青山幸成
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正14年(1586年) |
死没 | 寛永20年2月16日(1643年4月4日) |
改名 | 藤蔵(幼名)、幸成 |
別名 | 石之助 |
戒名 | 梅窓院殿前大府香譽淨薫大禪定門 |
墓所 |
東京都港区青山の梅窓院(浄土宗) 高野山金剛峯寺奥の院(高野山真言宗) |
官位 | 従五位下・大蔵少輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
藩 | 常陸国内→遠江掛川藩主→摂津尼崎藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 父:青山忠成、母:天方通興の娘 |
兄弟 | 忠次、忠俊、朝比奈泰重、幸成、天方通直、川口近次室 |
妻 |
小笠原信之の娘 側室:小出氏、福永氏 |
子 | 幸利、幸通、幸正、幸高、堀親昌継室、水谷勝宗正室、松平信久正室 |
青山 幸成(あおやま よしなり/ゆきなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。遠江国掛川藩主、摂津国尼崎藩初代藩主。幸成系青山家初代。官位は従五位下・大蔵少輔。領内の新田開発をすすめた。
生涯
[編集]天正14年(1586年)、徳川家の譜代家臣・青山忠成の四男として浜松で誕生した。慶長4年(1599年)に元服して徳川秀忠の近侍として仕えた。慶長7年(1602年)、下総国印旛郡で500石を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参加し、元和5年(1619年)には書院番頭・小姓・10人組頭・評定衆に任じられ、常陸国新治郡・筑波郡などで1万石を与えられ、以前からあった所領とあわせて1万3000石の大名となった。
寛永10年(1633年)2月3日、遠江掛川藩に2万6000石に倍増された上で移封される。寛永12年(1635年)7月28日には5万石に加増された上で摂津尼崎藩に移封された。幸成は藩政の基礎を確立するため、儒者を招聘して文学を奨励し、大庄屋制度を制定し、積極的な新田開発を行なって4000石を新開発した。寛永17年(1640年)には讃岐国高松藩主・生駒高俊改易を伝える使者を務め、その後の寛永19年(1642年)4月の松平頼重の高松藩入封にも協力している。
しかし直後の8月から病に倒れた。寛永20年(1643年)1月には3代将軍・徳川家光の見舞いを受けたが回復せず、次男・幸通、三男・幸正、四男・幸高にそれぞれ3000石、2000石、1000石を分与して青山3分家を創設した上で、2月16日に死去した。享年59。
家督は長男の幸利が継ぎ、所領は弟に分与したため4万8000石となった。
系譜
[編集]父母
正室
- 小笠原信之の娘
側室
- 小出氏
- 福永氏
子女