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蜂須賀宗員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
蜂須賀 宗員
蜂須賀宗員像
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年1月1日1709年2月10日
死没 享保20年6月7日1735年7月26日
改名 正員(初名)→宗員
別名 隠岐
墓所 徳島県徳島市下助任町 興源寺
官位 従四位下、侍従淡路
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
阿波富田藩第3代藩主→阿波徳島藩第6代藩主
氏族 蜂須賀氏
父母 蜂須賀綱矩架祥院(安西作左衛門・娘)
養父蜂須賀隆長
兄弟 吉武隆寿宗員、蓮光院(井伊直惟室)、娘(小笠原忠貞室)、娘(大久保忠興婚約者)、娘(安藤信尹婚約者)
正室:瑩光院
婚約者:津治姫
重矩、娘(井伊直禔婚約者)
養子:宗英
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蜂須賀 宗員(はちすか むねかず)は、阿波富田藩の第3代藩主。のち徳島藩の第6代藩主。

生涯

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徳島藩第5代藩主・蜂須賀綱矩の四男。母は安西作左衛門の娘・架祥院。初名は正員(まさかず)。通称は隠岐

当初、兄吉武阿波徳島藩の世子となっており、正員は阿波富田藩主・隆長の養子になった。正徳4年(1714年)11月16日、養父・隆長の死去により富田藩主となる。享保3年(1718年)2月15日、将軍徳川吉宗御目見した。

享保7年(1722年)12月18日、従五位下隠岐守に叙任する。後に淡路守に改めた[1]

享保10年(1725年)7月4日、長兄・吉武が早世したため、宗家に戻って世子となる。このため、富田藩は所領を徳島藩に返納して廃藩となった。同年12月7日、従四位下に昇進し、将軍徳川吉宗偏諱を受けて宗員と改名した。後に侍従に任官した。

享保13年(1728年)1月23日、父・綱矩の隠居により家督を継いだ。

興源寺の墓所(徳島県徳島市下助任町)

享保20年(1735年)6月7日、死去。享年28。次男・文太郎(のちの重矩)は幼少だったため、一族から宗英を養子に迎えて跡を継がせた。

系譜

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脚注

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  1. ^ 享保名物帳順慶左文字の所有者として「武州忍城主松平下総守忠雅の二男にて蜂須賀修理太夫吉武に養われて家を嗣ぎ、淡路守宗員と言いし人なり」とあるのは蜂須賀宗純の間違いと思われる。『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形

参考文献

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  • 『蜂須賀家記』