石渡荘太郎
表示
| |
生年月日 | 1891年10月9日 |
出生地 | 日本 東京都 |
没年月日 | 1950年11月4日(59歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学法律学科英法科 |
称号 | 正三位勲一等 |
親族 | 石渡敏一(父) |
第12代 宮内大臣 | |
在任期間 | 1945年6月4日 - 1946年1月16日 |
第39・45代 大蔵大臣 | |
内閣 |
平沼内閣 東条内閣 小磯内閣 |
在任期間 |
1939年1月5日 - 1939年8月30日 1944年2月19日 - 1945年2月21日 |
第43・50代 内閣書記官長 | |
内閣 |
米内内閣 小磯内閣 |
在任期間 |
1940年1月16日 - 1940年7月22日 1945年2月21日 - 1945年4月7日 |
内閣 | 小磯内閣 |
在任期間 | 1945年2月21日 - 1945年4月7日 |
石渡 荘太郎(いしわた そうたろう、1891年〈明治24年〉10月9日 - 1950年〈昭和25年〉11月4日)は、日本の官僚、政治家。位階・勲等は正三位勲一等[1]。東京都出身。
人物
[編集]旧幕臣で第一次西園寺公望内閣の内閣書記官長を務めた石渡敏一の長男[2]。
大蔵大臣・内閣書記官長・宮内大臣などを歴任。近衛文麿の学友であり、税務・経済のスペシャリストとして各政権で重用された。
平沼内閣の大蔵大臣時代、外相有田八郎、海相米内光政とともに日独伊三国同盟に反対を貫いた。
太平洋戦争終結後、1945年(昭和20年)11月12日から11月15日にかけて行われた昭和天皇による戦争終熄奉告では、宮内大臣として供奉。天皇とともに伊勢神宮、神武天皇陵、明治天皇陵を巡った[3]。 その後、公職追放中に病を得て死去。享年59。墓所は多磨霊園。
略歴
[編集]- 司税官、税務監督局事務官、国税課長などを経て、
- 1937年2月 主税局長。
- 1937年6月 第一次近衛内閣の大蔵次官。
- 1939年 平沼内閣の蔵相。
- 1940年 米内内閣の書記官長。(本来書記官長は勅任官であるが、特に親任官待遇とされた[4]。)
- 1942年 汪兆銘政権の最高経済顧問。
- 1944年 東条内閣の蔵相。小磯内閣でも蔵相、のち国務大臣兼書記官長。
- 1945年 宮相。
- 6月9日 貴族院勅選議員辞職[6]
栄典
[編集]- 外国勲章佩用允許
- 1942年(昭和17年)2月9日 - 満洲国:勲二位景雲章 [9]
- 1942年(昭和17年)2月9日 - 満洲国:建国神廟創建記念章[9]
- 1944年(昭和19年)7月20日 - 満州国国勢調査紀念章[10]
著作
[編集]- 『国際二重課税に就いて』日本経済聯盟会〈国際商議関係書類 第36号〉、1929年12月。 NCID BN05814172。
- 『百億予算と百億貯蓄』朝日新聞社、1939年4月。 NCID BA35171626。全国書誌番号:44024537。
- 『興亜経済の前途』今日の問題社、1939年7月。 NCID BN08701048。全国書誌番号:46052636。
- 『戦時経済と国民の覚悟』日本協会出版部、1939年12月。全国書誌番号:44020746。
文献
[編集]- 『石渡荘太郎』石渡荘太郎伝記編纂会編・刊、1954年
出典
[編集]- ^ 『官報』号外 1945年6月4日
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、107頁。
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、90-91頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
- ^ 特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ 内閣書記官長 石渡荘太郎(昭和15年1月16日)
- ^ 『官報』第4058号、昭和15年7月17日。
- ^ 『官報』第5527号、昭和20年6月18日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
- ^ a b 『官報』1942年2月12日 「叙任及辞令」 賞勳局
- ^ 「長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504700
外部リンク
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 賀屋興宣 |
大蔵次官 1937 - 1939年 |
次代 大野龍太 |