徳川慶篤

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徳川 慶篤(とくがわ よしあつ、天保3年5月3日1832年6月1日) - 慶応4年4月5日1868年4月27日))は、常陸水戸藩の第10代藩主。諡号は順公。最後の将軍徳川慶喜の同母兄・長兄にあたる。

来歴[ソースを編集]

水戸藩主徳川斉昭の長男(嫡男)として水戸藩上屋敷に生まれる。幼名は鶴千代麿。

父の斉昭が軍事力強化など革新的な藩政改革(天保の改革)を行ったために隠居を命じられた結果、弘化元年(1844年)に家督を相続する。当時の慶篤は幼年であったため、分家の三連枝高松藩守山藩常陸府中藩)による後見が命じられ、政務は保守派の重臣が補佐した。斉昭の謹慎自体はその年の11月に解除されたものの、藩政へ関わることはしばらく禁じられたままであった。嘉永2年(1849年)にようやく三連枝後見の解除、斉昭の藩政参与が許された。嘉永5年(1852年)12月、将軍徳川家慶の養女である線姫と結婚する。

安政の大獄の際には、父の斉昭や尾張藩徳川慶恕と共に不時登城した責任を問われ、慶篤は登城停止に処される。

父の死後、文久2年(1862年)の坂下門外の変では、武田耕雲斎らを登用して尊皇攘夷派の懐柔を図る。翌年、将軍徳川家茂に従って上洛した他、生麦事件の賠償問題などにも尽力している。

元治元年(1864年)の天狗党の乱では、当初は天狗党を支持したものの、幕府が天狗党の討伐を決定するや、耕雲斎らを罷免して支藩の宍戸藩松平頼徳を将とする討伐軍を派遣するなど、藩政を混乱させた。この乱により、以後3年間は保守門閥派・諸生党が水戸藩の実権を握った。天狗党に加わった藩士の家族が多数処刑されたり投獄されたりしたため、禍根を残すこととなる。

慶応4年(1868年)、1月19日に在京の水戸藩士・本圀寺勢に託された「除奸反正」の勅書(諸生党らを討伐し、藩政を正常化せよ、という内容)を速やかに受諾してその通りに藩政を刷新するよう、謹慎直前の弟徳川慶喜から助言され、2月10日、慶篤はその助言通り勅命を受諾、その後尊攘派が江戸邸の実権を握った。これにより、水戸徳川家は朝敵とされることを免れる。

この勅書の遂行のため、同年3月に水戸に入る。諸生党討伐のための軍備を整えての帰国であったが、水戸に入った時はすでに、市川三左衛門ら諸生党500名は水戸を脱出しており、戦闘はなく水戸城に入った。5月に天狗党の生き残りである武田金次郎らも水戸に入り、水戸城下では勅書の名のもとで激しい報復が行われる。その災禍は、諸生党の縁類だけでなく、中立派であった者や僧侶や豪農にも及んだ。

その渦中の4月5日、慶篤は水戸城にて死去した。享年37。水戸入りの際、すでに体調は思わしくなかったという。墓所は、茨城県常陸太田市瑞竜山墓地。

世情不安定により、年少の長男篤敬に代わって、清水徳川家当主となっていた異母弟の昭武が水戸徳川家の家督を継いで最後の藩主となった(当時、満年齢で篤敬は12歳、昭武は14歳である)。昭武が欧州留学中(11月に帰国)のため、慶篤の喪は伏せられ、表向きは城中にて重病とされた。版籍奉還以後となるが、篤敬は昭武の養嗣子として家督を継いだ。また次男の篤守は、昭武の水戸家相続により当主不在となった清水家を継いだ。

備考[ソースを編集]

  • 藩内における天狗党と諸生党との対立にあって、裁定する藩主としての立場は難しく、家臣の献策に対しては全て「よかろう」と裁定したことから、よかろう様と渾名された。
  • 慶篤は大政奉還から半年足らずで死去しているが、慶喜を最期まで案じ続けていたと言われる。慶喜も自身の謹慎直前に慶篤に対し説得を行い、旗本を水戸藩邸に派遣するなど、実家の行く末を案じていたようである。
  • 長男の篤敬に代わり、わずか2歳年長で他家に養子に出ていた弟の昭武を戻して継承させるという変則的な事態になった背景には、当時水戸藩庁の中心であった本圀寺勢が、それまでの3年間保守派のもとで養育されてきた篤敬をただちに当主にするのを躊躇したのではないか、という説がある(須美裕『徳川昭武』)。昭武は文久3年(1863年)に幼年ながら京に入り、一時本圀寺勢の名目上の頭首であった。

家系[ソースを編集]

ほか

演じた俳優[ソースを編集]