大祓詞

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大祓詞(おおはらえのことば)は、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである。中臣祓詞(なかとみのはらえことば、略して中臣祓)・中臣祭文(なかとみさいもん)ともいう[1][注釈 1]

概要[編集]

元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、犯した(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残った。

延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ」と注記がある。今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものである。

その成立については賀茂真淵天智天武朝説を唱え、本居宣長文武天皇朝説を唱えているが、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。

当初は、大祓の際に参集者に対して宣り聞かせるものであったが、後に神に対して唱えられるようになった。中世には陰陽道密教と結びつき、陰陽道の呪言や仏教の経典のように、唱えるだけで功得が得られると考えられるようになった。さらに、唱えれば唱えるほど功得が増すと考えられ、何千回、何万回も唱えるようになり、より唱えやすくするために、大祓詞の要点だけをまとめた「最要中臣祓」「最上中臣祓」が作られた。特に仏家神道儒家神道で重視され、『中臣祓訓解』『中臣祓風水草』などの大祓詞の注釈書も書かれた。

現在では大祓の際に参拝者自らが唱えるほか、神社本庁包括下の神社では毎日神前にて唱えられている。神社本庁のほか、各種の教派神道・神道系新宗教の一部でも使われているが、延喜式記載のものから内容に改変が加えられており、教団によっても多少の差異がある。

内容[編集]

大祓詞は、内容から大きく前段と後段の2つに分けられる。

前段は、大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよく聞け」という内容の文言から始まる。これは当初の大祓詞が参集者に対して宣り聞かせるものであったことの名残であり、今日の神社本庁の大祓詞ではこの部分は省略されている。次に、葦原中国平定から天孫降臨し天孫が日本を治めることになるまでの日本神話の内容が語られる。そしてそのような国の国民が犯してしまう罪の内容を「天つ罪・国つ罪」として列挙し、そのような罪が出たときの罪の祓い方が述べられる。罪の内容については、今日の「罪」の観念にあわないものが多く、差別的ととられかねないものもあることから、神社本庁の大祓詞では罪名の列挙を省略して単に「天津罪・国津罪」とだけ言っている。

後段では、そのような祓を行うと、罪・穢れがどのように消滅するかが語られる。罪・穢れが消滅する様を様々な喩えで表現した後、四柱の祓戸神によって消え去る様子が述べられる。

天津祝詞の太祝詞事[編集]

前段の最後に「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」とあるが、その「天津祝詞の太祝詞事」の内容はどこにも書かれていない。これが何を指すのかについて、国学が興った江戸時代以降、議論されてきた。

本居宣長は『大祓詞後釈』で、「天津祝詞の太祝詞事」は大祓詞自体のことであるとする説を唱えた。賀茂真淵も『祝詞考』で同様の意見を述べている。戦前に神社を管轄していた内務省ではこの説を採用し、その流れを汲む神社本庁でもその解釈をとっている。神社本庁では、前段と後段の間には何も唱えず、一拍置くだけとしている。

しかし、「天津祝詞の太祝詞事」は神代より伝わる秘伝の祝詞であり、秘伝であるが故に延喜式には書かれなかったのだとする説もある。本居宣長の「歿後の門人」である平田篤胤は、未完の『古史伝』の中で「天照大神から口伝されてきた天津祝詞之太祝詞事という祝詞があり、中臣家にのみ相伝されたのだ」という説を唱えている。そして『天津祝詞考』にて、その祝詞は伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓をしたときに発した言葉であるとし、様々な神社や神道流派に伝わる禊祓の祝詞を研究しそれを集成した形で、「天津祝詞の太祝詞事」はこのようなものだというものを示している。篤胤が示した「天津祝詞の太祝詞事」は神社本庁以外の神道の教団の多くで「天津祝詞」として採用されており、大祓詞の前段と後段の間に唱えられるほか、単独で祓詞としても用いられている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「中臣祭文」の呼称は永久4年(1116年)に三善為康が編纂した『朝野群載』においてみられる。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 村山修一 「祭文」『日本歴史大辞典5 サ - シ』 日本歴史大辞典編集委員会(編)、河出書房新社、1979年11月。

外部リンク[編集]