赤木城

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赤木城
三重県
赤木城跡 - panoramio.jpg
城郭構造 平山城
築城主 藤堂高虎
築城年 天正17年(1589年)頃[1]
廃城年 元和元年(1615年)以後[2]
遺構 郭(曲輪)・石垣堀切土塁
指定文化財 国の史跡
位置 北緯33度53分43秒
東経135度57分08秒
座標: 北緯33度53分43秒 東経135度57分08秒

赤木城(あかぎじょう)は、三重県熊野市にあった日本の城である。城跡は1989年平成元年)10月9日に「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」の名称で国の史跡に指定されている[3][4]。また、2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された[5]

概要[編集]

赤木城は、紀伊国牟婁郡北山郷の丘陵(現在の三重県熊野市紀和町赤木字城山[6])に築かれた平山城である。標高約230メートル (238m[7]) に位置し、高さ(比高)は約30メートルとなる[2]天正17年(1589年)頃の一揆勢力を抑える目的で[8]藤堂高虎によって築城されたといわれる[2]。主郭を中心として三方の尾根に郭(曲輪)群が設けられ[9]、その尾根を利用した配置は中世山城の形態をもつが、一方では高い石垣や発達した虎口など近世城郭の要素も見られ[1][10]、築城における過渡期の様相が認められる[6]

歴史[編集]

紀南熊野一帯は、南北朝の時代より入鹿氏など多くの土豪が勢力を保持していた[8][11]。天正13年(1585年)、秀吉の紀州攻めの後、紀伊国の平定を命じられた弟の秀長(後の和歌山城主)により[2]検地が始まるが、天正14年(1586年)8月、山本氏ら熊野牢人衆による天正の北山一揆が起こった[12]。この一揆は、秀長の制圧により10月にはほぼ治まったが、天正16年(1588年)9月から天正17年(1589年)5月にかけて徹底的に征伐された[10]。鎮圧の後、秀長は家臣の藤堂高虎に赤木城の築城を命じたとされる[9]

また、慶長年間(1596-1615年)の領主であった浅野氏(新宮藩主浅野忠吉)に対して、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の出陣の隙を狙って12月に再び北山一揆が起こり、総勢およそ3,000人が新宮城に侵攻しようとしたが壊滅し、363人が処刑された[13]。高虎が赤木城の修築を終えた翌慶長20年(元和元年)[8]1月、一揆の残党が捕らえられ、赤木城の西約1キロメートルにある田平子峠で斬首された[10]。その後、赤木城は元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となったといわれる[2]田平子峠刑場跡には、1968年昭和43年)10月に北山一揆殉難者供養塔が建てられた[13]

1992年(平成4年)より2004年(平成16年)にかけて、赤木城は文化庁および三重県の補助により「赤木城保存整備事業」が行われ、調査・整備された[14]

構造[編集]

登城口付近に鍛治屋敷があったとの伝承があり、また、近隣の入鹿は古くより有数の銅山として知られる[2]。赤木城の麓には、北山から田平子峠を越えて入鹿に通じる北山街道が延びている[15]。城はその要衝に築かれ[10]、縄張りの規模は東西90メートル、南北120メートルとなる。『紀伊続風土記』には「村の西にて岡山の上にあり周5町、高38間、本丸、二の丸、三の丸、馬場、池等も備わり、高さ2間の石垣今に存し」と記されている[15]

主郭[編集]

かつて本丸と呼ばれた主郭(曲輪 I)は、東西33メートル、南北27メートル[2]のほぼ方形[15]ないし台形である[9]。城郭の中心として最高所に位置し、南側に複雑な枡形虎口を備える[2]。また、南・北の側面には横矢掛り(よこやがかり)が認められる。石垣は高さおよそ3[15]-4メートルで[9]、反りのない野面(のづら)乱積み(らんづみ)である。北西角は高さ5メートルで[15]、四隅は算木積み(さんぎづみ)となる。東側の下に犬走りがあり、北郭(付曲輪)および北の堀切につながる[1]

北郭[編集]

北郭は主郭の北に延びる尾根にあり石垣が見られる。北郭のさらに北方に、幅およそ9メートルの堀切が設けられている[9]

東郭[編集]

主郭より南東に延びる尾根上にある東郭は、高さ3メートル近い石垣をもつ[15]一対の郭(曲輪 II・III)からなり、この2つの郭に挟まれた登城路に門の礎石が残る。また、郭内より建物のものとされる礎石が認められている[9]。二の丸の位置は不詳であるが、この城門を備えた南北25メートル、東西8メートルの東郭が二の丸であったとも考えられる[15]

西郭[編集]

主郭より南西に延びる細い尾根上に、西郭と呼ばれる4つの郭(曲輪 IV・V・VI・VII)がある。三方に石垣をもつ上側の郭(曲輪 IV)からは、2棟の建物の礎石とともに水溜(みずため)とも考えられる石組が発掘された[9]

南郭[編集]

東郭と西郭に挟まれた山裾の谷間に位置し、3層の平らな段状に削り整地されている。この南郭からも建物の礎石が認められている[9]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 『三重県の歴史散歩』 三重県高等学校日本史研究会編、山川出版社〈歴史散歩 24〉、2007年、270-271頁。ISBN 978-4-634-24624-9
  2. ^ a b c d e f g h 小和田泰経 『天空の城を行く』 平凡社平凡社新書〉、2015年、194-197頁。ISBN 978-4-582-85773-3
  3. ^ 史跡名勝天然記念物 - 赤木城跡及び田平子峠刑場跡”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2017年11月4日閲覧。
  4. ^ 文化財”. 熊野市. 2017年11月4日閲覧。
  5. ^ “熊野川や太平洋を一望「続日本100名城」に認定 新宮城 熊野市の赤木城も”. 紀南新聞ONLINE (紀南新聞社). (2017年4月10日). http://www.kinan-newspaper.jp/?p=8925 2017年11月4日閲覧。 
  6. ^ a b 『お城の地図帳』 辰巳出版〈タツミムック〉、2010年、79頁。
  7. ^ 赤木城跡及び田平子峠刑場跡”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2017年11月4日閲覧。
  8. ^ a b c 『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘編、秋田書店2000年、162-165頁。ISBN 4-253-00375-3
  9. ^ a b c d e f g h 『三重の山城ベスト50を歩く』 福井健二・竹田憲治・中井均編、サンライズ出版2012年、199頁。ISBN 978-4-88325-482-8
  10. ^ a b c d 『南紀と熊野古道』 小山靖憲笠原正夫編、吉川弘文館〈街道の日本史36〉、2003年、86-88頁。ISBN 4-642-06236-X
  11. ^ 熊野市百科大事典: 歴史 『戦国時代』”. 東紀州ほっとネット くまどこ. 東紀州ITコミュニティ. 2017年11月4日閲覧。
  12. ^ 羽柴秀吉の紀伊平定”. 上富田町文化財教室シリーズ. 上富田町. 2017年11月4日閲覧。
  13. ^ a b 後呂忠一「北山一揆について (PDF) 」 、『高円史学』第4巻、高円史学会(奈良教育大学学術リポジトリ)、1988年10月1日、 19-32頁、2017年11月4日閲覧。
  14. ^ みえの文化団体詳細”. みえの文化団体. 三重県 (2008年). 2017年11月4日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g 日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山』 児玉幸多坪井清足監修、新人物往来社1980年、187-188頁。

外部リンク[編集]