蛇行剣

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蛇行剣(だこうけん)は、古墳時代の日本のの一つ(大きさによっては鉾と捉えられている)。文字通り剣身がのように曲がりうねっている(蛇が進行しているさまの如く)形状をしているため、こう名づけられている[1]

概要[編集]

西日本を中心に出土している鉄剣で、その形状と出土数から実用武器ではなく、儀礼用の鉄剣と考えられている[2]古墳地下式横穴墓群などから出土している。九州地方発祥の鉄剣と考えられているが、5世紀初頭には近畿圏にも広がりをみせている(備考参照)。古墳時代における日本独自の形状の鉄剣・鉾と言う意味から、考古学上、重要な資料となっている。

古くは1925年大正14年)に日向浄土寺山古墳(現延岡市、南方39号墳)から出土しており、鳥居龍蔵によってインドネシアクリス短剣を連想するものと語られ、東南アジアにその性格(蛇信仰など)を求めるものと考察され、注目された[3]。その後、1986年楠元哲夫の考察から倭国の特異な武器として認識されるようになり、武装としての意味も考察されるようになるが、資料の少なさと南九州に偏って出土する等から、性格は必ずしも明らかではないとされる。

こうした蛇行形状の剣・鉾(剣身が短いものは長柄武器と見られる[4])の出土事例は2008年時点で、70本近くあり、本州から37本が出土し(この内、中部地方出土のものは12本)、残りの半数は九州、特に南部地域に集中し、広域に分布を見せながらも、南九州に集中しているという空間的に限定された二つの背反する現象があり、伊藤雅文は複雑な性格を有する遺物であると見解を示している。

大きいものは、奈良県北原古墳出土のものや三重県松阪市天王山1号墳の出土のもので、全長80センチを超える。静岡県袋井市石ノ形古墳出土のものは鉄素材の分析が行なわれており、通常の剣より炭素分が少ない結果が出ており、蛇行形状を作る為、柔らかい鉄にする工夫とみられる。

風土記説話との関連[編集]

播磨国風土記』の説話との関連を指摘する研究者もいる。讃容郡の条の話には次のようにある。天智天皇の頃、仲川の里に住んでいた丸部具(ワニベのソナフ)と言う人が、河内の兔寸(トノキ)の人が持っていた剣を買ったが、一家の者全て死に絶えてしまった。その後、里長の犬猪(イヌイ)が具の跡地で畠を作っていたら、この剣があった。は朽ちていたが、刃は錆びず、「光、明らけきの如し」であった。犬猪は怪しみ、家に帰って刀鍛冶を呼び、「その刃を焼かしめ」たところ、「この剣、申屈(のびかがみ)して蛇の如し。鍛人(かぬち)大きに驚き、営(つく)らずして止みぬ」。犬猪は神性のある剣と思い、朝廷に献上した(天智紀即位前記に播磨から宝剣献上の記載がある)が、天武天皇の時に元に返され、今は里長の宅にある。

この剣を購入した為に一家が全滅した事、再度熱したら蛇の如くなった事、朝廷に献上したが、戻ってきた事が語られている。7世紀末の出来事としているが、現在、出土している蛇行剣のほとんどは錆びた状態である(柄がないものもある)。科学的に説話を考察するのであれば、クロムメッキ加工の剣であれば、錆びにくいが、古墳時代の日本にクロムメッキ製の刀剣を造る高度な技術は存在しない[5]。遵って、あくまで神性を高める為の話と考えられる。いずれにせよ、蛇の如く形状をした鉄剣を神聖視していた事は分かる内容である。考古学者である石野博信は、日本神話に登場する十束剣についても、蛇のような動きをしたと言う文法上の表現[6]から、古代日本において蛇の形状をした剣が神性のあるものとして認知されていた事を語っている。

備考[編集]

  • 1987年時点では、宮崎県の9古墳9本が最多出土であり、西日本を中心に31本以上が出土している(現在でも出土数は増えている)。東北地方を中心に出土する蕨手刀蝦夷の刀)に対し、蛇行剣は九州地方南部を中心として出土(特に地下式横穴墓副葬品として多く出土)する事から、90年代では、隼人と関連する呪術的な剣ではないかとの指摘もあったが、地下式横穴墓と隼人を関連付ける考え方が多くの研究者から否定されるようになった現在[7]では、どこまで隼人と関連付けられる遺物であるか不明である。
  • 宮崎県えびの市島内(しまうち)地下式横穴墓群(5世紀中頃から6世紀にかけて)から出土した蛇行剣の長さは64.8センチ、鹿角装(ろつかくそう)蛇行剣は68センチで、いずれも65センチ前後となっている。
  • 奈良県では主に宇陀郡(北東部)に集中して出土している(1987年時点・3古墳3本全て)。宇陀市守道の後出(うしろで)三号墳、同七号墳は、地名からして、「後手(しりへで)に刀剣を振る」所作(蛇を表した剣)を連想させる。後出古墳群(5世紀後半)は、副葬品からみて、武人の様相が強い被葬者とみられる。この事について、石野博信は、ワカタケル大王の親衛軍的性格を指摘し、親衛軍の中に呪力の強い剣を持った武人が存在したと捉えている[8]
  • 京都府綾部市の奥大石2号墳(5世紀初頭)出土の蛇行剣は全長70センチ。出土状況は、木棺を埋めた後に剣を置いて何らかの葬送儀礼を行ったものとみられる。
  • 石川県狐塚古墳と兵庫県亀山古墳出土の蛇行剣は、や手矛(長柄系統の武器)としての形状と解釈されている面もある[9]。これを連想させる形状の武器として、中国の蛇矛があるが、時代的にみて、関連はない(前述のように蛇行剣は実用武器ではないとみられている)。
  • 関東地方の出土例として、栃木県小山市桑57号墳のものが知られている。当古墳は5世紀末で、被葬者は歯の分析から30歳前後の女性と判明している[10]
  • と見られる木片(木質)がついた状態での出土例もあるが[11]、鞘の仕組みについては、二つ考えられる。一つは、剣身の最大幅の口をもった垂直的な形状の鞘、二つは、鞘が側面で開閉できる形状の鞘(これなら蛇行形状の鞘も可能である)。
  • 似たような副葬品の剣として、曲身剣がある。ただし、こちらは曲げられている事から、剣に対する呪術性や霊力を否定したものと解釈されている。

脚注[編集]

  1. ^ 後藤守一によって、「蛇行曲身剣」と名付けられた事から始まる。参考・伊藤雅文 『中部地方出土の蛇行剣』より。
  2. ^ 田中茂の研究によれば、「蛇行剣は利器としての性格よりも呪術的役割を目的として鍛造され、一群の司祭的立場にあった人物のもと保管されていた」と解釈する。参考・伊藤雅文 『中部地方出土の蛇行剣』より。
  3. ^ ただし、クリス短剣は今もその信仰が忘れ去られていない文化であるが、蛇行剣は4世紀から6世紀の遺跡から出土し、以降は呪術的意味が忘れ去られており(風土記に断片的な記録が残るのみ)、また、確実に判明している年代においても蛇行剣の方が古い。蛇行形状の武器という点でも、実質上、日本の蛇行剣は世界的に古い部類に入る(中国の蛇矛、ヨーロッパ圏のフランベルジェも参照)。
  4. ^ 柄が長くなって重い分、バランスを取る必要性もある。
  5. ^ 海外渡来の鉄剣を蛇行剣に加工したと解釈するには、色々と無理がある。7世紀末まで蛇行剣が生産されていたとすれば、その呪術的な意味が忘れ去られたとは考え難く、また、クロムが発見されたのは18世紀の終わりであり、ほとんどの国で存在しない技術である。さらにクロム化合物の毒素によって一家が全滅したと捉えるのは飛躍し過ぎた解釈と言える。そう解釈するのであれば、土壌汚染によって真っ先に犬猪が亡くなっているはずだからである。
  6. ^ 『日本書紀』に記述される「十束の剣を後手(しりへで)に振き」の後手と言う表現は、仕草や所作を表すもので、蛇のような動作をした(剣を尾のように振った)と解釈されており、蛇の動きが敵を近づけさせない呪力を発したものと捉えられている。また、呪的所作が忘れ去られている時代の風土記上でも、蛇の剣の呪力面が強調されており、神性なものとして献上されているにもかかわらず、朝廷から返されている点も挙げられる。
  7. ^ 橋本達也・藤井大祐2007『古墳以外の墓制による古墳時代墓制の研究』鹿児島大学総合研究博物館 p1~4.
  8. ^ 石野博信著 『古墳時代を考える』 2006年 雄山閣 ISBN 4-639-01932-7 p.121より
  9. ^ 『世界考古学体系 3 日本Ⅲ 古墳時代』 1959年 平凡社 p.70より(挿図p.69)
  10. ^ 『女性はにわ その装いとしぐさ』 1999年 埼玉県立博物館 p.79
  11. ^ 一例として、三重県松阪市天王山1号墳出土のものがあり、鞘口に膜痕跡もある。

参考文献[編集]

  • 古墳時代の研究 3 生活と祭祀 1991年 雄山閣
  • 文化庁編 発掘された日本列島 ’97 新発見考古学速報 朝日新聞社
  • 伊藤雅文 『中部地方出土の蛇行剣』 2008年

関連項目[編集]