屋嶋城

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屋嶋城
香川県
 城外の城壁の北側より南側を望む
 城外の城壁の北側より南側を望む
城郭構造 古代山城(朝鮮式山城)
築城主 大和朝廷
築城年 天智天皇6年(667年)
廃城年 不明
遺構 城門・石塁・土塁・水門跡・貯水池
指定文化財 国の史跡・天然記念物「屋島」に包含
再建造物 城門遺構を復元
位置
地図
屋嶋城の位置(高松市内)
屋嶋城
屋嶋城
屋嶋城の位置(香川県内)
屋嶋城
屋嶋城
屋嶋城の位置(日本内)
屋嶋城
屋嶋城

屋嶋城(やしまじょう[注 1]/やしまのき、屋島城)は、香川県高松市屋島[1]に築かれた、日本古代山城である。城跡は、1934年(昭和9年)11月10日、国の史跡天然記念物に指定された「屋島」の指定範囲に包含される[2][3][4]。屋嶋城敷地跡には四国遍路84番札所の屋島寺がある。

概要[編集]

日本書紀』に 、「大和国高安城讃岐国屋嶋城(やしまのき)・対馬国金田城を築く」と、記載されたである[注 2][5]

白村江の戦い新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、(日本)の防衛のために、対馬畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている。瀬戸内海に築かれた古代の屋嶋城は、667年天智天皇6年)、高安城金田城とともに築かれた[6][7][8]。また、屋嶋城は、政権基盤の宮都を守る高安城、国土領域を守る最前線の金田城とともに、瀬戸内海の制海権を守る重要なポイントとされている[9]

いにしえの屋島は、南北5キロメートル・東西2キロメートルのであり[10]、瀬戸内海の主海路に面した要衝であった。南嶺の標高は292メートル・北嶺の標高は282メートル、山頂部は平坦で広い台地であり、両者は細い尾根で接続されている[1]。しかし、江戸時代に始まる塩田干拓水田が後の時代に埋め立てられ、陸続きのようになる[11][12]

屋嶋城は、南北嶺の山上全域が城跡とされている[注 3][13]。山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれている[14]。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサの地勢[15]を有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造[注 4]城門の存在が判明したのは国内初のことであった[16][17][注 5][18]。この懸門の存在は、大野城基肄城と同様に屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える[19]

浦生の石塁(石塁の上部)

浦生(うろ)集落の砂浜が広がる海岸から谷筋を登れば山上に通じた道があり、標高100メートルの山中に谷を塞いだ、長さ約47m×基底部幅約9mの石塁と台状遺構(物見台)[注 6]がある。この遺構は大正時代に発見され、山上の石塁が発見されるまでは[20][21]、屋嶋城の唯一の遺構であった[22]。山上の城は断崖を利用して城壁は築かれなかったとされ[23]、山上に遺構が見当たらない[5]。また、考古学の視点では未実証で、多くの研究者が実態の不明な山城に位置づけていた[24]2009年の調査で、7世紀後半代の城跡遺構であることが判明した[25][26]

屋嶋城は二重防御の城である[18] 。浦生地区の遺構は、進入路を塞いだ遮断城で、大野城水城・鬼ノ城と水城状遺構と同類とされている[27]

城門は懸門構造に加え、城内側は甕城(おうじょう)であり[注 7]、通路は北側に直角に曲がる。門道は階段状で、城内から城外に向かって暗渠の排水路が設置され、通路の両側の柱穴の検出により建造物(門扉)の存在が実証された[28]

城門遺構の全長45m×高さ6mの石塁などが復元された。城門は幅5.4m×奥行10m、入口の高さ2.5m(段差)である。城門の南側は、内托式[注 8]の城壁で、高さ6mの城壁がある。城門の北側は、夾築式[注 9]の城壁で、北端は断崖に接続され、長さ10m×高さ5m×幅10mである[29]。城門遺構の見学路などが整備され、2016年3月19日、一般公開となる[30]

南嶺山上の北斜面土塁は、斜面を利用し、幅約2m×長さ約200m×高さ約2mの石積みの背面に盛り土をした、内托式の土塁である[31]

北方海上で屋島を遠望

屋嶋城は複数の国を管轄した軍政官の、伊予総領の管轄下で築かれたとされている[32]

山上からは、西方約28キロメートルの香川県の五色台と岡山県の鷲羽山に挟まれた、備讃瀬戸の海路が遠望できる。また、讃岐城山城(さぬききやまじょう)[注 10]鬼ノ城(きのじょう)[注 11]も視野に入る[33]

島内には、北端に長崎鼻(ながさきのはな)古墳[注 12]、北嶺山上に千間堂(せんげんどう)跡[注 13]、東岸の入江(屋島湾)一帯は源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島古戦場、北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などがある[34]

四国にある古代山城は、屋嶋城讃岐城山城永納山城(えいのうざんじょう)の三城である[32]

屋嶋城の城門遺構は、瀬戸内海国立公園に指定された屋島(屋島園地)に所在する[35][36]

関連の歴史[編集]

日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

調査・研究[編集]

遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。

  • 浦生地区の城跡は、1917年(大正6年)、関野貞が踏査研究で発見した遺構である[37]1980年(昭和55年)、浦生地区の遺構の発掘調査が行われたが、遺構の年代を決定できず、未確定遺構とされた[38]。しかし、2009年(平成21年)の発掘調査で、築城年代を示す土器(須恵器平瓶)が発掘され、城跡遺構であることが判明した[26]
  • 屋島の地形から、浦生集落と南方の中筋集落の谷部からの進攻が考えられる。塁壁を設けて防禦線を確保するならば、この二か所に築かれるべきだろうと推論する[注 14][39]
  • 「讃吉國山田郡屋嶋城」と、評名(郡名)を記載しているのは、讃岐国内におけるもう一城の存在を暗示している。もう一城とは、讃岐城山城であると論考する[40]
  • 中国桓仁県五女山城は日本の屋島を大きくした形であって、どちらも利用した地形がたまたま同じような形というだけで、前者は高句麗でも唯一の、屋島城も日本では唯一の、それぞれ例外的なものであると論考する[41]
  • 南嶺山上の北斜面土塁は、1984年(昭和59年)、村田修三が踏査研究で発見した遺構である[42]。しかし、城門遺構の石塁が発見されるまでは山上に遺構が見当たらず[5]、考古学の視点では実体の無い幻の城の状況であった[14]1998年(平成10年)、高松市民の平岡岩夫による南嶺山上の石塁の発見を契機に[43][44]城門跡と築城年代を示す土器が発掘され、山上の城の存在が明確になった[18]
  • 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[45]
  • 1898年(明治31年)、高良山列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 15]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある屋嶋城などは、「朝鮮式山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 16]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[46]

その他[編集]

          いにしへの書に名高き屋島見ゆる広場にきそふ人のたのもし
          屋嶋城あたりに鳴きしほととぎすむこうの谷に声しぼり鳴く
          白村江に敗れしのちに築く城半ばくずれて石組みあらわ
  • 2013年10月、第4回古代山城サミット高松大会が高松城およびサンポートホール高松で開催された[51]
  • 2014年6月、高松市議会における城門遺構の「門扉復元」の質問に対し、大西秀人市長は「遺構が大きく損壊していることから、文化庁の基準に照らして、復元は困難な状況」と答弁する[52]
  • 2017年11月、屋嶋城の築城1350年を記念して、シンポジウム「667年に築かれた3つの山城に迫る」がサンポートホール高松で開催された[53]

現地情報[編集]

  • 山上の遊歩道の要所に、「瀬戸内海国立公園 屋島案内図」の説明板や案内標示がある。山上の駐車場から徒歩15分ほどの場所に、城門遺構の見学路が整備されている。終日、無料公開であるが、夜間の照明は無い。山上の駐車場へは屋島スカイウェイが通じている。屋島登山を兼ねる場合は歩行者専用の屋島登山道(参道・遍路道・四国のみち・県道)を登ることになる。屋島登山道の中腹から城門遺構に通じる道が整備されているが、急勾配で階段の多い狭い山道である。城門遺構は、コンピューターグラフィックスで復元された城門などを、スマートホンタブレット端末で見ることができる機能が付与されてる[30]
  • 城門遺構以外の山上地区・浦生地区の遺構は未整備であるが、学術調査は継続されている[13]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 特別史跡「おおのじょう・きいじょう・かねだじょう」、史跡「きくちじょう」に準ずる。
  2. ^ 『日本書紀』の天智天皇 六年(667年) 十一月の条に、「 是月、築 倭(やまとの/大和)國高安城 讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくに やまだのこほりの やしまのき) 対馬國金田城」と記載する。
  3. ^ 南嶺城跡説の論者も存在する(向井一雄「外城ラインに関する一考察」『戦乱の空間』第4号、戦乱の空間編集会、2005年、121頁)。
  4. ^ 朝鮮半島の山城をルーツとする様式で、城門の入口に進入しにくい段差のある城壁を設け、普段は梯子・木段などで出入りし、戦闘時は撤去する城門で、防御性能を高める構造。鬼ノ城と大野城に類例がある。
  5. ^ 韓国、忠北大学教授のチャ・ヨンゴルは「階段状の城門は懸門式だった可能性が高い」と評する(山陽新聞、2002年6月25日閲覧)。
  6. ^ 朝鮮半島では雉城(ちじょう)と称する。鬼ノ城と金田城に類例がある。
  7. ^ 朝鮮半島の山城をルーツとする様式で、城門の外側または内側で、城壁を曲げたり突出させ、直進できない袋小路状の空間を設けた城門で、防御性能を高める構造。屋嶋城の城門は、正面の奥を岩盤で遮っている。
  8. ^ 城壁背面の自然地形を活用し、斜面にもたせ掛けて築かれた城壁構造。
  9. ^ 城外側と城内側の両面を城壁にした構造。
  10. ^ 香川県坂出市に所在する国指定の史跡「城山」まで、約21キロメートル。
  11. ^ 岡山県総社市に所在する国指定の史跡「鬼ノ城山」まで、約52キロメートル。
  12. ^ 5世紀初頭の全長45メートルの前方後円墳で、石棺は阿蘇溶結凝灰岩製である。
  13. ^ 屋島寺の前身の仏堂跡(礎石建物)で、基壇から多口瓶が3個体出土している。
  14. ^ 推論の後に、浦生集落の南東山上で北斜面土塁、中筋集落の北東山上で城門跡石塁が発見された。
  15. ^ 歴史学会・考古学会における大論争があった(宮小路賀宏・亀田修一「神籠石論争」『論争・学説 日本の考古学』 第6巻、雄山閣出版、1987年)。
  16. ^ 1995年(平成7年)、文化財保護法の史跡名勝天然記念物指定基準の改正にともない「神籠石」は削除され、「城跡」が追加された。

出典[編集]

  1. ^ a b 国土地理院基準点成果等閲覧サービスー国土地理院
  2. ^ 史跡天然記念物屋島の調査-高松市
  3. ^ 「屋島」天然記念物-高松市
  4. ^ 屋島 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ a b c 「屋島城跡」『角川日本地名大辞典 37 香川県』、角川書店、1985年、806-807頁。
  6. ^ 香西成資「讃吉國屋嶋城記」『史料叢書 南海通記 (1719年)』、引成舎、1926年、63頁。
  7. ^ 森公章 著 『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』、講談社、1998年、158-173頁。
  8. ^ 澁谷啓一「屋島」『歴史考古学大辞典』、吉川弘文館、2007年、1167頁。
  9. ^ 澁谷啓一「白村江の戦いと屋嶋城」『屋島風土記』、屋島文化協会、2010年、75頁。
  10. ^ 長谷川修一「屋島の地形」『屋島ーシンボリックな大地に刻まれた歴史ー』(史跡・天然記念物屋島指定80周年記念企画展)、高松市歴史資料館、2014年、27頁。
  11. ^ 屋島風土記編纂委員会「屋島の風土と環境」『屋島風土記』、屋島文化協会、2010年、10頁。
  12. ^ 香川県のしまっぷ ー第六管区海上保安本部
  13. ^ a b 『屋嶋城跡ー城門遺構整備事業報告ー』、高松市教育委員会、2016年、2-4頁。
  14. ^ a b 『史跡天然記念物 屋島 』、高松市教育委員会、2003年、63・124頁。
  15. ^ 讃岐ジオサイト(10)屋島-香川大学
  16. ^ 屋島城、城門遺構を発掘。四国新聞、2002年3月20日閲覧。
  17. ^ 屋島城の城門発見(解説)。四国新聞、2002年3月30日閲覧。
  18. ^ a b c 『屋嶋城跡 Ⅱ』、高松市教育委員会、2008年、1・50・62頁。
  19. ^ 渡邊 誠「日本書紀に記載の残る屋嶋城」『教育時報』 通巻762号、 岡山県教育委員会、2013年、17頁。
  20. ^ よみがえる屋島城(シリーズ追跡)。四国新聞、1998年6月1日閲覧。
  21. ^ 田中哲雄 著『城の石垣と堀』 日本の美術第60号、至文堂、1999年、19頁。
  22. ^ 岡田唯吉「屋島」『史蹟名勝天然記念物調査報告』 第1、香川県史蹟名勝天然記念物調査会、1922年、18頁。
  23. ^ 向井一雄「屋嶋城跡」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、525頁。
  24. ^ 山元敏裕「古代山城 屋嶋城について」『歴史に見る四国ーその内と外ー』、地方史研究協議会、2008年、267-279頁。
  25. ^ 浦生石塁、屋島城の一部。四国新聞、2010年4月14日閲覧。
  26. ^ a b 『高松市埋蔵文化財調査報告第131集 高松市内遺跡発掘調査概報 』、高松市教育委員会、2011年、26頁。
  27. ^ 松尾洋平「古代遮断施設(防塁)についての一考察」『古文化談叢』 第60集、九州古文化研究会、2008年、129-141頁。
  28. ^ 城門 規模判明。四国新聞、2013年12月6日閲覧。
  29. ^ 往時の姿 目の前に/現地説明会。四国新聞、2015年6月21日閲覧。
  30. ^ a b c 歴史ロマン「開門」。四国新聞、2016年3月20日閲覧。
  31. ^ 渡邊 誠 「屋嶋城」『季刊 考古学』 第136号、雄山閣、2016年、40頁。
  32. ^ a b 佐藤竜馬「総領と山城」『特別展 讃岐びと、時代を動かす』、香川県立ミュージアム、2017年、26頁。
  33. ^ 村上幸雄 乗岡 実 著『鬼ノ城と大廻り小廻り』、吉備人出版、1999年、2頁。
  34. ^ 香川県の歴史散歩編集委員会『香川県の歴史散歩』、山川出版社、2013年、38頁。
  35. ^ 瀬戸内海国立公園ー環境省
  36. ^ 『香川の瀬戸内海国立公園 ガイドブック』、香川県みどり保全課、2016年、15-16頁。
  37. ^ 関野貞「天智天皇の屋島城」『史学雑誌』第28編第6号、 史学会、1917年、47頁。
  38. ^ 『屋島城跡』、高松市教育委員会、1981年。
  39. ^ 廣瀬常雄「"讃吉国屋嶋城"とその遺構について」『考古学と古代史』、同志社大学考古学シリーズ刊行会、1982年、374頁。
  40. ^ 出宮徳尚「古代山城の機能性の検討」『高地性集落と倭国大乱』、雄山閣、1984年、372頁。
  41. ^ 西川 宏「西日本古代山城をめぐる諸問題」『青丘学術論集』 第10集、韓国文化振興財団、1997年、89頁。
  42. ^ 村田修三研究室旅行こぼれ話ー屋島城ー」『寧楽史苑』 第30号、奈良女子大学史学会、1985年、69頁。
  43. ^ 平岡岩夫「屋嶋城跡の新発見の石塁に関して」『溝漊』 第7号 、古代山城研究会、1988年、29頁。
  44. ^ 小田富士雄「日本の朝鮮式山城の調査と成果」『古文化談叢』 第44集、九州古文化研究会、2000年、150-152頁。
  45. ^ 狩野久「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』 第21巻 月報21、岩波書店、2015年、3頁。
  46. ^ 赤司善彦「古代山城研究の現状と課題」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、10頁。
  47. ^ 宮内庁侍従職 編『おほうなばら 昭和天皇御製集』、読売新聞社、1990年、63頁。
  48. ^ 天覧国体に沸く/屋島陸上競技場。四国新聞、1953年10月26日閲覧。
  49. ^ 「大西ひでとマニフェスト」、大西ひでと後援会事務局、2011年。
  50. ^ 玉井清弘 著『 歌集 屋嶋』、角川書店、2013年、47頁。
  51. ^ 歴史資源 後世に伝えよう。四国新聞、2013年10月6日閲覧。
  52. ^ 屋嶋城の城門再現映像/模型化を検討。四国新聞、2014年6月18日閲覧。
  53. ^ 市長定例記者会見、2017年8月22日閲覧。

参考文献[編集]

  • 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
  • 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 第136号(西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
  • 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10712-8
  • 小島憲之 他 校注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年。ISBN 4-09-658004-X。        
  • 齋藤慎一・向井一雄 著『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年。ISBN 978-4-642-08303-4
  • 向井一雄 著『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-642-05840-7

関連項目[編集]

外部リンク[編集]