天叢雲剣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)は、三種の神器の一つ[1][2][3]草薙剣(くさなぎのつるぎ)、草那芸之大刀(くさなぎのたち)の異名である[4][5]熱田神宮神体となっている[6][7]。 三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる[8]

表記[編集]

日本書紀』では「草薙剣」「倶娑那伎能都留伎」[4]、『古事記』では「草那芸之大刀」「草那芸剣」と表記される[9][10]。 「天叢雲剣」の名称は、日本書紀の注記で、異伝(一書・一云)として二か所に記される[4][11]。 熱田神宮では、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)としている。

動向[編集]

神代[編集]

スサノオ(素戔嗚尊)はクシナダヒメ(櫛名田比売)を助けるため、出雲国において十拳剣ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を切り刻んだ[12][13]。 このとき、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた[14][15]。 その尾から出てきた剣が草薙剣である[16][17]。 日本書紀の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気(くも)が掛かっていたため、かく名づけたか」とある[18][19]。スサノオは「これは不思議な剣だ。どうして自分の物にできようか」(紀)と言って、高天原天照大神(アマテラス)に献上した[20][21]。 一方、ヤマタノオロチを殺して欠けた剣は、大蛇之麁正(をろちのあらまさ)もしくは天羽々斬之剣(あめのはばきりのつるぎ)[22]として石上神宮石上布都魂神社)に祭られた[23][24][25]

草薙剣は天孫降臨の際に、天照大神から三種の神器としてニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡され[26]、再び葦原中国へと降りた[27][28]

人代[編集]

ニニギが所有して以降、皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に、皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)により、八咫鏡とともに皇居の外で祀られるようになった。『古語拾遺』によるとこの時、形代の剣(もう一つの草薙剣)が作られ宮中に残された。

垂仁天皇の時代、ヤマトヒメ(倭姫命)に引き継がれ、トヨスキイリヒメから、合わせて約60年をかけて現在の伊勢神宮・内宮に落ち着いた(「60年」以降の部分は『倭姫命世記』に見られる記述である。詳細記事:元伊勢)。

景行天皇の時代、草薙剣は伊勢国伊勢神宮)のヤマトヒメから[29][30]東国の制圧(東征)へ向かうヤマトタケル(日本武尊)に渡された[31][32][33]。一説によると、ヤマトタケルは天皇から授かった天之広矛/比比羅木八尋矛(ひひらぎのやひろのほこ)を神宮に預けたという[34]。 その後、ヤマトタケルは相模国(記)・駿河国(紀)で、敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い(記のみ)[35][36]、向い火を点け脱出する[37][38]。 日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」とある[39]。 東征の後、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメ(宮簀媛)の元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神(荒神)を討伐しに行く[40][41]。 尾張国風土記においては宮酢媛の屋敷の桑の木にヤマトタケルが剣を掛けたところ、剣が神々しく光輝いて手にする事ができずに残したとされている[42]。しかしヤマトタケルは山の神(白猪《古事記》、大蛇《日本書紀》、八岐大蛇の化身とも)によって病を得[43][44][45][46]大和国へ帰る途中で、最期に「剣の太刀、ああその太刀よ」(記)、もしくは「孃女おとめの、床のに、わが置きし、つるぎの太刀、その太刀たちはや。」と草薙剣を呼んで亡くなってしまった[47][48][49]。その後、ミヤズヒメは夫(ヤマトタケル)と草薙剣を祀り、これが後の熱田神宮となった[31][50]

古代[編集]

天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された(詳細後述)。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された[51]

近現代[編集]

大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)7月下旬、連合国軍による日本本土空襲は激しさを増し、本土決戦決号作戦ダウンフォール作戦)も迫っていた。7月31日昭和天皇は内大臣木戸幸一と宮内大臣石渡荘太郎に対して、三種の神器の避難を検討させる[52]飛騨一宮水無神社が疎開候補地となり、伊勢神宮関係者以下により視察が行われた[52]8月15日、ポツダム宣言受諾の表明(玉音放送[53]連合軍日本本土進駐に際し、天叢雲剣は8月下旬から9月中旬まで、熱田神宮から水無神社に遷座した[54]。この経緯について『昭和天皇実録』では以下のように記述している。

官幣大社熱田神宮において神剣奉遷用の外箱 白木檜造り を新調 皇室経費を以て制作 したことにより、この日勅封に関する祭典を執行につき、勅使として侍従小出英経を差し遣わされる。小出は同神宮神殿内に参入し、従来の外箱の勅封 明治十四年五月二十五日宮少輔山岡鉄太郎を差し遣わされ、施せしめたもの を解き、新調の外箱に神剣を奉納し、御名御親筆の勅封紙と麻にて厳封の上、さらに勅使たる侍従の封を施した後、従来御奉納の外箱中に奉安し、施錠する。なお、予てよりその疎開を計画中の熱田神宮の神剣は、東海軍管区司令部の協力のもと、翌月十九日まで国幣小社水無神社 岐阜県大野郡宮村 に奉遷される。 — 昭和二十年八月二十二日 水曜日、宮内庁編纂『昭和天皇実録 第九 自昭和十八年至昭和二十年』、789ページ

名の由来[編集]

諸説あるが、実際は余り判っていない。都牟刈大刀(つむがりのたち)、都牟羽大刀(つむはのたち)、八重垣剣(やえがきのつるぎ)、沓薙剣(くつなぎのけん)ともいう。 『海部氏系図』、『先代旧事本紀』の尾張氏系図、津守氏古系図等に載る「天村雲命」との関係も推測され、また外宮祀官家の渡会氏の祖先にも「天牟羅雲命」の名が見える(『豊受大神宮禰宜補任次第』)。

草薙剣[編集]

「草を薙いだ剣」[編集]

ヤマトタケルが伊勢神宮でこれを拝受し、東征の途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えた[55]。この説は広く知られているが、日本書紀では異伝とされている。現在の静岡県には、焼津草薙など、この神話に由来する地名が残る[56]

「蛇の剣」[編集]

クサは臭、ナギはの意(ウナギ#名称などを参照)で、原義は「蛇の剣」であるという説[57]。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。 高崎正秀は『神剣考』「草薙剣考」において、クサ=串=奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を霊妙なる蛇の剣であると説いている。また、その名はヤマタノオロチに生贄にされかけたクシナダヒメ(奇稲田姫)に通じるものであり、本来クシナダヒメはヤマタノオロチに対する祭祀者でありながら同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。なお、蛇の形状をした剣として蛇行剣がある。

天叢雲剣[編集]

八俣遠呂智由来説[編集]

『日本書紀』の注記より。ヤマタノオロチの頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた[58]。 実際、山陰地方は曇り日が多く、安来地方の山奥、奥出雲町にある船通山(鳥髪峯)山頂には天叢雲剣出顕之地の碑があり、毎年7月28日に船通山記念碑祭・宣揚祭が開催される。 また、「天叢雲剣」の名の由来である、「大蛇の上に雲気有り」という表現に関して『史記』や『漢書』からの引用だと説かれることもある[59]

現在の所在[編集]

熱田神宮[編集]

草薙剣は、神話の記述の通りであれば熱田神宮の奥深くに神体として安置されている[11]

この剣は盗難にあったことがあり、天智天皇7年(668年)に新羅・道行(どうぎょう)が熱田神宮の神剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした[60]。しかし船が難破して失敗、神剣は日本側に回収された[60]。 その後、草薙剣は宮中で保管されていた(草薙剣盗難事件も参照)[61]朱鳥元年(688年)6月に天武天皇が病に倒れる[62]。病気の原因は「宮中に神剣を置いたままにし、熱田に戻さない為の神剣の祟り」と判明した[63]陰陽師により御祓をおこない、あるいは恩赦や仏教への功徳により病の回復を祈るが、それでも神剣の祟りが解けなかったという[62]。草薙剣は熱田神宮に戻されたが[61]、天皇は9月に崩御した[62]

江戸時代に熱田神宮の改修工事があった時、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4、5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある[64]梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英の『玉籤集』の裏書の記載によれば、木製の櫃を開けると石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、その上に布に包まれた剣があった[64]。箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵ですべてが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺8寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から六寸(およそ18センチ)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている[65]

昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書[66]によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長・山岡鉄舟の侍従封(1881年5月25日)があり[54]、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。

皇居[編集]

草薙剣の形代は、崇神天皇の時に神器と同居するのは畏多いという理由で作られた[67]。現在は皇居の「剣璽の間」に勾玉とともに安置されているが、かつて水没、偽造、消失と様々な遍歴を辿った。

平安時代源平合戦の折、平家は源氏軍(源義経源範頼等)に追い詰められ、壇ノ浦の戦いにて滅亡する[68]二位の尼安徳天皇および宝剣(草薙剣/天叢雲剣)・八尺瓊勾玉(神璽)を抱いて入水した[68][69]。この時、勾玉は回収されたが、天叢雲剣は安徳天皇と共に失われたという[70]。 『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦2年(1185年)3月24日の条で「二位ノ尼は宝剣(草薙剣)を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する」とあり、戦いの後の同年4月11日の条に、戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八坂瓊曲玉)は御座すが、宝剣(草薙剣)は紛失」と記されている。また、安徳天皇の都落ち後に即位した後鳥羽天皇はその後も宝剣の捜索を命じたが結局発見されず、以前に伊勢神宮の神庫から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣とした[71]。ついで、一説によると南北朝時代後醍醐天皇が敵を欺くために偽造品を作らせたことがあったという。また室町時代には南朝の遺臣らによって勾玉とともに強奪されたこと(禁闕の変)があったが、なぜか剣だけが翌日に清水寺で発見され回収された。これが現在の皇居の御所の「剣璽の間」に安置されている剣である。

伝承[編集]

熱田神宮やその摂末社に伝わる伝承では、ヤマトタケルの妻のミヤズヒメ(宮簀媛)の館は、火上山の館(現在の氷上姉子神社の場所)であるとする[31]。そしてヤマトタケルの死後、ミヤズヒメは尾張の一族と共に住んでいた火上山の館で剣をしばらく奉斎守護していたが、後に剣を祀るために剣を熱田に移し、熱田神宮を建てたという。また新羅の道行が剣を盗んだ際、通ったとされる清雪門は「不開門(あかずの門)」と呼ばれ、何百年来く閉ざされたままとされる。これは道行が神剣を盗む時に通った不吉な門とも、二度と皇居に移されない様にするためともいわれる。さらに持統天皇の時代(698年)には、神剣の妖気を鎮めて日本武尊と宮簀媛の魂を鎮めるため、天皇が神剣を熱田神宮から氷上姉子神社に移そうと計画していたが、4年後に亡くなった為に叶わなかったという。

新羅の道行に剣を盗まれた後、剣は戻り皇居に移される事となったが、熱田神宮に返還される以前に、奈良県天理市にある出雲建雄神社に移され、剣が奉斎されていたとされる。出雲建雄神社は、ご神体が草薙劔の荒魂(あらみたま)とされており、天武天皇により677年に創設された。

また、現在の愛知県名古屋市昭和区村雲町の名の由来になったという説がある。そのほか、静岡市清水区草薙は、神話上の同じエピソードに関連するといわれる。

天叢雲剣の本来の持ち主は天照大神であり、天の岩戸隠れの際に落したという伝承がある[67]林道春本朝神社考の「熱田」の欄にスサノオが天照大神に奉納する際、「我れ天の巌にかくれし時、此の剣を近州伊布貴山に落とす。是れ我が神剣なり。」との記述があり[72]、また源平盛衰記の巻四十四にも「太神大に悦ましまして、吾天岩戸に閉籠し時、近江国胆吹嶺に落たりし剣なりとぞ仰ける。」とある[73]

脚注[編集]

  1. ^ #神皇正統記選コマ33(原本16-17頁)『一三 八岐大蛇』
  2. ^ 岩波、日本書紀1巻95頁(注一四)
  3. ^ 岩波、日本書紀(1)375-378頁『(巻第二)補注一九 三種神宝(一三二頁注一)』
  4. ^ a b c 岩波、日本書紀(1)92頁
  5. ^ 今文古事記コマ25(原本29頁)〔△都牟刈之太刀 鋭利なる大刀をほめたる稱〕『爾ち、速須佐之男命、其の佩ぶる所の十拳剱とつかのつるぎを抜きて、其の蛇をずだずだに斬りたまひしかば、肥河ひのかは、血に變りて流る。其の中の尾を斬りたまふ時、御刀の刃毀れたり。怪しと思ひて、刀の前きを以て、刺し割きて見たまへば、がり大刀たちありたり、此の大刀を取りて、異しき物ぞと思ひ、天照大御神に白し上げたまふ。是即ち草那藝くさなぎ大刀たちなり。』
  6. ^ 皇国敬神会編、国立国会図書館デジタルコレクション 「官幣大社熱田神宮」 『全国有名神社御写真帖』 皇国敬神会、1922年12月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966854/10 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ 岩波、日本書紀(2)108頁(本文)、109頁(注六)
  8. ^ #神皇正統記選コマ35-36(原本20-22頁)『一七 三種神器論』
  9. ^ 古事記全釈1926コマ62-63(原本85-86頁)『是者草那藝之大刀也。那藝二字以音
  10. ^ #古事記、祝詞126頁(上巻、天孫降臨場面)
  11. ^ a b 古事記全釈1926コマ62-63(原本85-86頁)『○草薙の大刀 書紀の一書曰の條に、「本の名は天の叢雲の劍、蓋し大蛇の居る所の上に、常に雲氣有りし故に名づけたるか、日本武の皇子に至りて、改めて草薙の劍と名づけき」とある。即ち後の名を前に廻らして云つたのである。此の大刀は三種の神器の一で、今終の熱田神宮の御神體として奉祀されてゐる。』
  12. ^ #神代物語コマ44(原本50-51頁)
  13. ^ #神話と伝説コマ49-51(原本35-38頁)『十七 八岐大蛇』
  14. ^ 植松、古事記新釈コマ41(原本66頁)
  15. ^ #日本神話物語コマ21-23(原本17-21頁)『此大蛇をずたずたに斬りて、尾に到りたまふとき、其劍の刃少し缺たり。異しとお思ひて、其尾を割きて見たまへば、中に一つの剱あり。此大蛇の居るところの上に、常に雲氣ありしかば、此剱を天之叢雲剱と名けたまふ。又かの大蛇はずだずだに斬りなされしとき、神異あやしくも八つのいかづちに化してそらに昇れり。素戔嗚尊此大蛇の尾より出でたる剱を見て、「此剱は神異しき剱なり。吾がひそかに持つべき物に非ず」とのたまひて、天照大御神に奉りたまふ。其のち日本武尊東征したまふとき、此剱をもて草を薙ぎたまひしによりて、改めて草薙剱と云ふ。今は尾張國なる熱田神社に祭る。其大蛇を殺したまひし剱のなを大蛇之麁正といふ。今は石上いそのかみにまします。』
  16. ^ #田辺、1932コマ105(原本200-201頁)【譯讀】
  17. ^ #古事記、祝詞89頁
  18. ^ #古事記、祝詞88頁(注三)
  19. ^ #田辺、1932コマ105-106(原本201-202頁)『○草薙劒』
  20. ^ #田辺、1932コマ106-107(原本202-203頁)【譯讀】
  21. ^ 岩波、日本書紀(1)100頁
  22. ^ #昭和15、建国物語コマ30(原本37頁)『この時、スサノヲノミコトが、大蛇をお斬りになつた劒をば、大蛇之麁玉または天羽々斬の劒といひ、備前赤磐郡の石上の社に納められたと傳へられてをります。』
  23. ^ 岩波、日本書紀(1)96頁(本文)、99頁(注八)
  24. ^ #神話と伝説コマ288-289(原本513-514頁)『四十一 石上の神寶/十握の劍は、別名を羽々斬の劍とも呼ぶが、羽々はばとは蛇の名なので、大蛇を斬つてから此の名がついた。又別名を蠅斬はへきりと云ふのは、刃の上を蠅が飛ぶと、自然に切れて落ちるから、その名があるのだと云ふ。 一體劍は、素戔嗚尊が、天よりお下りの時に、御佩用なされたもので、今は石上のお宮に収められてゐる。(以下略)』
  25. ^ 植松、古事記新釈コマ41(原本66頁-67)『○十拳劒』
  26. ^ 古事記全釈1926コマ104(原本168頁)
  27. ^ #日本神話物語コマ38-39(原本51-53頁)『高千穗槵觸峯』
  28. ^ #神話と伝説コマ67-68(原本71-73頁)『三十 天孫降臨』
  29. ^ 古事記全釈1926コマ191(原本342-343頁)
  30. ^ 植松、古事記新釈コマ136(原本256頁)『○草薙剣 三種の神器の一で上巻に出た天叢雲劒』
  31. ^ a b c #日本史蹟大系2巻コマ153-154(原本754-755頁)『熱田神宮』
  32. ^ #神皇正統記選コマ42-44(原本35-38頁)『二六 景行天皇』
  33. ^ 岩波、日本書紀(2)94頁(本文)、95頁(注九)
  34. ^ #昭和15、建国物語コマ148-149(原本252-255頁)『第三十一章 日本武尊(二)』
  35. ^ 古事記全釈1926コマ192-193(原本344-345頁)『焼遣』
  36. ^ 植松、古事記新釈コマ136(原本256-257頁)
  37. ^ #古事記、祝詞213-214頁
  38. ^ #日本神話物語コマ69-70(原本113-115頁)
  39. ^ 岩波、日本書紀(2)94頁(本文)、97頁(注一八)
  40. ^ 植松、古事記新釈コマ139(原本262頁)
  41. ^ #昭和15、建国物語コマ155-156(原本267-268頁)
  42. ^ #日本神話物語コマ72-74(原本119-120頁)
  43. ^ 古事記全釈1926コマ196-197(原本353-354頁)
  44. ^ #古事記、祝詞218頁(注九)
  45. ^ #神話と伝説コマ284-285(原本505-506頁)『三十四 膽吹ゐふきの大蛇』
  46. ^ 岩波、日本書紀(2)102頁((本文)、103頁(注五、注六)
  47. ^ 古事記全釈1926コマ199(原本355頁)
  48. ^ 植松、古事記新釈コマ141(原本267頁)『○孃女 美夜受比賣をいふ/○つるぎの太刀 草薙劒を指していふ』
  49. ^ #昭和15、建国物語コマ158-161(原本270-277頁)『第三十三章 日本武尊(四)』
  50. ^ #日本神話物語コマ75(原本124-125頁)『熱田』
  51. ^ #植松1920仮名下コマ348(原本560頁)
  52. ^ a b 昭和天皇実録九巻741頁『(昭和二十年七月)三十一日 火曜日(神宮及び熱田神宮の神器奉遷を検討せしむ)』
  53. ^ 昭和天皇実録九巻774頁(玉音放送を御聴取)
  54. ^ a b 昭和天皇実録九巻789頁『熱田神宮神剣の疎開』
  55. ^ 福士幸次郎、「五 日本武尊に關しての一考・六 草薙劍の御名の鐸たるの考察」 『原日本考』 白鳥書房、1942年5月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/101604/162 
  56. ^ #昭和15、建国物語コマ150(原本256-257頁)
  57. ^ 岩波、日本書紀(1)358頁『(巻第一)補注、九六 クサナギ(九二頁注一四』
  58. ^ 神宮皇学館惟神道場、「草薙剱」 『古典(惟神叢書:第6編)』 神宮皇学館惟神道場、1940年11月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096450/14 
  59. ^ 岩波、日本書紀(1)95頁(注一五)
  60. ^ a b #日本史蹟大系2巻コマ154(原本756頁)『今や、草薙剱の威靈は、愈〃顯はれ、日本武尊の武功は、愈〃著るく、是れより、永く、熱田の神宮と齋はれ給ふ。爾来、朝廷の崇敬を受け、諸人の尊信を蒙ること、五百五十餘年、天智天皇の七年に至りて、突然、意外の事こそ起りけれ。 新羅の妖僧道行と云へるもの、來りて、我國に在り、草薙剱の事を聞きて、之を獲んとするの心、止みがたく、大膽にも、熱田の神宮に忍び入りて、マンマと、偸み去る。人こそ、知らざれ、神は、正しく、照覧ましましぬ、道行難波より、船に乗じて、本國に逃げ歸らんとせしに、逆風俄かに、吹き起りて、雲湧き、雨濺ぎ、怒濤、舷端を撲つて、紫電、檣上に閃く、船は漕げども、押せども、進まず、忽ち復た元の難波の津に、打ち上げられぬ。 道行の惡事、早くも、露顕に及びて、身は、忽ち刀刃の錆よ消ゆ。 是に於てか、寶剱の威靈、更に、益〃顯はる。』
  61. ^ a b #日本史蹟大系2巻コマ154(原本756頁)『爾来、寶剱は、天皇の正殿に、奉安し給ふ、天武天皇の朱鳥元年六月、御病あり、寶剱の祟りなりとして、復た熱田に奉還し給ふ。 尾張國知多郡平井村に、法梅寺と稱する一寺院あり、此國の人牧墨仙の一宵話に依れば、此寺は、新羅の僧道行の建立に係る、彼の僧、捕へられて、星崎の土牢に投ぜられしが、其後、放免せられて、深く、天恩に感泣し、復た本國より、還らず、清水岡に於て、密法を修業し、只管ひたすら、天皇の御惱平癒を祈願し奉りしと云へり、若し、此寺にして、彼の僧の建立ならんには、必ずや、犯行前の事にして、犯行後の事にはあらざるべし、彼れは、本國より、齎し來れる資金を以て、一寺を建立し、此處を根據地として、徐に、經畫を進め、常に、熱田に出入して、寶劍の所在を究め、神官の虚を窺うて、偸み去りしものなるべく、決して、一朝一夕の企てにはあらざるべし、随つて、後日、勅免を蒙り如きの事ありしとは信ぜられず。』
  62. ^ a b c #出雲大社の暗号44-46頁『出雲神とよく似た草薙剣の力』
  63. ^ 経済雑誌社、「卷第廿九 天渟中原瀛眞人天皇 下」 『六国史:国史大系. 日本書紀』 経済雑誌社、1917年10月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950693/331 
  64. ^ a b #出雲大社の暗号181-183頁『ヤマトタケルと尾張のつながり』
  65. ^ 栗田寛 『神器考證』13丁/53丁(國學院1898年)、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815487
  66. ^ 「侍従とパイプ」(中央公論社1979)
  67. ^ a b #神話と伝説コマ286-287(原本508-510頁)『三十八 熱田の神劒』
  68. ^ a b 山田孝雄、高木武、「先帝身投」 『平家物語』 東京寶文館、1915年6月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945298/249 
  69. ^ #神皇正統記選コマ87(原本124-125頁)『六九 安徳天皇』
  70. ^ #神皇正統記選コマ87-89(原本125-128頁)『七〇 後鳥羽院』
  71. ^ 谷昇「後鳥羽院在位から院政期における神器政策と神器観」(初出:『古代文化』第60巻第2号、2008年/所収:谷『後鳥羽院政の展開と儀礼』 思文閣出版、2010年)
  72. ^ 林道春著、宮地直一校訂 『本朝神社考』177頁(改造社1942年)、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040132
  73. ^ 『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十四

参考文献[編集]


関連項目[編集]