飯盛山城

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飯盛山城
大阪府
飯盛山城(主曲輪跡)
飯盛山城(主曲輪跡)
別名 飯盛城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 佐々目憲法木沢長政
築城年 建武年間(1334年 - 1338年
主な改修者 木沢長政三好長慶
主な城主 木沢長政、安見宗房、三好長慶、三好義継
廃城年 天正4年(1576年
遺構 石垣・竪堀・畝状竪堀群・堀切・井戸跡
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度43分35.07秒
東経135度39分13.2秒
地図
飯盛山城の位置(大阪府内)
飯盛山城
飯盛山城

飯盛山城(いいもりやまじょう)は、大阪府大東市及び四條畷市にある日本の城跡。標高315.9mの飯盛山に築かれた日本の城山城)である。2017年平成29年)4月6日、「続日本100名城」(160番)に選定された。

飯盛山城や飯盛城と名称が統一されていなかった時期があるが、大東市による公式名称は「飯盛城(いいもりじょう)」である。

概要[編集]

腰曲輪

日本の中世史、中世城郭史を研究する上で、飯盛山城は重要な位置を占める。河内大和との間には生駒山脈が南北に走り、これが国境となっている。飯盛山城は、その生駒山脈の北西支脈に位置している飯盛山に築かれている。

中世の山城としては、かなり大きな部類に属し、強固な要塞であった。全盛期には、南北に1200m、東西に500mに達し、70以上の曲輪が確認されている。

沿革[編集]

城内に建つ楠木正行の銅像

南北朝時代[編集]

この城の始まりは、『河内志』によると佐々目憲法(僧正憲法)が南北朝時代に築いたとされているが、藤田精一の著書『楠氏研究』によると、これは河内国ではなく紀伊の飯盛山城であると指摘している。

正平3年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで、北朝方の高師直が6万の大将として四條に着陣。太平記によると、

懸下野守、その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて

—太平記

という記載が見受けられ、南朝方の恩地氏が飯盛山城に立て篭もったようである。ただ、この時代はまだ臨戦的陣城で、恒久的な城ではなかったと思われている。

戦国時代[編集]

天文年間に畠山義堯が河内を支配するようになり、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構える。この時に臨戦的陣城から恒久的な居城に改修されたと思われる。

飯盛城の戦い[編集]

飯盛城の戦い
戦争攻城戦
年月日天文元年(1532年6月15日
場所:飯盛山城の周辺
結果:籠城方・木沢長政の勝利
交戦勢力
籠城方

木沢長政軍
松笠菱(細川向かい松).jpg細川晴元援軍
山科本願寺証如援軍
攻城方

Ashikaga mon.svg畠山義堯
Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg三好勝宗援軍
Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg三好元長援軍
指導者・指揮官
木沢長政 Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg三好元長
戦力
10万兵以上 不明
損害
不明 300兵以上

足利義維を擁する細川晴元が実権を握った為、束の間の平和が訪れるかに思われた。ところが細川高国を討滅させたという大きな軍功を挙げていた三好元長と木沢長政の対立が、新たな戦乱を引き起こしていた。

対立の発端は、河内を巡る主権争い、守護代の木沢長政が守護の畠山義堯(義宣)から守護職を奪い獲る企てが発覚したことにある。享禄4年(1531年)8月、怒りをあらわにした義堯は三好元長の一族三好勝宗(三好一秀)に頼んで飯盛山城を攻めたが、長政からの援軍要請を受けた細川晴元によって撤兵命令を下されたため、三好勝宗は一旦兵を収めている。しかし翌5年(1532年)5月、態勢を整えた義堯と勝宗は飯盛山城を再攻、三好元長にも増援を要請している。そこで長政も再び晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除させるには至らなかった。

そこで自軍での武力排除を断念した晴元は、山科本願寺の法主証如に一揆軍の蜂起を要請。この背景には元長が肩入れする本願寺の対立宗派・法華宗へのライバル意識を巧みに利用したものと思われている。

17歳になった証如は、祖父の実如の遺言であった「諸国の武士を敵とせず」という禁を破って、同年6月5日に山科本願寺から大坂に移動、摂津・河内・和泉の本願寺門徒に動員をかけた。これに応じた門徒は、総勢3万兵に及ぶ大軍だったと言われている。6月15日に飯盛山城の攻囲軍を背後から襲った一揆軍は、三好勝宗を含む200余兵も討ち取り、退却する畠山義堯も追撃し6月17日には自害に追い込んだ。

なおも6月20日、三好元長の逃げ込んだ和泉顕本寺を取り囲んだ一揆軍には各地より続々と新たな門徒が集結したため、10万兵まで膨れ上がったとも伝わっている。そこで元長を含む80兵余りを血祭りに挙げた一揆軍の脅威により晴元は勝利し、長政も命を拾ったものの、蜂起を収束させない一揆軍の暴走が天文の錯乱に発展していく。

この戦いの後の状況については、山科本願寺の戦い石山本願寺への移転と和議成立も参照。
三好長慶像/大徳寺蔵

三好長慶の居城[編集]

その後、木沢長政も太平寺の戦いで父の仇であった三好長慶に討ち取られてしまう。長政亡き後、城主になったのが交野城の城主であった安見宗房である。安見宗房は畠山高政の家臣であったが、自ら河内の守護代を名乗り主君の高政を紀伊に追放してしまう。永禄2年(1559年)、長慶は高政を援けるべく兵をあげ、宗房は大和に敗走した。高政はこの三好軍の手際の良さを逆に驚き、河内への進出を阻止すべく、敵対した宗房を正式に守護代に任命、再び飯盛山城に配置した。この処置に憤慨した長慶は高政の居城高屋城を攻囲、援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退し、高政・宗房は共に堺へ敗走し、翌永禄3年(1560年)11月13日に飯盛山城に入城した。この時から長慶は飯盛山城を居城と定め大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる。

翌永禄4年(1561年)、畠山高政は根来衆を引き連れ反撃を試み、飯盛山城の支城となっていた三箇城を攻め落とし、翌永禄5年(1562年)の久米田の戦いで長慶の弟実休を討ち取り、同年4月に飯盛山城への総攻撃が開始したが、背後から長慶の弟安宅冬康松永久秀の援軍が襲いかかり、長慶も狭撃して畠山軍を撃退した(教興寺の戦い)。

廃城[編集]

長慶も飯盛山城、芥川山城、高屋城を拠点に畿内で勢力を拡大しようとした矢先に、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義興が22歳で急死、ついで翌年(1564年)、安宅冬康も流言によって自殺させると、長慶自身も病に取りつかれ同年7月24日、43歳で没した。御体塚曲輪跡には死後3カ年仮埋葬されていたと言われている。

その後三好義継三好三人衆が飯盛山城を治めていたようだが、織田信長により摂河平定が行われると三人衆も軍門に下り、飯盛山城は畠山秋高の所有となった。遊佐信教の反乱によって秋高が殺害されると、これに激怒した信長の攻撃を受けて信教は没落し(高屋城の戦い)、天正4年(1576年)に落城し廃城となった。

城郭[編集]

飯盛山城の模型/大東市歴史民俗資料館所蔵

飯盛山城の縄張りとして、最高地点315.9mに高櫓曲輪が築かれ、南北一直線上の尾根伝いに主要な曲輪群、東西の尾根の先端部にはそれぞれ曲輪を築いている。

本曲輪[編集]

高櫓曲輪は、25m×15mの削平地があり楠木正行の銅像の建っているその北側に本曲輪があり、その下に山城では珍しい石垣がある。その本曲輪下以外にも石垣があるが、これは土塁止め程度と思われるが、この本曲輪下の石垣は滝谷、東側からの防御用の可能性も指摘されている。三好長慶が、かつて居城としていた芥川山城も同様の石垣が見受けられるため、三好長慶の改修時に築かれた可能性がある。但し山城での石垣は珍しいので、三好長慶の改修時ではなく、織田信長の落城後に再構築した可能性も指摘されている。

本曲輪更に北側曲輪群

  • 腰曲輪
  • 御体塚曲輪
  • 三本松曲輪

千畳敷曲輪[編集]

高櫓曲輪から、南側には千畳敷曲輪40m×32mがあり、在阪FMラジオ送信所が建っている。また、周辺には堀切、虎口等の遺構が残っている。千畳敷曲輪の東側に馬場曲輪があり、楠公寺が建っている。この馬場は広さから来ているもので、本来の馬場ではなく、なんらかの兵とん施設があったのではないかと推定されている。

千畳敷曲輪更に南側曲輪群

  • 南丸曲輪
  • 馬場曲輪

飯盛山城から見た眺望[編集]

本曲輪跡から見た眺望
飯盛山城に咲くシャガの花

飯盛山は大阪府内でも有名なハイキングコースとなっており、山頂からの眺望もよく、平日でも数多い登山を楽しむ人々がいる。反面、城内にもいくつかのハイキングコースが設定されており、河内地方では珍しい二重堀切が存在していたが、山道の拡張によって破壊され、遺構が良好に保存されにくい側面がある。また、飯盛山は森林ボランティアの人々が下草刈りや立ち枯れ木の処理、植樹活動を展開し、山林を保持しようとしている。しかし、曲輪内にも植林されており、将来遺構の破壊に繋がるのではという意見もある。

城跡へのアクセス[編集]

飯盛山への登山道入口

参考文献[編集]

飯盛山
  • 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月。
  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』四、新人物往来社、1989年4月。
  • 『歴史散歩道大東』、大東市立歴史民俗資料館。
  • 今谷明『戦国三好一族』、洋泉社、2007年4月。

・『飯盛山城と三好長慶』 仁木宏・中井均・中西裕樹・NPO法人摂河泉地域文化研究所編 戎光祥出版 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]