隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、拼音: 、581年 - 618年[注釈 1])は、中国の王朝である。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。現代で「隨」は「随」の旧字体[2]。
国号[編集]
先史時代 | |||||||||||
古国時代 (三皇五帝) |
(黄河文明・ 長江文明・ 遼河文明) | ||||||||||
夏 | |||||||||||
殷 | |||||||||||
周(西周) | |||||||||||
周 (東周) |
春秋時代 | ||||||||||
戦国時代 | |||||||||||
秦 | |||||||||||
漢(前漢) | |||||||||||
新 | |||||||||||
漢(後漢) | |||||||||||
呉 (孫呉) |
漢 (蜀漢) |
魏 (曹魏) | |||||||||
晋(西晋) | |||||||||||
晋(東晋) | 十六国 | ||||||||||
宋(劉宋) | 魏(北魏) | ||||||||||
斉(南斉) | |||||||||||
梁 | 魏 (西魏) |
魏 (東魏) | |||||||||
陳 | 梁 (後梁) |
周 (北周) |
斉 (北斉) | ||||||||
隋 | |||||||||||
唐 | |||||||||||
周(武周) | |||||||||||
五代十国 | 契丹 | ||||||||||
宋 (北宋) |
夏 (西夏) |
遼 | |||||||||
宋 (南宋) |
金 | ||||||||||
元 | |||||||||||
明 | 元 (北元) | ||||||||||
明 (南明) |
順 | 後金 | |||||||||
清 | |||||||||||
中華民国 | 満洲 | ||||||||||
中華人民 共和国 |
中華 民国 (台湾) |
隋という国号(王朝名)は建業者である高祖楊堅の北周時代の爵号である隨国公に因む。楊堅がかつて隨州の刺史に任じられたことで隋朝の名称の由来となった。この隨(国)は地名で現中華人民共和国湖北省随州市に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として辵部(しんにょう、辶)を省いた「隋」と相互に通用され、更にその「隋」から「工」を省いた「陏」の字が用いられることもあり [注釈 2]、その後、おそらくは中唐以降に「隨」と「隋」とは区別されて地名は「隨」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後、高祖楊堅が「隨」字に含まれる辵部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代を髣髴させるためにこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び辵部には平穏に歩を進める字義がある一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅は改字によって却って王朝の命運を縮めたという附会説も行われ、これが宋朝の儒学者たちの儒教的史観による革命解釈に適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった[注釈 3]。
隋室楊氏の出自[編集]
隋の帝室である楊氏は『隋書』によれば、後漢代の有名な官僚の楊震の子孫にあたるという(ただし、谷川道雄は「隋の帝室楊氏は、漢代以来の名族として名高い弘農郡の楊氏の出身と称するが、真偽のほどはさだかでない。確実な記録では、祖先は北魏時代、長城北辺の武川鎮で国境防衛にあたっていた軍人の家柄で、その通婚関係からみて、非漢民族の血を多く交えているらしい」と述べている[3])。楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとしたところ、「天知、神知、我知、子知、何謂無知(天地の神々が知っている。私とあなたも知っている。誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという四知の逸話で有名な人物である。その後、楊氏は北魏初期に武川鎮へと移住し、楊堅の父の楊忠に至る。武川鎮とは北魏において首都の平城を北の柔然から防衛する役割を果たしていた軍事基地の一つである(武川鎮軍閥、六鎮の乱などを参照)。楊震以後の系図は「楊震…楊鉉 - 楊元寿 - 楊恵嘏 - 楊烈 - 楊禎 - 楊忠 - 楊堅」となるが、楊震と楊鉉のあいだは二種類の系図(『隋書』文帝紀と『新唐書宰相世系表』)が全然合わず、『隋書』は、楊鉉を楊震の八代の孫としているのに対して、『新唐書宰相世系表』は、十九代の孫としており、さらに、両系図ともに途中に名前も不明の世代が多く、これらはいずれも偽作の系図であり、それには二通りあったことになる[4]。一つは隋代にすでに偽作されており、もう一つは唐代になってからの偽作とみられ、これは隋室楊氏を漢人出身としなければ都合が悪いと思っての仮託とみなされる[4]。
北魏孝文帝のとき、帝室の拓跋氏(虜姓)を元氏(漢姓)に変えるといった風に、虜姓とよばれる北族の姓を漢姓に改めるという漢化政策が行われたことがあったが、西魏末年、これに反発して、鮮卑国粋主義の波にのって姓名を再び漢姓から虜姓に改姓(虜姓再行)し、漢人にも虜姓を賜与し、漢人に対しても鮮卑化政策を行い、554年ころに楊堅の父の楊忠にも普六茹(ふりくじょ)という虜姓を与えられたとされ[5]、楊堅も普六茹堅とよばれていた。普六茹は楊(ヤナギ)の鮮卑語である[6]。楊堅も、那羅延という鮮卑風の小字を持っていた。
しかし、八人の柱国大将軍とその下の十二人の大将軍から構成された西魏常備軍の八柱国・十二大将軍は、李虎(唐の高祖李淵の祖父)、李弼(隋末反乱期の英雄李密の曾祖父)、楊忠(楊堅の父)を除いては鮮卑系であり、八柱国・十二大将軍の家は、本来すべて鮮卑系であるが、上記の三氏、とくに隋室楊氏、唐室李氏は、漢人に君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜を偽作したのではないかと疑われる[5]。隋室楊氏は、西魏・北周で頭角を現した旧六鎮の北族を出自とする新興の氏族に過ぎず、その勢力は甚だ脆弱であり、北族系氏族が漢人門閥を標榜して王朝を立てた先達の北斉に倣い、北族であった隋室楊氏が自らの基盤を強化するために漢人門閥の弘農楊氏を冒称し、血縁に限らず楊姓の者を「宗人」「皇族」として宗衛に集めて積極的に取り込み、隋室本体の基盤を強化したものであり、元々は鮮卑の出自で西魏・北周時代に称していた普六茹が本来の姓で、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊氏であるという説がある[7]。
日本学界では、布目潮渢[8][9]、古松崇志[10]、楊海英[11][12]、宮脇淳子[13][14][15]、岡田英弘[16][17][18][19]、加藤徹[20][21]、外山軍治[22]、礪波護[22]、佐藤智水[23]、村元健一[24]、堀井裕之[25][26][7][27]、会田大輔[7]、片山剛[28]、宇和川哲也[29][30][31]、伊達宗義[32]、小林道憲[33]、向井佑介[34]、梅原猛[35]、渡部昇一[36][37]、斉藤茂雄[38]、塚本靑史[39]、村山秀太郎[40]、古田博司[41]、宇山卓栄[42]、上田雄[43]、孫栄健[43]などが鮮卑説を支持している。
日本学界以外では、韓国政府の行政機関である韓国コンテンツ振興院の「楊堅」の項目には、「鮮卑族または鮮卑族との混血出身と推定される」と記述しており[44]、韓国の代表的な百科事典である斗山世界大百科事典などの各種辞典の「楊堅」の項目には、「弘農華陰人と名乗るが、実際には漢人ではなく鮮卑族、または鮮卑族との混血武将家出身である」 と記述している[45][46]。楊氏の鮮卑説の根拠として以下のものが挙げられる。
- 鮮卑の宇文泰が自分と同じ立場の鮮卑人の武川鎮軍閥関係者から八柱国と十二大将軍を置いたが、十二大将軍の一人が陳留郡開国公楊忠(楊堅の父)であること(唐の初代皇帝李淵は八柱国の一人の隴西郡開国公李虎の孫)[47]
- 煬帝が父の文帝の姫妾(陳氏)を後宮に入れるなど、遊牧民の風習であり、儒教では不義にあたるレビラト婚を行っていること[39]
- 楊氏は楊震から出たとされるが真偽はわからないこと[48][3][49]
- 楊氏が五胡十六国時代から南北朝時代に、数代にわたり鮮卑の国家北朝の官人を務めたことは事実であること[49]
- 楊堅の祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である鮮卑の名門一族と通婚を行っていること[50]
- 楊堅の皇后の独孤伽羅は鮮卑族の有力貴族の独孤氏であること[51]
- 南北朝時代に華北を支配した北朝は鮮卑人を支配層とする王朝であり、隋も北朝の系統から成立したこと[52]
- 楊忠が目立った活躍がないにもかかわらず創成期の十二大将軍の一人に選ばれたこと[29]
- 宇文氏・独孤氏と姻戚関係を結んでいたことから、宇文氏と近い北族系人物であると考えられること[29]
- 7世紀はじめの東ローマ帝国の歴史家であるテオフィラクトス・シモカテスは、581年の隋の統一を「タウガス Taugas の統一」と表現している[53]
- 『隋書』高祖本記は「漢の太尉楊震の八世の孫の楊鉉、燕に仕えて北平の太守となる。楊鉉、楊元寿を生む。後漢の代、武川鎮の司馬となる。子孫因よりて焉に家す」とあり、隋室楊氏の世系を楊震から楊鉉まで8代としている。一方、『新唐書宰相世系表』は、隋室楊氏の世系を楊震から楊鉉まで19代としており、大きく矛盾している[54]。清代の学者沈炳震は『唐書宰相世系表訂偽』において、隋室楊氏の系譜に疑問を呈しており[55]、清代の学者万斯同も『新唐書宰相世系表』は漢の霊帝から前燕に至る170年ばかりの間に17代を数えており、如何にも不合理であると指摘している[54]
一方、鮮卑か否かを断定しない意見もあり、守屋洋は「楊氏はもと胡族(鮮卑)から出たのではないかと言われているが、このほうがむしろ信憑性が高いかもしれない」と述べており[56]、陳舜臣は「隋の文帝楊堅は、後漢の太尉で硬骨をもって知られた楊震の末裔と称していますが、鮮卑族の血が濃いという説もあります。祖父楊元寿が北魏の六鎮のなかの武川鎮の司令官でしたから、鮮卑説も根拠がないわけではありません。北魏が東西に分裂したとき、彼の父楊忠は西魏の将軍になりました。西魏とそれにかわった北周は、府兵を指揮する軍人貴族として、『八柱国』『十二将軍』を設けたことは前述したとおりです。文帝楊堅の時代になって、将軍から柱国に昇進したのですから、秦の始皇帝にくらべて、隋の文帝の家系的背景はきわめて薄弱であったといわねばなりません」と述べている[57]。
貝塚茂樹は、「隋王朝の開祖文帝、すなわち楊堅の父にあたる楊忠は北周開国の功臣の一人で、妻は鮮卑の貴族独孤氏の女である。華北北朝の漢族官僚と異民族との混血児である楊堅が、華北における漢族と異族との融合の結果誕生した統一王朝の君主となったのは決して偶然ではなかった」と述べており、漢族と鮮卑の混血としている[58]。楊堅の母は、山東の漢人寒族の呂氏というが、素性は明らかでなく、楊堅即位後にそのおいと称する呂永吉なるものが現れているが怪しく、北魏のとき、呂氏と改めた鮮卑族の叱呂氏という指摘がある[59]。
常石茂と駒田信二は、「楊氏は漢人だったが、常に鮮卑と婚姻を通じていたので、楊堅は鮮卑語で普六茹堅と呼ばれていた」と述べており、漢族と鮮卑の混血としている[60]。
宮崎市定は、「宇文氏の北周は鮮卑であり、楊氏の隋は漢人であると区別することがよく行われるが、これほど無意味なことはない。当時においては既に宇文氏も鮮卑というの要を認めぬほどに中原化し、その朝廷には漢字を用い、中原語を話していた。一方楊氏は姓こそ中原の姓であるが、その血統において、その風習において、先朝の宇文氏とどれほどの差違があろうか。宇文氏も楊氏も更生せる新社会における同性質なる一分子たるに過ぎなかった」と述べている[61]。
従来、隋・唐に関する歴史教科書の記述は、魏晋南北朝時代の分裂を漢人国家が再統一したかのごとく描かれてきたが、近年は、北魏にはじまる北朝から隋・唐の諸王朝を「拓跋国家」という言葉を使用、一括して扱う帝国書院の歴史教科書などがあらわれている[53]。「拓跋国家」とは、北魏から唐にいたる過程で、遊牧と農耕、鮮卑諸部族と他諸部族、漢人と非漢人などが共存・混沌としていた地域を拓跋出身の支配層が中核となり、非漢人諸部族や漢人を取り込み、軍事力によって統合した政治連合体をあらわす[53]。2017年度から使用されている清水書院の歴史教科書『高等学校 世界史A』は、「北朝では、534年に北魏が分裂した後も鮮卑系の王朝が興亡し、鮮卑系の楊堅が建国した隋は、北朝だけでなく南朝の陳も征服して、589年中国を統一した」と書かれている[62]。
歴史[編集]
隋の建国まで[編集]
楊堅の父の楊忠は北魏が西魏・東魏に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に宇文泰に従って西魏の成立に貢献し、大将軍を務め、随国公の地位を得ていた。
568年に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。北周の武帝は宿敵の北斉を滅ぼし、更に南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していたが、578年に崩御した。武帝の跡を継いだ宣帝は奇矯な人物で、5人の皇后を持っていた。このうちの1人が楊堅の長女の楊麗華であり、楊麗華は宣帝の側室である朱満月が生んだ太子の宇文闡(後の静帝)を育てた。宣帝の奇行は留まるところを知らず、在位8カ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ丞相の楊堅への声望が高まっていった。580年に宣帝が崩御すると、楊堅は静帝の摂政として全権を掌握した。これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こす。この中で最も大規模なものが尉遅迥によるもので、一時は楊堅の押さえる関中地域以外のすべてで反乱が起きるほどになったが、楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内における覇権を確固たるものとする。
同年末に随国公から随王へと進み北周の兵権を与えられ、更に581年に静帝より禅譲を受けて隋を建国した[63]。
- ※これ以降は楊堅を諡(おくりな)の「文帝」で呼ぶ。
南北統一[編集]
既に北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。当時、南朝陳では宣帝が北周末期より江北への進出を試みていたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにしていた[64]。582年、文帝は陳に対して討伐軍を送り出したが、この年に宣帝が崩御したこともあり、討伐を中止して使者を派遣して弔意を表して軍は撤退した[64]。
北の突厥に対しては長城を修復して防備を固める[64]。584年に突厥が北方で暴れると、文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後文帝は突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させた[65]。
そして淮河と長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開削して補給路を確保する。更に、かつて南朝梁から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。また文帝は連年にわたり農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させることを繰り返させることで人心を動揺させて収穫を減らさせ、更に間諜を使って民家に放火させたりした[66]。こうして陳の国力は急速に衰退し、また皇帝が宣帝の子の陳叔宝でこれが暗愚極まりない愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めた[66]。
588年、文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男の楊広(後の煬帝)であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都の建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられた[67]。ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結した[68]。
開皇の治・文帝の治世[編集]
前後して、文帝は即位した直後から内政面についても次々と改革を打ち出した。
『周礼』と鮮卑回帰政策を進めた北周の路線を改めて、北斉の制度も参照しつつ改革を行った。581年には新たな律令である開皇律令を制定した。この律令は晒し首・車折などの残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかりやすく改めたものであり、後の唐律令はほぼこの開皇律令を踏襲したものである。官制にも大改革を加え、最高機関として尚書省・門下省・内史省(唐の中書省)の3つを置き、尚書省の下に文書行政機関である六部、即ち人事担当の吏部・財政担当の度支部・儀礼担当の礼部・軍政担当の兵部・法務担当の都官部・土木担当の工部の6つを設けた。その下に実務機関である九寺、またこれとは別に監察機関である御史台を置いた。地方についてもそれまでの州>郡>県という区分を止めて、州>県の2段階に再編を行った。そして文帝の治績の最大のものとして称えられるのが、科挙(正式には貢挙)の実行である。南北朝時代では九品官人法により、官吏の任命権が貴族勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これを持って官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙ったのである。このように文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐朝274年の礎となった。これらの文帝の治世をその元号を取って開皇の治と呼ぶ。
文帝の皇后の独孤伽羅は非常に我の強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独孤皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近付くことを警戒していた。文帝と独孤皇后の間には6人の子がおり、その長男の楊勇が初め皇太子に立てられていたが、楊勇は派手好みで女好きであり、質素を好む文帝・貞操を重視する皇后の両者から嫌われ、それに代わって両親の気に入るように振舞っていた次男の楊広が皇太子に立てられる。
604年、文帝は病に倒れた[69]。この病床の間に楊広の本性を知った文帝は激怒して廃太子にした長男楊勇を再び太子にしようとした[70]。しかしそれが叶う直前に文帝は崩御した[71]。病死ともいわれているが、楊広に先手を打たれて右庶子の張衡に殺害されたともいわれる[71]。
煬帝の治世[編集]
楊広は文帝の崩御により、煬帝として即位した[71]。煬帝は即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して殺害し[71]、更に弟の漢王楊諒の反乱も抑えた[69]。こうして兄弟たちを策謀によって殺害して競合相手を消した煬帝は質素を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが東都洛陽城の建設と、大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとしたことである。これらの大土木工事で河南諸郡の100万余の男女が徴発されて労苦に喘いだ[72]。更に大運河工事に関しても煬帝自身の行幸や首都に対する輸出入、軍隊の輸送などに使われて民間への便益は極めて薄かった[72]。煬帝の派手好みは臣下にも広まり[73]、風紀の弛緩を招いた。更に煬帝は当時は従属していた突厥に備えるため、100万余の男女を徴発して長城の修築を行ない、この過酷な労役で多くの男女が命を落とした[74]。煬帝が行幸を東西に繰り返したことも、国庫や民衆に多大な負担をさせるには十分だった。610年1月には洛陽で諸国の朝貢使節を招いて豪勢な接待をしたことも、民衆に多大な災難を招いた[75]。
611年、煬帝は文帝がやりかけていた高句麗遠征を以後3度にわたって行なった[76]。612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであり、来護児や宇文述らが指揮官として高句麗を攻めた[76]。しかし1回目の遠征は大敗し、更に兵糧不足もあって撤退する[77]。613年には煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが結果は得られず、614年に行なわれた3度目の遠征では高句麗側も疲弊していたこともあって煬帝に恭順の意を示したが、煬帝が条件とした高句麗王の入朝は無視され、煬帝は4回目の遠征を計画する[77]。
相次ぐ反乱と群雄割拠、隋の滅亡[編集]
煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中にかつての煬帝の側近楊素の息子楊玄感が黎陽で反乱を起こして洛陽を攻撃した[78]。これは煬帝が派遣した隋軍により鎮圧されて楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして中国全土で反乱が起こり出した[78]。
これまで従属していた突厥は隋の衰退を見て再び北方で暴れだしたので、煬帝は自ら軍を率いて北方に向かうも突厥軍に敗れて洛陽に撤退[78]。この敗戦が更なる引き金となり、616年には反乱が各地でピーク状態に達した[79]。やがて反乱軍の頭領は各地で群雄として割拠し、楊玄感の参謀を務めていた李密(北周八柱国の李弼の孫にあたり、関隴貴族集団の中でも上位の一人。楊玄感の敗死後に、洛口倉という隋の大食料集積基地を手に入れることに成功し多数の民衆を集めた)、この李密と激しく争っていた西域出身で隋の将軍を務めていた王世充、高句麗遠征軍から脱走し、同じ脱走兵たちを引き連れて河北に勢力を張った竇建徳、そして隋の太原留守であった李淵(後の唐の高祖)などが独立勢力となった(隋末唐初の群雄の一覧)。
この反乱に対して煬帝は最初は鎮圧に努めたが、その処理が反徒の殺戮政策という過酷なものだったため、却って逆効果を招いた[79]。激しくなる反乱の中、もはや隋軍では対処し切れなくなり、煬帝は江都に行幸してここに留まり、反乱鎮圧の指揮を執った。しかし煬帝が南方に行幸したことは実質北方を放棄して逃走したも同じであり、北方の反乱はますます激しくなり、遂に李淵により首都大興城までもが落とされてしまう。大興城を掌握した李淵は首都に不在であった煬帝の退位を宣言し(表面上は煬帝を尊んで太上皇としている)、煬帝の孫の楊侑(恭帝侑)を即位させた[80]。
このような事態にも関わらず、江南に腰を据えた煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みなくなり、遂には諫言や提言する臣下に対して殺戮で臨むようになって全く民心を失った[80]。だが、煬帝に従って江都に赴いていた隋軍は多くが北方の出身者であり[80]。重臣の宇文化及はこうした情勢の中でついに煬帝を見限り、反煬帝勢力を糾合して618年に謀反を起こし[81]、煬帝を縊り殺した[81]。こうして政権を奪取した宇文化及は、煬帝の甥(煬帝の弟の秦孝王楊俊の子)の秦王楊浩を皇帝に擁立し、江都の隋軍を率いて北へと帰還しようとしたが、王世充・李淵・李密らの勢力に阻まれて大興城を恢復することはできなかった。そこで宇文化及は皇帝楊浩を毒殺し、国号を許として自ら皇帝に即位する。しかし宇文化及は天寿2年(619年)に竇建徳との決戦に大敗して殺害され、ここに許の政権は崩壊した。
また、東都洛陽の留守を任されていた煬帝の孫の越王楊侗は大業14年(618年)の煬帝の死を受け、王世充・元文都・皇甫無逸などに擁立されて皇帝に即位した。これが恭帝侗(皇泰主)である。しかし619年には王世充は恭帝侗に禅譲を迫り、自ら皇帝に即位して鄭を立国した。
その一方で、煬帝の死を聞いた李淵は、恭帝侑から禅譲を受けて唐を建てた。
こうして煬帝は殺害され、煬帝の後継者として隋の正統を名乗った恭帝侑、恭帝侗、秦王楊浩も、それぞれ李淵の唐、王世充の鄭、宇文化及の許に簒奪されたため、隋は完全に滅亡した。なお、煬帝の「煬」の文字は、「天に逆らい、民を虐げる」という意味を持ち、李淵が贈った諡である。
なお、煬帝の孫の一人である楊政道(斉王楊暕の遺腹の子)のみ、唯一生き延びた。彼は突厥の処羅可汗の庇護を受けたが、630年、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順して、官職を賜った。楊政道には楊崇礼(隆礼)という子がおり、煬帝の曾孫である。楊崇礼の子女が、楊慎余・楊慎矜・楊慎名の三兄弟で煬帝の玄孫にあたる。特に次男の楊慎矜が兄弟の中でも優秀であったが、747年に隋の復興を企ていると讒言があり、自殺に追い込まれた。妻子は嶺南に流刑に処された。楊慎余と楊慎名も自殺に追い込まれている。
他に煬帝の皇女が唐の第2代皇帝李世民の妃の一人となり、李恪・李愔の2男を儲けた。李恪の子孫は少なくとも昆孫の代、李愔の子孫は少なくとも孫の代まで存続し、女系ではあるが隋皇族の血筋はしばらくは保たれている。
政治[編集]
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律令[編集]
律令は基本法典として定められた律(刑法)令(行政規定)格(追加規定)式(施行規定)に基づいて国家を運営する体制で、刑法、衛禁、服務、戸婚、後述の均田制や府兵制などもこれによって定められている。隋は政治的には北周を継承したが、律令制度は混乱を招いた『周礼』を基にした北周のものではなく、梁を基礎とした北斉のものを模範とした。北斉の『河清律令』が基とされる。583年に高熲や蘇威の貢献が大きい開皇律令を規定した。律・令を補う法制としての格・式も隋代において完成した[82]。また、残酷な刑罰の廃止や律の簡素化などの改革が行われた。律令は本来皇帝の代替わりごとに修正公布されるもので、煬帝が即位すると大業律令を定めた。大業律令にも大幅な改革が加えられていたが詳細は判明しない[82]。
官制[編集]
唐代の律令官制の中央行政機関である三省六部は、開皇律令で既に完成しており、三省(中書省・門下省・尚書省)、六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)、九寺(鴻臚寺など)、一台(御史台)という。ただし隋では「刑部」を「都官」、「戸部」を「度支」とするなど官名が一部異なる。
地方官制としては、州・郡・県の三級制から州・県の二級制(州県制)へ改革した。これは地方長官が任命していた州県官を中央からの派遣に改めて兵権を取り上げることで、門閥貴族を抑圧すると同時に中央集権化を進めた[82]。
科挙制度[編集]
三国時代の魏以来、官制としては九品官人法が使われていたが、この制度は家格の高低によって郷品が決められてしまう問題があったため、文帝の時代の地方官制改革と共に廃止された。そのかわりに導入されたのが科挙制度即ち科目別の試験制度である。宮崎市定によると587年に試験が開始され、及第者には高等官となる資格が与えられて科挙の起源となった[83]。ただし、当時の科挙の合格者は毎年数名程度であった[82]。
軍事[編集]
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経済[編集]
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税制としては、隋は北朝以来の均田制を継承しながら租庸調制を確立した。
文化[編集]
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宗教[編集]
国際関係[編集]
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日本[編集]
ヤマト政権の推古天皇の摂政であった聖徳太子は遣隋使を5回以上派遣して隋の文化を輸入した。仏教意識が強く、『隋書』内の遣隋使の言葉の中で煬帝に対して「海西の菩薩天子」と呼びかけ、留学僧数十人を派遣している[82]。小野妹子が煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した。
朝鮮半島[編集]
高句麗は、分裂が解消された中国の勢力を恐れ、突厥と組んで隋王朝に対抗しようとしたが、結局は煬帝と朝鮮諸国による複数の遠征によって阻まれた。しかし、結局滅亡に追い込まれることはなく、滅亡したのは次の唐王朝の時代になってからである。
西域[編集]
隋王朝は西域の支配も確立した。以前の王朝が本土の戦争によって西域の支配がおろそかになって多くの国が独立したが、隋王朝はその多くを奪還し、また突厥に対しても西域の一部を奪取することに成功した。これらの出来事は、後の国際的な文化の発展につながってくる。
突厥[編集]
突厥には、嫁いだ隋の宗室の娘である義成公主がおり、君主の妃となった。
隋の皇帝一覧[編集]
皇帝略歴[編集]
- 文帝
系図[編集]
楊禎 | 廃太子房陵王勇 | 燕王倓 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武元皇帝忠 | 元徳太子昭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蓋氏 | 1高祖文帝堅 | 蕭皇后 | 4恭帝侗(皇泰主) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元明皇后呂氏 | 斉王暕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蔡王整 | 2世祖煬帝広 | 3恭帝侑 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
趙王杲 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
滕王瓚 | 蕭嬪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道王嵩 | 秦王俊 | 5秦王浩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
衛王爽 | 楊秀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
楊諒 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年号[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
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- ^ a b 布目潮渢・栗原益男 『隋唐帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、1997年10月9日、28-29頁。ISBN 4061593005。
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- ^ a b c 堀井裕之 『隋代弘農楊氏の研究 : 隋唐政権形成期の「門閥」』 19巻学習院大学東洋文化研究所〈東洋文化研究〉、2017年3月、406-407頁 。"隋朝政権を創業した楊堅の一族は、西魏・北周で頭角を現した旧六鎮の北族を出自とする新興の氏族に過ぎず、その勢力は脆弱であった。自らの基盤を強化するために漢人門閥の弘農楊氏を自称し、その本宗として「華陰諸楊」に対して影響力を持つ越公房を積極的に取り込もうとしたことは、想像に難くない。…最近では会田大輔氏が、隋朝創業前夜、北周の宣帝が「天元皇帝」を自称し、胡漢を超越した「中華皇帝」の道を模索して挫折したことを論じ、本来、北族であった隋室楊氏・唐室李氏が漢人門閥を標榜して、「漢人」皇帝として中華を統べた背景も視野に入れて、当該時代を理解すべきことを提唱した。…本稿では、北族出身の隋室楊氏が自らの基盤を漢人門閥の弘農楊氏に求めたことが明らかになった。北族系氏族が漢人門閥を標榜して王朝を立てた隋朝の先達として北斉があり、その継承者として唐朝がある。"。
- ^ 日本大百科全書『楊堅』 - コトバンク「後漢の学者・政治家である楊震の子孫で、弘農華陰の人と称しているが、おそらくは漢人ではなく鮮卑族であろう。」
- ^ 布目潮渢 『隋の煬帝と唐の太宗 暴君と明君、その虚実を探る』清水書院〈新・人と歴史 拡大版 27〉、2018年6月11日、24頁。ISBN 4389441272。"隋室の楊氏が本来どのような家柄であるかを探求しなければならない。あるいは鮮卑族ではないかともいわれているが、それは鉉の子の元寿に由来する。"。
- ^ 古松崇志 『中國的歷史3:草原的稱霸』聯經出版、2021年11月4日、39頁。ISBN 9789570860511 。"唐朝開國者李淵(唐高祖,六一八年-六二六年在位)的祖先來自鮮卑族,原本使用胡姓大野氏,北魏時代為生活於武川鎮一帶的遊牧民。在建立唐朝後並稱漢人名門望族隴西李氏,隠去自己北方遊牧民的出身,藉此宣揚自身乃是中華的正統統治者。建立隋朝的楊氏也與李氏有類似的出身。"。
- ^ 楊海英 『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』文藝春秋、2019年3月8日、25-26頁。ISBN 416791252X。"それは、歴史とのむきあい方にもあらわれている。つまり、事実にむきあうのではなく、自分たちの都合のいいところだけとりこむのだ。だから、異民族による征服王朝であることがわかっていながら、「偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった」とか、「元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ」と平気で噓をつく。そればかりか、「チベットやモンゴルは清朝の一部だったのだから、いまも自分たちの領土のはずだ」と、現在の侵略的支配や搾取を肯定する論理に利用するのである。"。
- ^ 楊海英 『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』文藝春秋、2019年3月8日、16頁。ISBN 416791252X。"事実、シナ地域の歴史をたどれば、ユーラシアにまたがって交易をおこない、国際的な文化が花開いた時期がある。たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元)、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった。第四章でもふれるが、それが漢人編纂の後の史書では、後漢の名臣の楊震の子孫であると「シナ化」されてつたえられてきたのである。隋につづく唐も鮮卑拓跋系で、首都長安には東アジアだけでなく、いわゆるシルクロードを介して西方からさまざまな人々がおとずれ、商業活動や文化活動が展開された。"。
- ^ 宮脇淳子 『モンゴルの歴史―遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房〈刀水歴史全書〉、2002年10月1日、29頁。ISBN 978-4887082441。"中国王朝の隋も唐も、王朝の祖は、この西魏に仕えた軍人である。西魏で実権を握った宇文泰は鮮卑人で、自分に従った鮮人と漢人の軍人たちを、遊牧騎馬民の伝説の三十六部族・九十九氏族に再編成した。そして漢人には鮮卑の姓を与えた。漢姓と鮮卑姓はどちらを使ってもよく、簡潔に書きたいときは漢名、正式に名乗るときは鮮卑名を使ったらしい。こうして、鮮卑人と鮮卑化した漢人の連合体が陝西省と甘粛省にできたが、この連合体が、宇文泰の息子が皇帝となった北周、これを乗っ取った隋、そのあとの唐の政権の基盤となった。"。
- ^ 宮脇淳子 『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所〈PHP新書〉、2006年2月1日、39頁。ISBN 4569648800。"六一八年、隋の楊帝は反乱で殺され、唐が建国された。ちなみに隋も唐も、帝室の祖先は、もともと大興安嶺出身の鮮卑族である。後漢末の一八四年、宗教秘密結社が決起した「黄巾の乱」と、これを鎮圧した政府軍の内戦である一八九年の「董卓の乱」のせいで、漢人人口は激減した。三国時代を通じて、周辺の夷狄が大量に内地に移住していたのである。中国史で「五胡十六国の乱」といわれるものは、華北に移住した異民族が、つぎつぎに十六国を建国したもので、そののち華北を統一した北魏も鮮卑族出身で、隋と唐の支配層は、この北魏の系統である。"。
- ^ 宮脇淳子 『朝鮮半島をめぐる歴史歪曲の舞台裏 韓流時代劇と朝鮮史の真実』扶桑社〈扶桑社新書〉、2020年4月30日、23頁。ISBN 978-4594084523。"273年ぶりに出現したシナの統一王朝。北朝の北周を引き継いで建国され、589年に南朝の陳を滅ぼした。皇室の楊氏は鮮卑族出身。"。
- ^ 岡田英弘・宮脇淳子 『滅亡の歴史を理解するために もう騙されない これが中国史の正体だ』文藝春秋、2016年7月、67頁。"この隋も鮮卑族の国ですから、シナは完全にアルタイ化してしまうわけです。…隋・唐ともに鮮卑人のつくった王朝です。"。
- ^ 岡田英弘 『中国文明の歴史』講談社〈講談社現代新書〉、2004年12月18日、102頁。ISBN 978-4061497610。"この時代の王朝である隋も唐も、その帝室は鮮卑系の王朝であった北魏・西魏・北周のもとで実現した、鮮卑族と、鮮卑化した漢族の結合した集団の中から出てきたものである。"。
- ^ 岡田英弘 『だれが中国をつくったか』PHP研究所〈PHP新書〉、2005年9月16日、68頁。ISBN 978-4569646190。"約百年後の五三四年、北魏は東西に分裂し、東魏は北斉に、西魏は北周に取って代わられる。やがて北周は北斉を滅ぼすが、その北周は隋に取って代わられる。これらはみな、鮮卑系の王朝である。そして隋の文帝は五八九年、南朝の陳を併合して、中国世界はふたたび統一された。もともと非中国人だった鮮卑が、中国を再建したことになる。"。
- ^ 岡田英弘 『だれが中国をつくったか』PHP研究所〈PHP新書〉、2005年9月16日、70頁。ISBN 978-4569646190。"隋・唐の帝室は、ともに西魏の宇文泰とともに興った。宇文泰は鮮卑人だったが、五三四年、北魏が東西に分裂すると、西魏の文帝を奉じて長安に独立し、東魏の高歓(やはり鮮卑)と対立した。五五〇年、宇文泰は自分と同じ立場の鮮卑人を八柱国とし、その下に二人ずつの大将軍を置いたが、八柱国の一人は隴西郡開国公李虎であり、もう一人の柱国の独孤信の下の大将軍の一人は陳留郡開国公楊忠である。そして楊忠の息子の楊堅は、隋の初代の皇帝・高祖文帝であり、李虎の孫の李淵は、唐の初代の皇帝・高祖である。これでわかるように、隋も唐も、鮮卑出身だったのである。さて、唐の朝廷は、南北朝時代の「正史」として、宋・南斉・梁・陳を『南史』で、北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋を『北史』で、それぞれ「本紀」を立てて扱った。これは二つの系列の皇帝を認めたことで、「天命」にも二つ、「正統」にも二つがあることになる。自分が鮮卑系である唐の政治的な立場では、北朝も「正統」であると主張するほかに道はなかったのである。おもしろいことに、『北史』の冒頭には、北魏の帝室の出自を述べて、「祖先は黄帝であり、黄帝の息子の昌意の末子が北方に国を建て、そこに大鮮卑山があったので、鮮卑と号するようになった」といっている。これは司馬遷の『史記』をまねて、鮮卑系の北朝にも歴史のはじまりにさかのぼる、中国人の南朝と対等の「正統」の資格がある、と主張しているのである。"。
- ^ 加藤徹 『貝と羊の中国人』新潮社〈新潮新書169〉、2006年6月16日、112-113頁。ISBN 978-4106101694。"隋の楊氏も唐の李氏も、遊牧民族である鮮卑族の血を、濃厚に引いていた。"。
- ^ 加藤徹 『則天武后 シリーズ女王・女帝』、2019年9月21日。 オリジナルの2021年4月16日時点におけるアーカイブ 。"西魏・北周・隋・唐の支配階層は、鮮卑民族の色が濃厚な、いわゆる「武川鎮軍閥」ないし「関隴集団」であった。"。
- ^ a b 外山軍治・礪波護 『隋唐世界帝国』人物往来社〈東洋の歴史5〉、1967年、12頁。"楊という漢姓を名乗っているが、その実は中国化した鮮卑人であろうという説が有力である。"。
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- ^ 村元健一(PDF) 『隋都城の成立過程-難波の都城化を考えるための覚書』大阪歴史博物館、30頁。 オリジナルの2021年9月22日時点におけるアーカイブ 。"文帝の出自である楊氏は、漢族の名門である弘農楊氏を名乗るが、実態は鮮卑系で宇文氏に従った軍閥である。"。
- ^ 堀井裕之 『隋代弘農楊氏の研究 : 隋唐政権形成期の「門閥」』 19巻学習院大学東洋文化研究所〈東洋文化研究〉、2017年3月、427頁 。"隋代の越公房楊氏に関する先行研究として、隋唐政権の形成過程やその性格の解明を視野に入れて楊素・楊玄感の事跡を考察した布目潮渢氏や、当該時期の門閥官僚の典型として楊素とその一門を取り上げた欠端実氏の研究がある。両氏の研究は重なり合う点、あるいは相互補完する点がある。まず、両氏ともに楊素が本貫地との地縁を保持する漢人門閥弘農楊氏の本宗であることを指摘し、本来は北族であった隋室が自ら弘農楊氏を標榜したため、越公房楊氏に敬意を払い重用せざるを得なかったと推論する。"。
- ^ 堀井裕之 『隋代弘農楊氏の研究 : 隋唐政権形成期の「門閥」』 19巻学習院大学東洋文化研究所〈東洋文化研究〉、2017年3月、412頁 。"どうして隋朝政権は越公房を本宗とする弘農楊氏を「宗人」、「皇族」と見なして、宗正寺や宗衛の高官に起用したのであろうか。理由の一つは、隋室が漢人門閥の弘農楊氏を標榜していたからである。しかしながら、その系譜には信憑性がなく、彼ら一族で確かなのは、楊堅の高祖父の楊元寿が北魏時代に北辺の武川鎮の司馬となったことで同地に移り住んだこと、そして、北魏末の六鎮の乱に始まる動乱の渦中にあって、楊堅の父の楊忠が西魏・北周政権に仕えて有力な功臣として大司空・隋国公に栄達し一族が勃興したこと、という二点のみであった。西魏・北周時代に称していた「普六茹」が本来の姓で、北族であったというのが有力である。従って、新興の隋室楊氏の勢力は甚だ脆弱であったとみてよい。そこで、楊堅が採った方策が、血縁に限らず楊姓の者を「宗人」、「皇族」として宗衛に集めて、隋室本体の基盤を強化しようとするものだったのではなかろうか。"。
- ^ 堀井裕之「唐初の氏族政策と「門閥」勢力 : 隋唐政権形成史の研究」明治大学 博士論文(史学) 乙第539号、2018年、 NAID 500001086359。
- ^ 片山剛(PDF) 『漢族と非漢族をめぐる史実と言説』大阪大学中国文化フォーラム、5頁。 オリジナルの2017年6月28日時点におけるアーカイブ 。"歴史の実際に照らせば、たとえば五胡十六国時代以降は鮮卑などの民族が黄河流域の統治者となり、のちには隋・唐といった王朝を立てます。"。
- ^ a b c 宇和川哲也 『西魏・北周の胡姓賜与』関西学院大学、1984年12月、82頁 。"楊忠・楊堅父子の出自についてしばしば問題となるが、私は、一、楊忠が目立った活躍がないにもかかわらず創成期の十二大将軍の一人に選ばれたこと、二、宇文氏・独孤氏と姻戚関係を結んでいたことから、隋室楊氏は、宇文氏と近い北族系人物であると考える。"。
- ^ 宇和川哲也 『西魏・北周の胡姓賜与』関西学院大学、1984年12月、65-67頁 。"楊忠は、弘農華陰人とあるが、しばしば血統が問題となる隋の文帝楊堅の父であり、北族系人物が弘農楊氏を冒称したものと考えられる。また楊紹は楊堅の族人であり、楊尚希は隋の宗室であり、これらも北族系人物が弘農楊氏を冒称したものと考えられる。"。
- ^ 宇和川哲也 『西魏・北周の胡姓賜与』関西学院大学、1984年12月、68頁 。"楊忠・楊紹・楊尚希は北族系人物と考えられるので第四等級漢族に分類した。"。
- ^ 伊達宗義 『民族性から見た日本と中国』拓殖大学海外事情研究所〈海外事情〉、1998年4月、80頁。"秦王朝のあとを受けた漢王朝は漢民族でありましたが、後漢のあとの五胡十六国は異民族でありますし、隋も唐も異民族の血が濃厚に入っております。"。
- ^ 小林道憲 『文明の交流史観』ミネルヴァ書房〈MINERVA歴史・文化ライブラリー〉、2006年2月1日、32頁。ISBN 978-4623045136。"中国大陸を再統一した隋の楊堅は、この北周を乗っ取って出てきたのだが、楊堅も、もとをただせば、鮮卑の出身であった。隋による統一まで、華北は、約三〇〇年、騎馬民族の征服王朝に支配されていたことになる。"。
- ^ 向井佑介「學界展望 北魏の考古資料と鮮卑の漢化」『東洋史研究』第68巻第3号、東洋史研究会、2009年12月、 516-528頁、 doi:10.14989/167620、 ISSN 03869059、 NAID 40016974934。
- ^ 梅原猛 『日本冒険(下)』小学館〈梅原猛著作集8〉、2001年7月25日、326頁。ISBN 4096771082。"少なくとも漢以後の中国は、遊牧民の絶えざる侵入の歴史であるが、漢の前のあの「秦」「周」以後の分裂した中国を一つの国家に統一した秦もまた、その位置からいっても、遊牧民の血を多分にもった民族であったと考えられる。とすれば、中国の歴史は、北方からやってきた胡族の国家であった。その多くの胡族の国家の中で、鮮卑族の王朝「北魏」が台頭し、その北魏を倒した「隋」が二百年分裂した南北朝を統一したが、隋もまた鮮卑族の血を引く王朝であった。隋を滅ぽした「唐」も、自ら漢族と名告ったが、最近の研究では、北魏や隋と同じく、やはり鮮卑族の血を引いているといわれている。"。
- ^ 渡部昇一 『戦後七十年の真実』扶桑社〈扶桑社BOOKS〉、2015年7月28日、57頁。ISBN 978-4594081898。"その後、五胡十六国という乱世の時代を経て隋が統一するのですが、隋の民族は孔子の時代に鮮卑と呼ばれた異民族でした。つまり、この時点ですでに周の時代とは切れてしまっているのです。その後も蒙古族の元や満州族の清が興ったように、民族が入り乱れて次々に王朝をつくってきたのが中国の歴史なのです。"。
- ^ 渡部昇一 『平成後を生きる日本人へ』扶桑社、2018年4月15日、73頁。ISBN 978-4594079550。"そして再び統一王朝ができたのが隋なんです。これは、聖徳太子の頃です。隋の民族はどういう民族かといいますと、鮮卑といった北方民族なんです。もう既に隋の時代から、全然、別の民族が王朝を作ってるわけです。"。
- ^ 斉藤茂雄 『古代トルコ系遊牧民の広域秩序』CCCメディアハウス〈アステイオン (84)〉、2016年5月19日、114頁。ISBN 4484162164。"当時の中国は、四世紀の五胡十六国時代に北中国に侵入した遊牧民の中から鮮卑が力を握り、もともと北中国にいた漢人と婚姻結合しつつ北魏・北周・北斉・隋・唐などの王朝を次々と立てていった。"。
- ^ a b 塚本靑史 『四字熟語で愉しむ中国史』PHP研究所〈PHP新書〉、2010年7月16日、141-142頁。ISBN 4569779565。"ところで、煬帝と李淵は、武川鎮軍閥出身だった母親同士(鮮卑系の独孤氏)が姉妹である。つまり、彼らは従兄弟(李淵が年長)の関係だ。また、それぞれ楊氏と李氏を姓としているが、もとは普六茹氏と大野氏であったと言われ、漢化した鮮卑系と思しい。それは、煬帝が父の文帝の姫妾(陳氏)を、高宗(李治)が父の太宗(李世民)の姫妾の武照(後の則天武后)を、自らの後宮に入れたりするところに見られる。このレビラト婚は、明らかに遊牧民族の風習であるからだ。"。
- ^ 村山秀太郎 『東大の世界史ワークブック』かんき出版、2016年6月15日、222頁。ISBN 4761271817。"漢人は柔然を蠕と呼んで蔑視しました。鮮卑族の北魏はその柔然対策として、六鎮という軍団を国境警備隊として配置しました。この六鎮の乱により、北魏は西魏と東魏に分かれました。西魏は宇文泰という人がつくりましたが、この宇文泰の直接の家来であったと言われるのが楊氏・李氏、これらが隋(581年-618年)と唐(618年-907年)をつくったのです。ですから隋や唐というのは間違いなく、鮮卑系の王朝、あるいは胡人の王朝であると言えます。"。
- ^ 古田博司 『東アジア・イデオロギーを超えて』新書館、2003年8月1日、22頁。ISBN 978-4403230974。"北狄の鮮卑族の王朝が次々と交替した。北魏、東魏、西魏、北斉、北周、隋、唐がそれであり、唐の太宗も鮮卑族であった。"。
- ^ 宇山卓栄 『「民族」で読み解く世界史』日本実業出版社、2018年1月25日、44-45頁。ISBN 4534055587。"隋の建国者の楊氏も唐の建国者の李氏も、北魏と同じ鮮卑族というモンゴル人の出身とされています。隋や唐という中国を代表する王朝が漢人の王朝ではないということに対し、中国人史家のなかにはこれを否定する見解をもつ人もいるようですが、日本の中国史家の宮崎市定氏が隋・唐が鮮卑系であるとの見解を戦時中に発表して以降、この見解が世界の学界の定説となっています。高校の世界史教科書でも、この見解を取り上げています。そうすると、中国の主要統一王朝『秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清』のうち、いわゆる漢人がつくった統一王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国はその歴史上、長期にわたり、異民族王朝によって支配されていたのです。"。
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- ^ 常石茂・駒田信二 『秋風五丈原の巻』河出書房新社〈新十八史略〈4〉〉、1997年7月1日、248頁。ISBN 4309609945。
- ^ 宮崎市定 『宮崎市定アジア史論考〈上巻〉概説論』朝日新聞社、1976年、83頁。
- ^ “高等学校 世界史A 新訂版”. 清水書院. オリジナルの2020年8月3日時点におけるアーカイブ。
- ^ 駒田『新十八史略4』、P248
- ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P249
- ^ 駒田『新十八史略4』、P264
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P250
- ^ 駒田『新十八史略4』、P252
- ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P181
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P258
- ^ 駒田『新十八史略4』、P259
- ^ a b c d 駒田『新十八史略4』、P260
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P261
- ^ 駒田『新十八史略4』、P262
- ^ 駒田『新十八史略4』、P265
- ^ 駒田『新十八史略4』、P267
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P269
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P270
- ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P271
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P280
- ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P273
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P274
- ^ a b c d e 布目潮渢・栗原益男 『隋唐帝国』講談社学術文庫。
- ^ 宮崎市定 『大唐帝国』中公文庫。
参考文献[編集]
- 『隋書』
- 川本芳昭『中国の歴史05、中華の崩壊と拡大。魏晋南北朝』(講談社、2005年2月)
- 駒田信二ほか『新十八史略4』(河出書房新社、1997年7月)
- 谷川道雄 『世界帝国の形成』新書東洋史2 中国の歴史2、講談社〈講談社現代新書〉452 1977年
- 布目潮渢・栗原益男 『隋唐帝国』 講談社〈講談社学術文庫〉1997年
- 『世界史大系 中国史2 三国〜唐』 山川出版社、1996年 ISBN 4-634-46160-9
- 礪波護 『隋唐帝国と古代朝鮮』 中央公論社、1997年 ISBN 4-12-403406-7
- 金子修一 『隋唐の国際秩序と東アジア』 名著刊行会 2001年
- 氣賀澤保規 『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』(『中国の歴史』06)講談社 2005年、ISBN 4-06-274056-7
- 外山軍治「中国文明の歴史〈5〉隋唐世界帝国 (中公文庫)」(中央公論新社、2000年) ISBN 978-4122036727
- 稲畑耕一郎監修「図説中国文明史6」(創元社 、2006年) ISBN 978-4422202570
- 宮崎市定「大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)」(中央公論社、1998年) ISBN 978-4122015463
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 隋代形勢図 (581年) - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 隋代形勢図 (590年) - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 隋代形勢図 (605年) - ウェイバックマシン(2019年3月31日アーカイブ分)
- 『隋』 - コトバンク
- 『隋の時代(年表)』 - コトバンク
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