玄蕃尾城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
logo
玄蕃尾城
([[福井県滋賀県]])
玄蕃尾城の土塁と空堀
玄蕃尾城の土塁と空堀
別名 内中尾山城(うちなかおやまじょう)
城郭構造 山城
築城主 佐久間玄蕃允盛政、諸説あり
築城年 天正10~11年(1582~1583年)、諸説あり
主な城主 柴田勝家賤ヶ岳の戦い時の本陣)
廃城年 1583年(賤ヶ岳の戦い後)
遺構 郭、空堀、土塁、小口、土橋、
指定文化財 国の史跡
位置 北緯35度35分54.2秒
東経136度10分35.0秒

玄蕃尾城(げんばおじょう)は、福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にあった山城である。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家本陣が置かれた。平成11年(1999年)7月13日に「玄藩尾城(内中尾山城)跡」として国の史跡に指定されている[1]。また2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(140番)に選定された。

概要[編集]

柳ヶ瀬山(中尾山)の尾根上に位置し、織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台の刀根越(倉坂、久々坂ともいう)がすぐ南にある、また北国街道(現在の国道365号)を見下ろせる軍事上の要所に位置している。さらに南側の行市山には、中尾山と行市山を結ぶ軍道を整備したと伝わる勝家の家臣・佐久間玄蕃允盛政の砦があったという。賤ヶ岳の戦いの際に勝家・秀吉の両軍が布陣した山城の中でも、玄蕃尾城は空堀の深さ、土塁の高さが際立っており、また、現在においても、その遺構がよく残っている。また、定期的な草刈り整備が行われており、縄張り構造が非常によく分かる状態で維持されている。

山城の構造[編集]

基本構造は南北に並んだ主要な4つのであり、土橋で連結され、その広がりは南北約250m、東西約150mに及ぶ。すべての郭を高土塁で囲み、主要な部分は土塁と空堀の多重防御を施している。また、主郭には2つの馬出郭、1つの張出郭が備わっており、腰郭も近傍に位置する。主郭の北東隅には、方形の一段高くなった箇所があり、もしくは天守のような建造物があったと推定される。主郭部の南側には、食い違いや曲がった隘路を設けた虎口郭が2つ直列しており、刀根越からの敵を迎え撃つ造りとなっている。主郭部北側の搦手の郭は最大の広さを持ち、兵糧などの物資や兵の駐屯のためのスペースであったと考えられる。全体として完成度が高く、山城の最高水準の到達点の一つであるといえる。

歴史[編集]

  • 築城時期
    • 以下のように諸説ある。朝倉氏の山城を勝家軍が整備、または賤ヶ岳の戦いの時期に初めて築城という、主に2つの見方がある。
      • 15世紀の豪族柳ヶ瀬秀行が築城。
      • 朝倉氏の家臣の 疋壇対馬守久保が築城。
      • 朝倉氏の家臣の 朝倉玄蕃助景連が築城。
      • 天正6年頃 柴田勝家が北国街道を整備した際に、越前衆を使い築城。
      • 天正10~11年頃 羽柴秀吉との戦いに備え、勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政が築城。
  • 賤ヶ岳の戦いに関わる出来事
    • 天正11年3月 勝家が中尾山に本陣を置く。
    • 天正11年4月 秀吉が大垣に出陣した隙に、勝家軍が進撃するも、反撃にあい、総崩れ、勝家は北ノ庄へ敗走。
  • 伝承
    • 敦賀市刀根には、以下の様な餅搗き唄が伝わっている。史実としては「玄蕃尾城」の名称は出てこないが、このような言い伝えが、現状の山城の名前のルーツとなっている。
      • 「天気よければ 玄蕃尾様の 城の太鼓の 音がする 霞はれてくれ わしらの主の 玄蕃尾様 山見えぬ」

アクセス[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 玄藩尾城(内中尾山城)跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)、2016年8月18日閲覧。

参考文献[編集]

  • 玄蕃尾城跡保存会 『史跡 玄蕃尾城跡 見学の栞』 2003年。
  • 全国山城サミット連絡協議会編 『戦国の山城』 学研、2007年、58頁。
  • 滋賀県教育委員会編 『近江城郭探訪』 サンライズ出版、2012年、102頁。
  • 福井県の歴史散歩編集委員会 『福井県の歴史散歩』 山川出版社、2012年、218頁。
  • 上杉喜寿 『越前若狭 続山々のルーツ』 安田書店、1987年、355頁。

関連項目[編集]