府兵制

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府兵制(ふへいせい)は、中国において南北朝時代西魏から代まで行われた兵制。もともとは軍府に属する兵という意味で、日本史で言えば衛士防人の制にあたる。基本的には、農民に自前で武器をもたせて任務につかせるという兵農一致の制度であり、現代で言えば徴兵制に近い。均田制と対をなす兵制であり、均田制の崩壊と共に崩壊した。

事前の経緯[編集]

府兵制以前に行われていたのが兵戸制である。これは特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は曹操黄巾党の残党30万を配下に入れた青州兵である。その後、兵戸制は南朝・北朝に受け継がれ、南朝では文治重視をして武を軽視する考え方から兵戸の没落を招き、代に崩壊していた。しかし北朝では鮮卑の持つ尚武的な気風から兵戸の地位は概して高く、比較的長い間保持されていた。北魏での兵戸は鎮と呼ばれ、特に首都・平城を北の柔然から守る六鎮の地位は高く、領土の統治権も持っていた。

しかしその北魏でも孝文帝の漢化政策により、文治の思想が広まり、兵戸の地位は次第に下がり、更にそれまで領土の統治権も中央からの郡県に奪われ、その生活は郡県からの援助を持って成り立つようになった。特に首都が平城から洛陽に遷ったことで六鎮の地位は暴落し、これに不満を持った鎮の構成員たちは六鎮の乱を起こす。

府兵制の前身[編集]

北魏分裂後、鮮卑の精鋭は故地に近い東魏の方にどちらかと言えば集まり、西魏には少なかった。

危機感を抱いた西魏の指導者宇文泰534年東魏との戦いに敗戦した後、兵力の不足を補うため、各地の名望ある豪族を「郷帥」に任じて、それぞれの地方において「郷兵」を結集したのが起源である。

「郷兵」は、漢人農民が多かったが五胡十六国時代以来、関中に移り住んだ胡族もかなり含まれていた。こうした郷兵部隊が、550年頃までに「二十四軍」に編成され、「開府」と呼ばれる司令官がそれぞれ一軍を統率する形に組織された。二人の「開府」は一人の「大将軍」に率いられ、二人の「大将軍」は、一人の「柱国」によって率いられた。

この府兵軍団を率いるのが全体の統括者で丞相(大冢宰)でもある宇文泰であった。六柱国(宇文泰自身と西魏の宗室を含めて八柱国) - 十二大将軍 - 二十四開府という軍制になり、一つの開府に一軍があり、軍はいくつかの「団」によって構成され、儀同将軍、大都督、帥都督、都督といった指揮官が置かれた。郷兵部隊は、このような軍団組織に組み込まれ「府兵」と呼ばれた。「府兵」は、租庸調と労役を免除され、戦士として必要な馬や食糧は六軒の家が共同で負担した。胡族の人々にとってはかつての誇りをとりもどす方向になり、漢人の郷兵にとっても貴族制下の身分格差からの解放の意味があった。このように、栄誉ある自弁の戦士として自発的に軍に参加するという民衆の意識に支えられて「府兵制」は成立した。また、このことによって軍隊を抱えることによる国家財政の負担も軽減された。

この軍制の将軍である八柱国・十二大将軍は西魏とその後の北周にとっての有力者の家系となり、後のの楊氏は大将軍の唐の李氏は柱国の家系である。

隋唐府兵制[編集]

西魏から禅譲を受けた北周、更に北周から禅譲を受けた隋の時代に兵民籍の区別を廃止して一般民戸とし、唐がそれを受け継いだ。

唐における府兵制は成人男子(21歳 - 59歳)を対象に3人に1人の割合で徴兵し、折衝府と呼ばれる部署に集められ、1年に1~1回、1ヶ月間国都の衛士の勤務 、3年間、防人として辺境の防衛にあたらせた。

折衝府は全国に600が存在していた。所属する兵員によって上中下があり、元は上が1000・中が800・下が600であったが、後に増員されて上が1200・中が1000・下が800となっている。10人で1火、5火で1隊、4隊で1国となっており、それぞれの指揮官は火長・隊正・校尉・折衝都尉と呼んでいる。600×1000=60万が唐の兵力ということになる。もちろん防衛のための兵士であるから稼動兵力はこれを下回るので、遠征軍を編成するときには臨時に募兵が行われる。これは「行軍」と呼ばれ、府兵の諸物資が自前に拠ったのに対してこちらは官給であった。

府兵制の崩壊[編集]

府兵制は、農耕土着風習の中国人にとってはかなりの重い負担であった。玄宗期には均田制自体が行き詰まり、農民が納税できなくなってきたこと。唐の領土があまりにも大きくなってしまって、土着農民の感覚からいうと、あまりにも遠い辺境に防人として送られるようになってきて、帰れる保障もなくなってきたことなどから逃げだす者も増加し、兵が思うように集まらなくなる。

また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展し、事実上の土地私有化が行われるとともに色役の代銭化が行われる一方で、代替が効かずその期間中の農作業を制約される府兵・防人に対する経済的な負担感が増大していった(一連の農業における変化は租庸調制の崩壊と両税法の導入の一因にもなる)[1]

更に府兵制では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は常備軍を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。辺境でもそれは同じであり、羈縻州に対して都護府が設置され、その下には募兵による行軍がいた。

儀鳳年間(676年 - 678年)に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかしこの軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する節度使が登場することになる。

そして辺境の兵士たちは府兵制に於ける3年間のような短い期間ではなく、6年あるいはそれ以上の時を辺境で過ごすようになる。更に737年に辺境の軍鎮に半永住する長征健児制が出来る。これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。

ここに至り、唐における兵農分離が完成し、府兵制は完全に消滅した。

脚注[編集]

  1. ^ 渡邊信一郎「唐代後半期の中央財政―戸部曹財政を中心に―」(初出:『京都府立大学学術報告』人文・第40号(1988年)/所収:『中國古代の財政と國家』(汲古書院、2010年)第14章)

関連項目[編集]