名乗り2千石を与えられたが、慶長18年頃、土佐を去り紀州浅野家に仕えたとされる[20]。一方、勝永は高知城の北部の久万村で生活をし、折々に登城をすることもあった[21]。 慶長15年(1610年)5月25日、正室の安姫が死去したので[22]、勝永は髪を剃って出家し、一斎と号した。翌年5月6日に父勝信が死去し、7日に白雲院殿好雪神祇と諡して江ノ口村尾戸山喜圓坊に葬り、後に秦村泰山に改葬した[23]

大坂の陣[編集]

慶長19年(1614年)、豊臣秀頼よりの招きを受け、土佐からの脱出を計画。その際に留守居役の山内康豊に対して、勝永は徳川方に付いた藩主山内忠義とは昔衆道の間柄で身命を賭けて助け合う約束をしているからどうか忠義の陣中(つまり包囲側)に行かせてほしいと頼んだ[24]。長男毛利勝家を留守居に、次男鶴千代(太郎兵衛)を城へ人質として残すと云うので[25]、康豊は安心して行かせたが、勝永と共に勝家も船で逃げ去り、大坂方に走った。山内忠義は激怒して、勝家の見張りだった山内四郎兵衛に切腹を命じ[26]、鶴千代と勝永の妻と娘は城内に軟禁された[27]

大坂城に入城した毛利勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称された[28]大坂冬の陣では、城の西北隅、現在の今橋付近を守備したものの、目立った活躍はなかった[29]

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では、5月6日、道明寺の戦いで敗退した後藤基次らの敗残兵を、毛利勝永隊が収容[30]。勝永は、自軍の中から抽出した鉄砲隊を殿に残し、勝永自身は本隊を率いて、大坂城方面に撤収した[31]

7日の天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣した。戦闘が始まると、本多忠朝小笠原秀政忠脩父子を瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重秋田実季榊原康勝安藤直次六郷政乗仙石忠政諏訪忠恒松下重綱酒井家次本多忠純といった部隊を撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入するという活躍を見せた。しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。退却においても勝永の指揮ぶりは際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝細川忠興らの攻撃を防いで、城内へ撤収した。

8日、その最期は、守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後[32]、息子である毛利勝家、弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉で腹切って自害したという。享年37。

戦後、徳川家康は、土佐の山内忠義に城内に留め置かれていた母子3名を京へ護送するように命じ、10歳の太郎は成敗され、太郎以外の身内は助命され、土佐に戻された[33]

逸話[編集]

  • 大坂の陣が近いと伝え聞いた毛利勝永は、ある日妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流した。これを聞いた妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ました。勝永は喜んで一計を案じ、子・勝家とともに大坂城へ馳せ参じた。のちにこれを聞いた家康は「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」と命じ、勝永の妻と次男の太郎兵衛は城内へ招かれ保護されたという[34][1]
  • 道明寺の戦いでは濃霧のため、真田信繁、毛利勝永らの後詰が間に合わず、後藤基次ら名のある武将が討死した。遅れて合流した真田信繁は勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰めたという[35]
  • 毛利勝永は天王寺口の決戦で多大な活躍を見せたが、これを望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「金ノ輪抜の旗指物の城兵が力戦しているが、あの大将は誰であろうか」と尋ねた。嘉明は「毛利壱岐守が子なり」と答えた。それを聞いた長政は「ついこの間まで幼若の者と思っていたが、武略に練達した大将となったものよ」と感嘆したという[36][37][38]
  • 当時、大坂城の戦いを見聞した宣教師は「先頭には真田及び他の一司令官毛利の豊前あり、言ふべからざる勇気を以って戦ひ、三、四回激しく敵を攻撃したれば、(中略)内府(徳川家康)も失望に陥り、日本の風習に依り、其腹を切らんとせし由」と以上のように報告した(「1615年及び1616年耶蘇会のパードレ等より同会の総長に送りし日本の年報」[39]。真田・毛利の奮闘は『山下秘録』、『常山紀談』、『武家事記』の記述にも見える[40]
  • 江戸時代中期の文人神沢貞幹は、自身の著した随筆『翁草』のなかで毛利勝永の活躍を賞賛し「惜しい哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と記している[41]
  • 大坂の陣の後、土佐山内家では勝永の旧臣・杉助左衛門に命じて勝永のことをまとめさせた。これは『毛利豊前守殿一巻』として長く山内家に伝来し、勝永に関する記録としては唯一のものである[42]。大正末年に福本日南がこれを見て『大坂城の七将星』(下掲)を書いている。現在巷間に流布している勝永の生年などは『毛利豊前守殿一巻』に基づいたものである。

関連作品[編集]

小説

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 勝永の妻はこの美談で高名だが、実際には正室の龍造寺政家の娘は大坂の陣以前に死去しており、この話に出てくる妻が誰なのか、名は伝わっていない。
  2. ^ 今福 2016, p.170
  3. ^ 今福 2016, p.13
  4. ^ 今福 2016, p.75
  5. ^ 『毛利豊前守殿一巻』による。福本 1921, p.253
  6. ^ 『土屋知貞私記』による。今福 2016, p.26
  7. ^ 今福 2016, p.27
  8. ^ 今福 2016, p.38
  9. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p.252
  10. ^ 今福 2016, p.39
  11. ^ 今福 2016, p.51
  12. ^ 今福 2016, pp.53-58
  13. ^ 今福 2016, p.61
  14. ^ 今福 2016, p.83
  15. ^ 今福 2016, p.98
  16. ^ 『甫庵太閤記』では、勝永には「さだざね毛利豊前守」とあり、備前福岡一文字派の貞真が与えられたものと思われる[15]
  17. ^ 光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』(日本放送出版協会、2009年)
  18. ^ 今福 2016, p.136
  19. ^ 今福 2016, p.145
  20. ^ 今福 2016, pp.146-147
  21. ^ 今福 2016, pp.146-148
  22. ^ 今福 2016, p.151
  23. ^ 今福 2016, p.158
  24. ^ 福本 1921, p.257
  25. ^ 今福 2016, p.171
  26. ^ 今福 2016, p.176
  27. ^ 福本 1921, pp.256-259
  28. ^ 今福 2016, p.182
  29. ^ 今福 2016, p.183
  30. ^ 今福 2016, pp.201-202
  31. ^ 東京大学史料編纂所 1917, 『山本日記』p.670,『北川覚書』p.708, 『先公実録』p.664, 『真武内伝』p.665,『秀頼事記』p.722,『難波戦記』p.724
  32. ^ 今福 2016, pp.238-239
  33. ^ 今福 2016, pp.250-251
  34. ^ 兵家茶話』『常山紀談
  35. ^ 大坂陣聞書
  36. ^ 武家事紀
  37. ^ 今福 2016, p.227
  38. ^ ただし、九州での両家の領地は隣接しており、ともに朝鮮にも渡海しているため、史実性は疑わしい。
  39. ^ 今福 2016, pp.225-226
  40. ^ 今福 2016, p.226
  41. ^ 今福 2016, p.10
  42. ^ 今福 2016, pp.264-265

参考文献[編集]

関ヶ原の戦いについて
  • 旧参謀本部編纂『関ヶ原の役』(徳間書店、1965)
  • 光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』(日本放送出版協会、2009)
大坂の陣について
  • 旧参謀本部編纂『大坂の役』(徳間書店、1965)
  • 東京大学史料編纂所編『大日本史料 第十二編』(1972)
  • 学習研究社編『大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略』(学習研究社、1994)
  • 東京大学史料編纂所編 『大日本史料12編之18』 東京大学、1917年