天叢雲剣

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天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)は、三種の神器の一つ[1][2][3]草薙剣(くさなぎのつるぎ)、草那芸之大刀(くさなぎのたち)の異名である[4][5]熱田神宮神体となっている[6][7]

概要[編集]

天叢雲剣草薙剣の別称で、三種の神器の一つ(八咫鏡八尺瓊勾玉、草薙剣)[8][9]。 三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる[10][11]日本神話において、スサノオ出雲国ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、大蛇の体内から見つかった神剣である[12]。スサノオは、八岐大蛇由来の神剣を高天原アマテラスに献上した[13][14]。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共にニニギノミコトに託され、地上に降りた[15][13]崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り[16]、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという[13][17]景行天皇の時代、伊勢神宮の神剣(天叢雲剣/草薙剣)はヤマトヒメノミコトにより、東征に向かうヤマトタケルに託される[18]。ヤマトタケルの死後、草薙剣は神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)が尾張国で祀り続けた[19]。これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている[13][20]

形代の草薙剣は、壇ノ浦合戦源平合戦)における安徳天皇(第81代天皇)入水により関門海峡に沈み、失われた[21]後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位[22]。平氏滅亡により神璽と神鏡は確保できたが、神剣を手にすることは出来なかった[23]。その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とした[24]南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いた(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られている[25]

表記[編集]

日本書紀』では「草薙剣」「倶娑那伎能都留伎」[4]、『古事記』では「草那芸之大刀」「草那芸剣」と表記される[26][27]。 「天叢雲剣」の名称は、日本書紀の注記で、異伝(一書・一云)として二か所に記される[28][29]。 熱田神宮では、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)としている。

象徴[編集]

天台座主慈円は「天皇の持つ武力の象徴」と解釈している[11]北畠親房は従来解釈に加えて、「劒ハ剛利決断ヲ徳トス。智慧ノ本源ナリ」という儒学的な解釈を行った(神皇正統記では、鏡=正直の本源、玉=慈悲の本源、剣=知恵の本源)[30][31]一条兼良は「鏡=知の用、玉=仁の徳、剣=勇の義」、熊沢蕃山は「鏡=知の象(しるし)、玉=仁の象、剣=勇の象」、田中智學は「鏡=天照大神=知徳、玉=月読尊=仁慈、剣=素戔嗚尊=武勇」と解釈している[31]

動向[編集]

神代[編集]

スサノオ(素戔嗚尊)はクシナダヒメ(櫛名田比売)を助けるため、出雲国において十拳剣ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を切り刻んだ[32][33][34]。 このとき、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、尾の中から鋭い大刀が出てきた[35][36]。 その尾から出てきた剣が草薙剣である[37]。古事記の原文[38][39]と解釈文は以下の通り[40][41]

【原文】

 爾速須佐之男命、拔其所御佩之十拳劒、切-二散其蛇者、肥河變血而流。故、切其中尾時、御刀之刄毀。爾思怪以御刀之前、刺割而見者、在都牟刈之大刀。故、取此大刀、思異物而、白-二上於天照大御神也。是者草那藝之大刀也。那藝二字以音。


【解釈文】

 八岐大蛇が酒に酔って眠った隙を見て、速須佐之男命は身に帯びたつかつるぎを抜きて、八岐大蛇をずだずだに斬り刻んだ。ゆえにかはの流れは血にかわった。速須佐之男命が大蛇の中ほどの尾を斬った時、十掌之剣の刃がすこし欠けてしまった。怪しいと思い、刀の切先で大蛇を刺し割ってみると、一振りの、がり大刀たち(非常に鋭い大刀)があった。速須佐之男命は大蛇の中から出てきた大刀を取り、不思議なものだと思い、天照大御神に事情を説明し、献上した。これがすなわち、後世に云うくさ大刀たちである。


日本書紀、神代紀上第八段本文の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気(くも)が掛かっていたため、かく名づけたか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙劒と曰ふといふ」とある[42][43][44]。 スサノオは「これは不思議な剣だ。どうして自分の物にできようか」(日本書紀、第八段本文)と言って[45][46]高天原天照大神(アマテラス)に献上した[47][48][49]。古語拾遺では天神(あまつかみ)と表記している[50][51]

一方、ヤマタノオロチを殺して欠けた十拳剣(十握剣)は[52][53]、大蛇之麁正(をろちのあらまさ)[54]もしくは天羽々斬之剣/天蠅斫剣(あめのはばきりのつるぎ)[55][56]として石上神宮石上布都魂神社)に祭られた[57][58][59]。 書紀(第三の一書)では、「蛇韓鋤(おとりからさひ)の剣」として吉備の神部に祀られた[60]鹿島神宮ではスサノオの十握剣と伝承される長刀を展示しており、国宝に指定され一般公開されている[61]

草薙剣は天孫降臨の際に、天照大神から三種の神器としてニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡され[62]、再び葦原中国へと降りた[63][64]。各神話で差異がある[65]。古事記では『八尺の勾玉、鏡、草薙剣』[66][67]、日本書紀・第一の一書では『曲玉、八咫鏡、草薙剣』[68]、古語拾遺では「八咫鏡、薙草剣(矛、玉)」[69]、日本書紀の中には言及しないものもある[70][71]

人代[編集]

ニニギが所有して以降、神武天皇東征や欠史八代等で天叢雲剣(草薙剣)がどのように扱われていたかは、古事記・日本書紀とも記載していない[72][73]。 皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に、皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)により、八咫鏡とともに皇居の外(倭の笠縫邑)で祀られるようになった[72][74]。『古語拾遺』には子細が語られている。天目一箇神イシコリドメの子孫が『神鏡』と『形代の剣』(もう一つの草薙剣)を作り、天皇の護身用として宮中に残された[72][74]。 神威はオリジナルと変わらなかったという[75]。 続いて崇神天皇の命令を受けた豊鍬入姫命は、倭の笠縫邑に神鏡と草薙剣を祀った(古語拾遺)[74]

垂仁天皇の時代、ヤマトヒメ(倭姫命)に引き継がれ、トヨスキイリヒメから、合わせて約60年をかけて現在の伊勢神宮・内宮に落ち着いた(「60年」以降の部分は『倭姫命世記』に見られる記述である。詳細記事:元伊勢)。この時点で、天叢雲剣は伊勢神宮で祀られていた[76]

景行天皇(第12代)の時代[77]、天叢雲剣(草薙剣)は伊勢国伊勢神宮)のヤマトヒメから[78][79]東国の制圧(東征)へ向かうヤマトタケル(日本武尊)に渡された[80][81][82]。神剣を授けるにあたり、ヤマトヒメは「慎莫怠也(慎んで怠ることなかれ)」と訓戒した(古語拾遺[83][84]。 一説によると、ヤマトタケルは天皇から授かった天之広矛/比比羅木八尋矛(ひひらぎのやひろのほこ)を[85]、神宮に預けたという[86]

その後、ヤマトタケルは相武国(記および古語拾遺)[87][88]もしくは駿河国(紀)で、敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い(記と拾遺のみ)[89][90]、向い火を点け脱出する[91][92]。 日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」とある[93]

東征の後、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメ(宮簀媛)の元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神(荒神)を討伐しに行く[94][95]。『古語拾遺』では「剣を解きて宅(いえ)に置き、徒(たむなで)で行きでまして胆吹山に登り、毒(あしきいき)に中(あた)りて薨(かむさ)りましき。」として[83][96]、草薙剣をミヤズヒメの元に置いて出陣したことで、ヤマトタケルは神剣の加護を失ったと暗示する[97]。 『尾張国風土記』においては、宮酢媛の屋敷に滞在していたヤマトタケルは、夜中にへ入る時、脇の桑の木に剣を掛け、そのまま忘れて部屋にもどった[98]。思い出して桑の木に戻ると、剣が神々しく光輝いて手にする事ができなかったという[98][99]。ミヤズヒメにヤマトタケルは「剣を私の形影(みかげ)として祀るように」と告げて出陣した[98]。 『尾張国熱田太神宮縁起』(平安時代初期)では、ヤマトタケルは桑の木から光剣を手にとったものの、ミヤズヒメに「我が床の守りとせよ」と告げて出陣した[98]

結局、ヤマトタケルは山の神(白猪《古事記》[100]大蛇《日本書紀》[101]八岐大蛇の化身とも[102])によって病を得[103][104]大和国へ帰る途中で、最期に「剣の太刀、ああその太刀よ」(記)、もしくは「孃女おとめの、床のに、わが置きし、つるぎの太刀、その太刀たちはや。」と草薙剣を呼んで亡くなってしまった[105][106][107]。その後、ミヤズヒメは夫(ヤマトタケル)と草薙剣を祀り、これが後の熱田神宮となった[80][108]

古代[編集]

天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい[109][110]、一時的に宮中で保管された(詳細後述)[111][112]天武天皇の時代(朱鳥元年、686年)、天皇が病に倒れると、占いにより草薙剣の祟りと判明[113][114]。神剣は再び熱田神宮へ戻された[112][115]。だが天武天皇は回復せず崩御した。

熱田新宮において天叢雲剣(草薙剣)は、正殿とは別の建物で祀られていたが、1291年(正応4年)2月に炎上し焼け出された[116]。炎上後に熱田神宮を参拝した後深草院二条の回顧録『とはずがたり』によれば、「開かずの御殿(神代の昔、自ら造り籠りたまひける御殿)」の側に礎の側に、神剣が入ったと思われる幅一尺・長さ四尺の漆塗り箱が立てかけてあったという[116]。 建物再建後、熱田神宮は織田信長豊臣秀吉によって保護されるが、江戸時代になって荒廃、松尾芭蕉が『野ざらし紀行』で1684年(貞享元年)当時の惨状を「かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、爰に石を据ゑて其神と名のる。」と記述している[117][118]。1686年(貞享3年)、徳川綱吉により社殿を造営[117]。再建された熱田神宮を訪れた芭蕉は「磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花」と詠んだ[117]

近現代[編集]

大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)7月下旬、連合国軍による日本本土空襲は激しさを増し、本土決戦決号作戦ダウンフォール作戦)も迫っていた。7月31日昭和天皇は内大臣木戸幸一と宮内大臣石渡荘太郎に対して、三種の神器の避難を検討させる[119]飛騨一宮水無神社が疎開候補地となり、伊勢神宮関係者以下により視察が行われた[119]8月15日、ポツダム宣言受諾の表明(玉音放送[120]連合軍日本本土進駐に際し、天叢雲剣は8月下旬から9月中旬まで、熱田神宮から水無神社に遷座した[121]。この経緯について『昭和天皇実録』では以下のように記述している。

官幣大社熱田神宮において神剣奉遷用の外箱 白木檜造り を新調 皇室経費を以て制作 したことにより、この日勅封に関する祭典を執行につき、勅使として侍従小出英経を差し遣わされる。小出は同神宮神殿内に参入し、従来の外箱の勅封 明治十四年五月二十五日宮少輔山岡鉄太郎を差し遣わされ、施せしめたもの を解き、新調の外箱に神剣を奉納し、御名御親筆の勅封紙と麻にて厳封の上、さらに勅使たる侍従の封を施した後、従来御奉納の外箱中に奉安し、施錠する。なお、予てよりその疎開を計画中の熱田神宮の神剣は、東海軍管区司令部の協力のもと、翌月十九日まで国幣小社水無神社 岐阜県大野郡宮村 に奉遷される。 — 昭和二十年八月二十二日 水曜日、宮内庁編纂『昭和天皇実録 第九 自昭和十八年至昭和二十年』、789ページ

名の由来[編集]

諸説あるが、実際は余り判っていない。都牟刈大刀(つむがりのたち)、都牟羽大刀(つむはのたち)[122]八重垣剣(やえがきのつるぎ)、沓薙剣(くつなぎのけん)ともいう[123]。 『海部氏系図』、『先代旧事本紀』の尾張氏系図、津守氏古系図等に載る「天村雲命」との関係も推測され、また外宮祀官家の渡会氏の祖先にも「天牟羅雲命」の名が見える(『豊受大神宮禰宜補任次第』)。

草薙剣[編集]

「草を薙いだ剣」[編集]

ヤマトタケルが伊勢神宮でこれを拝受し、東征の途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えた[124]。この説は広く知られているが、日本書紀では異伝とされている。現在の静岡県には、焼津草薙など、この神話に由来する地名が残る[125]豊受大神宮摂社には「草奈伎(くさなぎ)神社」があり、標剣仗(みしるしのつるぎ)を祀るという(類聚神祇本源)[126]

「蛇の剣」[編集]

クサは臭、ナギはの意(ウナギ#名称などを参照)で、原義は「蛇の剣」であるという説[127]。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる[128]。蛇の形状をした剣として蛇行剣がある。 高崎正秀は『神剣考』「草薙剣考」において、クサ=串=奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を「霊妙なる蛇の剣」と説いている[129]。また、その名はヤマタノオロチに生贄にされかけたクシナダヒメ(奇稲田姫)に通じるものであり、本来クシナダヒメは霊蛇姫(くしなだひめ)と表記したのではと考察[129]。ヤマタノオロチに対する祭祀者でありながら同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。 なお垂仁天皇の神話でも、出雲の女性が蛇神だった事例がある[130]葦原色許男大神出雲大社)の祟りが解けた誉田別命(本牟智和気王)は肥長比売と結婚するが[131]、肥長比売の正体は「光る大蛇」だったという[132][133]

天叢雲剣[編集]

八俣遠呂智由来説[編集]

『日本書紀』の注記より。ヤマタノオロチの頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた[134]。 実際、山陰地方は曇り日が多く、安来地方の山奥、奥出雲町にある船通山(鳥髪峯)山頂には天叢雲剣出顕之地の碑があり、毎年7月28日に船通山記念碑祭・宣揚祭が開催される。 また、「天叢雲剣」の名の由来である、「大蛇の上に雲気有り」という表現に関して『史記』や『漢書』からの引用だと説かれることもある[135]

現在の所在[編集]

熱田神宮[編集]

草薙剣は、神話の記述の通りであれば熱田神宮の奥深くに神体として安置されている[29][136]

この剣は盗難にあったことがあり、天智天皇7年(668年)に新羅・道行(どうぎょう)が熱田神宮の神剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした[137][112]。 しかし船が難破して失敗、神剣は日本側に回収された(草薙剣盗難事件も参照)[137][112]

その後、草薙剣は宮中で保管されていた[138]平家物語では、天武天皇が草薙剣を内裏に移したと伝える[139]朱鳥元年(688年)6月、天武天皇が病に倒れる[140]。病気の原因は「宮中に神剣を置いたままにし、熱田に戻さない為の神剣の祟り」と判明した[141][142]陰陽師により御祓をおこない、あるいは恩赦や仏教への功徳により病の回復を祈るが、それでも神剣の祟りが解けなかったという[140]。草薙剣は熱田神宮に戻されたが[138]、天皇は9月に崩御した[112][140]

平安時代に熱田神宮が炎上した際、幅一尺・長さ四尺の漆塗り箱に収められた神剣は、直接被害を受けることなかった[116]。神宮の神職が確認すると、赤地の錦袋があったため、神剣と判断して八剣殿(708年創建)に収めたという[116]。御記文によれば、ヤマトタケルの前世は素戔嗚尊であったとしている[116]。『熱田太神宮御託宣記』でも、久子内親王(御深草天皇皇女)関連で同様の伝承を伝えている[116]

江戸時代(五代将軍徳川綱吉時代)に熱田神宮の改修工事があった時(前述)[117]、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4・5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある[143][117]天野信景(名古屋藩士、国学者)の随筆『塩尻』によれば、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたという[117]梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英(1671-1736年)『玉籤集』の裏書の記載は、明治31年の『神器考証』(栗田寛著)や『三種の神器の考古学的検討』(後藤守一著)で、世に知られるようになった[117][144]。上述の著作によれば、神剣が祀られた土用殿内部は雲霧がたちこめていた[117]。木製の櫃(長さ五尺)を見つけてを開けると、石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、その上に布に包まれた剣があった[117][143]。箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵ですべてが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から六寸(およそ18センチ)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある[117]。 この証言(記述)が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣となる[144]。 なお神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている[145][146]

川口陟『定本日本刀剣全史』には、「熱田大宮司尾張連家の秘伝」として、神剣の形状および御樋代(みひしろ)の想像図が記載されている[147]

昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書[148]によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長・山岡鉄舟の侍従封(1881年5月25日)があり[121]、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。

皇居[編集]

草薙剣の形代は、崇神天皇の時に「神器と同居するのは畏れ多い」という理由で作られた[74][149]。『古語拾遺』によれば、天目一箇神イシコリドメの子孫が『神鏡(天照大神)』と『形代の剣』(もう一つの草薙剣)を作り、天皇の護身用として宮中に残した[72][74][150]。 現在は皇居の「剣璽の間」に勾玉とともに安置されているが、かつて水没(源平合戦)、奪取と偽造(南北朝時代)、消失と様々な遍歴を辿った[151]。源平合戦で一振を喪失しており、また伝説・神話の異説・記録から、草薙剣は複数存在するという考察もある[152]

平安時代陽成天皇(第五十七代)は[153]、宮中の天叢雲剣(草薙剣)を抜いたという伝説がある[154]。夜間にもかかわらず御殿の中は「ひらひらとひらめきひかり」、恐怖した天皇が投げ出すと天叢雲剣は自ら鞘に戻ったという[154][155]。 天徳4年(960年)9月、内裏で火災であり神鏡は破損したが、神剣と神璽は無事だった[156]

同時代末期の源平合戦の折、平家は源氏軍(源義経源範頼等)に追い詰められ、壇ノ浦の戦いにて滅亡する[157][158]二位の尼は、当時8歳の安徳天皇および宝剣(草薙剣/天叢雲剣)・八尺瓊勾玉(神璽)を抱いて入水した[159][160]。この時、勾玉と鏡は源氏軍に回収されたが、天叢雲剣は安徳天皇と共に失われたという[161][162]。 『吾妻鏡』では文治一年三月二十四日条で「二品禅尼(二位ノ尼)は宝剣(草薙剣)を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する」とある[163]。戦いの後の同年4月11日の条に、戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八坂瓊曲玉)は御座すが、宝剣(草薙剣)は紛失」と記されている[164]。 また、安徳天皇の都落ち後に即位した後鳥羽天皇は、三種の神器が無いまま即位した[165][166]。平家滅亡後、朝廷(後白河法皇、後鳥羽天皇)と源氏軍(源頼朝、範頼、義経)は必死で宝剣の捜索をおこない、焦った源義経宇佐神宮に願文を奉じている[167]。朝廷側も寺社への寄進や加持祈祷による神仏の力で神剣で探し出そうとしたが、結局見つからなかった[168]。 約20年間は清涼殿の剣(昼の御座の剣)で代用する[169][170]。『百錬抄』等によれば、寿永二年(1183年)に伊勢神宮(当時祭主、御中臣親俊)から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣としていた[171][170]。承元4年、土御門天皇から順徳天皇にかわるときに伊勢神宮から神剣を送られ、これが草薙剣となった(順当天皇『禁秘抄』)[172][173]。また一説には、従来から使用していた昼の御座の剣(後鳥羽天皇践祚時に伊勢神宮から献上したもの)を、順徳天皇時に正式に神器として扱うようになったともいう[169]

南北朝時代足利尊氏足利幕府)以下北朝陣営と対立した後醍醐天皇は、三種神器の偽造品を作らせたことがあった[174][175]光明天皇(北朝2代)と後醍醐天皇(南朝)は、互いに「自分達が本当の三種の神器を持っていて、相手のものは偽物だ」と主張した[176][177]。神器を巡る混乱は後亀山天皇(南朝、第99代)[178]後小松天皇(第100代)に神器を譲渡して、一応決着した[174][179][180]。 また室町時代には南朝の遺臣らによって勾玉とともに強奪されたこと(禁闕の変)があったが、なぜか剣だけが翌日に清水寺で発見され回収された[181]。これが現在の皇居の御所の「剣璽の間」に安置されている剣である。

現在、天皇崩御の際には、ただちに『剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀』が行われる[182]大正天皇から昭和天皇の場合は1926年(昭和元年)12月25日葉山御用邸附属邸で[183]、昭和天皇から今上天皇(平成)の場合は1989年(平成元年)1月7日午前に宮中正殿の間で行われた[184][185]

伝承[編集]

熱田神宮やその摂末社に伝わる伝承では、ヤマトタケルの妻のミヤズヒメ(宮簀媛)の館は、火上山の館(現在の氷上姉子神社の場所)であるとする[80]。そしてヤマトタケルの死後、ミヤズヒメは尾張の一族と共に住んでいた火上山の館で剣をしばらく奉斎守護していたが、後に剣を祀るために剣を熱田に移し、熱田神宮を建てたという。また新羅の道行が剣を盗んだ際、通ったとされる清雪門は「不開門(あかずの門)」と呼ばれ、何百年来く閉ざされたままとされる[116]。これは道行が神剣を盗む時に通った不吉な門とも、二度と皇居に移されない様にするためともいわれる。さらに持統天皇の時代(698年)には、神剣の妖気を鎮めて日本武尊と宮簀媛の魂を鎮めるため、天皇が神剣を熱田神宮から氷上姉子神社に移そうと計画していたが、4年後に亡くなった為に叶わなかったという。 また、現在の愛知県名古屋市昭和区村雲町の名の由来になったという説がある。そのほか、静岡市清水区草薙は、神話上の同じエピソードに関連するといわれる。

新羅の道行に剣を盗まれた後、剣は戻り皇居に移される事となったが、熱田神宮に返還される以前に、奈良県天理市にある出雲建雄神社に移され、剣が奉斎されていたとされる。出雲建雄神社は、ご神体が草薙劔の荒魂(あらみたま)とされており、天武天皇により677年に創設された。

源平合戦壇ノ浦合戦における神剣(草薙剣/天叢雲剣)の喪失は、人々に大きな衝撃を与えた[186]。安徳天皇と共に失われた神剣は宮中の形代であるが、素戔嗚尊八岐大蛇から取り出した「天叢雲剣そのもの」と見做す者も多かった[186][187]。 天台座主慈円は『愚管抄』において「安徳天皇は平清盛の請願により厳島明神厳島神社)が化生(けしょう)した存在だから竜王の娘であり、海の底へ帰っていったのだろう」と推測[186][188]。 また「武士が表に立って天皇を守るようになったため、天皇の武力の象徴たる宝剣が天皇から失われた(宝剣も役目を終えたので、失われることを天照大御神も八幡大菩薩も許したのだ)」と考察している[186][189][11]

徳島県剣山には、安徳天皇が天叢雲剣を修めたという伝説がある[190]。 神剣の奉納により太郎山から現称の「剣山」に変わり、山頂の剣神社本宮で素戔男尊安徳天皇を祀ったという[191]

平家物語では、陰陽寮博士の言葉として『昔出雲國肥の河上にて素戔烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首(かしら)八の尾を表事(へうじ)として人王八十代の後、八歳の帝(みかど)と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。』(八頭八尾の八岐大蛇は、人王八十代の安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていった)と記述している[186][192]太平記でも「安徳天皇は八岐大蛇の化身で、宝剣と共に竜宮城に帰った」という伝承を採用している[193]。 なお源平合戦時代の安徳天皇(第81代天皇)は[194]神功皇后を第15代天皇に[195]、大友皇子/弘文天皇を第39代天皇(明治3年認定)に数えなかった場合[196][197]、第80代天皇となる[186]

太平記(第25巻)では伊勢国より「天照大神が竜宮に対し神剣を返上するよう命令し、それによって海岸に打ち上げられた」という『光る剣』が献上される[198][199]日野資明足利直義達は「本物の神剣」と主張する[200]。だが勧修寺経顕が反対し、剣は平野神社に預けられたという[201]

天叢雲剣の本来の持ち主は天照大神であり、天の岩戸隠れの際に落したという伝承がある[149][202]林道春本朝神社考の「熱田」の欄にスサノオが天照大神に奉納する際、「我れ天の巌にかくれし時、此の剣を近州伊布貴山に落とす。是れ我が神剣なり。」との記述があり[203]、また源平盛衰記の巻四十四にも「太神大に悦ましまして、吾天岩戸に閉籠し時、近江国胆吹嶺に落たりし剣なりとぞ仰ける。」とある[204]

参考文献[編集]

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  • 大林太良吉田敦彦 著『剣の神・剣の英雄』1981 法政大学出版局
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  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第九 自昭和十八年至昭和二十年』 東京書籍株式会社、2016年9月。ISBN 978-4-487-74409-1
  • 関祐二 『出雲大社の暗号』 講談社〈講談社+α文庫〉、2013年7月。ISBN 978-4-06-281525-3
  • 斎部広成撰、西宮一民校注 『古語拾遺』 岩波書店〈岩波文庫〉、1985年3月。ISBN 4-00-300011-0
  • 新谷尚紀 「第三章 三種の神器と神宮神宝 ―神話と歴史の解読」『伊勢神宮と三種の神器 古代日本の祭祀と天皇』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2013年11月。ISBN 978-4-06-258565-1
  • 次田真幸 『古事記(上)全訳注』 講談社〈講談社学術文庫〉、1977年12月。ISBN 4-06-158207-0
  • 次田真幸 『古事記(中)全訳注』 講談社〈講談社学術文庫〉、1980年12月。ISBN 4-06-158208-9
  • 次田真幸 『古事記(下)全訳注』 講談社〈講談社学術文庫〉、1984年7月。ISBN 4-06-158209-7
  • 遠山美都男 『名前でよむ天皇の歴史』 朝日新聞出版〈朝日新書〉、2015年1月。ISBN 978-4-02-273597-3
  • 戸矢学 「第二章 草薙剣 天皇への祟りから、英雄の佩刀へ。変貌する流転の秘宝」『三種の神器 〈玉・鏡・剣〉が示す天皇の起源』 河出書房新社、2012年12月。ISBN 978-4-309-22583-8
  • NHK編『古代史の謎に挑むI』1988 日本放送出版協会(NHK歴史への招待 第2巻)
  • 古田敦彦古川のり子 『日本の神話伝説』 青土社、1996年6月。ISBN 4-7917-5468-9
  • 渡邉大門 『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史』 講談社〈講談社現代新書〉、2009年11月。ISBN 978-4-06-288022-0

脚注[編集]

  1. ^ #神皇正統記選コマ33(原本16-17頁)『一三 八岐大蛇』
  2. ^ 岩波、日本書紀1巻95頁(注一四)
  3. ^ 岩波、日本書紀(1)375-378頁『(巻第二)補注一九 三種神宝(一三二頁注一)』
  4. ^ a b 岩波、日本書紀(1)92頁
  5. ^ 今文古事記コマ25(原本29頁)〔△都牟刈之太刀 鋭利なる大刀をほめたる稱〕
  6. ^ 皇国敬神会編、国立国会図書館デジタルコレクション 「官幣大社熱田神宮」 『全国有名神社御写真帖』 皇国敬神会、1922年12月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966854/10 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ 岩波、日本書紀(2)108頁(本文)、109頁(注六)
  8. ^ 奪われた三種神器10-11頁『三種神器とは何か』
  9. ^ 伊勢神宮と三種神器195-196頁『(2)三種の神器と神話と歴史』
  10. ^ #神皇正統記選コマ35-36(原本20-22頁)『一七 三種神器論』
  11. ^ a b c #国史大系14巻コマ274-275(原本532-534頁)〔安徳―後鳥羽〕『抑コノ寶劒ウセハテヌル事コソ、王法ニハ心ウキコトニテ待ベレ。是ヲモ心得ベキ道理定メテアルラント案ヲメグラスニ。是ハヒトヘニ、今ハ色ニアラハレテ。武士ノ君ノ御マモリトナリタル世ニナレバ。ソレニカヘテウセタルニヤト覺ユル也。ソノ故ハ太刀ト云フ劒ハコレ兵器ノ本也。コレハ武ノ方ヲバホンマモリ也。文武ノ二道ニテ國主ハ世ヲオサムルニ。文ハ繼體守文トテ、國王ノヲホン身ニツキテ。東宮ニハ學士主上ニハ侍讀トテ儒家トテヲカレタリ。武ノ方ヲバ此ヲホン守リニ、宗廟ノ神ノモノリテ守リマイラセラルヽ也。ソレニ今ハ武士大将軍世ヲヒシト取テ。國主武士大将軍ガ心ヲタガヘテハ。ヱヲハシマスマジキ時運ノ色ニアラハレテ出キヌル世ゾト。大神宮八幡大菩薩モユルサレヌレバ。今ハ寶劒モヤクニナリヌル也。高倉院ヲバ平氏立マイラスル君也。コノ陛下ノ兵器ヲ御守リノ終ニコノヲリカク失ヌル事コソ。アラハニ心エラシテ世ノヤウアハレニ待レ。大方ハ上下ノ人ノ運命モ三世ノ時運モ法爾自然ニウツリユク事ナレバ。イミジクカヤウニ思ヒアハスルモイハズト思フ人モアルベケレド。三世ニ因果ノ道理ト云物ヲヒシトヲキツレバ。ソノ道理ト法爾ノ時運トノモトヨリヒシトツクリ合セラレテ。流レ下リモエノボル事ニテ侍也(以下略)』
  12. ^ 講談社学術文庫、古事記(上)97-99頁『五 八俣の大蛇』
  13. ^ a b c d 奪われた三種神器13-14頁『三種神器の由来』
  14. ^ 少年少女日本建国物語コマ38-39(原本53-54頁)
  15. ^ 講談社学術文庫、古事記(上)176-177頁『三 天孫の降臨』
  16. ^ 皇国の肇め(人皇巻)コマ42(原本64-65頁)『一、笠縫宮』
  17. ^ 皇国の肇め(人皇巻)コマ50-51(原本81-82頁)『三、皇大神宮の御造營』
  18. ^ 皇国の肇め(人皇巻)コマ58(原本96頁)『(略)と仰せられて、柊の八尋の矛といふ尊い矛をお授けになりました。尊は有難く仰せをお受けになり、柊の八尋の矛をおし頂いて、勇氣りんヽヽ、日代宮を御進發になりました。そして今度も、伊勢の皇大神宮に御参拝あそばされて、御武運をお祈りになり、御叔母様の倭姫命にお暇乞ひをなさいました。倭姫命は尊の御出陣をお祝になつて、今度は御餞別に、三種の神器の一つであります、天叢雲劒と、御自分でお作りになつた、立派な袋を賜りました。そして、「もし萬一の事が起つた時は、この袋の口をお開けなさい。」と仰せられました。尊はその御二品を有難く頂いて、東國さして御進發になりました。(以下略)』
  19. ^ 講談社学術文庫、古事記(中)145-148頁『五 倭建命の東国征討』
  20. ^ 皇国肇め(人皇巻)コマ68(原本117頁)
  21. ^ 伊勢神宮と三種神器272頁『(1)源平争乱と神器の行方』
  22. ^ 伊勢神宮と三種神器281頁『神器なきままの新帝即位』
  23. ^ 歴代天皇総覧205-209頁『第八十二代 後鳥羽天皇』
  24. ^ 奪われた三種神器43-45頁『神器不帯というコンプレックス』
  25. ^ 奪われた三種神器14-16頁『天皇即位と三種神器』
  26. ^ 古事記全釈1926コマ62-63(原本85-86頁)『是者草那藝之大刀也。那藝二字以音
  27. ^ #古事記、祝詞126頁(上巻、天孫降臨場面)
  28. ^ 古事記、岩波文庫41頁(註三)
  29. ^ a b 古事記全釈1926コマ62-63(原本85-86頁)『○草薙の大刀 書紀の一書曰の條に、「本の名は天の叢雲の劍、蓋し大蛇の居る所の上に、常に雲氣有りし故に名づけたるか、日本武の皇子に至りて、改めて草薙の劍と名づけき」とある。即ち後の名を前に廻らして云つたのである。此の大刀は三種の神器の一で、今終の熱田神宮の御神體として奉祀されてゐる。』
  30. ^ 伊勢神宮と三種神器286-288頁〔北畠親房と『神皇正統記』〕
  31. ^ a b 少年少女日本建国物語コマ137-139(原本251-254頁)『日本建國物語附録 四、三種の神器』
  32. ^ #神代物語コマ44(原本50-51頁)
  33. ^ #神話と伝説コマ49-51(原本35-38頁)『十七 八岐大蛇』
  34. ^ 古事記、岩波文庫40-41頁
  35. ^ 稲田、三種の神器116-117頁『宝剣』
  36. ^ #日本神話物語コマ21-23(原本17-21頁)『此大蛇をずたずたに斬りて、尾に到りたまふとき、其劍の刃少し缺たり。異しとお思ひて、其尾を割きて見たまへば、中に一つの剱あり。此大蛇の居るところの上に、常に雲氣ありしかば、此剱を天之叢雲剱と名けたまふ。又かの大蛇はずだずだに斬りなされしとき、神異あやしくも八つのいかづちに化してそらに昇れり。素戔嗚尊此大蛇の尾より出でたる剱を見て、「此剱は神異しき剱なり。吾がひそかに持つべき物に非ず」とのたまひて、天照大御神に奉りたまふ。其のち日本武尊東征したまふとき、此剱をもて草を薙ぎたまひしによりて、改めて草薙剱と云ふ。今は尾張國なる熱田神社に祭る。其大蛇を殺したまひし剱のなを大蛇之麁正といふ。今は石上いそのかみにまします。』
  37. ^ #古事記、祝詞89頁
  38. ^ #田辺、1932コマ105(原本200-201頁)【譯讀】
  39. ^ 植松、古事記新釈コマ41(原本66頁)
  40. ^ #三体古事記コマ35-36(原本49-51頁)『(二一)足名椎 手名椎』
  41. ^ 日本の神話伝説98-99頁
  42. ^ #古事記、祝詞88頁(注三)
  43. ^ #田辺、1932コマ105-106(原本201-202頁)『○草薙劒』
  44. ^ 伊勢神宮と三種神器19-220頁『神話の鉄剱』
  45. ^ 岩波、日本書紀(1)100頁
  46. ^ 稲田、三種の神器117-118頁【日本書紀・第八段本文】
  47. ^ #田辺、1932コマ106-107(原本202-203頁)【譯讀】
  48. ^ 古事記、岩波文庫41頁(註二)
  49. ^ 日本の神話伝説105-107頁
  50. ^ 稲田、三種の神器120頁【古語拾遺】
  51. ^ #岩波、古語拾遺23-24頁『素神の霊剣献上』
  52. ^ 稲田、三種の神器122-125頁『1 大蛇を斬った剣』
  53. ^ 古語拾遺講義コマ16-17(原本25-27頁)
  54. ^ 稲田、三種の神器118-119頁【日本書紀・第八段第二の一書】
  55. ^ 稲田、三種の神器119-120頁【日本書紀・第四の一書】
  56. ^ #昭和15、建国物語コマ30(原本37頁)『この時、スサノヲノミコトが、大蛇をお斬りになつた劒をば、大蛇之麁玉または天羽々斬の劒といひ、備前赤磐郡の石上の社に納められたと傳へられてをります。』
  57. ^ 岩波、日本書紀(1)96頁(本文)、99頁(注八)
  58. ^ #神話と伝説コマ288-289(原本513-514頁)『四十一 石上の神寶/十握の劍は、別名を羽々斬の劍とも呼ぶが、羽々はばとは蛇の名なので、大蛇を斬つてから此の名がついた。又別名をはへきりと云ふのは、刃の上を蠅が飛ぶと、自然に切れて落ちるから、その名があるのだと云ふ。 一體劍は、素戔嗚尊が、天よりお下りの時に、御佩用なされたもので、今は石上のお宮に収められてゐる。(以下略)』
  59. ^ 植松、古事記新釈コマ41(原本66-67頁)『○十拳劒』
  60. ^ 稲田、三種の神器121頁『●宝剣の出現』
  61. ^ 戸矢、三種の神器59-61頁『■鹿島神宮の十握剣』
  62. ^ 古事記全釈1926コマ104(原本168頁)
  63. ^ #日本神話物語コマ38-39(原本51-53頁)『高千穗槵觸峯』
  64. ^ #神話と伝説コマ67-68(原本71-73頁)『三十 天孫降臨』
  65. ^ 日本の神話伝説194-197頁『1 地上の王家の到来』
  66. ^ 古事記、岩波文庫66-67頁『天孫降臨』
  67. ^ 稲田、三種の神器73頁
  68. ^ 稲田、三種の神器75-76頁
  69. ^ 稲田、三種の神器76-77頁
  70. ^ 稲田、三種の神器77頁『●神器の降臨』
  71. ^ 伊勢神宮と三種神器210-211頁『(6)「三種の神器」の呼称はなし』
  72. ^ a b c d 稲田、三種の神器132-135頁『4 日本武尊と熱田』
  73. ^ 伊勢神宮と三種神器228-230頁『神話から歴史へ』
  74. ^ a b c d e #岩波、古語拾遺37-38頁『崇神天皇』
  75. ^ #宝文舘、平家コマ307(原本456頁)『其後豊葦原中津國の主として天孫を下し奉り給ひし時、此劍をも御鏡に副てたてまつらせ給ひけり。第九代の帝開化天皇の御時までは一つ殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及で、靈威に怖れて天照大神を大和國笠縫里磯垣の廣きに移し奉り給ひし時、此劍をも天照大神の社壇に籠め奉らせ給ひけり。その時劍を造りかへて御守とし給ふ。御靈威本の劍に相劣らず。』
  76. ^ 戸矢、三種の神器64-67頁『■草薙剣は何を保証するか』
  77. ^ 歴代天皇総覧21-24頁『第十二代 景行天皇』
  78. ^ 古事記、岩波文庫121-123頁『4 小碓命の東伐』
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  80. ^ a b c #日本史蹟大系2巻コマ153-154(原本754-755頁)『熱田神宮』
  81. ^ #神皇正統記選コマ42-44(原本35-38頁)『二六 景行天皇』
  82. ^ 岩波、日本書紀(2)94頁(本文)、95頁(注九)
  83. ^ a b #岩波、古語拾遺40頁『景行天皇』
  84. ^ 古語拾遺講義コマ32(原本57頁)
  85. ^ 古事記、岩波文庫121頁(註六。紅谷樹の八尋矛)
  86. ^ #昭和15、建国物語コマ148-149(原本252-255頁)『第三十一章 日本武尊(二)』
  87. ^ 日本の聖地文化214-216頁『神階の上昇とヤマトタケルの伝承』
  88. ^ #岩波、古語拾遺24頁(註三)
  89. ^ 古事記全釈1926コマ192-193(原本344-345頁)『焼遣』
  90. ^ 植松、古事記新釈コマ136(原本256-257頁)
  91. ^ #古事記、祝詞213-214頁
  92. ^ #日本神話物語コマ69-70(原本113-115頁)
  93. ^ 岩波、日本書紀(2)94頁(本文)、97頁(注一八)
  94. ^ 植松、古事記新釈コマ139(原本262頁)
  95. ^ #昭和15、建国物語コマ155-156(原本267-268頁)
  96. ^ 古語拾遺講義コマ32-33(原本57-58頁)
  97. ^ #岩波、古語拾遺40頁(註一〇)
  98. ^ a b c d 稲田、三種の神器136-137頁
  99. ^ #日本神話物語コマ72-74(原本119-120頁)
  100. ^ 古事記、岩波文庫125-126頁
  101. ^ 岩波、日本書紀(2)102頁((本文)、103頁(注五、注六)
  102. ^ #神話と伝説コマ284-285(原本505-506頁)『三十四 膽吹ゐふきの大蛇』
  103. ^ 古事記全釈1926コマ196-197(原本353-354頁)
  104. ^ #古事記、祝詞218頁(注九)
  105. ^ 古事記全釈1926コマ199(原本355頁)
  106. ^ 植松、古事記新釈コマ141(原本267頁)『○孃女 美夜受比賣をいふ/○つるぎの太刀 草薙劒を指していふ』
  107. ^ #昭和15、建国物語コマ158-161(原本270-277頁)『第三十三章 日本武尊(四)』
  108. ^ #日本神話物語コマ75(原本124-125頁)『熱田』
  109. ^ #岩波、古語拾遺46-47頁『遣りたる一』
  110. ^ 古語拾遺講義コマ39(原本70頁)
  111. ^ #六国史、日本書紀コマ295(原本573頁)『天智天皇(七年戌辰)』
  112. ^ a b c d e 稲田、三種の神器148-150頁『天武天皇と草薙剣』
  113. ^ 歴代天皇総覧106-107頁『第四十代 天武天皇』
  114. ^ 伊勢神宮と三種神器222-223頁『歴史の鉄剱』
  115. ^ #植松1920仮名下コマ348(原本560頁)
  116. ^ a b c d e f g 稲田、三種の神器155-160頁『焼け出された熱田宝剣』
  117. ^ a b c d e f g h i j 稲田、三種の神器160-164頁『熱田宝剣の実見』
  118. ^ 松尾芭蕉、「野ざらし紀行」 『芭蕉全集 上巻』 地平社、1948年6月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128358/88国立国会図書館デジタルコレクション コマ88(原本121頁)『あつたに詣づ』
  119. ^ a b 昭和天皇実録九巻741頁『(昭和二十年七月)三十一日 火曜日(神宮及び熱田神宮の神器奉遷を検討せしむ)』
  120. ^ 昭和天皇実録九巻774頁(玉音放送を御聴取)
  121. ^ a b 昭和天皇実録九巻789頁『熱田神宮神剣の疎開』
  122. ^ 講談社学術文庫、古事記103頁『○都牟羽の大刀』
  123. ^ 稲田、三種の神器131-132頁
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  125. ^ #昭和15、建国物語コマ150(原本256-257頁)
  126. ^ 稲田、三種の神器127頁(『豊受太神宮禰宜補任次第』によれば、度会氏祖の大若子命が、越国幣帝の際に垂仁天皇より授かると)
  127. ^ 岩波、日本書紀(1)358頁『(巻第一)補注、九六 クサナギ(九二頁注一四』
  128. ^ 稲田、三種の神器125-126頁『2 剣と蛇』
  129. ^ a b 戸矢、三種の神器75-78頁『■草薙剣という名の尊厳』
  130. ^ 講談社学術文庫、古事記(中)115-117頁『三 本牟智和気王』
  131. ^ 古事記、岩波文庫113頁
  132. ^ 講談社学術文庫、古事記(中)122頁『○肥長比売』
  133. ^ #三体古事記コマ125-126(原本229-230頁)『(九四)爾に、其の御子、一宿、肥長比賣に婚ひましき。故、其の美人を竊伺みたまへば、蛇なりき。即ち、見畏みて遁逃たまひき。爾に、其の肥長比賣、患みて、海原を光して、船より追來れば、ますます、見畏みて、山のたわより、御船を引越して、逃上り行でましき。』
  134. ^ 神宮皇学館惟神道場、「草薙剱」 『古典(惟神叢書:第6編)』 神宮皇学館惟神道場、1940年11月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096450/14 
  135. ^ 岩波、日本書紀(1)95頁(注一五)
  136. ^ 稲田、三種の神器150-151頁『神器の継承』
  137. ^ a b #日本史蹟大系2巻コマ154(原本756頁)『今や、草薙剱の威靈は、愈〃顯はれ、日本武尊の武功は、愈〃著るく、是れより、永く、熱田の神宮と齋はれ給ふ。爾来、朝廷の崇敬を受け、諸人の尊信を蒙ること、五百五十餘年、天智天皇の七年に至りて、突然、意外の事こそ起りけれ。 新羅の妖僧道行と云へるもの、來りて、我國に在り、草薙剱の事を聞きて、之を獲んとするの心、止みがたく、大膽にも、熱田の神宮に忍び入りて、マンマと、偸み去る。人こそ、知らざれ、神は、正しく、照覧ましましぬ、道行難波より、船に乗じて、本國に逃げ歸らんとせしに、逆風俄かに、吹き起りて、雲湧き、雨濺ぎ、怒濤、舷端を撲つて、紫電、檣上に閃く、船は漕げども、押せども、進まず、忽ち復た元の難波の津に、打ち上げられぬ。 道行の惡事、早くも、露顕に及びて、身は、忽ち刀刃の錆よ消ゆ。 是に於てか、寶剱の威靈、更に、益〃顯はる。』
  138. ^ a b #日本史蹟大系2巻コマ154(原本756頁)『爾来、寶剱は、天皇の正殿に、奉安し給ふ、天武天皇の朱鳥元年六月、御病あり、寶剱の祟りなりとして、復た熱田に奉還し給ふ。 尾張國知多郡平井村に、法梅寺と稱する一寺院あり、此國の人牧墨仙の一宵話に依れば、此寺は、新羅の僧道行の建立に係る、彼の僧、捕へられて、星崎の土牢に投ぜられしが、其後、放免せられて、深く、天恩に感泣し、復た本國より、還らず、清水岡に於て、密法を修業し、只管ひたすら、天皇の御惱平癒を祈願し奉りしと云へり、若し、此寺にして、彼の僧の建立ならんには、必ずや、犯行前の事にして、犯行後の事にはあらざるべし、彼れは、本國より、齎し來れる資金を以て、一寺を建立し、此處を根據地として、徐に、經畫を進め、常に、熱田に出入して、寶劍の所在を究め、神官の虚を窺うて、偸み去りしものなるべく、決して、一朝一夕の企てにはあらざるべし、随つて、後日、勅免を蒙り如きの事ありしとは信ぜられず。』
  139. ^ #宝文舘、平家コマ307(原本457頁)『あめの御門の御宇七年に新羅の沙門道行此劍を竊で吾國の寶とせんと思て、竊に舟に藏して行程に波風震動して忽に海底に沈まんとす。即靈劍のたゝりなりと知りて、罪を寫して先途を遂げず。元の如く返し納め奉る。然るを天武天皇朱鳥元年に是を召て内裏に置かる。今の寶劍是也。御靈威いちはやうまします。』
  140. ^ a b c #出雲大社の暗号44-46頁『出雲神とよく似た草薙剣の力』
  141. ^ 戸矢、三種の神器139-140頁『■三種の神器の由来〈剣〉』
  142. ^ #六国史、日本書紀コマ331(原本645頁)『天武天皇(朱鳥元年)』
  143. ^ a b #出雲大社の暗号181-183頁『ヤマトタケルと尾張のつながり』
  144. ^ a b 戸矢、三種の神器56-59頁『■熱田神宮の"実見"記録』
  145. ^ 栗田寛 『神器考證』13丁/53丁(國學院1898年)、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815487
  146. ^ 稲田、三種の神器166-167頁
  147. ^ 稲田、三種の神器166頁『天叢雲剣鎮座御箱横断想像図』
  148. ^ 「侍従とパイプ」(中央公論社1979)
  149. ^ a b #神話と伝説コマ286-287(原本508-510頁)『三十八 熱田の神劒』
  150. ^ 古語拾遺講義コマ30(原本52-53頁)
  151. ^ 稲田、三種の神器42-43頁
  152. ^ 戸矢、三種の神器84-88頁『■すべての「神剣」』
  153. ^ #国史大系14巻コマ197(原本379頁)『五十七陽成。八年。』
  154. ^ a b 稲田、三種の神器170頁
  155. ^ #宝文舘、平家コマ307(原本457頁)『陽成院狂病にをかされましまして靈劍を抜せ給ひければ、夜るのおとど閃々(ひらひら)として電光にことならず。恐怖の餘り投棄させ給ひければ、自(みづから)はたと鳴て鞘に差されにけり。』
  156. ^ 奪われた三種神器149-150頁『神鏡焼損の歴史』
  157. ^ 山田孝雄、高木武、「先帝身投」 『平家物語』 東京寶文館、1915年6月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945298/249 
  158. ^ 名前でよむ天皇歴史207-208頁『八一代 安徳天皇』
  159. ^ 歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇』
  160. ^ #神皇正統記選コマ87(原本124-125頁)『六九 安徳天皇』
  161. ^ #神皇正統記選コマ87-89(原本125-128頁)『七〇 後鳥羽院』
  162. ^ 稲田、三種の神器177-179頁『壇ノ浦における神器の実見』
  163. ^ 伊勢神宮と三種神器280頁『「吾妻鏡」の記事』
  164. ^ 稲田、三種の神器193-195頁『海に消える宝剣』
  165. ^ 名前でよむ天皇歴史213-215頁『八二代 後鳥羽天皇』
  166. ^ 奪われた三種神器32-34頁『後鳥羽天皇の即位式』
  167. ^ 奪われた三種神器34-37頁『安徳天皇入水―宝剣喪失』
  168. ^ 奪われた三種神器37-40頁『「国家的プロジェクト」としての宝剣探索』
  169. ^ a b 稲田、三種の神器198-199頁『宝剣の補充』
  170. ^ a b 奪われた三種神器40-43頁『宝剣代の創出』
  171. ^ 谷昇「後鳥羽院在位から院政期における神器政策と神器観」(初出:『古代文化』第60巻第2号、2008年/所収:谷『後鳥羽院政の展開と儀礼』 思文閣出版、2010年)
  172. ^ 伊勢神宮と三種神器283頁『神宮祭主からの寶剱奉納』
  173. ^ 戸矢、三種の神器84-86頁『■すべての「神剣」』
  174. ^ a b 稲田、三種の神器200-205頁『南北朝と神器』
  175. ^ 名前でよむ天皇歴史232-235頁『九六代 後醍醐天皇(南朝1)』
  176. ^ 伊勢神宮と三種神器283-286頁『神器の所在が示す正統性』
  177. ^ 戸矢、三種の神器178-180頁『■神器の受難』
  178. ^ 歴代天皇総覧241-243頁『第九十九代 後亀山天皇』
  179. ^ 歴代天皇総覧251-253頁『第百代 後小松天皇』
  180. ^ 名前でよむ天皇歴史245-246頁『一〇〇代 後小松天皇』
  181. ^ 稲田、三種の神器206-208頁『後南朝と神器』
  182. ^ 稲田、三種の神器17頁
  183. ^ 稲田、三種の神器20-21頁、49頁
  184. ^ 稲田、三種の神器19頁(剣璽等承継の儀写真)
  185. ^ 戸矢、三種の神器170-171頁
  186. ^ a b c d e f 稲田、三種の神器196-197頁
  187. ^ #宝文舘、平家コマ306(原本455頁)『吾朝には神代より傳はれる靈劍三あり。十握劍、天の早切劍、草薙劍是也。十握劍は大和國磯上布留社に納めらる。天早切の劍は尾張國熱田宮にありとかや。草薙劍は内裏にあり。今の寶劍是也。此劍の由來を申せば、昔、素戔烏尊出雲國曾我里に宮造りし給ひしに其處に八色の雲常に立ちければ、尊是を是を御覽じてかくぞ詠じ給ひける。 八雲たつ出雲やへがきつまごめに、やへ垣つくる其のやへ垣を。 是を三十一文字の始めとす。國を出雲と名付る事も即ちこの故とぞ承る。』
  188. ^ #国史大系14巻コマ274(原本532-533頁)〔安徳―後鳥羽〕『其後此主上ヲバ安徳天皇トツケ申タリ。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。安藝ノ嚴島ノ明神ノ利生也。コノ嚴島ト云フハ龍王ノムスメ也ト申傳ヘタリ。コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。サテハテニハ海ヘ歸リヌル也トゾコノ子細シリタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラント覺ユ。』
  189. ^ 伊勢神宮と三種神器281-282頁〔『愚管抄』の見解〕
  190. ^ 徳山新名勝案内コマ102(原本190-191頁)『(略)之より尾根傳ひにて二ノ森、三ノ森ヲ經て絶頂に達する、絶頂は平家の馬場と稱され長さ五町ばかりの大草原をなし小笹が密生し周圍には五葉松、白花米ツツジ等の高山植物がある、又傍に安徳天皇の御劒を納めたと傳へられる寶藏石(石灰岩)がある、山上は雲霧の去來するのが常であるが天氣晴朗なれば廣潤なる眺望を恣にする事が出來る、殊に阿讃山脈を越えて瀬戸内海一帯の島山が望見せられるのは最も興味がある 頂上より西北へ五町を下れば大劒神社がある大劒は美くしい石灰岩の突起で谷に面しては高き斷崖をなしてゐる、此處より山腹を斜行すること五、六町で道は二分し木ノ鳥居と狛犬とが置かれてゐる、是より北に下れば見殘に達する、東へ進む事數町で石灰岩の大斷崖下に古劒神社があり更に一町にして兩劒神社がある(以下略)』
  191. ^ 徳山新名勝案内コマ103(原本192-193頁)『△信仰の劒山 劍山の信仰は諸國の名山と同じく山岳崇拝に始つたものと思はれるが、安徳天皇が御劍を此山に納めたので、元は太郎山と言ふたのをそれより劒山と改めたと言はれる、劒山に祀れる神佛は富士ノ池では郷社劍神社(劒山本宮)と龍光寺富士ノ池本坊(劍山大權現)とがあり、見殘には郷社劍神社の前堂と圓福寺とがあり劍神社には山上にあり通稱大劍神社と言はれる、劍山本宮は素戔男命及び安徳天皇を祀り末社は古劍神社以下山中の要所々々に祀られてゐる、社殿は敢えて宏壮ではないが享保の頃藩主蜂須賀綱都矩公の造營せられたもので二〇〇年を經たる古建築である(以下略)』
  192. ^ #宝文舘、平家コマ307-308(原本457-458頁)『千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度(ふたヽび)人間に返らざるも理(ことわり)とこそ覺えけれ。』
  193. ^ 早稲田、太平記上コマ242(原本449頁)『「寶剣執奏の事、委細の尋ね承り候へば、一向資明が阿黨の所より事起つて候なる、佞臣仕朝國有不義政とは是にて候也、先づ思て見候ふに、素盞烏尊、古簸河上にて斬られし八岐の蛇、元暦の比安徳天皇と成つて、此寶劒を執つて龍宮城へ歸り給ひぬ、其より後ち、君十九代春秋百六十余年、政盛に徳豊なりし時だにも、遂に出現せざる寶劒の、何故に斯る亂世無道の時に當りて出來り候ふべき、若し我君の聖徳に感じて出現せりと申さば、其よりも先づ天下の静謐こそ有るべく候へ、若又直義が夢を以つて、御信用有る可きにて候はば、世間に定相なき事をば、夢幻と申候はずや。されば聖人に夢無しとは、是を以つて申にて候ふ(以下略)』
  194. ^ #国史大系14巻コマ209(原本402頁)『八十一安徳。三年。』
  195. ^ #国史大系14巻コマ185(原本355頁)『十五神功皇后。』
  196. ^ 名前でよむ天皇歴史119-120頁『三九代 弘文天皇』
  197. ^ 歴代天皇総覧101-102頁『第三十九代 弘文天皇』
  198. ^ #永井、太平記コマ69-70(原本127-128頁)
  199. ^ 早稲田、太平記上コマ239-240(原本443-444頁)
  200. ^ #永井、太平記コマ74(原本136-137頁)
  201. ^ #永井、太平記コマ75(原本139頁)
  202. ^ #宝文舘、平家コマ307(原本456頁)『其中に一の尾に至て切れず。尊恠しと思食し、竪様に破て御覽ずれば一の靈劍あり。是を取て天照大神に奉り給ふ。「是は昔高間の原にてわがおとしたりし劍也。」とぞ宣ひける。大蛇の尾のなかに在りける時は村雲常に掩ければ天の村雲劍とぞ申ける。大神是をえて、天の御門の御寶とし給ふ。』
  203. ^ 林道春著、宮地直一校訂 『本朝神社考』177頁(改造社1942年)、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040132
  204. ^ 『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十四

関連項目[編集]

外部リンク[編集]