勝連城

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勝連城
沖縄県
勝連城
勝連城
別名 なし
城郭構造 山城
天守構造 なかったと推測
築城主 英祖王統大成王の五男 勝連按司
築城年 12世紀 - 13世紀
主な城主 勝連按司
勝連の伊覇按司
浜川按司
茂知附按司
阿麻和利
廃城年 1458年
遺構 石垣、郭
指定文化財 国の史跡
世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)
位置 北緯26度19分48.7秒
東経127度52分44.1秒
座標: 北緯26度19分48.7秒 東経127度52分44.1秒
地図
勝連城の位置(沖縄本島内)
勝連城
勝連城

勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾である。阿麻和利の城として知られている。

概要[編集]

城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。

12世紀から13世紀頃に英祖王統の2代目国王である大成王の五男によって築城され初代城主となった。そして、この城の最後の城主が阿麻和利(10代目勝連按司)は圧政を敷き酒に溺れていた9代目勝連按司の茂知附按司に対してクーデターを起こし殺害、この地方の按司として成り代わり海外貿易などを推し進めますます力を付けた。阿麻和利は琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。[1]

城内からは中国、代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろそうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した[2]

城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰にともない即日、日本国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコ世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。登録されたグスク(城)の中では最も築城年代が古いグスクとされている。

2010年(平成22年)、沖縄本島近海地震で城壁の一部が崩落する被害を受けた[3]

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(200番)に選定された。

観光[編集]

この城跡は山を利用して造られている天険の要害であり、城跡入口から急勾配がつづくため、軽装でも良いが足回りには注意が必要。

歴代城主[編集]

勝連城は沖縄本島に実在した最初の王統とされる英祖王統の第二代国王・大成の五男によって築城され、阿麻和利まで計10人の城主によって統治された。

  • 初代 勝連按司一世(英祖王統・第二代王大成の五男)
  • 二代 勝連按司二世(一世の世子、娘・眞鍋樽は察度王
  • 三代 勝連按司三世(二世の世子)
  • 四代 勝連按司四世(三世の世子)
  • 五代 勝連按司五世(勝連の伊波按司に敗れ戦死)
  • 六代 勝連の伊波按司(伊覇按司の六男、勝連按司五世の家臣・浜川按司に敗れ戦死)
  • 七代 浜川按司一世(前領主・勝連按司五世の家臣)
  • 八代 浜川按司二世(一世の世子)
  • 九代 茂知附按司(家臣阿麻和利によるクーデターにより暗殺)
  • 十代 阿麻和利越来賢雄率いる尚真王の王府軍に敗れ戦死、廃城

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ http://www.city.uruma.lg.jp/iina/2398 勝連城跡へ行こう! うるま市
  2. ^ 海上の道柳田国男「筑摩書房、1961(昭和36)年
  3. ^ “世界遺産・勝連城跡など被害、沖縄の地震で”. 読売新聞. (2010年2月28日). オリジナル2010年3月3日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100303170558/http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20100228-OYS1T00305.htm 2010年3月10日閲覧。 

外部リンク[編集]