小岩井浄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

小岩井 浄(こいわい きよし、1897年明治30年)6月9日1959年昭和34年)2月19日)は、日本社会運動家教育者弁護士愛知大学第3代学長

来歴・人物[編集]

長野県東筑摩郡島立村(現・松本市)の農家で自由民権運動家(普選運動家)の小岩井宗十の長男として生まれる。1915年旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を本荘太一郎校長との衝突を理由に中退、その後旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)に入学する。第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学を卒業。法学部政治学科在学当時は東大新人会で活躍し,風早八十二細迫兼光らと親交する。卒業後、大阪労農弁護士として多くの争議を担当する中で、大衆との連帯の重要性を知り、1922年日本共産党入党。1923年第一次共産党事件では共産党大阪支部長として検挙される。

1926年労働農民党結成に関与し、1927年には自身も労農党に加わるが、福本イズムには批判的で、1929年大阪市議会議員に当選し、同年新労農党を結成した。1930年、新労農党解消運動に加わり、大阪府議会議員に当選する。1931年日本赤色救援会大阪地方委員長として再び検挙される。1935年加藤勘十らと『労働雑誌』を創刊。労働戦線の統一と人民戦線運動に尽力し、その後も人民戦線を模索するが、1937年の検挙で転向して上海にわたり、上海経済研究所の副所長、東亜同文書院教授となる。

終戦後、本間喜一と愛知大学設立に携わり、教授、学長・理事長を歴任した。 1959年膵臓癌のため[1]豊橋市の病院で死去、享年62。

著書[編集]

  • 『冬を凌ぐ』 (1935年 ナウカ社)
  • (翻訳)『中華人民共和国憲法』(1957年 有斐閣

脚注[編集]

  1. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)11頁

出典[編集]

  • 加藤勝美『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)