青山幸督
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文5年(1665年) |
死没 | 宝永7年8月18日(1710年9月11日) |
改名 | 石之助(幼名)、幸督 |
戒名 | 泰源院靈譽光鑑雲英大居士 |
墓所 |
兵庫県神戸市中央区楠町の安養寺(浄土宗) 東京都港区青山の梅窓院(浄土宗) |
官位 | 従五位下・播磨守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番兼寺社奉行 |
主君 | 徳川綱吉→家宣 |
藩 | 摂津尼崎藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 父:青山幸実、母:井上正利の娘 |
兄弟 | 幸督、幸澄、青山忠重継室、内田正勝正室 |
妻 |
正室:南部行信の娘 側室:角田氏 |
子 | 幸秀、忠朝、幸能 |
青山 幸督(あおやま よしまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。摂津国尼崎藩の第3代藩主。官位は従五位下・播磨守。幸成系青山家3代。
略歴
[編集]寛文5年(1665年)、青山幸実(第2代藩主・青山幸利の長男)の長男として誕生した。父・幸実は病弱だったため、祖父・幸利によって廃嫡され、幸督が祖父の世継となった。貞享元年(1684年)9月29日、祖父の死去により家督を継いだ。貞享3年(1686年)11月27日に奏者番に任じられ、元禄12年(1699年)10月13日に寺社奉行を兼帯する。
元禄15年(1702年)6月5日、寺社奉行は御役御免。奏者番は留任。奏者番在職中の宝永7年(1710年)8月18日、尼崎で病死した。享年46。
長男の幸秀が家督を継いだ。同年8月21日、弟の幸澄に新田2000石が分与となる。
『土芥寇讎記』第二十四集に青山幸明名義で記載がある。血気盛んで哀憐無し、など祖父の幸利とも比較されつつあまりよい評価はされていない。
系譜
[編集]父母
正室
- 南部行信の娘
側室
- 角田氏
子女