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対馬空港

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
対馬空港
Tsushima Airport

地図
IATA: TSJ - ICAO: RJDT
概要
国・地域 日本の旗 日本
所在地 長崎県対馬市
種類 商業
運営者 長崎県
運用時間 8:00 - 19:30
標高 65 m (213 ft)
座標 北緯34度17分05秒 東経129度19分49秒 / 北緯34.28472度 東経129.33028度 / 34.28472; 129.33028座標: 北緯34度17分05秒 東経129度19分49秒 / 北緯34.28472度 東経129.33028度 / 34.28472; 129.33028
公式サイト 対馬空港ターミナルビル
地図
対馬空港の位置
対馬空港の位置
TSJ
対馬空港の位置
滑走路
方向 ILS 長さ×幅 (m) 表面
14/32 LOC 1,900×45 舗装
統計(2022年度)
旅客数 233,326人
貨物取扱量 167t
リスト
空港の一覧
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対馬空港付近の空中写真。(2011年撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

対馬空港(つしまくうこう、: Tsushima Airport)は、長崎県対馬市対馬)にある地方管理空港。愛称は対馬やまねこ空港[1][2]

概要

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標高97メートルの白連江山の山頂を切り開き[3][4]、ほか12の山の290万立方メートルを削り、13の谷に360万立方メートルを盛土する工事の末、完成した[5]滑走路は対馬中央部の上島と下島の間の地峡部を横断するように建設されている。長崎県内初の山岳空港である。

空港が所在する美津島町の中心地まで2.5キロ、行政の中心地である厳原町まで14キロ、最北地にある比田勝港まで80キロメートルの位置にある[6]

沿革

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1960年代は、離島振興法により日本国内の離島に多くの空港が建設され、長崎県内でも1963年五島列島福江空港が、1966年には壱岐島壱岐空港がそれぞれ開設された。しかし、山と海で平野がない対馬では造成する適切な用地がなかった[7]。その中で対馬への空港建設は進まなかった。

そのような状況下であったことから、1964年(昭和39年)、浅茅湾の竹敷に水上空港が開港し、大村空港を結ぶ路線が就航した[8][9][10]。この路線はG-21により運航され、8人乗りかつ週1便であった[10]。この運航は本格的な空港が設置するまでの対応として実施されたが、機体が旧軍用機であったことから、故障・運休が多く発生した[9]。その中で実際に運航されたのは、19往復であった[11]。その後、1966年(昭和41年)に運航が再開されたが、利用客数が少なく、5か月間(1967年1月まで[12])で休止となり[11]1968年3月には廃止となった[12]

同時期の1965年(昭和40年)12月からは、不定期で厳原と福岡を結ぶヘリコプターも西日本空輸により就航したが、こちらも利用客が少なく、6か月で休止となった[11][13]

そのような状況下であったことから、1966年1月には対馬総町村組合管理者と対馬総町村組合議長の連署により、長崎県知事に陳情書を提出した[14]1970年(昭和45年)6月、国の「第二次航空整備五か年計画」により滑走路600メートルのSTOL空港建設計画が策定された[15]。空港建設にあたっては、各自治体が空港用地を取得、その用地を長崎県に寄附することとした[16]

1971年(昭和46年)3月20日に空港設置許可申請を提出[15]9月3日に許可告示が行われた[17]

10月22日、全国的に珍しく、山を削り谷を埋め立てる形式での空港建設が開始された[17][18]。着工時は、滑走路600メートル、総事業費が約14億5千万円で開始された[19][20]。施工者は戸田建設[21][18]。初年度は、440メートル分の滑走路や、エプロン、空港へのアクセス道路などの工事が実施された[18]

1972年(昭和47年)12月23日、滑走路の延長をオーバーラン分の120メートルを含め1,600メートルに延伸することが決定した(申請は10月11日[17][22]。その計画は、総事業費を35億円、総面積は409,793平方メートルとなった[22]

1973年(昭和48年)、空港周辺道路の付替工事も実施された[22]。空港用地確保のために当時の県道(後の国道382号)が埋め立てられ、その付替にはトンネルが必要となった[22]。実施に当たっては、既存の県道をトンネルに変更する案も検討されたが、6〜8パーセントの勾配が発生してしまう他、換気が機能しなくなることや、利便性も含めた費用対効果も検討し、新規のトンネル設置とした[22]

1974年(昭和49年)、既存県道の埋め立てを行い、並行して滑走路・誘導路などの舗装工事が実施されることとなった[22]7月31日には、滑走路の用地造成が完成した[17]

1975年(昭和50年)、通信設備などの付属工事に着手[20]6月20日に開港[23][17][24]全日本空輸福岡空港への便を運航を申請し、運輸審議会から運輸大臣へ10月2日に答申が行われた[25]10月10日に定期便が就航[23][24]、運航機材はYS-11で1日2便であった[17]

空港開設による意義は大きく、交通利便性の拡大、観光客の増加による経済活動、生活文化の変貌など、対馬開発と発展に寄与することとなり、対馬・博多航路に次ぐ交通革命ともされた[26]

開港半年後の1976年(昭和51年)3月までの利用者数は44,000人を超え[27]、すでに観光客の増加などにより島民の需要を満たしきれず、ジェット機の就航対応が行われることとなった[28]6月4日には、対馬選出の県議会議員や町長などで構成される協議会が立ち上がり、陳情や各機関への要請などを実施した。1978年(昭和53年)には整備事業計画が承認されることとなった[29]

そんな中、ダイヤ面では1976年3月1日から福岡便を3便に[29]、10月下旬には4便へ増便し、多客時には臨時便を増発し1日5便を設定した[28]。また、長崎空港への便がYS-11による運航で、8月3日から火曜と木曜日の週2日に各1便で就航した[17][30]。運行初日は、記念行事が実施され、県議会議員らによるテープカットが実施された[30]。こちらも10月18日以降、毎日1便の運航となった[17][28]。1976年の最終的な乗降客数は123,026人となり、翌1977年には154,765人を数える[27]など、後の滑走路延長時には、国内の離島空港で最も利用率が高かった[31]

1979年(昭和54年)7月、全日本空輸から日本近距離航空に福岡便を移管、翌年5月には長崎便も同様に移管された[13]1980年(昭和55年)5月から1986年(昭和61年)10月の期間は、長崎航空による長崎から壱岐・対馬を結ぶ二地点不定期便が運航された[32][33]

1980年度(昭和55年度)からジェット旅客機対応に向けた工事に着工[31]1983年には、滑走路が1,900メートルに延伸した[32]。4月1日、日本近距離航空によるジェット旅客機ボーイング737-200)が就航[13][34]。新ターミナルビルが供用開始した。

1996年7月、エアーニッポンが週3日各1便による関西国際空港便を開設したが、その後利用者数の低迷を理由に1998年1月から運休した[35]

2003年8月31日を以て、エアーニッポンによる長崎便が廃止、翌日9月1日からオリエンタルエアブリッジが長崎便に就航した[32][36]

同年9月16日には、同仁化学研究所所属のプロペラ機ソカタTB21(JA74KU)が滑走路32手前の斜面に墜落し、乗員3名が死亡した[37]。この機体は、崇城大学が研究所から借り受けていたもので、大学航空工学実験研究所の航空操縦士、整備士と研究所社長が同乗していた[38]。なお、事故調査委員会は急降下の原因については特定出来ないとした[39]

2005年10月、福岡便の昼間一部便がDHC8-Q400による運航となり増便された[40]。これは、2007年11月まで実施され、その後はボーイング737-500による4往復に減便された。

2008年、愛称を「対馬やまねこ空港」に決定した。対馬市内の小・中学生、高校生3,195人による投票で決定した[2]。愛称の選定にあたっては、島内外から計1,606点の応募があり、決定した愛称には、107人の応募があった[2]。6月には、オリエンタルエアブリッジが福岡便へ参入を目指し、全日本空輸に対して減便を求めていくことを発表した[41]

2009年7月、韓国コリアエクスプレスエアにより大邱国際空港を結ぶ国際チャーター便が運航開始[42]。20人乗りのプロペラ機で、月・水・金曜に各1便の運航で、韓国発のツアー商品として発売された[43][42]。その後、2012年には対馬発のツアー商品も販売された[44]

2013年4月1日気象庁福岡航空測候所対馬空港出張所が閉所。気象観測・通報業務は航空機安全運航支援センターへの委託となる[45]

2018年4月1日には、福岡FSCのリモート空港となり、国土交通省大阪航空局対馬空港出張所は閉所した。また、10月を以て、全日本空輸が福岡便で運用していたジェット機が老朽化を迎えていたこともあり、運用を終了した[46][47][48]

施設

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1985年まで用いられた旧ターミナルビル

ジェット旅客機に対応した拡張工事で竣工したものが1983年から運用されている。

ターミナルビルは、開設当初に設置された旧ターミナルビルの南側に位置する[49]。総事業費5億1千万円、面積は旧ターミナルビルの3.6倍にあたる、2,325平方メートル[49]。エスカレーターやターンテーブルなどが設置[49]。ターミナルビルに隣接する形で230台収容の駐車場も設置されている[49]

エプロンはジェット機が3機、YS2型機が2機の合計5機が収められる[49]。誘導路は2本[49]

就航路線

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航空会社名が2社以上の場合、最前の航空会社の機材・乗務員で運航するコードシェア便

航空会社就航地
全日本空輸 (ANA)[50] 福岡空港
オリエンタルエアブリッジ (ORC)・日本航空 (JAL)・全日本空輸 (ANA) 福岡空港、長崎空港

運休路線

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アクセス

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脚注

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  1. ^ 対馬空港の愛称が決まりました”. 対馬市 (2008年2月20日). 2007年11月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年2月20日閲覧。
  2. ^ a b c 「「対馬やまねこ空港」 愛称決定」『読売新聞』2008年2月24日、西部朝刊(長崎)、37面。
  3. ^ 内閣府(編)「あの町この村:長崎県」『時の動き』第17巻第5号、国立印刷局、1973年3月、38-39頁、doi:10.11501/2783052ISSN 0912-800Xhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2783052。 
  4. ^ 対馬空港”. 管内空港の現況と出先機関. 国土交通省大阪航空局. 2013年12月14日閲覧。
  5. ^ 「離島の山岳空港 対馬空港遂にオープン」『開発往来』第19巻第9号、4-5頁、doi:10.11501/2642542ISSN 0285-6336https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2642542。 
  6. ^ 「対馬空港――開港1年目をむかえて」『航空振興』第10巻第3号、1976年10月、23-26頁、doi:10.11501/2679739https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2679739。 
  7. ^ 厳原町誌編集委員会 編『厳原町誌』厳原町、1997年3月31日、136頁。 
  8. ^ 「対馬空港開港」『しま』第10巻第1号、日本離島センター、1964年6月、8頁、doi:10.11501/6072515https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6072515。 
  9. ^ a b 『上県町誌』上県町、2004年2月23日、582頁。 
  10. ^ a b 『美津島町史』美津島町役場、1978年9月30日、529頁。doi:10.11501/9770462 
  11. ^ a b c 『上県町誌』上県町、2004年2月23日、982頁。 
  12. ^ a b 『上県町誌』上県町、2004年2月23日、984頁。 
  13. ^ a b c 厳原町誌編集委員会 編『厳原町誌』厳原町、1997年3月31日、137頁。 
  14. ^ 対馬総町村組合百年史編纂委員会 編『対馬総町村組合百年史』対馬総町村組合、1990年3月31日、951頁。 
  15. ^ a b 対馬総町村組合百年史編纂委員会 編『対馬総町村組合百年史』対馬総町村組合、1990年3月31日、954頁。 
  16. ^ 対馬総町村組合百年史編纂委員会 編『対馬総町村組合百年史』対馬総町村組合、1990年3月31日、956頁。 
  17. ^ a b c d e f g h 対馬総町村組合百年史編纂委員会 編『対馬総町村組合百年史』対馬総町村組合、1990年3月31日、955頁。 
  18. ^ a b c 「空港建設 今年度工事スタート―暫定予算 約三億七千万円で」『広報みつしま』第130号、美津島町、1972年5月10日、3頁。 
  19. ^ 「対馬空港-1500メートル空港実現」『広報みつしま』第188号、1973年1月10日、4頁。 
  20. ^ a b 「対馬島の空の玄関」『広報みつしま』1975年3月1日。 
  21. ^ 「難知ダムと対馬空港」『開発往来』第18巻第5号、1974年5月、40-41頁、doi:10.11501/2642528https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2642528。 
  22. ^ a b c d e f 「対馬空港を行く-今年度末までに約20億円」『広報みつしま』第193号、1973年6月10日、2-3頁。 
  23. ^ a b 長崎県対馬支庁 1977, p. 231.
  24. ^ a b 「福岡-対馬に定期便 来月から全日空」『読売新聞』1975年9月23日、朝刊、22面。
  25. ^ 「福岡-対馬空路認可へ」『読売新聞』1975年10月3日、朝刊、2面。
  26. ^ 美津島町 1978, pp. 529–530.
  27. ^ a b 「福岡まで30分-定着した離島の足:対馬空港」『広報みつしま』第245号、1978年2月10日、5頁。 
  28. ^ a b c 美津島町 1978, p. 530.
  29. ^ a b 対馬総町村組合百年史編纂委員会 編『対馬総町村組合百年史』対馬総町村組合、1990年3月31日、962頁。 
  30. ^ a b 「長崎-対馬 直行便就航 空路わずか50分」『広報みつしま』第227号、1976年8月10日、4頁。 
  31. ^ a b 「対馬の発展に大きく役立つ-対馬空港ジェット機就航」『広報みつしま』第303号、1983年4月10日、7頁。 
  32. ^ a b c 『上県町誌』上県町誌編さん委員会、2004年2月23日、985頁。 
  33. ^ 厳原町誌編集委員会 編『厳原町誌』厳原町、1997年3月31日、138頁。 
  34. ^ 『上県町誌』上県町、2004年2月23日、983頁。 
  35. ^ 「地元とANK、思惑に隔たり 対馬-関西空港直行便再開」『朝日新聞』1998年4月3日、朝刊(長崎)。
  36. ^ 「長崎―対馬線 オリエンタルエアブリッジが運航開始」『読売新聞』2003年9月2日、西部朝刊(長崎版)、28面。
  37. ^ 航空事故調査報告書」(PDF)、航空・鉄道事故調査委員会、2004年11月、2015年8月26日閲覧 
  38. ^ 「小型機墜落3人死亡 着陸直前、滑走路手前に/長崎・対馬空港」『読売新聞』2003年9月16日、西部夕刊、10面。
  39. ^ 「急降下の原因、特定できず 対馬の小型飛行機墜落で事故調」『朝日新聞』2004年11月28日、西部朝刊、34面。
  40. ^ 対馬-福岡間の航空便が増便」(PDF)『広報つしま』2005年11月号、対馬市、2005年11月、15頁、2013年12月14日閲覧 
  41. ^ 「福岡線参入めざす ORC、ANAと本格協議へ」『朝日新聞』2008年6月14日、朝刊(長崎)、31面。
  42. ^ a b 「チャーター便 大邱から対馬に」『読売新聞』2009年7月28日、西部朝刊(長崎)、27面。
  43. ^ 「対馬-韓国間に来月から航空便 ソウルと大邱、週3日」『西日本新聞』2009年6月26日、朝刊、17面。
  44. ^ 「対馬発着のソウルツアー チャーター機 利用商品販売」『読売新聞』2012年2月2日、西部朝刊(長崎)、27面。
  45. ^ 財団概要一般財団法人 航空機安全運航支援センター
  46. ^ 「対馬空港発着のジェット機 老朽化来年度までに退役 全日空 後継にプロペラ機案」『長崎新聞』2018年5月12日、朝刊、9面。
  47. ^ 「全日空 対馬-福岡 全便プロペラに 10月下旬 座席数減「誘客に打撃」」『長崎新聞』2018年8月22日、朝刊、9面。
  48. ^ 「福岡-対馬航路のジェット機 運航20年ラストフライト 全日空 全便プロペラ機に」『長崎新聞』2018年10月28日、朝刊、1面。
  49. ^ a b c d e f 「来年四月ジェット機就航を目指して急ピッチ」『広報みつしま』第296号、1982年9月10日、3頁。 
  50. ^ ANAウイングスの機材・乗務員による運航
  51. ^ 『上県町誌』上県町、2004年2月23日、583頁。 
  52. ^ 長崎新聞ニュースソウル-対馬、航空路線 年内にも再開方針

参考文献

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外部リンク

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