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大祓詞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大祓詞(おおはらえのことば)は、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである[1]。もともと大祓式に用いられ、中臣氏が専らその宣読を担当したことから、中臣祭文(なかとみさいもん)とも中臣祓詞(なかとみのはらえことば)とも略して中臣祓(なかとみのはらえ)ともいう[2][3]。典型は延喜式巻八に六月晦大祓という題名で載る[4]。一般に大祓詞という場合は大祓の参集者に宣り聞かせるものをいい、中臣祓という場合は神前に奏上する形に改めたものをいう[5]

概要

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古代日本の律令制国家では、朝廷大内裏の朱雀門で「神祇令」に規定された大祓(大解除)の儀式が行われており[注釈 1]、その儀で唱えられていた祝詞が大祓詞である[7][6]。古代において大祓とは「百官以下万民の罪穢を祓い除き、清浄にするための神道儀礼[注釈 2]」であったとされる[7][8]。犯した(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・(けがれ)[注釈 3]を祓うために唱えられた祝詞とされる。ただし、大祓詞に「罪」という言葉は頻出しても「穢」という言葉はなく、古くは「祓へ」は「罪穢」ではなく専ら「罪」を対象としたものであり、「祓へ」とは罪の除去であったと指摘されている[12]。大祓詞で挙げられる国津罪・天津罪は、人を殺すことや謀反のような基本的刑罰の対象となる罪ではなく、共同体秩序の破壊、農業関連の妨害行為、または祭事に関する農業関連の妨害行為・これが象徴する祭事や神聖なものの冒涜である[13][14]。天津罪は記紀神話でスサノオが犯した罪であり、三橋正は「実質的な意味を持たなかったと思われる」としている[15]

日本の祓は中国の習俗に由来するもので、大祓にも道教的な要素が加えられている[6]。大祓詞は、日本で仏教の薬師如来信仰の『薬師経』思想が受容され、これが中国の天命思想と結びつき、古代日本の律令制国家のもとで7世紀以降に形成されたものと考えられている[16]

大祓詞の文献上の初出は『延喜式』(巻八・神祇八・祝詞)で、他の律令祭祀の祝詞と共に収録されている[6][7]。大祓詞の冒頭には天孫降臨のモチーフが取り入れられており、大祓は記紀神話の形成期である天武天皇の時代に、復古的な儀式として成立したと考えられる[15]。大祓では記紀神話の精神を投影し擬古的な儀礼が行われ、その結果「神祇令」で年2回の定例の儀式と、臨時の儀式として規定され、神祇(神道)儀礼として定着した[17]

大祓詞は中臣祓となり、宣命体から奏上体に変わった[7]中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残った。『延喜式』には「六月晦大祓」として記載されており、今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものである。

従来の神道学的な見方では、大祓は「太古以来の神道(神祇)儀礼として不変の意義を持ち続けてきた」とされるが、歴史をたどると「時代ごとに変化しながら継承され、意義を持ち続けた」ことが分かる[11]。大祓の行事は朝廷から民間にも広まり、 陰陽道や仏教と深く関わりながら、両部神道伊勢神道吉田(卜部)神道伯家神道垂加神道復古神道等の神道の教義や、学問、実践の重要な部分を形成した[7]

朝廷における大祓の儀は、乱世であった室町時代に途絶えた[7]。中世後期に吉田神道を作った吉田兼倶より臨時の祓が行われるようになり、江戸時代中期の元禄4年(1691年)には、6月と12月末の恒例の祓も復活した[7]。ただしこの大祓は、宮廷内の祓を目的としており、国家の祓ではない[7]

近世中後期の国学の盛り上がりの中、国学者の大祓詞への関心が高まり、大祓詞についての様々な論考が書かれた[注釈 4]。こうした流れの中、明治時代に入ると国家の祓としての大祓を復興しようという動きが具体化し、明治維新による旧儀再興の流れに乗って、大祓は「万民の罪穢を祓う行事」として宮中で行われるようになった[19]。また「天下一般修行可致(全国民が(神道的な)修行を実施するように)」 という明治政府の理念により、神社の祭式として個人の修行を主眼とする大祓の行事が定められたが、宮司による祝詞と神官による「祓詞」をセットにした二部制の儀式となっており、古来より伝わる様式とは大きく異なる[19]

日清戦争日露戦争を経て、役人や国民の神社崇敬の熱気が高まり、内務省が大正3年に、神社祭祀や祭式、神道の制度や体制の多くを現在につながる形に整備し、大祓式も古代の儀式を参照して策定され、大祓詞も『延喜式』祝詞、中臣祓に準拠したものが定められた[19][20]。この時に内務省の神社局を中心とする作業グループが、信仰と当時の社会情勢を勘案し、元々の大祓詞にあった天津罪8項目、国津罪13項目の具体的な内容を削除した[19][21]

沿革

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大祓詞は大祓に用いられる[2]。大祓は、百官男女をはじめ天下万民が知らず知らずのうちに犯した種々の罪穢を除き去るため、毎年6月と12月の晦日(末日)に京の朱雀門で行われた。令制貞観儀式、延喜式によると、宮中において中臣が御麻を奉り、東西文部が祓刀を奉り、漢音の祓詞を読む。大臣以下の百官男女はみな祓所に参集し、神祇官切麻を五位以上に頒布し、ここで中臣祓詞を読み、祓い終えて後、六位以下に大麻を引かさせる[22]。『延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており「十二月准此」と注記がある[23]

日本の祓(解除)は、中国において発生・展開した祓に由来しており、古代日本では「罪を犯した者に財物を提出させて償いをさせる行事」であった[24]。青木紀元によると、『延喜式』の大祓詞には「罪」という言葉が繰り返されるが、「穢」いう語は一語もなく、古くは「『祓へ』は専ら罪を対象としたもの」と指摘している[12]。「ハラへ」は「罪を除くこと」、罪の除去であり、「祓除」「解除」と表現した[25]。大祓の初見は『日本書紀天武天皇五年条で、「大解除」と表記されており、『日本書紀』では「大解除」を「オオハラへ」と訓づけていた[26]

天武天皇五年条の「大解除」は、国造郡司に馬、布、麻などの祓物を供出させ行われた[25][注釈 5]。三橋正は、天武天皇が行った大祓は、壬申の乱(672年)後に朝廷が国造などの旧勢力を完全掌握するために、祓を国家規模で行ったもので、一時的に中断していた国家的服従儀礼が禊の形を借りて復活したものとしている[24]

大祓詞の成立については、戦前の『神道大辞典』によると、近世の国学者賀茂真淵天智天武朝説を唱え[2]、近世の国学者本居宣長は文武天皇朝説を唱えているが、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。また戦前の『神道大辞典』では、大祓詞の成立については諸説あるとし、その作者は天児屋命の孫の天種子命であるという説や、常盤大連である説、また天智天皇の命により中臣金連が祓詞を献じて半年毎の大祓に用いられ、この短文を文武天皇の御代に新文が定められたなどの説を示している[3]

現代の研究では、『延喜式』所収の大祓詞は、仏教の薬師如来信仰の『薬師経』の思想を受容した日本において、『薬師経』の放生思想と、中国の天命思想が結びついて、古代律令制のもとで7世紀以降に形成されたと考えられている[16][注釈 6]

中世以来、神道の経典として重んじられ、これを神前で奏上することで祈願が達成できると信仰されるに至る。千度祓や万度祓が盛んに行われ、仏教の祈祷の巻数(カンジュ)をまねて御師が信者の間に配布した。古来その注釈書は数多い[2]

大祓は半年ごとの国家儀礼として定期的に行われたほか、大嘗祭の前や災害・疫病などの際にも臨時に行われた。一方、中臣祓は、大祓詞を私的な祈祷に転用するために、人々に宣り聞かせていた形式を改め、神々に奏上する形式に変えたものであり、10世紀には成立していたと考えられている。中臣祓の名称は中臣氏が読み上げたことに由来する[27]

中臣祓は神祇官において天皇の禊祓のために用いられた。11世紀初頭には陰陽師たちが私的な祈祷に中臣祓を用いていたことが確認できる。すなわち『紫式部日記寛弘5年(1008)9月10日条に、中宮の安産祈願のために陰陽師が総動員されたこと、彼らが唱える「八百万の神も耳ふり立てぬはあらじ」という中臣祓の結句が聞こえることが記載されている[27]

中臣祓の文章は、12世紀初頭成立の朝野群載に中臣祭文と題して載るものが最も古い[27]。延喜式の大祓詞が皆に宣り聞かせる言葉であるのに対し、朝野群載の中臣祭文は神々に申し上げる形式に改められ、何時でも何処でも誰でも読み上げられるようになっている。神社本庁所属の研究者・岡田米夫によると、朝野群載の中臣祭文が現代に祈祷の意味で神前に読み上げられる大祓詞の最も古い形である。朝野群載の中臣祭文で注目すべきは「祓戸の八百万の御神達」という記述があることである。大祓詞には祓戸の四神が現れるが、朝野群載の中臣祭文ではこの四神に限られない。現在の神社本庁が頒布する大祓詞が祓戸神を「天津神、国津神、八百万の神達」としているのは、朝野群載の中臣祭文の精神を継承したものであり、これが最も古い形であるという[28]

やがて中臣祓は諸国に伝播していったとみられる。なかでも12世紀には春日社において中臣祓が行われていたがことが明らかになっている。さらに仏僧も中臣祓を用いた儀礼を行うようになり、平安時代末期には仏僧による注釈書『中臣祓訓解』が成立したと推定される[27]

中臣祭文という呼称は平安時代末期からやや広く用いられていたとみられる。それ以降、陰陽師などが大祓の神事を私的に行い始め、大祓詞は社会一般で常の祭祀や祈願の祝詞として広く用いられるようになる。近世の皇学者鈴木重胤『祝詞講義』巻十は大祓詞の呼称について、「中臣は祓を掌る職であり、中臣の人が宣読するから中臣祓詞という」としている[29][注釈 7]伊勢神道では、祓の独自の作法が鎌倉時代初頭までに成立し、鎌倉時代後期から秘伝化していった。吉田神道でも中臣祓は重視され独特の儀礼や註釈が行われた[27]

中世には日本書紀神代巻の研究と並んで中臣祓の研究が進み、その信仰が深まった。それには、伊勢神道とその神道五部書からの影響が著しく、また密教系の両部神道天台系山王神道の影響も認められる。早くは度会家行の類聚神祇本源に中臣祓訓解の説を引用しており、世上ではこれを空海の著作として伝えているが、実際には鎌倉時代後期に公になったものとみられる。神宮文庫所蔵の中臣祓注抄は鎌倉時代初期の建保3年6月(1215年)の古写本を筆写したものである。藤原朝臣御子大夫を称する者の大祓詞同注も同時期の研究である。室町戦国時代に中臣の祓の研究に最も注力したのは京都神楽岡の吉田家であり、特に吉田兼倶において最も著しい。兼倶は『中臣祓聞書』を、その子清原宣賢は『中臣祓抄』を著した。兼倶の子孫の吉田兼永吉田兼右は両書の講説・宣伝・書写・普及に努めた[30]

平安時代末期から江戸時代にかけて、日常よみ上げるものを中臣祓詞と呼び、6月12月の晦日の大祓式で読み上げるものを大祓詞と呼んで、両者を区別した。大祓式の大祓詞と日常よみ上げる中臣祓詞とでは首尾や中間などで表現が異なる。そして江戸時代の後期に国学や復古神道が盛んになるにつれて、元の大祓詞という名称が再び用いられるようになる[31]

仏教・薬師経の影響

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7世紀前半までに日本に伝わった仏教は百済経由であるが、百済仏教では、マントラや仏名を読誦して病気の悪鬼を除去し滅する、密教的な呪術師である咒禁師による医療が発展していた[32]。有働智奘は、放生と大祓の思想は『灌頂経』にも見られると述べている[33]。仏教伝来当時の6世紀、日本は疫病が蔓延し災害が起こる国難の状況にあり、当時の神道思想に即して、病や穢れを除去する呪術が記述された『灌頂経』が受容されたと考えられと考えられる[26]

天武天皇が執行した大祓、放生では、唐代の玄奘訳の薬師経が大きな意味を持っており、日本の伝統的な祓の儀礼に影響を与えていたと指摘されている[12]。仏教伝来当初に日本中に疫病が蔓延したが、これは「国家が病によって穢れたため、罪を犯した」ということであり、大祓が行われたと考えられる[26]。青木紀元は、祓や穢の起源説話であるスサノヲ神話やイザナギ神話には、疫病や災害についての説話がなく、大祓の内容には仏典が取り入れられていることを指摘し、大祓は「日本在来の穢れや祓いの行事に仏教思想が組み込まれた」ものと論じており、西田長男もこれを支持している[12]。有働智奘は、日本に薬師信仰が伝来した時期を6世紀と推定し、仏教医療の呪術を通じて広まったとしている[26]。西尾正仁は、日本で薬師信仰は7世紀半ばまでに受容されたとしている[16]。『日本書紀』の大祓記事には薬師経の漢訳の影響が見られる[33]

青木紀元と笹生衛の神道研究によると、『日本書紀』の大祓記事は、薬師経の漢訳の隋代の達磨伧多訳『薬師瑠璃光如来本願経』(615年)と、唐代の玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(650年)の影響を受けている[33]

内容

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延喜式に載る六月晦大祓は次の3つの要素で構成される[4]

  1. 大祓の実施について官人に告知する。
  2. 人々による罪の発生から、神々による罪の抹消に至るまでの祓の過程を告知する。
  3. 卜部氏への指示を告知する。

大祓詞は、内容から大きく前段と後段の2つに分けられる。

前段は、大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよく聞け」という内容の文言から始まる。これは当初の大祓詞が参集者に対して宣り聞かせるものであったことの名残であり、今日の神社本庁の大祓詞ではこの部分は省略されている。次に、葦原中国平定から天孫降臨し天孫が日本を治めることになるまでの日本神話の内容が語られる。そしてそのような国の国民が犯してしまう罪の内容を「天つ罪・国つ罪」として列挙し、そのような罪が出たときの罪の祓い方が述べられる。

罪の内容については、今日の「罪」の観念にあわないものが多く、差別的ととられかねないものもあることから、神社本庁の大祓詞では罪名の列挙を省略して単に「天津罪・国津罪」とだけ言っている(大正3年内務省制定の大祓詞にて削除されたものが踏襲されている)。

後段では、そのような祓を行うと、罪がどのように消滅するかが語られる。罪が消滅する様を様々な喩えで表現した後、四柱の祓戸神によって消え去る様子が述べられる。

脚注

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注釈

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  1. これにより、「ハラエ(祓(秡)または解除)」は一般的に神道儀礼とされている[6]
  2. 『国史大辞典』「大祓」鎌田純一[7][8]
  3. 近世の国学者本居宣長は『玉勝間』で「死を穢とすることは、神代より然り」と述べ、穢という観念は日本で神話が形成された時代からあり、連綿と続く日本に固有の習俗だとしており、民俗学の柳田国男も踏襲し通説となっていたが、現代の研究では、穢は平安時代初期に成立した観念というのが通説で、神話時代から連続する観念・習俗ではないことがわかっている[9][10]。穢という観念(神は穢を忌むという信仰、穢意識)には変遷が見られ、平安時代初期に成立後、律令制の解体過程、平安後期の王朝国家において、徐々に肥大していき、質的にも変化したと考えられている[9][11]。穢が社会問題になったのは摂関期から中世であり、『延喜式』の「穢」規定が、様々な神社の規定や儀式書、法律書、事典などの根拠とされた[9]
  4. 竹内式部『式部 竹内中臣祓講義』、賀茂真淵『延喜式祝詞解』、同『祝詞考』 、本居宣長『大祓詞後釈』、鈴木重胤『延喜式祝詞講義』の「大祓講義」、平田篤胤『大祓太祝詞考』、同『天津祝詞考』、六人部是香『大祓詞天津菅麻』、岡熊臣『大祓詞鹽之八百會』、大国隆正『天都詔詞太詔詞考』等[18]
  5. これは「放生」と同年に行われた[25]
  6. 明確に薬師信仰に触れている最古の文献は、『日本書紀』天武9年の薬師寺建立記事である[16]
  7. 「(現代語訳)大祓詞を俗に中臣祓ということも古いことである。しかし祓とは行事のことなので、正しくは中臣祓詞というべきである。古語拾遺に「天種命子をして天津罪・国津罪のことを解除(はらえ)させる。いわゆる天津罪とは云々、国津罪とは国中の人民の犯すところの罪であり、その内容は中臣祓詞に詳しい」と見えるのは正しい説であり、その意味は、中臣は祓を掌る職であり、中臣の人が宣読するから中臣祓詞というのである。[29]

出典

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  1. 村山 1979.
  2. 1 2 3 4 大祓詞」『神道大辞典 第1巻、平凡社、1941年、244-245頁
  3. 1 2 中臣祓」『神道大辞典』 第3巻、平凡社、1941年、51-52頁
  4. 1 2 大祓詞”. おはらいの文化史. 國學院大學伝統文化リサーチセンター. 2020年1月24日閲覧。
  5. なかとみのはらえ【中臣祓】”. 世界大百科事典 第2版. コトバンク. 2020年1月31日閲覧。
  6. 1 2 3 4 三橋 2010, p. 209.
  7. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 東郷 2017, p. 131.
  8. 1 2 東郷 2017, p. 160.
  9. 1 2 3 尾留川 2009, pp. 56–57.
  10. 尾留川 2009, p. 70.
  11. 1 2 三橋 2010, p. 211.
  12. 1 2 3 4 有働 2018, p. 704.
  13. 三橋 2010, p. 210.
  14. 山本 1992, p. 210.
  15. 1 2 三橋 2010, pp. 214.
  16. 1 2 3 4 有働 2018, pp. 703–704.
  17. 三橋 2010, pp. 210–211.
  18. 東郷 2017, pp. 131–132.
  19. 1 2 3 4 東郷 2017, p. 132.
  20. 東郷 2017, p. 152.
  21. 東郷 2017, pp. 155–156.
  22. 神宮司庁 (1928) 723頁。
  23. 神宮司庁 (1928) 726-727頁
  24. 1 2 三橋 2010, pp. 212–213.
  25. 1 2 3 有働 2018, pp. 703–705.
  26. 1 2 3 4 有働 2018, p. 705.
  27. 1 2 3 4 5 大東敬明「寺院儀礼における中臣祓」『日本における宗教テクストの諸位相と統辞法:』名古屋大学大学院文学研究科〈「テクスト布置の解釈学的研究と教育」第4回国際研究集会報告書〉、2008年、265-286頁
  28. 岡田 (2016) 25頁。
  29. 1 2 河野省三「中臣祭文」『神道大辞典』 第3巻、平凡社、1941年
  30. 河野省三神代巻・中臣祓の硏究並に普及」『我が国体観念の発達』国民精神文化研究所〈国民精神文化研究、第18冊〉、1937年、33-34頁
  31. 岡田 (2016) 26頁。
  32. 有働 2018, p. 706.
  33. 1 2 3 有働 2018, pp. 704–705.

参考文献

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  • 有働智奘「古代日本における薬師信仰の受容―放生、大祓の神道思想を視座として―」『印度學佛教學研究』第66巻、日本印度学仏教学会、2018年3月20日、703-708頁、CRID 1390001288108016896doi:10.4259/ibk.66.2_703 
  • 東郷茂彦「近代における大祓式・大祓詞の再興と変容」『國學院大學研究開発推進センター研究紀要』第11巻、國學院大學、2017年3月、131-169頁、CRID 1390865021800001536doi:10.57529/0002001024 
  • 尾留川方孝「平安時代における穢れ観念の変容 - 神祇祭祀からの分離」『日本思想史学』第41巻、日本思想史学会、2009年、56-73頁、CRID 1520853832146430208 
  • 岡田米夫『大祓詞の心 大祓詞の解釈と信仰』神社新報社、2016年。 
  • 三橋正『古代神祇制度の形成と展開』法蔵館、2010年。 
  • 山本幸司『穢と大祓』平凡社、1992年。 
  • 村山修一 著「祭文」、日本歴史大辞典編集委員会 編『日本歴史大辞典』 5 サ - シ、河出書房新社、1979年11月、43頁。 

関連文献

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関連項目

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外部リンク

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  • 大祓詞 - おはらいの文化史(國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館)