金田城

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金田城
長崎県
復元された二ノ城戸跡
復元された二ノ城戸跡
城郭構造 古代山城(朝鮮式山城)
築城主 大和朝廷
築城年 天智天皇6年(667年
廃城年 不明
遺構 石塁・水門・城門・土塁・建物跡
指定文化財 国の特別史跡「金田城跡」
位置 北緯34度18分2.91秒 東経129度16分24.29秒 / 北緯34.3008083度 東経129.2734139度 / 34.3008083; 129.2734139座標: 北緯34度18分2.91秒 東経129度16分24.29秒 / 北緯34.3008083度 東経129.2734139度 / 34.3008083; 129.2734139

金田城(かねだじょう/かなたのき)は、長崎県対馬市美津島町黒瀬および箕形にまたがる城山(じょうやま)[1]に築かれた、日本古代山城(朝鮮式山城)である。城跡は、1982年(昭和57年)3月23日、国指定の特別史跡「金田城跡」に指定されている[2]

概要[編集]

日本書紀』に、「大和国高安城讃岐国屋嶋城対馬国金田城(かなたのき)を築く」と、記載されたである[注 1]

金田城は、白村江の戦い新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷(日本)の防衛のために築いた古代山城である。667年天智天皇6年)、高安城・屋嶋城とともに築かれた[3][4]。また、金田城は、政権基盤の宮都を守る高安城、瀬戸内海の制海権を守る屋嶋城とともに、国土の領域を守る最前線の重要なポイントであった[5]

金田城は下対馬の北端部にあり、浅茅湾の奥で北に突出し、三方が海に囲まれた標高272メートルの城山に所在する[6]城壁の外周は自然地形の断崖を含めて約2.8キロメートル、城内面積は約26ヘクタールである。自然の要害を利用した選地で、外周城壁の全てが石塁で、高さ6メートルを超える石塁もある。陸続きは南西側だけで、他は急峻な地形である[7]。国内で外郭城壁を石塁で構築しているのは、金田城・屋嶋城など少数派である[8]。そして、韓国釜山まで約50キロメートル、隣島の壱岐まで約70キロメートル、博多まで約120キロメートルである。山頂からは北西方向に視界が開き、韓国南岸が視野にいる。城門は、二ノ城戸・三ノ城戸・南門の三か所が開く。一ノ城戸の城門は確認されていないが、張り出した[注 2]と水門が残存する[7]

一ノ城戸に加え、二か所の張り出しがあり、南側の張り出しは「東南角石塁」と呼称する。城内の発掘調査では、五棟の掘立柱建物跡・柵列が一列・跡・土塁と門礎石[注 3]などが確認されている。出土遺物は、羽口・鉄滓・温石[注 4]と各種の土器などが出土している[9]

白村江の戦いの翌年に、対馬壱岐などに防人(兵士)が配備されている。防人の語源は「崎+守」とされ、東国諸国から徴発された人々が、三年交代で九州の防備にたずさわっている[10]

対馬は、佐渡島奄美大島に次ぐ面積を有する島である。古来より[注 5]大陸と日本列島を結ぶ海路の要衝にあり、南北は約82キロメートル・東西は約18キロメートル・面積は約709平方キロメートルである。古代は上対馬と下対馬が一つの島であり、島の中央に位置する浅茅湾は西方に開き、屈曲の多いリアス式海岸である[11]。対馬の古代の中心は、金田城の南東の雞知(けち)[注 6]であった[12]

関連の歴史[編集]

日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

関連の調査・研究[編集]

遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。

  • 考古学的調査は、1922年(大正11年)、後藤守一が発表した、『対馬瞥見録』の城跡遺構を嚆矢とする。1953年(昭和28年)、東亜考古学会が『対馬』で、後藤の研究を裏づける[13]。城跡の所在地は、近世以来の三世紀にわたり、古伝の「佐須説」と「黒瀬説」の金田城論争があった。そのため、1982年の特別史跡の指定は、歴史的な意義があるとされる[12]
  • 発掘調査は、1993年(平成5年)に開始され、調査成果は美津島町教育委員会 編集/発行 『金田城跡』、2000年、および 『金田城跡 II』、2003年・対馬市教育委員会 編集/発行 『特別史跡 金田城跡 III』、2008年、および『特別史跡 金田城跡 Ⅳ』、2011年で報告されている[14]
  • 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[15]
  • 1898年(明治31年)、高良山列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 7]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある金田城などは、「朝鮮式山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 8]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[16]

その他[編集]

  • 対馬本島は、南北に連なる一つの島であったが、江戸時代に大船越瀬戸、明治時代に久須保水道(万関瀬戸)が開削され、東西の海の往来が可能となった[17]
  • 1901年(明治34年)、旧日本陸軍は、城山の山頂部の「城山砲台」ほか、浅茅湾を中心に18基の砲台を造り、対ロシアとの開戦に備えた[7]
  • 2012年(平成24年)、「第3回 古代山城サミット」が、対馬市(金田城)で開催された。イメージキャラクター「オンジャくん」・国境の島・「異国を臨む古代山城」をキャツチフレーズに、城の魅力をPRする[18]
  • 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(186番)に選定された。

現地情報[編集]

  • 「二ノ城戸」が復元整備され、一般公開されている。また、「南門」は復元整備中で未公開である。
  • 厳原港から城跡の「登山口」まで車で約30分、対馬空港から城跡の「登山口」まで車で約20分である。登山口へは、国道382号線の美津島町雞知(けち)で交差する、県道24号線(三差路)に折れる。竹敷・箕形の分岐を直進すれば、「城山入口」の看板に出合う。県道24号線から右側の細い道「県道入口(旧軍道)」に入る。ここから、登山口まで細い道(乗用車程度の車両しか通行できない)を約2キロメートル進めば、「説明板・特別史跡の石標」に出合う。普通車両が数台駐車できる。登山口から「三ノ城戸」まで徒歩で約30分、登山口から山頂直下の「旧軍施設跡」まで徒歩で約50分である[17]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 『日本書紀』の天智天皇 六年(667年)十一月の条に、「 是月、築 倭國高安城 讃吉岐國山田郡屋嶋城 対馬國金田城」と、記載する。
  2. ^ 石垣の上部は後世に修築されたとされている。朝鮮半島では「雉(ち)・雉城(ちじょう)」と称する。鬼ノ城と屋嶋城の浦生地区の遺構に類例がある。
  3. ^ ビングシ門跡の南土塁は50m、北土塁は60mである。片側の門礎石が残存する。
  4. ^ 温石が5個、発掘された。国内の古代山城では唯一の事例で、イメージキャラクター「オンジャくん」の本である。
  5. ^ 三世紀の史書『魏志倭人伝』に、「始めて一つの海を渡ること千余里で、対馬国に至る。・・・土地は山が険しく、森林が多い、道路は禽や鹿の径のようである。千余戸有るが、良田は無いので、海のものを食して自活し、船に乗って南北に市糴(してき)している」と、記載する。
  6. ^ 雞知には、国の史跡「曽根遺跡群」、県指定史跡「出居塚古墳」と「サイノヤマ古墳」などがある。
  7. ^ 歴史学会・考古学会における華々しい大論争があった(宮小路賀宏・亀田修一 「神籠石論争」『論争・学説 日本の考古学』 第6巻、雄山閣出版、1987年)。
  8. ^ 1995年(平成7年)の文化財保護法の史跡名勝天然記念物指定基準の改正にともない、「神籠石」は削除され、「城跡」が追加された。

出典[編集]

  1. ^ 国土地理院 地形図閲覧システム 2万5千分1地形図名: 阿連(厳原)ー国土地理院
  2. ^ 金田城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  3. ^ 森 公章 著 『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』、講談社、1998年、158~173頁。
  4. ^ 澁谷啓一 「屋島」『歴史考古学大辞典』、吉川弘文館、2007年、1167頁。
  5. ^ 澁谷啓一 「白村江の戦いと屋嶋城」『屋島風土記』、屋島文化協会、2010年、75頁。
  6. ^ 正林 護 『日本の古代遺跡 42 長崎』、保育社、1989年、95頁。
  7. ^ a b c 田中淳也 「対馬島の山城ー金田城ー」『月刊 文化財』631号、第一法規、2016年、13・14頁。
  8. ^ 向井一雄 「日本の古代山城研究の成果と課題」『溝漊』第14号、古代山城研究会、2009年、2頁。
  9. ^ 美津島町教育委員会 編 『金田城跡』美津島町文化財調査報告書 第9集、美津島町、2000年、47・52・77頁。
  10. ^ 向井一雄 「西日本の古代山城」『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年、53頁。
  11. ^ 田中淳也 「金田城跡」『古代文化』 第62巻 第2号、古代学協会、2010年、73頁。
  12. ^ a b 永留久恵 「対馬国金田城」『対馬古代史論集』、名著出版、1991年、81・85頁。
  13. ^ 古門雅高 「金田城跡」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、98頁。
  14. ^ 田中淳也 「金田城」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、39頁。
  15. ^ 狩野 久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』第21巻 月報21、岩波書店、2015年、2・3頁。
  16. ^ 赤司善彦 「古代山城研究の現状と課題」『月刊 文化財』631号、第一法規、2016年、10・13頁。
  17. ^ a b 『対馬歴史観光ガイドブック』、対馬観光物産協会、2010年、6・14頁。
  18. ^ 第4回 古代山城サミット髙松大会実行委員会 編 『第4回古代山城サミット髙松大会 資料』、高松市、2013年。

参考文献[編集]

  • 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
  • 小田富士雄 編 『季刊 考古学』136号(特集 西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
  • 西谷 正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、ISBN 978-4-490-10712-8
  • 小島憲之ほか 校注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X
  • 齋藤慎一・向井一雄 著 『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年。ISBN 978-4-642-08303-4
  • 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-642-05840-7

関連項目[編集]

外部リンク[編集]