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陳 (南朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梁 (南朝) 557年 - 589年 隋
陳の位置
陳と北周・北斉・後梁。
公用語 漢語(中国語
首都 建康
皇帝
557年 - 559年 武帝
559年 - 566年文帝
566年 - 568年廃帝
568年 - 582年宣帝
582年 - 589年後主
変遷
より禅譲・建国 557年
によって滅亡589年

(ちん、557年 - 589年)は、中国南北朝時代江南に存在した国。南朝の最後の国。春秋時代に存在した陳と区別して、南陳と呼ばれることもある。

歴史

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建国期

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南朝梁の重臣であった陳霸先侯景の乱王僧弁と共に鎮圧の功績を立てたが、後に王僧弁との対立が表面化し555年9月に陳霸先は王僧弁を建康で殺害し、蕭方智を敬帝として即位させた[1]。陳霸先は梁の実権を掌握し、2年後の557年10月に敬帝から禅譲を受けてを建国し、ここに梁は滅亡した[1]。陳霸先は武帝として即位し、永定と建元した。しかし、この即位前から梁末の混乱により、益州北周に奪われており、また梁から梁の皇族が北周へ亡命して後梁(西梁)が梁から分裂して成立しており、その西梁は江陵を拠点として独自の政権を継続させていた。さらに梁の残党も郢州を拠点として梁の復興をはかっていた。こうした事情から、陳の領土は元の梁の全てを継承したわけではなかった。

国名の陳は陳霸先が梁から陳王に封ぜられたことに由来する。

安定期

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559年に武帝は崩御し、第2代皇帝には甥の文帝が即位した。文帝は北斉の侵攻を撃退し、王僧弁の勢力を再結集していた長江中流の湘州王琳が永嘉王蕭荘を皇帝としていた梁を滅亡させ、さらに臨川周迪豫章熊曇朗東陽留異建安陳宝応など国内各地における反乱を鎮圧し[2]、国政に尽力して内治を安定させ、減税と節倹に努めて人心を掌握して陳を安定させた。

566年に文帝は崩御し、長男で皇太子だった陳伯宗が即位するが、568年に叔父の陳頊に廃され、第4代皇帝には陳頊が宣帝として即位した。宣帝は節倹と減税など民政に励む一方で軍事力を増強し、北斉の弱体化に乗じてこれを攻め江北の地を奪取した[2]。しかし578年に北斉を滅ぼした北周に敗れ、江北を奪い返されてしまった。

衰退・滅亡

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582年に宣帝は崩御し、皇太子の陳叔宝が即位した。だが叔宝は相当な暗君で、貴妃張麗華と共に享楽に溺れ[3]沈客卿施文慶ら奸臣を重用して国政を乱し、遊興にふけって政務を顧みなかった。このため陳の国力は衰退の一途をたどり、588年から北周を滅ぼして成立していた文帝が50万の大軍を南下させると、陳は抵抗しきれずに589年に叔宝は降伏して陳は滅亡した[3]。ここに400年に及ぶ魏晋南北朝時代が終結し、中国大陸は隋に支配されることになった[3]

なお、叔宝は暗君だったことが逆に幸いして文帝に警戒されず生かされることになり、陳の皇族や官僚、おびただしい捕獲品と共に長安に送られた[3]

社会

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国力・地勢

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陳は叔宝の悪政が結果的に滅亡の一因を成したが、それ以外ではやはり国力の弱小が挙げられる。陳は建国当時既に四川襄陽・江陵など要地を失っていた[3]。また陳は長江という天然の要害を利用して存続していたが、四川や襄陽を失っていたことは長江上流の地から攻撃を受けた際に脆弱な防備体制しか無いということであり[2]、隋の文帝は北方より収穫の早い南方の弱点を突き、常に収穫期に戦争を起こして陳の国力を疲弊させ、このために滅亡時には安蜀城を守った顧覚や公安を守った陳紀が隋軍を恐れて逃げ出したように巴陵より東を中心にほとんど抵抗力は残らなかった[3]

皇帝・貴族

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梁末期の侯景の乱により建康など江南の主要都市の大半は戦火により荒廃したが、これにより華北から亡命して江南に成立していた貴族の上部構造は完全に壊滅した[4]。またこのような混乱期に江南では各地で群雄が割拠したため、陳霸先は彼らと婚姻関係や親類関係を結んで懐柔策に出ている[4]。姓が同じというだけで陳宝応を皇族と認定してその子女に大小の爵位を与える恩典まで授けたため、陳の皇帝権力は非常に弱かった[5]

文化

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国力は脆弱だったが、後主の時代には文化が爛熟し、六朝文化の粋として隋やの文化にも影響を与えた。ただし陳が滅亡した際、隋により首都建康の建造物や文化の象徴たるものは悉く破壊された[3]

陳の皇帝一覧

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中国歴史
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(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

台湾
中華人民共和国

  1. 高祖武帝(陳霸先、在位:557年 - 559年
  2. 世祖文帝(陳蒨、在位:559年 - 566年
  3. 廃帝臨海王(陳伯宗、在位:566年 - 568年
  4. 高宗宣帝(陳頊、在位:568年 - 582年
  5. 後主(陳叔宝、在位:582年 - 589年

系図

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(追)景帝
陳文賛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
始興王
陳道談
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)武帝
陳霸先
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(2)文帝
陳蒨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4)宣帝
陳頊
 
衡陽王
陳昌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(3)廃帝臨海王
陳伯宗
 
始興王
陳伯茂
 
新安王
陳伯固
 
衡陽王
陳伯信
 
(5)後主
陳叔宝
 
始興王
陳叔陵
 
長沙王
陳叔堅
 
晋熙王
陳叔文
 
岳陽王
陳叔慎

脚注

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  1. ^ a b 川本 2005, p. 175.
  2. ^ a b c 川本 2005, p. 180.
  3. ^ a b c d e f g 川本 2005, p. 181.
  4. ^ a b 川本 2005, p. 177.
  5. ^ 川本 2005, p. 178.

参考文献

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関連項目

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中国の歴史
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