松平頼位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
松平頼位
Matsudaira Yoritaka.jpg
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化7年2月13日1810年3月17日
死没 明治19年(1886年12月17日
改名 豊四郎(幼名)→頼位
別名 将監(通称)、豊山(号)
墓所 茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山
官位 従五位下、主税頭、従四位
幕府 江戸幕府
常陸宍戸藩
氏族 水戸松平家
父母 父:松平頼救、母:浪江(田口氏)
養父:松平頼善松平頼筠
兄弟 頼敬太田資原頼位
正室:松平頼善の養女、松平保福の娘)
側室:佐々木氏
頼徳、雪、頼安、珽(筧正尊室)、高(永井岩之丞室)、頼平、艶(石田義重室)、鋭

松平 頼位(まつだいら よりたか)は、常陸宍戸藩の第8代藩主、第10代主。第5代藩主・松平頼救の四男。三島由紀夫の高祖父にあたる。

生涯[編集]

文政10年(1827年)、常陸水戸藩の一門で家老格松平頼善の養女・絲(実父は頼善の祖父保福)を正室とし、養子となって襲禄、3,000石。主税頭となる。

天保2年(1831年)4月3日、長男・頼徳を儲ける。天保3年(1832年)2月26日、長女・雪を儲ける。雪は嘉永2年(1849年)8月26日、17歳で死亡。

天保9年(1838年)、水戸藩主徳川斉昭の命により、長倉城跡を修復し、長倉陣屋を建てる(所領を移ったのは次の頼譲の代)。

天保10年(1839年)5月16日、宍戸藩第7代藩主の松平頼筠(頼位の従甥にあたる)が嗣子無くして重病にかかり危篤となったため、急遽その養嗣子となって跡を継いだ。同年12月18日、従五位下を賜わる。父の頼救、義父の保福ともに徳川斉脩斉昭兄弟の大叔父にあたり一門でもあったので、藩主就任前から斉昭の本家水戸藩相続に尽力し、斉昭に従って藩政改革を行なう。

弘化3年(1846年)9月21日、家督を長男の頼徳に譲って隠居するが、その後も本家水戸藩を継いだ徳川慶篤の補佐を務めた。

側室に佐々木氏の娘を迎え、弘化4年(1847年)8月19日に次女の珽を、安政3年(1856年)1月10日に次男の頼安を、安政4年(1857年)8月13日に三女の高を、安政5年(1858年)8月15日に三男の頼平を、文久元年(1861年)12月11日に四女の艶を、文久2年(1862年)9月30日に鋭を儲ける。

元治元年(1864年)、水戸藩で天狗党の乱が起こると、長男の頼徳は鎮圧に失敗したことを幕府より咎められ、10月5日に切腹した。享年35。頼位自身も連座して拘禁され、宍戸藩は廃藩となった。

慶応4年(1868年)2月、新政府より宍戸藩の復旧を命ぜられ、頼位が再相続する。明治2年(1869年)、頼位の版籍奉還願いが受理され、5月25日に知藩事を任命される。

明治3年(1870年)、宍戸陣屋の拡張を願い出るが、明治4年(1871年)の廃藩置県により免官される。その後、明治10年(1877年)に常磐神社の神官となった。文化人として優れており、斉昭の事蹟をまとめた『告志篇』や『明倫歌集』10巻などがある。

1880年(明治13年)7月、家督を次男の頼安に譲る。1883年(明治16年)9月6日、従四位を賜わる。1886年(明治19年)12月17日、77歳で死去。

参考文献[編集]

  • 水戸支流松平氏(宍戸藩・御連枝) - Reichsarchiv ~世界帝王事典 [1]
  • 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)