楊堅

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文帝 楊堅
初代皇帝
Sui Wendi Tang.jpg
王朝
在位期間 開皇元年2月13日 - 仁寿4年7月13日
581年3月4日 - 604年8月13日
都城 大興城(長安
姓・諱 楊堅
諡号 文皇帝
廟号 高祖
生年 大統7年6月13日
541年7月21日
没年 仁寿4年7月13日
604年8月13日
楊忠
呂苦桃
后妃 独孤皇后
陵墓 太陵
年号 開皇 : 581年 - 600年
仁寿 : 601年 - 604年

楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。文皇帝廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。

生涯[編集]

出生[編集]

楊堅は、北周大将軍楊忠と呂苦桃のあいだに生まれた。楊氏は漢民族後漢楊震の末裔を称し、弘農郡華陰県(現在の陝西省渭南市)を本貫とした(ただし、谷川道雄は「隋の帝室楊氏は、漢代以来の名族として名高い弘農郡の楊氏の出身と称するが、真偽のほどはさだかでない。確実な記録では、祖先は北魏時代、長城北辺の武川鎮で国境防衛にあたっていた軍人の家柄で、その通婚関係からみて、非漢民族の血を多く交えているらしい」と述べている[1])。しかし、漢民族出身ではなく北方異民族の鮮卑の普六茹氏の子孫という説があり、布目潮渢[2]楊海英[3][4]宮脇淳子[5][6][7]岡田英弘[7][8][9]加藤徹[10]外山軍治[11]礪波護[11]佐藤智水[12]伊達宗義[13]小林道憲[14]梅原猛[15]渡部昇一[16][17]黄文雄[18]塚本靑史[19]古田博司[20]宇山卓栄[21]島崎晋[22]上田雄[23]孫栄健[23]などが鮮卑説を支持している。一方、貝塚茂樹[24]常石茂[25]駒田信二[25]アーサー・F・ライト[26]などは漢民族と鮮卑の混血を主張している。

隋書』の「本紀」には、楊堅の誕生に関して以下の話を載せている。楊堅が生まれたのは、541年大統7年)6月13日、生まれた場所は、馮翊陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であり、幼名は金剛力士をあらわす那羅延であったという。この時代、熱心な仏教信者でなくとも、名前に仏教語を使用するのは一般的なことではあったが、楊堅の場合は乳母役を引き受けて養育したのが智仙という尼僧であったという。このようなことから、楊堅は幼少の頃から仏教に親しみを持っていたものと考えられる。

また、初の護法僧法琳の『弁正論』によると、その般若寺は北周武帝廃仏によって廃毀されたが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしみ、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立したと記している。

実力をつける楊堅[編集]

楊堅は、14歳のとき、京兆尹薛善に召されて功曹となった。15歳で父の功績により散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司となり、成紀県公に封じられた。16歳で驃騎大将軍に転じ、開府儀同三司の位を受けた。北周の明帝が即位すると、右小宮伯となり、大興郡公に進んだ。武帝が即位すると、左小宮伯に転じ、隨州刺史として出向し、位は大将軍に進んだ。父の楊忠の死後、隨国公の爵位を嗣いだ。

北斉の平定にも戦功を挙げ、位は柱国に進み、定州総管に任ぜられた。のちに亳州総管に転じた。

578年、楊堅は長女の楊麗華を北周の宣帝の皇后として立てさせ、自身は上柱国大司馬となって権力を振るった。579年、大後丞・右司武となり、大前疑に転じた。580年5月、揚州総管となるが、宣帝が死去したため、楊堅は静帝の下で左大丞相となり、北周の実権を掌握した。6月以降、尉遅迥司馬消難王謙らに反乱を起こされたが、楊堅はこれを武力で鎮圧した。9月には大丞相となり、12月には相国・総百揆・都督内外諸軍事・隋王に上った。翌581年2月、静帝から禅譲させて皇帝に即位し、隋朝を開いた。同月中のうち、虞慶則の進言を受けて文帝宇文泰の孫の譙公宇文乾惲・冀公宇文絢、孝閔帝宇文覚の子の紀公宇文湜、明帝宇文毓の子の酆公宇文貞・宋公宇文實、武帝宇文邕の子の漢国公宇文賛・秦国公宇文贄・曹国公宇文允・道国公宇文充・蔡国公宇文兌・荊国公宇文元、宣帝宇文贇の子の萊国公宇文衎・郢国公宇文術ら、北周の皇族の宇文氏一門を多数殺害し[27]、そして5月には介国公に降封されていた宇文闡を暗殺した[28]

皇帝として[編集]

楊堅は大興城(後に長安)を都として定めた。そして587年には後梁を、589年にはを滅ぼして、西晋滅亡以来約300年にわたり乱れ続けてきた中国全土を統一することに成功した。598年には高句麗に対し第1次高句麗遠征を行った。

楊堅は内政にも力を注いだ。まず、開皇律令を公布、中央官制を三省六部に整え、さらに地方に対しては郡を廃して州・県を設置した。また、官僚の登用においても九品中正法を廃止し、新たに科挙制度を設けた。さらに貨幣の統一、府兵制均田制などの新制度を設けるなど、中央集権体制を磐石なものとした。また、仏教の興隆にも尽力し、その仏教を重視した政策は、仏教治国策とまで称せられた。

楊堅の死について[編集]

楊堅の長男の楊勇皇太子に立てられていたが、独孤皇后楊素らの画策で廃嫡され、次男の楊広(後の煬帝)が代わって太子に立てられた。604年、楊堅は仁寿宮で病の床についたが、楊広が楊堅の寵愛する宣華夫人に手を出そうとしたことを、難を逃れた夫人から直接聞いて、「畜生になんで大事を託せようか。独孤(皇后)がわしを誤らせたのだ」と言い、「我が子を呼べ」と叫んで、楊勇を呼び出そうとした。その直後に楊堅は亡くなった。享年64。

病床の楊堅が、廃太子楊勇を呼び出そうとしたことを柳述・元厳が楊素に報告し、楊素が太子楊広に報告すると、楊広が張衡を楊堅の寝殿に派遣し、夫人や後宮の侍従が別室に離れた直後に、楊堅は亡くなったとする。

以上の説は、宮崎市定が『隋の煬帝』(中公文庫)で説くように、煬帝の暴君伝説がさまざま作られるなかで成立した部分が多いようである。唐初に成立した『隋書』では、「本紀」ではなく「列伝第一」「后妃伝」に記されている。

后妃[編集]

子女[編集]

男子[編集]

  • 廃太子 楊勇(房陵王)
  • 晋王 楊広(煬帝)
  • 秦王 楊俊
  • 蜀王 楊秀(庶民に落とされた)
  • 漢王 楊諒(庶民に落とされた)

女子[編集]

倭国との関係[編集]

隋書』倭(俀)国伝によれば、600年に倭王多利思北孤(多利思比孤)が使者を送ってきたとされる(第1回遣隋使)が、この遣隋使の記録は『日本書紀』には無い。使者が「倭王は天を兄とし、日を弟としています」などと説明したため、楊堅は「それは甚だ不合理である」と言ってこれを改めさせたという。

楊堅の出自に関する論争[編集]

隋室楊氏は、楊震の長男の楊牧の子孫を自称している。楊牧に楊統楊馥の二子があり、楊統の子の楊琦は、霊帝時代に侍中となったが、その末裔は楊琦の子の楊亮が陽成亭侯に封ぜられたこと以外は不明である。楊馥は信頼すべき史料にその名はみられず、『新唐書宰相世系表中国語版』によって伝えられるに過ぎない[29]。『新唐書宰相世系表』よると、楊馥の十世の孫を楊孚といい、楊孚の六世の孫に楊渠が楊鉉(前燕の北平郡太守)を生み、楊鉉の子が楊元寿で、その子が楊恵嘏である[29]。しかし、『隋書』高祖本記には「漢の太尉楊震の八世の孫の楊鉉、燕に仕えて北平の太守となる。楊鉉、楊元寿を生む。後漢の代、武川鎮の司馬となる。子孫因よりて焉に家す」とあり、楊震から楊鉉まで8代となっており、『新唐書宰相世系表』の楊震から楊鉉までの19代と大きく矛盾しており[29]清代の学者の沈炳震中国語版は『唐書宰相世系表訂偽』において、隋室楊氏の系譜に疑問を呈している[30]清代の学者万斯同は、『新唐書宰相世系表』は漢の霊帝から前燕に至る170年ばかりの間に17代を数えており、如何にも不合理であると指摘している[29]

竹田竜児は、「この隋室が果して弘農楊氏の末であったか否かは頗る疑わしい」として、「楊元寿以来久しく北辺におった隋室は、血液の上でも習俗の面でも可成り鮮卑化されていたらしい。明察の英主文帝の如きですら、『学を悦ばず』と明記されているところをみると、彼らはどうも貴族的な文雅な教養には缺けていたらしく思われるのであり、この辺にも隋室を以て弘農楊氏の末と認めるのを躊躇させるものが存するのである」と述べている[29]

陳寅恪は、楊忠に嫁いだ呂苦桃中国語版山東寒族中国語版であることから、当時の婚姻の慣例を考えると、楊忠は間違いなく天下有数の名門の家柄である弘農楊氏ではないと考えており、楊忠が「18歳の時に泰山に遊山した」という記録と山東寒族の呂苦桃との結婚から、隋室楊氏は山東あるいは近隣の寒族ではないかと推察している。陳寅恪は、宇文泰武川鎮軍閥を一つにするため、山東の郡望中国語版を関中の郡望に変えることによって故郷への思想を断ち切るため、隋室楊氏と唐室李氏は弘農楊氏・隴西李氏の子孫を称したと主張した[30]

呂春盛国立台南大学)は、当時は身分内婚制が普及しており、天下有数の名門の家柄である弘農楊氏であるならば、楊忠が山東寒族の呂苦桃と婚を結ぶことはないであろうから、婚姻相手から隋室楊氏は弘農楊氏ではないと陳寅恪が主張したことは説得力があり、天下有数の名門の家柄である弘農楊氏という主張は信憑性がなく、隋室楊氏が山東寒族の可能性はあるが、楊元寿以来5世代にわたって胡族地域である武川鎮に住んでいたことから、かなりの胡族文化をもつ一族であることは間違いないと指摘している[30]

唐長孺によると、楊駿楊珧など系譜的に追跡可能な弘農楊氏の子孫は、晋代に一族が離散した。北魏時代に弘農楊氏を称した楊播などは出自が疑わしいが、弘農楊氏の遠祖の分家だった可能性もあり、確認は困難である[31]

王桐齢清華大学)は、隋室楊氏が漢人であることを強く疑っており、以下の疑問を呈している[29][30]

  1. 隋室楊氏の祖先は久しく匈奴鮮卑の雑居地だった武川鎮に住んでいる。
  2. 隋室楊氏は、弘農楊氏を自称しているが、その世系は途切れており曖昧である。
  3. 隋室楊氏の家族関係は、儒教的道徳倫理に反することが多く、寧ろ塞外民族風俗習慣と暗合している。
  4. 隋室楊氏は、好んで鮮卑回鶻突厥などと婚を通じている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 日本大百科全書』 - コトバンク
  2. ^ 日本大百科全書楊堅』 - コトバンク「後漢の学者・政治家である楊震の子孫で、弘農華陰の人と称しているが、おそらくは漢人ではなく鮮卑族であろう。」
  3. ^ 楊海英『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』文藝春秋、2019年3月8日、25-26頁。ISBN 416791252X。「それは、歴史とのむきあい方にもあらわれている。つまり、事実にむきあうのではなく、自分たちの都合のいいところだけとりこむのだ。だから、異民族による征服王朝であることがわかっていながら、「偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった」とか、「元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ」と平気で噓をつく。そればかりか、「チベットやモンゴルは清朝の一部だったのだから、いまも自分たちの領土のはずだ」と、現在の侵略的支配や搾取を肯定する論理に利用するのである。」
  4. ^ 楊海英『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』文藝春秋、2019年3月8日、16頁。ISBN 416791252X。「事実、シナ地域の歴史をたどれば、ユーラシアにまたがって交易をおこない、国際的な文化が花開いた時期がある。たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元)、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった。第四章でもふれるが、それが漢人編纂の後の史書では、後漢の名臣の楊震の子孫であると「シナ化」されてつたえられてきたのである。隋につづく唐も鮮卑拓跋系で、首都長安には東アジアだけでなく、いわゆるシルクロードを介して西方からさまざまな人々がおとずれ、商業活動や文化活動が展開された。」
  5. ^ 宮脇淳子『モンゴルの歴史―遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房〈刀水歴史全書〉、2002年10月1日、29頁。ISBN 978-4887082441。「中国王朝の隋も唐も、王朝の祖は、この西魏に仕えた軍人である。西魏で実権を握った宇文泰は鮮卑人で、自分に従った鮮人と漢人の軍人たちを、遊牧騎馬民の伝説の三十六部族・九十九氏族に再編成した。そして漢人には鮮卑の姓を与えた。漢姓と鮮卑姓はどちらを使ってもよく、簡潔に書きたいときは漢名、正式に名乗るときは鮮卑名を使ったらしい。こうして、鮮卑人と鮮卑化した漢人の連合体が陝西省と甘粛省にできたが、この連合体が、宇文泰の息子が皇帝となった北周、これを乗っ取った隋、そのあとの唐の政権の基盤となった。」
  6. ^ 宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所PHP新書〉、2006年2月1日、39頁。ISBN 4569648800。「六一八年、隋の楊帝は反乱で殺され、唐が建国された。ちなみに隋も唐も、帝室の祖先は、もともと大興安嶺出身の鮮卑族である。後漢末の一八四年、宗教秘密結社が決起した「黄巾の乱」と、これを鎮圧した政府軍の内戦である一八九年の「董卓の乱」のせいで、漢人人口は激減した。三国時代を通じて、周辺の夷狄が大量に内地に移住していたのである。中国史で「五胡十六国の乱」といわれるものは、華北に移住した異民族が、つぎつぎに十六国を建国したもので、そののち華北を統一した北魏も鮮卑族出身で、隋と唐の支配層は、この北魏の系統である。」
  7. ^ a b 岡田英弘宮脇淳子『滅亡の歴史を理解するために もう騙されない これが中国史の正体だ』文藝春秋、2016年7月、67頁。「この隋も鮮卑族の国ですから、シナは完全にアルタイ化してしまうわけです。(中略)隋・唐ともに鮮卑人のつくった王朝です。」
  8. ^ 岡田英弘『中国文明の歴史』講談社講談社現代新書〉、2004年12月18日、102頁。ISBN 978-4061497610。「この時代の王朝である隋も唐も、その帝室は鮮卑系の王朝であった北魏、西魏、北周のもとで実現した、鮮卑族と、鮮卑化した漢族の結合した集団の中から出てきたものである。」
  9. ^ 岡田英弘『だれが中国をつくったか』PHP研究所PHP新書〉、2005年9月16日、70頁。ISBN 978-4569646190。「隋・唐の帝室は、ともに西魏の宇文泰とともに興った。宇文泰は鮮卑人だったが、五三四年、北魏が東西に分裂すると、西魏の文帝を奉じて長安に独立し、東魏の高歓(やはり鮮卑)と対立した。五五〇年、宇文泰は自分と同じ立場の鮮卑人を八柱国とし、その下に二人ずつの大将軍を置いたが、八柱国の一人は隴西郡開国公李虎であり、もう一人の柱国の独孤信の下の大将軍の一人は陳留郡開国公楊忠である。そして楊忠の息子の楊堅は、隋の初代の皇帝・高祖文帝であり、李虎の孫の李淵は、唐の初代の皇帝・高祖である。これでわかるように、隋も唐も、鮮卑出身だったのである。さて、唐の朝廷は、南北朝時代の「正史」として、宋・南斉・梁・陳を『南史』で、北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋を『北史』で、それぞれ「本紀」を立てて扱った。これは二つの系列の皇帝を認めたことで、「天命」にも二つ、「正統」にも二つがあることになる。自分が鮮卑系である唐の政治的な立場では、北朝も「正統」であると主張するほかに道はなかったのである。おもしろいことに、『北史』の冒頭には、北魏の帝室の出自を述べて、「祖先は黄帝であり、黄帝の息子の昌意の末子が北方に国を建て、そこに大鮮卑山があったので、鮮卑と号するようになった」といっている。これは司馬遷の『史記』をまねて、鮮卑系の北朝にも歴史のはじまりにさかのぼる、中国人の南朝と対等の「正統」の資格がある、と主張しているのである。」
  10. ^ 加藤徹『貝と羊の中国人』新潮社新潮新書169〉、2006年6月16日、112-113頁。ISBN 978-4106101694。「隋の楊氏も唐の李氏も、遊牧民族である鮮卑族の血を、濃厚に引いていた。」
  11. ^ a b 外山軍治礪波護『隋唐世界帝国』人物往来社〈東洋の歴史5〉、1967年、12頁。「楊という漢姓を名乗っているが、その実は中国化した鮮卑人であろうという説が有力である。」
  12. ^ 日本大百科全書鮮卑』 - コトバンク「その後の北朝王朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)および隋・唐王朝の宗室も祖先は鮮卑系である。」
  13. ^ 伊達宗義『民族性から見た日本と中国』拓殖大学海外事情研究所〈海外事情〉、1998年4月、80頁。「秦王朝のあとを受けた漢王朝は漢民族でありましたが、後漢のあとの五胡十六国は異民族でありますし、隋も唐も異民族の血が濃厚に入っております。」
  14. ^ 小林道憲『文明の交流史観』ミネルヴァ書房〈MINERVA歴史・文化ライブラリー〉、2006年2月1日、32頁。ISBN 978-4623045136。「中国大陸を再統一した隋の楊堅は、この北周を乗っ取って出てきたのだが、楊堅も、もとをただせば、鮮卑の出身であった。隋による統一まで、華北は、約三〇〇年、騎馬民族の征服王朝に支配されていたことになる。」
  15. ^ 梅原猛『日本冒険(下)』小学館〈梅原猛著作集8〉、2001年7月25日、326頁。ISBN 4096771082。「少なくとも漢以後の中国は、遊牧民の絶えざる侵入の歴史であるが、漢の前のあの「秦」「周」以後の分裂した中国を一つの国家に統一した秦もまた、その位置からいっても、遊牧民の血を多分にもった民族であったと考えられる。とすれば、中国の歴史は、北方からやってきた胡族の国家であった。その多くの胡族の国家の中で、鮮卑族の王朝「北魏」が台頭し、その北魏を倒した「隋」が二百年分裂した南北朝を統一したが、隋もまた鮮卑族の血を引く王朝であった。隋を滅ぽした「唐」も、自ら漢族と名告ったが、最近の研究では、北魏や隋と同じく、やはり鮮卑族の血を引いているといわれている。」
  16. ^ 渡部昇一『戦後七十年の真実』扶桑社〈扶桑社BOOKS〉、2015年7月28日、57頁。ISBN 978-4594081898。「その後、五胡十六国という乱世の時代を経て隋が統一するのですが、隋の民族は孔子の時代に鮮卑と呼ばれた異民族でした。つまり、この時点ですでに周の時代とは切れてしまっているのです。その後も蒙古族の元や満州族の清が興ったように、民族が入り乱れて次々に王朝をつくってきたのが中国の歴史なのです。」
  17. ^ 渡部昇一『平成後を生きる日本人へ』扶桑社、2018年4月15日、73頁。ISBN 978-4594079550。「そして再び統一王朝ができたのが隋なんです。これは、聖徳太子の頃です。隋の民族はどういう民族かといいますと、鮮卑といった北方民族なんです。もう既に隋の時代から、全然、別の民族が王朝を作ってるわけです。」
  18. ^ 黄文雄日本の植民地の真実扶桑社、2003年10月31日、20頁。ISBN 978-4594042158。「鮮卑は後に北魏(三八六~五三四年)を作った。六世紀末から七世紀初めにかけて中国を再統一した隋、唐は実は匈奴・鮮卑の流れを汲んだ王朝である。」
  19. ^ 塚本靑史『四字熟語で愉しむ中国史』PHP研究所PHP新書〉、2010年7月16日、141-142頁。ISBN 4569779565。「ところで、煬帝と李淵は、武川鎮軍閥出身だった母親同士(鮮卑系の独孤氏)が姉妹である。つまり、彼らは従兄弟(李淵が年長)の関係だ。また、それぞれ楊氏と李氏を姓としているが、もとは普六茹氏と大野氏であったと言われ、漢化した鮮卑系と思しい。それは、煬帝が父の文帝の姫妾(陳氏)を、高宗(李治)が父の太宗(李世民)の姫妾の武照(後の則天武后)を、自らの後宮に入れたりするところに見られる。このレビラト婚は、明らかに遊牧民族の風習であるからだ。」
  20. ^ 古田博司『東アジア・イデオロギーを超えて』新書館、2003年8月1日、22頁。ISBN 978-4403230974。「北狄の鮮卑族の王朝が次々と交替した。北魏、東魏、西魏、北斉、北周、隋、唐がそれであり、唐の太宗も鮮卑族であった。」
  21. ^ 宇山卓栄『「民族」で読み解く世界史』日本実業出版社、2018年1月25日、44-45頁。ISBN 4534055587。「隋の建国者の楊氏も唐の建国者の李氏も、北魏と同じ鮮卑族というモンゴル人の出身とされています。隋や唐という中国を代表する王朝が漢人の王朝ではないということに対し、中国人史家のなかにはこれを否定する見解をもつ人もいるようですが、日本の中国史家の宮崎市定氏が隋・唐が鮮卑系であるとの見解を戦時中に発表して以降、この見解が世界の学界の定説となっています。高校の世界史教科書でも、この見解を取り上げています。そうすると、中国の主要統一王朝『秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清』のうち、いわゆる漢人がつくった統一王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国はその歴史上、長期にわたり、異民族王朝によって支配されていたのです。」
  22. ^ 島崎晋『人の流れでわかる世界の歴史』実業之日本社、2016年9月16日、10頁。ISBN 4408456705。「それからの孝文帝は、伝統的な胡服の着用を禁止、宮廷における鮮卑語の禁止、漢民族ふうの一字姓へ変更などを命じるかたわら、漢民族との通婚を奨励するなど、漢化政策を加速させた。このため、のちの隋・唐王朝は鮮卑の血を色濃く受けていながら、漢民族のそれとほとんど変わらないものとなった。」
  23. ^ a b 上田雄孫栄健『日本渤海交渉史』六興出版、1990年2月1日、30頁。ISBN 978-4845381067。「乱を繰り返してきた中国大陸が、非漢族系の鮮卑人王朝である隋帝国によってついに統一される。この中国における統一帝国、それも戦闘的な北方騎馬民族型征服王朝の出現は、朝鮮三国や倭国に、深刻な政治的地鳴りとなって押し寄せる。」
  24. ^ 貝塚茂樹『中国の歴史』芦書房〈貝塚茂樹著作集〈第8巻〉〉、1976年、205頁。「隋王朝の開祖文帝、すなわち楊堅の父にあたる楊忠は北周開国の功臣の一人で、妻は鮮卑の貴族独孤氏の女である。華北北朝の漢族官僚と異民族との混血児である楊堅が、華北における漢族と異族との融合の結果誕生した統一王朝の君主となったのは決して偶然ではなかった。」
  25. ^ a b 常石茂駒田信二『秋風五丈原の巻』河出書房新社〈新十八史略〈4〉〉、1997年7月1日、248頁。ISBN 4309609945。「楊氏は漢人だったが、常に鮮卑と婚姻を通じていたので、楊堅は鮮卑語で普六茹堅と呼ばれていた。」
  26. ^ アーサー・F・ライト『隋代史』法律文化社、1982年11月、64頁。「隋朝の創業者である楊堅は、黄河平原の西端近く(弘農郡華陰県=陝西省渭南地区華陰県)に本貫のある古い名族に生まれた。その祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級であるテュルクモンゴル(鮮卑)エリートの一族との通婚によってその権力と地位を維持してきた。楊堅の父である楊忠は、最初、北魏に仕えていたが、五三四年、北魏が西魏と東魏に分裂したとき、楊忠は西魏の創業者である宇文泰に忠節を尽くす道を選んだ。楊忠は、文武にわたる功績により、高位で酬いられ、隨公(隨国公)に封ぜられた。また、五世紀末年の徹底的な漢化政策において漢姓に変更されたテュルク・モンゴル(鮮卑)の姓を宇文泰が、その部下に対して復活したとき(虜姓再行)、彼のもとで軍功を立てた漢姓の者に漢姓と同じ意味の(鮮卑)の姓を授けた。楊忠は、モンゴル諸語で柳の一種(楊)を意味するブルスカンの転じた普六茹という姓を授けられた。」
  27. ^ 司馬光『資治通鑑』巻175「虞慶則勸隋主盡滅宇文氏,高熲、楊惠亦依違從之。李德林固爭,以為不可。隋主作色曰:「君書生,不足與議此!」於是周太祖孫譙公乾惲、冀公絢,閔帝子紀公湜,明帝子酆公貞、宋公實,高祖子漢公贊、秦公贄、曹公允、道公充、蔡公兌、荊公元,宣帝子萊公衎、郢公術皆死。德林由是品位不進。」
  28. ^ 司馬光『資治通鑑』巻175「隋主潛害周靜帝而為之舉哀,葬於恭陵;以其族人洛為嗣。」
  29. ^ a b c d e f 竹田竜児 (1958年10月). “門閥としての弘農楊氏についての一考察”. 史学 31 (三田史学会): p. 638-641. https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19581000-0617 
  30. ^ a b c d 呂春盛 (2000年12月). “關於楊堅興起背景的考察” (PDF). 漢學研究 第18 卷第2期 (国家図書館): p. 171-172. オリジナルの2021年9月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210910055622/http://ccs.ncl.edu.tw/chinese_studies_18_2/18_2_07.pdf 
  31. ^ 唐長孺『唐長孺社会文化史論叢』武漢大学出版社中国語版、2001年、121-124頁。「...楊播一家之出于華陰是可疑的。但華陰距新絳不遠,很可能是疏族。...北方的弘農楊氏可能還是大姓,馬渚諸楊也可能与華陰楊氏本是同族,大概世次莫考,真偽難辨。」

登場作品[編集]

テレビドラマ

外部リンク[編集]

先代:
皇帝
初代:581年 - 604年
次代:
煬帝