渡辺政之輔
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渡辺 政之輔(わたなべ まさのすけ、1899年(明治32年)9月7日 ‐ 1928年(昭和3年)10月6日)は、日本の労働運動家、政治活動家、非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の書記長。「渡政」(わたまさ)の通称で知られた。
生涯[編集]
千葉県東葛飾郡市川町(現在の市川市)生まれ。小学校卒業後、労働運動に目覚め、1922年(大正11年)、日本共産党(第一次共産党)結成と同時に入党。日本労働総同盟左派の中心人物として活動[1]。総同盟分裂後は日本労働組合評議会のリーダーとして共同印刷、日本楽器などにおける労働争議を指導した[1]。党再建(第二次共産党)後、中央委員に選出され、ソビエト連邦に派遣されてコミンテルンによる27年テーゼの作成に参加した。帰国後、福本イズムの退潮をうけて党書記長に選出された。
1928年(昭和3年)、国際連絡の帰途、台湾の基隆で挙動不審ゆえ刑事に誰何された際、隠し持っていた拳銃で刑事を狙撃(翌日、死亡)したため官憲に追われ、包囲され自身の拳銃で自殺した[注 1]。
社会主義運動家・女性運動家として知られる丹野セツを妻に持つ。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
- 日本共産党(行動派)
- 笠原和夫 - 渡辺を主人公にシナリオ「実録・共産党(未映画化)」を書いた。