大嘗祭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
宮中祭祀
四方拝
歳旦祭
元始祭
先帝祭(昭和天皇祭)
先帝以前三代の例祭
(孝明天皇祭)
紀元節祭
祈年祭
春季皇霊祭・春季神殿祭
神武天皇祭皇霊殿御神楽
皇妣たる皇后の例祭
先后の例祭
節折大祓
先帝以前三代の例祭
(明治天皇祭)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭
神嘗祭
鎮魂祭
招魂祭
新嘗祭大嘗祭
賢所御神楽
天長祭〈天長節祭〉
先帝以前三代の例祭
(大正天皇祭)
節折大祓
式年祭旬祭

大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じた[1]が、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった[2]。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。

概要[編集]

1990年(平成2年)、大嘗祭
1990年(平成2年)、今上天皇の大嘗祭に際して 1990年(平成2年)、今上天皇の大嘗祭に際して
1990年(平成2年)、今上天皇の大嘗祭に際して

大嘗祭(=新嘗祭)の儀式の形が定まったのは、7世紀皇極天皇の頃だが、この頃はまだ通例の大嘗祭(=新嘗祭)と践祚大嘗祭の区別はなかった。通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めである。ただし当時はまだ即位と結びついた一世一度のものではなく、在位中に何度か挙行された。律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備された。延喜式に定められたもののうち「大祀」とされたのは大嘗祭のみである。また、大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には3日間にわたる節会が行われていたことに由来している[3]。また後には通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを「毎年の大嘗」、践祚大嘗祭を「毎世の大嘗」とよびわけることもあった。

延喜式に式次第が定められた後も、多少変化した。室町時代末期、戦国時代には、朝廷の窮乏や戦乱のため、延期または後土御門天皇の即位以降東山天皇の時代の再興まで221年間行われなかったことなどもあるものの、天皇の代替わりに伴う重要な祭儀として、古くから継承されてきた。もっとも、江戸時代の再興の際には古式に則って、僧尼の御所への出入りを禁じて歴代天皇の位牌を撤去すべきとした霊元上皇や摂政一条冬経(兼輝)とこれに反対した上皇の実兄堯恕法親王や左大臣近衛基熈らが対立した。この仏教排除の動きは新天皇の大嘗祭が開かれるたびに国学尊王論の高まりと相まって強化され、それが宮中に長く定着していた神仏習合の慣習に対する批判および排仏論やこれに付随する即位灌頂の是非の論議にも発展して、明治における宮中の神仏分離の遠因となったとする見方もある[4]

今上天皇では、平成2年(1990年11月12日即位の礼が、11月22日から23日に大嘗祭が行われている。

即位礼に関わる儀式が国の行事とされたのに対し、大嘗祭に関わる儀式は皇室の行事とされた。しばしば誤解されているが、ここで「皇室の行事」というのは、「皇室の私的な行事」という意味ではなく、「皇室の公的な行事」という意味である。大嘗祭の予算は通常の内廷費以外の臨時のものが組まれている。当時の政府発表(最終回答)によれば、大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、憲法上の天皇の「国事行為」とは「内閣の助言と承認」を必要とするものであり、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は「国事行為」に当たらないためである。

式次第[編集]

昭和天皇の大礼記念切手に描かれた、祭礼が行われた大嘗宮

明治以降の「即位の礼・大嘗祭」関連儀式の具体的な日程等については、即位の礼の項目を参照のこと。

即位と大嘗祭[編集]

延喜式によれば(旧暦なので)、天皇の即位がその年の7月以前の場合にはその年に、8月以降の場合には翌年に行われることになっていた。

悠紀と主基[編集]

大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官司の役人)が、その祭に供えるを出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれるのを原則とし、畿内の国(山城国大和国河内国和泉国摂津国の令制5か国(現在の京都府奈良県及び大阪府))から選ばれたことは一度もない[5]宇多天皇以降は近江国が悠紀、丹波国備中国冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。明治以降は下記。

明治以降の悠紀・主基[編集]

天皇 大嘗祭が行われた年 悠紀 主基
明治天皇 1871年明治4年) 山梨県巨摩郡上石田村(現・甲府市
甲斐国
花房県長狭郡北小町村(現・千葉県鴨川市
安房国
大正天皇 1915年大正4年) 愛知県碧海郡六ツ美村大字中島上丸ノ内(現・岡崎市
三河国
香川県綾歌郡山田村大字山田上(現・綾川町
讃岐国
昭和天皇 1928年昭和3年) 滋賀県野洲郡三上村(現・野洲市
近江国
福岡県早良郡脇山村(現・福岡市早良区
筑前国
今上天皇 1990年平成2年) 秋田県南秋田郡五城目町
羽後国
大分県玖珠郡玖珠町大字小田
豊後国

本祭当月までの儀式[編集]

8月上旬には、大祓使(おおはらえし)を卜定し、左京右京に1人、五畿内に1人、七道に各1人を差し遣わして祓い、8月下旬にはさらに祓使を差し遣わして祓った。この祓いが済むと、伊勢神宮以下、各国の天神地祇幣帛を供え、告文(こうもん)を奏じた。また、8月下旬には、抜穂使を卜定して斎国に遣わし、抜穂使はその国で斎田と斎場雑色人、造酒童女、物部人、物部女らを卜定した。9月になると斎田から稲穂を抜き取り、初めに抜いた4束を御飯(みい)とし、あとは黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供される。御飯や黒酒、白酒は、9月下旬から祭日まで、都に設けられた斎場院外の仮屋に収められる。抜穂が終わると八神殿において祭典がなされる。10月下旬には、天皇は川に臨んで御禊(ぎょけい)した。この御禊は、江戸時代中期以降になると皇居内で行われた。

本祭当月の儀式[編集]

祭は、11月の卯の日に行われる。11月に卯の日が3回あれば、中の卯の日に行われるものとされたが、後世には下の卯の日に行う習いとなった。今日では11月23日勤労感謝の日に新嘗祭が行われるため、今上天皇の大嘗祭も、平成 2年11月22日深夜から23日未明にかけて行われた。

11月になると、1日から晦日(みそか。月末)までは散斎(あらいみ。簡略な物忌。)、祭儀の行われる卯の日の前の丑(うし)の日から3日間は致斎(まいみ。厳重な物忌。)とされ、穢れに触れることを戒めた。悠紀・主基の斎場を設け、それぞれに神供、神酒、調度などを調理製作する諸屋を建てた。地鎮祭の後、祭の7日前から大嘗宮を造り始め、5日以内に造り終える。大嘗宮は悠紀殿・主基殿の2殿から成る。竣工すると宮殿に災害がないように祈る大殿祭と邪神を払うための御門祭が執り行われた。

本祭の儀式[編集]

祭の当夜、天皇は廻立殿(かいりゅうでん)に渡御し、小忌御湯(おみのおゆ)で潔斎して斎服を着け、深夜、菅笠をさしかえられ、脂燭で足元が照らされる中を、徒跣(素足で歩く)で葉薦の上を進み、悠紀殿(ゆきでん:千木伊勢神宮内宮と同じ内削ぎ)に入る。悠紀殿には、南枕に布団)が敷いてあり、と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。布団に置いてある枕の名は坂枕(さかまくら)という。この寝具類は神座、神の為に設けられたものであり、この中に天皇が直接入ることはない。悠紀殿では、神饌を神に供し、告文を奏して神と直会(なおらい)、つまり神に献じた神饌(お供え)を、天皇親ら(みずから)聞こし召す(食べる)のである。廻立殿に戻り、次いで主基殿(千木は伊勢神宮外宮と同じ外削ぎ)に入り、悠紀殿と同じことを行う。

付属する儀式[編集]

風俗舞装束(悠紀地方用) 風俗舞装束(主基地方用)
風俗舞装束(悠紀地方用)
風俗舞装束(主基地方用)

この中心的な祭のほか、辰(たつ)の日には中臣氏が天神寿詞(あまつかみのよごと)を奏する行事、巳(み)の日には和舞(やまとまい)・風俗舞(ふぞくまい)が催され、午(うま)の日には五節舞(ごせちのまい)が催されるなど、多くの行事がある。

憲法との問題[編集]

大嘗祭への国費支出が違憲であるという訴えは棄却されている。大阪地方裁判所判決 平成4年11月24日 、平成2(行ウ)81、『即位の礼・大嘗祭国費支出差止等請求,国費支出差止等請求事件』。 この一連の大嘗祭や、また即位の礼について、国の公費で行うことは違憲であるとする説[6]もある。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 井原頼明『皇室事典』冨山房、1943年、8ページ
  2. ^ 大嘗及び新嘗の起源として岩戸隠れの原因となったスサノオが糞を放った対象が『古事記』では「天照大御神が大嘗を聞し召す殿」であり対応する『日本書紀』の記述では「天照大神の新嘗のための新宮」と記されている。
  3. ^ 小山田義夫「大嘗会役小考」(『一国平均役と中世社会』(岩田書院、2008年) ISBN 978-4-87294-504-1(原論文は1976年))
  4. ^ 山口和夫「神仏習合と近世天皇の祭祀」(初出:島薗進 他編『シリーズ日本人と宗教1 将軍と天皇』(春秋社、2014年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7 P352-356)
  5. ^ ただし、天武天皇(悠紀:播磨国・主基:丹波国)、持統天皇(悠紀:播磨国・主基:因幡国)、文武天皇(悠紀:尾張国・主基:美濃国)、聖武天皇(悠紀:備前国・主基:播磨国)の時は東西の原則は当てはまっていない。(加茂正典『日本古代即位儀礼史の研究』(思文閣出版、1999年) ISBN 978-4-7842-0995-8 第1篇第2章及び第5篇第1章)
  6. ^ 金子勝『日本国憲法の原理と「国家改造構想」』1994年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]