水城

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水城跡 概観
空から見た水城。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成 1975年。

水城(みずき)は、福岡県太宰府市大野城市春日市にまたがり築かれた、日本古代である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡(指定名称は「水城跡」)に指定されている[1]

概要[編集]

日本書紀』に、「・・・。また、筑紫国大堤(おおつつみ)を築き水を貯へ、名づけて水城(みずき)と曰う」と、記載されたである[注 1]

白村江の敗戦後、倭国には新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。664年の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの(とぶひ)を対馬島壱岐島筑紫国などに配備した。そして、筑紫国における水城[注 2]の建設である[2]

白村江の敗戦の翌年に水城が、そのまた翌年に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである。水城は大野城のある四大寺山地と、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られている。全長約1.2キロメートル・高さ7~10メートル・基底部の幅約80メートル・上部の幅約25メートルの土塁で、東西の端部の東門と西門が開く。土塁の基底部を横断して埋設された木樋は、延長79.5メートル・内法幅1.2メートル・内法高さ0.8メートルである。土塁の博多側の、現水田面より5メートル下に、幅60メートルほどの外濠が存在する[3]

水城は、平野を遮断する直線的な土塁と外濠をあわせもつ、巨大な城壁である。中央に御笠川が北流する沖積地の軟弱地盤に築かれる。土塁の最下層部に多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する敷粗朶(しきそだ)工法で施工されている。また、土塁の上層部は、土質の異なる積土を10センチメートルほどの単位で硬く締め固めて積まれた、版築土塁である[4]

水城は、博多湾側の福岡平野から筑紫に通じる平野を閉塞する、遮断城である。東門と西門が設けられ、福岡方面から2道が通過していた。西門は3期の変遷が確認され、大宰府筑紫館(後の鴻臚館)を結ぶ儀礼的な外交の主要道として、8世紀後半まで機能していたとされている[5][6]

水城の西方に、丘陵の間を塞ぐ複数の小規模の土塁遺構がある。水城と一連の構築物で、「小水城(しょうみずき)」と総称される。土塁の長さ約80メートルの「上大利小水城」・土塁の長さ約100メートルの「大土居小水城」[注 3]・土塁の長さ約80メートルの「天神山小水城」[注 3]などである[7]

天智政権は白村江の敗戦以降、高句麗新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬九州の北部~瀬戸内海畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城基肄城と平野部の水城大堤小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗沘都城にあるとされている[8]

歴史[編集]

日本書紀』に記載された、白村江の戦い防御施設の設置記事は、下記の通りである。

調査研究[編集]

  • 考古学的調査は、1913年(大正2年)の黒板勝美・中山平次郎の土塁断面の調査と、1930年(昭和5年)の長沼賢海・鏡山猛の木樋の調査があるが、本格的な発掘調査は1970年(昭和45年)に開始された。それ以降、福岡県教育委員会・九州歴史資料館・太宰府市・大野城市が、継続的に調査している[9]
  • 1975年(昭和50年)の発掘調査で、水城大堤の博多側に外濠が存在することが判明した[3]
  • 1978年(昭和53年)の発掘調査で、8世紀後半代の「水城」銘の墨書土師土器が発掘された[10]
  • 2013年~2014年、福岡県教育委員会は、100年ぶりに土塁断面の再調査を行った[11]
  • 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[12]

その他[編集]

  • 九州旅客鉄道鹿児島本線の「水城駅」は、『日本書紀』の「水城」に由来する。水城駅の近くで、列車は「水城の土塁切断部」を通過する[11]
  • 水城・大野城・基肄城は、古代は全周40キロメートルの規模で一体的な機能を果たしていた。そのため、平成25年~27年の三か年にわたり、「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関係自治体に加え官民も連携した各種の記念事業が展開された[13]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 『日本書紀』の天智天皇三年(664年)十二月の条に、「・・・。又於 筑紫、築 大堤 貯水、名曰 水城。」と、記載する。
  2. ^ 水城は、「大水城・水城大堤」とも呼ばれる。また、水城の西方に所在する複数の小規模の土塁遺構は、「小水城」と総称されている。
  3. ^ a b 「大土居水城跡」と「天神山水城跡」は、国指定の特別史跡「水城跡」に包含される遺跡である。

出典[編集]

  1. ^ 水城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  2. ^ 森 公章 編 『倭国から日本へ』、吉川弘文館、2002年、75頁。
  3. ^ a b 渡辺正気 著 『日本の古代遺跡 34 福岡県』、保育社、1987年、112・113頁。
  4. ^ 杉原敏之 「水城」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、20・21頁。
  5. ^ 松尾洋平 「古代遮断施設(防塁)についての一考察」『古文化談叢』 第60集、九州古文化研究会、2008年、129・131頁。
  6. ^ 小鹿野 亮 「古代山城へつづく道」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、79頁。
  7. ^ 中村昇平 「小水城の調査ー大土居水城跡を中心にー」『溝漊』 第13号、古代山城研究会、2007年、47~53頁。
  8. ^ 小田 富士雄 「大宰府都城の形成と東アジア」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、19頁。
  9. ^ 横田 賢次郎 「水城跡」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、507頁。
  10. ^ 杉原敏之 「水城跡の発掘調査ー外濠の調査成果を中心にー」『溝漊』 第13号、古代山城研究会、2007年、43頁。
  11. ^ a b 杉原敏之 「水城跡ー土塁断面の再調査からー」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、29~32頁。
  12. ^ 狩野 久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』 第21巻 月報21、岩波書店、2015年、3頁。
  13. ^ 山村信栄 「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業について」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、21頁。

参考文献[編集]

  • 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
  • 小田 富士雄 編 『季刊 考古学』 136号(西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
  • 西谷 正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、ISBN 978-4-490-10712-8
  • 小島 憲之 他 項注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯33度31分4.97秒 東経130度29分33.56秒 / 北緯33.5180472度 東経130.4926556度 / 33.5180472; 130.4926556 (水城跡)