知覧城
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(鹿児島県) | |
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| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 知覧忠信 |
| 築城年 | 12世紀末 |
| 主な城主 | 佐多氏 |
| 廃城年 | 1615年(慶長20年) |
| 遺構 | 曲輪、空堀 |
| 指定文化財 | 国指定史跡 |
| 再建造物 | なし |
| 位置 | 北緯31度22分2.8秒 東経130度26分37.4秒 / 北緯31.367444度 東経130.443722度座標: 北緯31度22分2.8秒 東経130度26分37.4秒 / 北緯31.367444度 東経130.443722度 |
| 地図 | |
知覧城(ちらんじょう)は、鹿児島県南九州市知覧町永里にあった日本の城(中世山城)。国の史跡に指定されている。
沿革
[編集]初めてここに城を構えたのは平安時代末期の頃の郡司・知覧忠信で有る。室町時代、足利尊氏の下文によって島津忠宗の三男・佐多忠光がこの地の領主となった。その後、島津氏の内訌に伴い一時伊集院頼久一族の配下となったが、1420年(応永27年)、島津久豊が伊集院一族からこの城を取り返し、再び佐多氏の居城となった。その後、文禄検地等で多少の異動はあった物の、佐多氏は幕末まで知覧領主であった。しかし1615年(慶長20年)、11代当主・佐多久達の時に知覧城は出火で炎上し、一国一城令発令前に知覧城は廃城となった。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(198番)に選定された。
遺構・遺物
[編集]その後、手が入れられなかったため南九州中世城郭の典型例を残している。
シラス台地を利用した南北800メートル、東西900メートル、面積45万平方メートルという壮大な城郭で、大きな谷を空堀として利用し、本丸以外の曲輪は二重の深い空堀で更に囲まれていた。中核となる「本丸」の他「今城」「蔵の城」「弓場城」などの曲輪と「式部殿城」「児城」「東之栫」「西之栫」「南之栫」「伊豆殿屋敷」等の出城から成り立っていた。
近年の発掘調査で15世紀-16世紀の中国陶磁や洪武通宝、東南アジアで生産された陶器が出土した。
