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第一次共産党 (日本)

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第一次共産党(だいいちじきょうさんとう)は、1921年大正10年)4月ないし1922年(大正11年)7月に創立されたのち、1924年(大正13年)3月頃に解散されるまでの、非合法時代の日本共産党を指す呼称である。この時期の共産党は、少人数の知識人グループの連合体としての性格が強かったとされる。

概要

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政府による社会主義運動への干渉が続く中で、非合法の秘密結社として結成された。ML会水曜会暁民会など、少人数の知識人グループの緩やかな連合体としての性格が強かった[1][2]。党員は3~10人ごとに「細胞」と呼ばれるグループを組織することになっており、居住地域などから「大森の細胞」(山川均グループ)のように呼ばれていたとされる[3]。1923年3月の石神井会議の議事録によると、細胞数は14、党員および党員候補者は58名であった[4]

堺、山川、荒畑など、明治からの社会主義者のもとで、中核をなしたのが、新人会建設者同盟暁民会などの学生運動出身者であった。たとえば、山川系の水曜会を基礎につくられたいわゆる大森細胞には建設者同盟の田所輝明が参加した。また暁民会系の人脈は第1次共産党の大きな基礎となったが、そのうち浦田武雄は『農民運動』グループの細胞の中心であり、これには建設者同盟の稲村隆一が参加した。このほか建設者同盟からは浅沼稲次郎、森崎源吉も第1次共産党のメンバーとなっている。

総同盟の中にも共産党グループがあったのは確かなようで、新人会の赤松克麿、野坂参三がその中心であった。このほか新人会系では、のちの再建共産党の中心人物になる佐野学や、関西からは小岩井浄が加わっている。

機関紙誌としては、『前衛』『農民運動』『労働新聞』などが発行された。

歴史

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背景

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日本における社会主義運動は、明治期より片山潜安部磯雄幸徳秋水堺利彦らによって展開されてきた。しかし、1910年(明治43年)の大逆事件で多くの社会主義者が検挙され、幸徳らに死刑が執行されると、日本の社会主義運動は「冬の時代」を迎える。そうした中、第一次世界大戦の後半に差し掛かると、工業化の進展による労働運動や、1918年米騒動など、再び社会運動に高揚がみられるようになる[5]

一方、海外に目を向けると、1917年(大正6年)にロシア帝国ロシア革命によって崩壊し、ボリシェヴィキが実権を握る。1919年(大正8年)にコミンテルンを成立させると、各国の運動家や運動団体へ働きかけを強める[6]

アメリカで社会主義運動をしていた片山潜近藤栄蔵は、ロシア革命米騒動の報を受けて、日本での運動に乗り出す。1919年(大正8年)5月に近藤が日本に帰国すると、堺利彦山川均荒畑寒村ら、明治以来の日本の社会主義者と会合する[7]1920年(大正9年)12月、社会主義者・労働組合・学生団体などの大同団結により、日本社会主義同盟が結成される。しかし、共産主義者無政府主義者社会民主主義者などを幅広く包括したことから内部の対立が生じ、翌年6月には結社禁止となる。

一方、1920年5月にコミンテルン東アジア書記局が上海に設置されると、コミンテルンから日本への働きかけが行われる。同年8月、朝鮮人密使が来日し、堺・山川・大杉に上海で開かれる極東共産主義者会議への参加を打診する。堺・山川がこれを断った結果、アナ派の大杉が同年10月に上海へ渡ってヴォイチンスキーと会合し、活動資金を受け取って帰国する[8][9]

日本共産党準備委員会

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1921年(大正10年)4月頃、上海のコミンテルン極東ビューローから朝鮮人共産主義者の李増林が来日し、堺・近藤らと接触し、新たに日本に共産主義者の組織をつくって、代表者を上海に派遣するよう要請する[10][11]

同年4月、堺利彦山川均近藤栄蔵高津正道橋浦時雄らが東京大森で会合し、日本共産党準備委員会コミンテルン日本支部準備会)を秘密裡に結成した[10]。同時に、李の要請や前年の大杉の渡航に触発されて、上海に近藤を代表者として派遣することを決定した[10]。また、暫定執行委員会を発足させて、宣言と規約を決定した[10][12][13]

同年4月末、近藤栄蔵は上海へ渡航し、コミンテルンの朴鎮淳らに日本共産党準備委員会の活動を報告し、規約等を提出する。近藤は運動資金を受け取って帰国するが、帰途下関で遊興中に逮捕され、所持金の出処を探索される[14][15]。近藤は上海から持ち帰った運動資金の使途を堺・山川に相談するが、近藤に一任される。そこで近藤は、高津正道らによる暁民会に資金提供する。暁民会は「日本共産党」を称して反軍運動を行うが、同年11月~12月に一斉検挙されて潰える(暁民共産党事件[16]

同年9月、コミンテルンから張太雷が来日し、堺・山川・近藤栄蔵らと接触して、翌年1月からモスクワで開かれる極東諸民族大会への代表派遣を要請する。この要請に応えて、近藤栄蔵・高尾平兵衛らの人選により、アナ派から吉田一和田軌一郎ら4人、ボル派から高瀬清(暁民会)・徳田球一水曜会)の2人が参加する[17][18]。同会議にて日本代表団は、日本共産党を正式に結党して、次のコミンテルン大会で報告し日本支部として承認を得るよう指示される[19]。大会参加者の帰国後、徳田や高瀬の強い要請により、日本共産党の正式な創立へと向かう[20]

創立

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1922年(大正11年)7月15日東京府豊多摩郡渋谷伊達町(現在の渋谷区恵比寿)の高瀬清の部屋にて、堺・山川・近藤栄蔵・高瀬・橋浦・吉川守圀浦田武雄渡辺満三の8名が会合をもち、秘密裏(非合法)に日本共産党を結成した。執行委員には堺・山川・近藤栄蔵・荒畑寒村・高津・橋浦・徳田の7名を選任し、堺を代表者とした。総務幹事に山川・荒畑・高津、国際幹事に堺を選任した[21][22]

創立時に正式な創立宣言は出されなかったため、創立直後に発表された山川の論文「無産階級運動の方向転換」(『前衛』1922年7・8月合併号)が重要な役割を果たした。その中で山川は「大衆の中へ!」というスローガンを掲げ、思想の純化に並んで大衆の実際の要求と向き合う必要性を説いた(山川イズム[23][24]

正式な創立を終えた日本共産党は、1922年11月のコミンテルン第4回大会に高瀬清川内唯彦を派遣して党の創立を報告し、コミンテルン日本支部として承認を得る[25][26]。その後、日本側はブハーリンらが起草した日本共産党綱領草案(「22年テーゼ」)[27] を日本に持ち帰る[28]

1922年12月頃、加藤友三郎内閣による過激社会運動取締法・労働組合法・小作争議調停法の三法制定の動きが取り沙汰されると、翌年にかけて三悪法反対運動に取り組む[29]

第二回大会~石神井会議

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1923年(大正12年)2月4日、千葉県市川市の料亭で第二回大会が開催された。出席者は17名とされる。コミンテルン第4回大会の報告ののち、規約改正の審議、役員人事などが行われた。綱領問題の議論は石神井会議に持ち越された。執行委員には、堺・浦田・渡辺・吉川・佐野学上田茂樹杉浦啓一仲宗根源和小岩井浄辻井民之助の10名が選出された[30]

同年3月15日、北豊島郡石神井村(現・練馬区石神井)の料亭で臨時大会石神井会議)が開催された。出席者は23名とされる。ブハーリンらが起草した日本共産党綱領草案(「22年テーゼ」)が議論されたが、ブルジョワ革命二段階革命論)かプロレタリア革命一段階革命論)かの問題、および君主制天皇制)の扱いで結論が出ず、審議未了となったとされる[31]

これ以降も、日本共産党は戦前・戦中の非合法政党時代に自己が作成した綱領を持つことはなく、27年テーゼ32年テーゼなどのコミンテルン決議が綱領として位置づけられた[要出典]

また、この頃に青年組織「日本共産青年同盟」(共青)および労働者組織「レフト」が結成された。

一斉検挙から解党へ

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1923年(大正12年)6月5日、佐野学の隠匿党内文書が警察に押収されたのをきっかけとして、日本共産党は結党後初の大規模な一斉検挙を受ける(第一次共産党事件)。佐野学・近藤栄蔵高津正道らは国外へ逃亡するが、堺利彦荒畑寒村ら指導部を含む80名が検挙され、治安警察法(秘密結社禁止)違反で29名が起訴された。証拠不十分で無罪となった山川らを除いて、1926年(大正15年)8月までに禁錮8カ月~10カ月の有罪判決が確定した[32][33]。なお、石神井会議での天皇制に関する討議の記録は残していなかったため、大逆罪死刑)での訴追は免れた[34]

第一次共産党事件および関東大震災後の虐殺事件(甘粕事件亀戸事件)をうけて、堺・山川らを中心に党内では解党論が広まる[35][36]

1924年(大正13年)2月~3月頃、東京府荏原郡森ヶ崎(現・東京都大田区大森南)の森ヶ崎鉱泉の温泉宿にて、堺利彦荒畑寒村徳田球一市川正一佐野文夫野坂参三北原龍雄が会合し、党の解体を決定する(森ヶ崎会議)。同時に、残務処理と将来の再建のためのビューローが設置され、荒畑・徳田・野坂・青野季吉佐野文夫らが選ばれる[37]

解党後

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1925年(大正14年)1月、コミンテルン執行委員会極東部の招集によって上海で日本共産主義者会議が開かれ、佐野学荒畑寒村徳田球一らが参加する。同会議は「上海テーゼ」を策定し、普選運動の欠如や大衆扇動の不足、解党などの従来の日本共産党の活動を批判した上で、新たなビューローの設置と日本共産党再建を指示した[38]

同年9月、再建方針に反対する山川らを除く形で新ビューローが結成される。これを基盤として、1926年(大正15年)12月に「第3回大会」(五色温泉大会)が開催され、日本共産党は秘密裏に再建された(第二次共産党[39]。一方、日本共産党再建に参加しなかった堺利彦・山川均・荒畑寒村らは、1927年に雑誌『労農』を創刊、いわゆる労農派を形成した。

主な参加者

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犬丸 1993, pp. 339–340 による。

脚注

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  1. 中北 2022, p. 63.
  2. 犬丸 1993, p. 184.
  3. 犬丸 1993, p. 338.
  4. 中北 2022, p. 66.
  5. 中北 2022, pp. 53–55.
  6. 中北 2022, pp. 56–59.
  7. 同志社大学人文科学研究所 1970, pp. 124–126.
  8. 中北 2022, pp. 56–61.
  9. 犬丸 1993, p. 76-77.
  10. 1 2 3 4 犬丸 1993, p. 84-87.
  11. 近藤 1949, pp. 56–58.
  12. 川端 1982, pp. 46–53.
  13. 村田 1986, pp. 484–489.
  14. 犬丸 1993, pp. 86–87.
  15. 同志社大学人文科学研究所 1970, pp. 182–209.
  16. 同志社大学人文科学研究所 1970, pp. 227–232.
  17. 犬丸 1993, pp. 130–133.
  18. 川端 1982, pp. 169–177.
  19. 川端 1982, pp. 321–323.
  20. 犬丸 1993, pp. 170–172.
  21. 犬丸 1993, pp. 171–186.
  22. 中北 2022, pp. 61–65.
  23. 犬丸 1993, pp. 236–243.
  24. 中北 2022, pp. 64–65.
  25. 犬丸 1993, pp. 252–253.
  26. 中北 2022, p. 61.
  27. 村田 1986, pp. 141–144.
  28. 犬丸 1993, pp. 254–260.
  29. 犬丸 1993, pp. 249–252.
  30. 犬丸 1993, pp. 261–270.
  31. 犬丸 1993, pp. 270–290.
  32. 犬丸 1993, pp. 324–335.
  33. 我妻栄ほか 1969, pp. 355–378.
  34. 中北 2022, p. 69.
  35. 中北 2022, pp. 68–69.
  36. 犬丸 1993, p. 369.
  37. 犬丸 1993, pp. 359–371.
  38. 村田 1993, pp. 6-15、pp.341-343.
  39. 中北 2022, p. 71-72.

参考文献

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関連文献

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辞典

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外部リンク

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関連項目

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